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「……」

 夕方。

 地下から一階のリビングへと上がると、リビングにはルーヴァスがいた。書類仕事をしているようだ。
 挨拶をすると、「顔色が良くないが、どうかしたのか」と訊ねてくる。

「何でもありません、大丈夫です」

 そう笑うと、ルーヴァスは深く追求するようなことはしなかった。

「ユンファスは、二階ですか」
「……いや、昼過ぎに外へ出ていった」

 自室へ戻ると言っていたから二階にいるものだと思っていたのだが、そうではなかったらしい。

 彼の気分を害してしまったのなら謝りたかったし、その上でもう一度お礼を言うべきだと思ったのだが、いないのでは仕方がない。彼が帰ってからにしよう。
 黙り込んだ私に、自分の向かいの席を指し、座るように促してくる。私は大人しくそれに従った。

「ルーヴァスは何をしてるんですか? 自室にいないなんて珍しいですよね」
「ああ……仕事に関して、少し連絡が入ったからな。それについて、整理をしていた。連絡が連絡だから、全員に伝えねばとここで整理していたのだが。……あなたがいるのだから、少し軽率だったな」

 彼の言葉に、私は少しだけ俯いた。

 そうだ。彼らの仕事に私は踏み入るべきではない。

 けれど、この疎外感は嫌だった。

「……ユンファス、遅いですね」

 話題をそらすようにぽつりと呟くと、ルーヴァスは目を細めた。

「……そうだな」
「……帰ってきてくれるでしょうか」
「帰ってくるだろう。彼は考え事をしたい時にはよく外を歩くのだ。珍しいことではない。不安に思わずともいい」
「……そう、ですね……」

 私がそう頷いた時、ギィ、と軋むような音を立てて玄関の扉が開いた。それに思わず玄関の方を見ると、ユンファスがいた。

 全身、血まみれで。

「え……」

 何も言えず、立ち上がろうとして中途半端な姿勢で固まった私には目もくれず、ユンファスは地下――恐らく風呂だろう――に向かおうとした。

 するとルーヴァスが彼に歩寄った。

「ユンファス。その血はどうした」
「ちょっと森で乱暴な熊さんたちに襲われちゃってさー。まぁ殆ど返り血だし、別になんともないから大丈夫」
「……怪我をしているだろう」
「掠った程度だよ。命に別状があるような傷はひとつもないから問題ないしー」

 そう言って再び風呂に向かおうとした彼に、私は思わず駆け寄って服の裾を掴んだ。

「……なに?」

 ユンファスは特に何か思った様子もなく私を振り返る。

 ……いや、違う。

 彼は無表情だった。そう、いつも笑っている彼が、この時は無表情だった。

「……あの、」

 何を言えばいいのだろう。

 さっき気まずいままで終わってしまったから、ここは謝罪をするべきだろうか?

 でも今は、それより。

「……あの、怪我、を」

 私が言うと、ユンファスは「大丈夫大丈夫」と地下に降りていこうとする。

「ダメです!」

 裾を強く握り、そう言うと、彼は再び私を見た。

「なんでダメなの?」
「だって、怪我をしているんでしょう!? 早くきちんと消毒をしなきゃダメです!」

 私の言葉に、彼はすぅっと目を細めた。

「あぁ、格好のいい機会だって? ほんと、人間は浅ましいね」

 何の、機会だって?

 言われた言葉の意味が分からず瞬きをする。

「ユンファス、言いすぎだ」

 困惑する私を見かねたのだろうか、ルーヴァスが間に割って入った。

 それをユンファスは一瞥すると、そのまま地下へと向かっていってしまう。

「……私、また、何か不愉快なことをしてしまったんでしょうか」

 おかしなことを言った覚えはないのだが、なぜこうもうまくいかないのだろう。やはり怪我云々より、謝罪をしておくべきだった。

 そう悔やんだ私の頭に、ぽん、と温かいものが乗る。

 ルーヴァスの手のひらだった。

「許してやってくれないだろうか。彼も我々も……あなた個人に特別負の感情を抱いているわけではない」
「……じゃあ、どうして」

 こんなふうに、きついことを言われてしまうのでしょうか?

 そう言おうとしたところで、ふわり、と頭を撫でられる。

「あなたは悪くない。……何も、悪くない」

 どこか苦しそうに、彼はそう告げる。

「ただここで、あなたは特殊だ。わかってくれ。だから彼もああして警戒している。だが――ユンファスも、今頃きっと後悔しているだろう」
「え」
「あなたにそうは言わないだろうが。あなたにそうは見えないかもしれないが――ここの住人は皆、根はいい者ばかりだからな。……あなたを厭うのも、ある意味互いのためなのだ。あなたが危険かどうか判断しかねるから、我々もどうすればいいのかわからない」

 私が、危険――?

 こんな丸腰の女の、何が危険だというのか。

 そんな当たり前すぎる疑問が浮かんで、思わず彼を凝視すると、彼は一瞬だけ瞳を揺らした。

 悲しい、というように。

「ユンファスは、この中でも特に正義感が強い。ああ見えて、ここの住人を守るために必死なのだ。他者を頼る余裕もないくらいには。ここはどうか、わたしに免じて許してやって欲しい」

 ルーヴァスはそっと腰を折って私に頭を垂れた。

 これにはさしもの私も慌てる。彼に頭を下げられる理由がないからだ。

「やめてください、頭を上げてください。私こそ、ただの居候なのに余計なことを言いました」
「……」

 それに何故か、頭を上げたルーヴァスはますます悲痛な表情を見せた。否、表情は変わらない。申し訳なさげなそれのままだ。

 が、その目が語るのだ。その悲痛な光を、刺すように訴えてくる。

「やはりあなたは、……早々にここを去るべきなのだろうな」

 ルーヴァスの言葉に、私は何も返せず、ただ俯くことしかできなかった。







 自室に戻ると、私の部屋の中には見覚えのある人物が立っていた。

 赤髪の道化師だ。

「あなた、何でここに」
「久しぶり、継母ちゃん」

 彼はにっこりと笑う。

「割と独りでもやっていけてるみたいだねぇ」
「ふざけないでください。やっていけているわけがないじゃないですか」

 私の答えに、道化師はますます唇の弧を深くした。

「リオリム君に会いたい?」
「会いたいです」
「わ、即答。ちなみに僕に会いたいとかそういう感情は?」
「特には」
「……ひどくない?」
「知りません」

 私の答えに道化師は拗ねた様子で唇を突き出した。しかしやがて気を取り直したのか、そもそもなんとも思っていなかったのかは知らないが、す、と私に手を差し伸べてきた。

「……なんですか?」
「ユンファス君に鏡を修理してもらったんでしょう? 貸して」

 その言葉に私はポケットから例の手鏡を取り出すと、差し伸べられた道化師の手のひらにそっと乗せた。

「……かなり綺麗に修正されてるなぁ。これは相当力を使ったのかも」

 道化師は鏡を手に取ってじっと見るなり、そう言った。

「……どういう意味ですか?」
「だって君、これ粉々に砕けていたじゃない。壊れたものを修正するのってかなり難しいんだよ?」
「……それは、技術とかそういう意味でしょうか?」
「というより、力、というか、体力、うーん、精神力?」

 道化師の要領を得ない答えに私は首を傾げた。

「なんていうのかなぁ……まぁつまりは君に修理を頼まれたユンファス君は相当丁寧に鏡を直してくれたってこと。適当でもよかったのにね」

 そう言うと、道化師は微笑んで小さく何事かを呟き始める。

「天と地の狭間より、赤き道化師は君の名に、罪と夢を裁かんとす。奏でる音は断罪を、途切れた弦は罰を謳え。我、世界の行く末に、神と人との果てを見る」

 彼が言葉を紡ぐたびに、鏡の中央に光が集まる。そして彼が呟くのを終えると、光は霧散して、何事もなかったかのようにただ鏡だけが彼の手のひらの上に鎮座していた。

「はい、返すね、継母ちゃん」
「え……、」
「リオリム君に会いたかったんでしょ。もうこれで会えるはずだよ」
「!」

 私は道化師から鏡を受け取ると、「リオリム、聞こえる?」と呼びかけてみた。すると鏡の中の景色が揺らぎ、見覚えのある人の顔が浮かぶ。

『……お嬢、様?』
「リオリム! 良かった、もう会えないかと思った……!」

 手鏡を思わずぎゅぅっと抱きしめる。

 そんな私に、道化師は微笑ましげに微笑み、ふわり、とその身を揺らがせて、霧散した。
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