28 / 35
【25】この夜が明けたら/ラファエル視点
――明日になったら、エルダに想いを伝えよう。そしてあの事実を、ありのままに伝えよう。
仲間達に囲まれて幸せそうに泣くエルダを見つめ、私は心の中でそう誓った。
*
誕生日パーティを終えた後、私は執務室でひとり、思いを巡らせていた。
(みんなに会えて、エルダはとても幸せそうだったな……)
幸せそうなエルダを見るのは、私も嬉しい。だが、それと同時に彼ら彼女らへの嫉妬心も芽生えてくる。私にだけ向けてほしいあの笑顔を、他の者に向けるのは不満だ。私だけのエルダであって欲しいのに。
10年前のガラス玉をエルダが嬉しそうに愛でていたときも、本当は悔しかった。過去の自分のプレゼントを、あんなにうれしそうに受け取るなんて。今の私が贈った物にはつらそうな顔をしたのに、子ども時代のプレゼントなら無防備に笑って受け取ってくれるのだ。
……無条件に愛してもらえた子ども時代の自分を、妬ましいとさえ思ってしまう。過去の自分にまで嫉妬してしまうのだから、他人ならばなおさらだ。思考に浸っていると、家令のグレンナが入室してきた。
「エルダはずいぶん幸せそうだったじゃないか。あんたも意地が悪いねぇ、あんなに喜ぶならもっと早く顔を見せてやればよかったんだ」
「……誕生日のサプライズです」
「はっ。そんなこと言って、魂胆が透けて見えてるよ? 本当はなるべく自分以外をエルダの目に入れたくなかったんだろ? 相変わらず余裕がないねぇ」
見透かしたような顔をして、グレンナは唇を吊り上げている。……本当に、この老婆ときたら。
「少しは身の程を弁えてはどうですか、グレンナ。8年前に修道院から追放されたあなたを、雇って差し上げた恩をお忘れですか?」
「そりゃ、お互い様だろ? あたしと子どもたちが来なければ、あんたはアルシュバーン家を乗っ取ることはできなかった。その恩を忘れちゃいないだろうね?」
本当に口が減らない老婆だ。エルダはグレンナが亡くなったものと勘違いしていたらしいが、グレンナはたぶん殺しても死なない。
「……まあ、確かに感謝していますよ。あなたがたの助力がなければ、義母の魔の手からエルダを守り切るのは難しかったでしょう」
私はそっと目を閉じて、ミリュレー修道院から侯爵家に戻って以降の日々に思いを馳せた――。
*
シスター・エルダを救うため、当時13歳だった私はアルシュバーン侯爵家へと戻った。アルシュバーン侯爵夫人は、私の頬を強かに打って罵ってきた。
『逃げ出すだなんて恩知らずな子……! お前がいない間に、当家は大変な不幸に見舞われたのですよ? 夫が亡くなった今、暫定的にわたくしに当主代理の座が移ってはいるものの、このままでは分家に侯爵位を奪われるでしょう……。ああ、忌々しい……わたくしの利権を奪われてなるものですか!! まあ、愚鈍なお前にはどうせ理解できないでしょうけれどね!』
侯爵夫人の金切り声を、私は怯える演技をしながら聞いていた。
『ラファエル。お前を養子に迎えてやるから、ありがたく思いなさい! そうすれば、庶子であるお前にも爵位継承権が特例法で認められるのです。わたくしを母と敬い、次期侯爵を名乗りなさい』
侯爵夫人は私を操り人形にして、実権を自分で握るつもりでいた。
(愚かな女だ。僕の覚悟も知らないで……)
心の中ではほくそ笑み、しかし表向きは従順な態度で私は侯爵夫人に首を垂れた。
『僕を必要としてくださって、本当にありがとうございます。――お母様』
もちろん私は、この家の実権を奪い取ってやるつもりでいた。アルシュバーン家の全財産を手に入れて、シスター・エルダの延命と治療のために注ぎ込む――そのためならば、侯爵夫人の操り人形を演じるなんて簡単だ。必要なのは、覚悟だけだった。
母親思いの優秀な息子を演じつつ、どんどん侯爵家の内政に踏み込んで行った。アルシュバーン侯爵家は表向き好調に見えたが、一歩踏み込めば問題だらけだ。領地の立て直しを図るとともに、私は裏でじわじわと力を強めていった。
義母が私の真意に気付いたのは、数年経ってからのこと。義母と私は水面下で苛烈な権力争いを繰り広げた。
主導権の奪い合いで疲弊していた私にとって、ただ一つの癒しがシスター・エルダの存在だった。
『……シスター・エルダ。あなたは今、どんな夢を見ているのですか?』
生命維持装置につながれ、王都内の病院で昏々と眠り続けるシスター・エルダ。わずかでも時間ができれば、私は必ず彼女のもとに通っていた。
――しかし。そんなある日、事件が起こった。
シスター・エルダの病室に忍び込み、彼女の生命維持装置を停止しようとする輩が現れたのだ。私がそれを阻止できたのは、幸運としか言いようがない。間一髪で悪漢をくい止め、義母が差し向けた者だと知った。
あの女は私を苦しめるためだけに、シスター・エルダを殺そうとしたのだ。
私は激しい憎悪に襲われ、同時にとても怖くなった。私一人では、シスター・エルダを守り切れない。だから私は、ミリュレー修道院のマザー・グレンナに助力を求めようとした。
修道会内部の揉め事で、マザー・グレンナが院長の座を奪われたのはその頃だ。だから私はマザー・グレンナを誘った――『私と一緒に、侯爵家を乗っ取らないか?』と。
そこから先は、あっという間だ。
マザー・グレンナと12人の孤児たちが侯爵邸に結集し、全員が私の部下になった。ひとりひとりが極めて有能な人材であり、しかも全員がシスター・エルダを救いたいという強い意志で繋がっている。仲間たちの存在は、拮抗していた私と義母のパワーバランスを変えるのに十分な戦力だった。
権力争いに敗れた義母は精神を病み、今では領内で療養生活を送っている。このまま一生、軟禁同然の療養生活を送らせるつもりだ。
万難を排して名実ともにアルシュバーン侯爵家の頂点に立った私は、ありとあらゆる情報を求め、エルダのいばら病を治そうとした。そして今から6年前に『新大陸でいばら病の治療法が見つかった』という情報を聞きつけ、現地に出向いて最先端の生命維持装置と専門医派遣を求めたのだ。
専門医であるドクター・ピーナは、いばら病の治療法を教えてくれた――単なる延命ではなく、病気を根本的に直す方法だ。危険を伴う方法だったが、エルダを救えると聞いた私は躊躇わなかった。
そして治療を続けること5年目にして、とうとうエルダは目覚めてくれたのだ――!
*
「――で。どうするんだい、旦那様?」
とグレンナに呼び掛けられて、私の意識は現実へと引き戻された。回想に浸っていたため、グレンナの話などまったく聞いていなかった。
グレンナが、呆れた目をしてこちらを見ている。
「どうせエルダのことばかり考えて、あたしの報告を聞いてなかったんだろう? まったく困った坊やだね」
……図星だが、本当に不敬な老婆だ。
「仕方ないね、もう一度言うからよく聞きな。旦那様が王都に戻ったあと、領内で塩の価格が不自然に高騰し始めた。どうやらまたデヴォン侯爵家が裏で糸を引いているようだ」
またデヴォン家か――。私は淡々とした口ぶりで、グレンナに指示を出した。
「経済の混乱を避けるのが最優先です。備蓄塩を市場に放出して、価格の安定化を図りましょう。同時にデヴォン家の息がかかった商会を暴き出し、その商会にスパイを送って情報を集めさせてください」
「なかなか面白いやり方じゃないか。気に入ったよ」
当家と因縁浅からぬ仲にある、デヴォン侯爵家。領地内におけるデヴォン侯爵家対策は、家令グレンナに委ねているところが大きい。私は、引き続きデヴォン家への対策を怠らないようグレンナに指示した。
「そういえばもうひとつ、デヴォン家関連のネタがあるよ」
「ネタ?」
「ああ。とびきりのスキャンダルになりそうなネタさ。侯爵の愛人の一人がとんでもないバカ女でね、うまく利用すればデヴォン侯爵の鼻を明かしてやれるはずだ」
……くだらない。と、私は心の中で溜息をついていた。デヴォン侯爵は好色家で有名な老人で、あちこちに愛人を囲って爛れた生活を送っている。だから火種は多いはずだが、揉み消すのが巧いのか目立ったスキャンダルはない。
「グレンナ。その件については、あなたに一任します」
「はいよ」
本音を言えば、デヴォン侯爵と愛人のスキャンダルなんて私にはどうでもいい。くだらない連中のことを頭から排除して、エルダとの今後について考えたかった。そんな私の胸の内を見透かすように、グレンナはニヤリと笑っている。
「あんたは相変わらず、エルダのことになると余裕がないね。そんなに愛しいなら、さっさと手を付けてしまえばいいじゃないか」
思わず、不快に眉をひそめた。
「知ったような口を利かないでください。心まで手に入れないと意味がないんです」
「そんなもんかねぇ」
肩をすくめると、グレンナは退室していった。
ぱたん。と扉の閉まる音を聞き、私は溜息を吐き出す。おもむろに、手袋を嵌めた自分の右手を見つめた。
手袋を外す。
腕のほうから甲に向けて、私の手にはツルバラに似た赤黒い痣が張り巡らされていた。
――そう。これはかつてのエルダと同じ、いばら病の痣だ。
「ずいぶんと目立つようになったな」
私の胸や背には、いばら病の痣がある。時間をかけて広がった痣は最近では腕や手にも伸び、手袋で隠さなければならなくなった。
私の痣をエルダが知れば、きっと理由を問いただそうとするだろう。だから私は、彼女の前では手袋を外さないと決めている。
「どれだけ痣が広がろうと、かまうものか。この程度のことで、エルダが助かるのだから」
5年前、私は自身の体にいばら病の毒素を注入する処置を受けた――エルダを目覚めさせるために必要な処置だ。私の体内に巡るこの毒は、エルダを救う薬となる。
私が痣を見つめていると、柱時計が夜十時の鐘を鳴らした。
「……もう『投薬』の時間か」
私は執務室を出て、エルダの部屋へと向かっていった。合鍵を使って、物音を立てず部屋に入る。エルダはぐっすり眠っていた。
(――エルダ)
眠るエルダに近寄ると、私は彼女にキスをした。
柔らかな赤い唇と、微かに石鹸の香る肌。情欲を掻き立てられ、愛しさに胸を締め付けられるーーだが、自らを律して部屋から立ち去った。
(私のこんな行いを知れば、あなたは軽蔑するだろう。――だが、私のキスを受けなければ、あなたは再び昏睡に陥ってしまう)
そう。
エルダのいばら病はまだ、完治していない。そして私の口づけこそが、エルダを生かす『薬』になるのだ。
自身の体に毒を植え付けた5年前から、何度も何度もエルダの唇を奪ってきた。私が彼女に施している治療法――これは、『抗毒素舌下療法』と呼ばれている。
発病者の血液から採取した病毒を科学処理により弱毒化させ、他者の体内に投与する。そうすることで、私の体内で『抗毒素』と呼ばれる物質が生成されるのだ。抗毒素は私の唾液腺に凝縮され、それをエルダにキスする形で投与する。
おとぎ話のいばら姫は一度きりの口づけで目覚めたが、エルダを目覚めさせるには、気の遠くなるような回数のキスが必要だった。
弱毒化してあるとはいえ、毒は毒。私自身に投与する際には拒絶反応で即死する可能性もあると聞いていたが、私は躊躇わなかった。エルダが助かる可能性があるのなら自分の命など喜んで差し出せる。
(どんな手を使ってでも、私がエルダを守ってみせる。……私だけのエルダだ。死神にだって渡さない)
執務室に戻った私は、深く呼吸をしてから呟いた。
「……エルダ。この夜が明けたら、あなたに事実を伝えます」
仲間達に囲まれて幸せそうに泣くエルダを見つめ、私は心の中でそう誓った。
*
誕生日パーティを終えた後、私は執務室でひとり、思いを巡らせていた。
(みんなに会えて、エルダはとても幸せそうだったな……)
幸せそうなエルダを見るのは、私も嬉しい。だが、それと同時に彼ら彼女らへの嫉妬心も芽生えてくる。私にだけ向けてほしいあの笑顔を、他の者に向けるのは不満だ。私だけのエルダであって欲しいのに。
10年前のガラス玉をエルダが嬉しそうに愛でていたときも、本当は悔しかった。過去の自分のプレゼントを、あんなにうれしそうに受け取るなんて。今の私が贈った物にはつらそうな顔をしたのに、子ども時代のプレゼントなら無防備に笑って受け取ってくれるのだ。
……無条件に愛してもらえた子ども時代の自分を、妬ましいとさえ思ってしまう。過去の自分にまで嫉妬してしまうのだから、他人ならばなおさらだ。思考に浸っていると、家令のグレンナが入室してきた。
「エルダはずいぶん幸せそうだったじゃないか。あんたも意地が悪いねぇ、あんなに喜ぶならもっと早く顔を見せてやればよかったんだ」
「……誕生日のサプライズです」
「はっ。そんなこと言って、魂胆が透けて見えてるよ? 本当はなるべく自分以外をエルダの目に入れたくなかったんだろ? 相変わらず余裕がないねぇ」
見透かしたような顔をして、グレンナは唇を吊り上げている。……本当に、この老婆ときたら。
「少しは身の程を弁えてはどうですか、グレンナ。8年前に修道院から追放されたあなたを、雇って差し上げた恩をお忘れですか?」
「そりゃ、お互い様だろ? あたしと子どもたちが来なければ、あんたはアルシュバーン家を乗っ取ることはできなかった。その恩を忘れちゃいないだろうね?」
本当に口が減らない老婆だ。エルダはグレンナが亡くなったものと勘違いしていたらしいが、グレンナはたぶん殺しても死なない。
「……まあ、確かに感謝していますよ。あなたがたの助力がなければ、義母の魔の手からエルダを守り切るのは難しかったでしょう」
私はそっと目を閉じて、ミリュレー修道院から侯爵家に戻って以降の日々に思いを馳せた――。
*
シスター・エルダを救うため、当時13歳だった私はアルシュバーン侯爵家へと戻った。アルシュバーン侯爵夫人は、私の頬を強かに打って罵ってきた。
『逃げ出すだなんて恩知らずな子……! お前がいない間に、当家は大変な不幸に見舞われたのですよ? 夫が亡くなった今、暫定的にわたくしに当主代理の座が移ってはいるものの、このままでは分家に侯爵位を奪われるでしょう……。ああ、忌々しい……わたくしの利権を奪われてなるものですか!! まあ、愚鈍なお前にはどうせ理解できないでしょうけれどね!』
侯爵夫人の金切り声を、私は怯える演技をしながら聞いていた。
『ラファエル。お前を養子に迎えてやるから、ありがたく思いなさい! そうすれば、庶子であるお前にも爵位継承権が特例法で認められるのです。わたくしを母と敬い、次期侯爵を名乗りなさい』
侯爵夫人は私を操り人形にして、実権を自分で握るつもりでいた。
(愚かな女だ。僕の覚悟も知らないで……)
心の中ではほくそ笑み、しかし表向きは従順な態度で私は侯爵夫人に首を垂れた。
『僕を必要としてくださって、本当にありがとうございます。――お母様』
もちろん私は、この家の実権を奪い取ってやるつもりでいた。アルシュバーン家の全財産を手に入れて、シスター・エルダの延命と治療のために注ぎ込む――そのためならば、侯爵夫人の操り人形を演じるなんて簡単だ。必要なのは、覚悟だけだった。
母親思いの優秀な息子を演じつつ、どんどん侯爵家の内政に踏み込んで行った。アルシュバーン侯爵家は表向き好調に見えたが、一歩踏み込めば問題だらけだ。領地の立て直しを図るとともに、私は裏でじわじわと力を強めていった。
義母が私の真意に気付いたのは、数年経ってからのこと。義母と私は水面下で苛烈な権力争いを繰り広げた。
主導権の奪い合いで疲弊していた私にとって、ただ一つの癒しがシスター・エルダの存在だった。
『……シスター・エルダ。あなたは今、どんな夢を見ているのですか?』
生命維持装置につながれ、王都内の病院で昏々と眠り続けるシスター・エルダ。わずかでも時間ができれば、私は必ず彼女のもとに通っていた。
――しかし。そんなある日、事件が起こった。
シスター・エルダの病室に忍び込み、彼女の生命維持装置を停止しようとする輩が現れたのだ。私がそれを阻止できたのは、幸運としか言いようがない。間一髪で悪漢をくい止め、義母が差し向けた者だと知った。
あの女は私を苦しめるためだけに、シスター・エルダを殺そうとしたのだ。
私は激しい憎悪に襲われ、同時にとても怖くなった。私一人では、シスター・エルダを守り切れない。だから私は、ミリュレー修道院のマザー・グレンナに助力を求めようとした。
修道会内部の揉め事で、マザー・グレンナが院長の座を奪われたのはその頃だ。だから私はマザー・グレンナを誘った――『私と一緒に、侯爵家を乗っ取らないか?』と。
そこから先は、あっという間だ。
マザー・グレンナと12人の孤児たちが侯爵邸に結集し、全員が私の部下になった。ひとりひとりが極めて有能な人材であり、しかも全員がシスター・エルダを救いたいという強い意志で繋がっている。仲間たちの存在は、拮抗していた私と義母のパワーバランスを変えるのに十分な戦力だった。
権力争いに敗れた義母は精神を病み、今では領内で療養生活を送っている。このまま一生、軟禁同然の療養生活を送らせるつもりだ。
万難を排して名実ともにアルシュバーン侯爵家の頂点に立った私は、ありとあらゆる情報を求め、エルダのいばら病を治そうとした。そして今から6年前に『新大陸でいばら病の治療法が見つかった』という情報を聞きつけ、現地に出向いて最先端の生命維持装置と専門医派遣を求めたのだ。
専門医であるドクター・ピーナは、いばら病の治療法を教えてくれた――単なる延命ではなく、病気を根本的に直す方法だ。危険を伴う方法だったが、エルダを救えると聞いた私は躊躇わなかった。
そして治療を続けること5年目にして、とうとうエルダは目覚めてくれたのだ――!
*
「――で。どうするんだい、旦那様?」
とグレンナに呼び掛けられて、私の意識は現実へと引き戻された。回想に浸っていたため、グレンナの話などまったく聞いていなかった。
グレンナが、呆れた目をしてこちらを見ている。
「どうせエルダのことばかり考えて、あたしの報告を聞いてなかったんだろう? まったく困った坊やだね」
……図星だが、本当に不敬な老婆だ。
「仕方ないね、もう一度言うからよく聞きな。旦那様が王都に戻ったあと、領内で塩の価格が不自然に高騰し始めた。どうやらまたデヴォン侯爵家が裏で糸を引いているようだ」
またデヴォン家か――。私は淡々とした口ぶりで、グレンナに指示を出した。
「経済の混乱を避けるのが最優先です。備蓄塩を市場に放出して、価格の安定化を図りましょう。同時にデヴォン家の息がかかった商会を暴き出し、その商会にスパイを送って情報を集めさせてください」
「なかなか面白いやり方じゃないか。気に入ったよ」
当家と因縁浅からぬ仲にある、デヴォン侯爵家。領地内におけるデヴォン侯爵家対策は、家令グレンナに委ねているところが大きい。私は、引き続きデヴォン家への対策を怠らないようグレンナに指示した。
「そういえばもうひとつ、デヴォン家関連のネタがあるよ」
「ネタ?」
「ああ。とびきりのスキャンダルになりそうなネタさ。侯爵の愛人の一人がとんでもないバカ女でね、うまく利用すればデヴォン侯爵の鼻を明かしてやれるはずだ」
……くだらない。と、私は心の中で溜息をついていた。デヴォン侯爵は好色家で有名な老人で、あちこちに愛人を囲って爛れた生活を送っている。だから火種は多いはずだが、揉み消すのが巧いのか目立ったスキャンダルはない。
「グレンナ。その件については、あなたに一任します」
「はいよ」
本音を言えば、デヴォン侯爵と愛人のスキャンダルなんて私にはどうでもいい。くだらない連中のことを頭から排除して、エルダとの今後について考えたかった。そんな私の胸の内を見透かすように、グレンナはニヤリと笑っている。
「あんたは相変わらず、エルダのことになると余裕がないね。そんなに愛しいなら、さっさと手を付けてしまえばいいじゃないか」
思わず、不快に眉をひそめた。
「知ったような口を利かないでください。心まで手に入れないと意味がないんです」
「そんなもんかねぇ」
肩をすくめると、グレンナは退室していった。
ぱたん。と扉の閉まる音を聞き、私は溜息を吐き出す。おもむろに、手袋を嵌めた自分の右手を見つめた。
手袋を外す。
腕のほうから甲に向けて、私の手にはツルバラに似た赤黒い痣が張り巡らされていた。
――そう。これはかつてのエルダと同じ、いばら病の痣だ。
「ずいぶんと目立つようになったな」
私の胸や背には、いばら病の痣がある。時間をかけて広がった痣は最近では腕や手にも伸び、手袋で隠さなければならなくなった。
私の痣をエルダが知れば、きっと理由を問いただそうとするだろう。だから私は、彼女の前では手袋を外さないと決めている。
「どれだけ痣が広がろうと、かまうものか。この程度のことで、エルダが助かるのだから」
5年前、私は自身の体にいばら病の毒素を注入する処置を受けた――エルダを目覚めさせるために必要な処置だ。私の体内に巡るこの毒は、エルダを救う薬となる。
私が痣を見つめていると、柱時計が夜十時の鐘を鳴らした。
「……もう『投薬』の時間か」
私は執務室を出て、エルダの部屋へと向かっていった。合鍵を使って、物音を立てず部屋に入る。エルダはぐっすり眠っていた。
(――エルダ)
眠るエルダに近寄ると、私は彼女にキスをした。
柔らかな赤い唇と、微かに石鹸の香る肌。情欲を掻き立てられ、愛しさに胸を締め付けられるーーだが、自らを律して部屋から立ち去った。
(私のこんな行いを知れば、あなたは軽蔑するだろう。――だが、私のキスを受けなければ、あなたは再び昏睡に陥ってしまう)
そう。
エルダのいばら病はまだ、完治していない。そして私の口づけこそが、エルダを生かす『薬』になるのだ。
自身の体に毒を植え付けた5年前から、何度も何度もエルダの唇を奪ってきた。私が彼女に施している治療法――これは、『抗毒素舌下療法』と呼ばれている。
発病者の血液から採取した病毒を科学処理により弱毒化させ、他者の体内に投与する。そうすることで、私の体内で『抗毒素』と呼ばれる物質が生成されるのだ。抗毒素は私の唾液腺に凝縮され、それをエルダにキスする形で投与する。
おとぎ話のいばら姫は一度きりの口づけで目覚めたが、エルダを目覚めさせるには、気の遠くなるような回数のキスが必要だった。
弱毒化してあるとはいえ、毒は毒。私自身に投与する際には拒絶反応で即死する可能性もあると聞いていたが、私は躊躇わなかった。エルダが助かる可能性があるのなら自分の命など喜んで差し出せる。
(どんな手を使ってでも、私がエルダを守ってみせる。……私だけのエルダだ。死神にだって渡さない)
執務室に戻った私は、深く呼吸をしてから呟いた。
「……エルダ。この夜が明けたら、あなたに事実を伝えます」
あなたにおすすめの小説
姉の忘れ形見を育てたいだけなのに、公爵閣下の執着が重いんですが!?~まっすぐ突き進み系令嬢の公爵家再建計画
及川えり
ファンタジー
突然届いた双子の姉からの手紙。
【これをあなたが読んでいるころにはわたしはもう死んでいることでしょう。わたしのことは探さないでね。双子を引き取ってもらえないかしら?】
姉の遺言通り双子を育てようと姉の嫁ぎ先へと突入する。
双子を顧みなかったという元夫のウィルバート公爵に何とか双子を引き取れるよう掛け合うが、話の流れからそのまま公爵家に滞在して双子を育てる羽目に。
だが、この公爵家、何かおかしい?
異常に気付いたハンナは公爵家に巣くう膿をとりのぞくべく、奮闘しはじめる。
一方ハンナを最初は適当にあしらっていたウィルバートだったが、ハンナの魅力に気付き始め……。
2026.4.6 完結しました。
感想たくさんいただきとても嬉しく拝見しています。
ブックマーク登録、いいね❤️、エール📣、感想などたくさんいただきありがとうございます。
とてもとてもとても励みになります。
なろうにも掲載しています。
※続編書く予定です。
【本編完結】ただの平凡令嬢なので、姉に婚約者を取られました。
138ネコ@書籍化&コミカライズしました
ファンタジー
「誰にも出来ないような事は求めないから、せめて人並みになってくれ」
お父様にそう言われ、平凡になるためにたゆまぬ努力をしたつもりです。
賢者様が使ったとされる神級魔法を会得し、復活した魔王をかつての勇者様のように倒し、領民に慕われた名領主のように領地を治めました。
誰にも出来ないような事は、私には出来ません。私に出来るのは、誰かがやれる事を平凡に努めてきただけ。
そんな平凡な私だから、非凡な姉に婚約者を奪われてしまうのは、仕方がない事なのです。
諦めきれない私は、せめて平凡なりに仕返しをしてみようと思います。
「何の取り柄もない姉より、妹をよこせ」と婚約破棄されましたが、妹を守るためなら私は「国一番の淑女」にでも這い上がってみせます
放浪人
恋愛
「何の取り柄もない姉はいらない。代わりに美しい妹をよこせ」
没落伯爵令嬢のアリアは、婚約者からそう告げられ、借金のカタに最愛の妹を奪われそうになる。 絶望の中、彼女が頼ったのは『氷の公爵』と恐れられる冷徹な男、クラウスだった。
「私の命、能力、生涯すべてを差し上げます。だから金を貸してください!」
妹を守るため、悪魔のような公爵と契約を結んだアリア。 彼女に課せられたのは、地獄のような淑女教育と、危険な陰謀が渦巻く社交界への潜入だった。 しかし、アリアは持ち前の『瞬間記憶能力』と『度胸』を武器に覚醒する。
自分を捨てた元婚約者を論破して地獄へ叩き落とし、意地悪なライバル令嬢を返り討ちにし、やがては国の危機さえも救う『国一番の淑女』へと駆け上がっていく!
一方、冷酷だと思われていた公爵は、泥の中でも強く咲くアリアの姿に心を奪われ――? 「お前がいない世界など不要だ」 契約から始まった関係が、やがて国中を巻き込む極上の溺愛へと変わる。
地味で無能と呼ばれた令嬢が、最強の旦那様と幸せを掴み取る、痛快・大逆転シンデレラストーリー!
善人ぶった姉に奪われ続けてきましたが、逃げた先で溺愛されて私のスキルで領地は豊作です
しろこねこ
ファンタジー
「あなたのためを思って」という一見優しい伯爵家の姉ジュリナに虐げられている妹セリナ。醜いセリナの言うことを家族は誰も聞いてくれない。そんな中、唯一差別しない家庭教師に貴族子女にははしたないとされる魔法を教わるが、親切ぶってセリナを孤立させる姉。植物魔法に目覚めたセリナはペット?のヴィリオをともに家を出て南の辺境を目指す。
学園首席の私は魔力を奪われて婚約破棄されたけど、借り物の魔力でいつまで調子に乗っているつもり?
今川幸乃
ファンタジー
下級貴族の生まれながら魔法の練習に励み、貴族の子女が集まるデルフィーラ学園に首席入学を果たしたレミリア。
しかし進級試験の際に彼女の実力を嫉妬したシルヴィアの呪いで魔力を奪われ、婚約者であったオルクには婚約破棄されてしまう。
が、そんな彼女を助けてくれたのはアルフというミステリアスなクラスメイトであった。
レミリアはアルフとともに呪いを解き、シルヴィアへの復讐を行うことを決意する。
レミリアの魔力を奪ったシルヴィアは調子に乗っていたが、全校生徒の前で魔法を披露する際に魔力を奪い返され、醜態を晒すことになってしまう。
※3/6~ プチ改稿中
兄にいらないと言われたので勝手に幸せになります
毒島醜女
恋愛
モラハラ兄に追い出された先で待っていたのは、甘く幸せな生活でした。
侯爵令嬢ライラ・コーデルは、実家が平民出の聖女ミミを養子に迎えてから実の兄デイヴィッドから冷遇されていた。
家でも学園でも、デビュタントでも、兄はいつもミミを最優先する。
友人である王太子たちと一緒にミミを持ち上げてはライラを貶めている始末だ。
「ミミみたいな可愛い妹が欲しかった」
挙句の果てには兄が婚約を破棄した辺境伯家の元へ代わりに嫁がされることになった。
ベミリオン辺境伯の一家はそんなライラを温かく迎えてくれた。
「あなたの笑顔は、どんな宝石や星よりも綺麗に輝いています!」
兄の元婚約者の弟、ヒューゴは不器用ながらも優しい愛情をライラに与え、甘いお菓子で癒してくれた。
ライラは次第に笑顔を取り戻し、ベミリオン家で幸せになっていく。
王都で聖女が起こした騒動も知らずに……
婚約破棄をされ、父に追放まで言われた私は、むしろ喜んで出て行きます! ~家を出る時に一緒に来てくれた執事の溺愛が始まりました~
ゆうき
恋愛
男爵家の次女として生まれたシエルは、姉と妹に比べて平凡だからという理由で、父親や姉妹からバカにされ、虐げられる生活を送っていた。
そんな生活に嫌気がさしたシエルは、とある計画を考えつく。それは、婚約者に社交界で婚約を破棄してもらい、その責任を取って家を出て、自由を手に入れるというものだった。
シエルの専属の執事であるラルフや、幼い頃から実の兄のように親しくしてくれていた婚約者の協力の元、シエルは無事に婚約を破棄され、父親に見捨てられて家を出ることになった。
ラルフも一緒に来てくれることとなり、これで念願の自由を手に入れたシエル。しかし、シエルにはどこにも行くあてはなかった。
それをラルフに伝えると、隣の国にあるラルフの故郷に行こうと提案される。
それを承諾したシエルは、これからの自由で幸せな日々を手に入れられると胸を躍らせていたが、その幸せは家族によって邪魔をされてしまう。
なんと、家族はシエルとラルフを広大な湖に捨て、自らの手を汚さずに二人を亡き者にしようとしていた――
☆誤字脱字が多いですが、見つけ次第直しますのでご了承ください☆
☆全文字はだいたい14万文字になっています☆
☆完結まで予約済みなので、エタることはありません!☆
妹なんだから助けて? お断りします
たくわん
恋愛
美しく聡明な令嬢エリーゼ。だが、母の死後に迎えられた継母マルグリットによって、彼女の人生は一変する。実母が残した財産は継母に奪われ、華やかなドレスは義姉たちに着られ、エリーゼ自身は使用人同然の扱いを受ける。そんなある日――。