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69話
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満ちた丸い月が出ていた。
昼間と同じように夜空は晴れ渡り、闇の帳が降りているとはいえ、明るい月夜だった。
巨木の幹をそのまま使った 藍絽野眞 の王宮の柱廊を渡り、後宮の奥にある庭園へと向かう。
花々が咲き乱れている花園。
月明かりの下で、ちょっぴり寒そうに花々は風に花弁を揺らしている。
せせらぎの音がした。
それは、木を伝って落ちる露を集めて、一つの流れにした庭園の入り口の小川の音だ。
花に囲まれたその小川に素足を晒して、白銀の髪の少女はいた。
木の根っこにある瘤の上に腰を下ろし、木の幹にもたれるようにして座っている。
白い夜着の長い裳裾が小川の水にびっしょりと濡れそぼっている。
物思うように、月を見上げていた。
李玲峰 が歩み寄ると彼の方に顔を向け、口元に笑みを浮かべた。
「レイラ、寒くない?」
李玲峰 がぶるっと身を震わせて言うと、麗羅符露 はびっくりしたような顔をする。
「まさか。忘れたの? あたしは 水の御子 よ。水があたしに冷たいわけ、ないじゃない。気持ちいいわ。
そりゃ、今はこの水の中にいなくても生きていけるけれど。でも、だからといって、水があたしに優しくしてくれなくなったわけじゃないわ」
そういって、麗羅符露 は白い手を差し伸べて、さらさらと流れる小川の水を掬った。
白銀の髪の先端が、屈み込んだ拍子に、水に濡れる。
月光の下で、麗羅符露 の姿は、まるで水の妖精のようだ。
そう、麗羅符露 は水に愛される 水の御子 。
李玲峰 が炎に愛される 炎の御子 であるように。
だからこそ、二人は 炎の精霊王、水の精霊王 から、それぞれに人より遙か昔に取り上げられた精霊たちの恵みを秘めた三振りの剣、宝剣 のうち、炎の宝剣、水の宝剣 を託された。
二振りの剣は合わさって今は一本の剣、水と炎の剣 となっていて、この 藍絽野眞 の王宮に保管されている。
李玲峰 は 麗羅符露 に歩み寄った。
腕の中に、そっと抱き寄せる。
先日、禹州真賀 の 根羽 王より、李玲峰 の父である 藍絽野眞 の 競絽帆 王へと、書簡が届いた。
麗羅符露 は庶腹であるために、正式には 禹州真賀 の王女とはされていないが、根羽 王の娘である。
その、娘 麗羅符露 と、藍絽野眞 の王子 李玲峰 との婚約を認める、という趣旨のことが書かれていた。
正式の婚約は、まもなく九大陸連合の教義のために 根羽 王自らが 藍絽野眞 に訪れたときに儀典に則り、結ばれることになった。
その時には、他の大陸からも王公たちがこの王宮に集まるはずである。
おそらく、その式は、かなり盛大なものとなるだろう。
炎と水の婚礼。
人々はひそかに、二人の婚約を、そう呼び交わしていた。
二人が結ばれることは、二つの王家に婚姻が結ばれる以上に、二大精霊の力が結びつき、人々の力となることを象徴していた。
だが、この二、三日、麗羅符露 の顔色が冴えないのにも、李玲峰 は気がついていた。
微笑みかければ、微笑みを返してくる。
肩を抱けば、拒絶するふうもなく、身を寄せてくる。
そのくせ、麗羅符露 は深い物思いに耽っていて、どこか遠いところにいるふうなのだ。
「レイラ?」
「なぁに、イレー?」
「その……」
李玲峰 は、ためらった。
その手は、麗羅符露 の白銀の艶やかな髪に触れていた。
もしかしたら……?
でも、確かめるのは、怖い。
もし、確かめて、そうだ、と言われてしまったら、そう思うと。
(もしかしたら、レイラはおれと婚約するのが嫌なのかな?)
美しく成長した幼馴染みの少女が、自分のこの腕から逃れ去ってしまう。
そんなことは、考えるだけでも辛い。
でも、レイラに嫌な思いをさせるのは、もっと嫌だ。
麗羅符露 は、李玲峰 の腕の中で、微かに体を震わせた。
「寒い?」
李玲峰 が慌てて聞くと、
「ううん」
麗羅符露 は首を振って、微笑んだ。
「あなたは、暖かいわ、イレー」
やがて、長い逡巡の後、 李玲峰 はようやく勇気を出して、尋ねた。
「レイラ、その、きみはいいのかな。おれと」
「……?」
「その。おれはきみの意思を尊重するよ。きみの思うとおりにするといい。おれはきみが好きだけど。でも、もし、きみがおれのこと嫌だったら。おれから、ちゃんと父上に話すし」
「イレー? 何を言っているの?」
麗羅符露 は目を丸くした。
そして、可笑しそうに言う。
「やだ、変よ、イレー。どうして、そんなふうに言うの? あたしの心はわかるでしょう? あなたの炎があたしの心を溶かしてくれた。あたしはあなたが好きよ。きっと、ずっと小さいときから。あなたは、イレー?」
「え……おれ……は」
李玲峰 は口ごもった。
顔が赤くなる。
それは……。
最初に 那理恵渡玲 の腕に抱かれた 麗羅符露 を見たときから、彼の今の思いは続いている。
李玲峰 がそう思うと、その思いは口に出さなくても 麗羅符露 の心に伝わる。
麗羅符露 は体を伸ばして、李玲峰 の口元へとそっと口付けた。
「あたしは幸せよ、イレー。今まで、こんな幸せって、感じたことはないわ。それくらい、幸せなの。でも、だから、思うのよ。
あたしがこんな幸福で良いのかしら、って」
麗羅符露 の心が曇るのが、李玲峰 には感じられた。
まるで、月の光が雲に遮られたかのように。
面を伏せた 麗羅符露 の背で、銀の髪が月光のように青く美しく輝く。
「於呂禹 の夢を見たの」
震える声で、麗羅符露 は言った。
李玲峰 は、体を強張らせた。
(於呂禹 の夢!?)
「たぶん、宇無土 だと思うわ。あたしたちが育った懐かしい島。一面の草が風にそよいでいた。
於呂禹 は一人で、たった一人でその草の波の中にいたわ。
寂しそうに。
そしてあたしの方を見て、呼んだの。
「レイラ」って」
おそらく、同じ夢だ。
李玲峰 にはわかった。
「おれも、見たよ」
李玲峰 は、言った。
「於呂禹 は、おれも呼んだよ。「イレー」ってね」
麗羅符露 は、顔を上げた。
麗羅符露 の顔の表情が、くしゃり、とゆがんだ。
麗羅符露 は身を投げるようにして、李玲峰 の首に抱きついた。
少女の体を、李玲峰 は抱きとめた。
「イレー、あたし、氷の大陸の冷たい氷の中で、見ていたわ。あなたと 於呂禹 が戦っているのを。あなたの剣が 於呂禹 を貫き、於呂禹 があなたを殺そうとしていた。
夢かと思った。でも、あれは夢ではなかったのね? 於呂禹 は、根威座 の魔将軍なのですってね? 魂を 亜苦施渡瑠 に吸い取られてしまって。
でも、あれは 於呂禹 じゃないわ。あたしを助けてくれた 於呂禹 では。
於呂禹 は、言ったの」
麗羅符露 の言葉が、凍り付いたような怯えた口調になる。
「あたし、震えていた。何も出来なかった。あの 根威座 の仮面騎士団に 宇無土 の地下湖からさらわれて。 根威座 の魔都に連れて行かれて。
怖かった。恐ろしかった。あの 根威座 の魔皇帝は、あたしたちを憎んでいたわ。どうなるんだろう、何をされるんだろう。そう思って、怖くって、怖くって、於呂禹 の後ろに隠れて、ただ、震えていた。でも、於呂禹 が言ったの。「大丈夫だ」って。逃がしてくれるって。たとえ、自分はどうなっても、あたしだけは逃がしてくれるって。
あたし……」
麗羅符露 の水の色を映した淡い瞳から透明な滴が溢れ、白い頬を濡らしていった。
「追われて、追われて。氷の大陸に逃げ込んで、水の精霊王 に匿われて。
そして、イレー。あなたがあたしを氷の中から連れ出してくれた。怯えて、何もかも空逃げ出してしまったあたしの心を、あなたは救ってくれた。
でもね、イレー。あたしは、何もしていないわ。泣いていただけ」
「麗羅符露」
「於呂禹 は身を挺してあたしを助けてくれて、あたしのために自分を犠牲にしたのに!」
「レイラ、違うよ。泣かないで」
意地っ張りで、傷付きやすいレイラ。
でも、麗羅符露 がそんな少女だから、李玲峰 も 於呂禹 も、レイラのことが大好きだった。
臆病で、わがままだったレイラ。
でも、彼女は美しく成長した。
「だから。こんなに幸せではいけないの。そう思うの、イレー。
昼間に、あなたのお父上にお会いしたわ。藍絽野眞 三世陛下に。陛下は、あたしのお父さまがこの 藍絽野眞 に来たら、婚約と間を置かずに、婚礼を、とおっしゃったの。
あたし、嬉しかった。でも、こんなに幸福で良いのかしら。そう思ったわ。
於呂禹 は 根威座 に囚われたままなのに。世界には、まだたくさんの人たちが戦火に苦しんでいて、みんな、戦っているのに。於呂禹 はあたしを助けるために自分は 根威座 に残り、亜苦施渡瑠 魔皇帝の元できっと今もひどい目に遭っているのに違いないのに。
ねぇ、イレー。あたしたちは、精霊の御子 でしょう?
炎と水、そして大地。あたしたちは三人。
それなのに、於呂禹 がいない。
あたし、思うの。
あたしたちの婚礼の時には、於呂禹 にもいて欲しい。そうでなければ、あたし一人、幸せにはなれないって。でも、それはわがままかしら?」
「ううん、レイラ。わかった。おれも、きみと同じ気持ちだよ」
李玲峰 はうなずいた。
麗羅符露 の言うとおりだ。
「きみが正しいよ、レイラ。おれも、なんとかして、於呂禹 は取り戻す! そう思っている。於呂禹 は、大切な親友だから。
でも、おれと結婚したくないわけじゃないんだね、レイラ? この戦いが終わり、於呂禹 が僕らの元に戻ったら、そうしたら、おれの花嫁になってくれる?」
麗羅符露 は青い瞳を見開き、即座にこくり、とうなずいた。
李玲峰 はほっと安堵し、優しく彼女の額にキスをした。
「じゃあ、婚約だけはいいね?
婚礼は、於呂禹 が僕らの元に返ってから。根威座 との決戦が終わってから。父上には、そう申し上げるよ」
「ごめんなさい。あたし、いつも、わがまま言って」
「泣くなよ、レイラ。きみに泣かれると辛いよ。それにこれはわがままじゃない。当然のことだよ。わがままっていうのは、昔のきみのことを言うんだぜ、レイラ。やれ、あの花を摘んでこい、あれがいい、これがいい。そのあげくに、来るのが遅いって文句は言うし。
於呂禹 もおれも、いつだって呆れてたんだから」
麗羅符露 はまぁっ、と言って目を見開き、涙を拭うと、知らないっ、というようにぷんと横を向いた。
それから、ちょっと照れたような笑みを浮かべる。
(そう、笑って、レイラ)
李玲峰 は微笑みかけつつ、心の中で呟いた。
たぶん、それが 於呂禹 の望みでもあったはずだから。
麗羅符露 が無事に逃げのびて、そして、そんなふうに笑うこと。
夜風がそよぐ。
庭園の樹木の梢を騒がせる。
もうすぐ、この地に九大陸連合の軍が集結し、戦いが始まる。
皆を、守らねばならない。
藍絽野眞 の民を。
そして、変容を遂げつつある、この世界を。
「そして、ね。イレー。あたしにも戦い方を教えて」
すっかり涙を拭い、さっぱりした顔になると、麗羅符露 は 李玲峰 の腕の中から抜けて立ち上がり、きっぱりした口調でそう言った。
「レイラ。戦う、って?」
李玲峰 は、戸惑った顔になる。
「あたしだって、精霊の御子 だもの。あなたと 於呂禹 がそうであるように。
あたしには水の恵みがある。水の精霊の力を操ることが出来るわ。きっと、あたしでも役に立てるはずよ。あたしも、根威座 との戦いに参加させて、イレー」
「レイラ、無茶だ!」
麗羅符露 は真顔で、満月の下で頑固な決意のこもった目をしてこちらを見る。
「本気よ、あたし。足手纏いにはならないわ」
李玲峰 は絶句する。
そして、彼は幼馴染みの少女の、もう一つの性質も思い出していた。
(レイラって、一回、言い出したら、聞かないんだったよな。確か)
昼間と同じように夜空は晴れ渡り、闇の帳が降りているとはいえ、明るい月夜だった。
巨木の幹をそのまま使った 藍絽野眞 の王宮の柱廊を渡り、後宮の奥にある庭園へと向かう。
花々が咲き乱れている花園。
月明かりの下で、ちょっぴり寒そうに花々は風に花弁を揺らしている。
せせらぎの音がした。
それは、木を伝って落ちる露を集めて、一つの流れにした庭園の入り口の小川の音だ。
花に囲まれたその小川に素足を晒して、白銀の髪の少女はいた。
木の根っこにある瘤の上に腰を下ろし、木の幹にもたれるようにして座っている。
白い夜着の長い裳裾が小川の水にびっしょりと濡れそぼっている。
物思うように、月を見上げていた。
李玲峰 が歩み寄ると彼の方に顔を向け、口元に笑みを浮かべた。
「レイラ、寒くない?」
李玲峰 がぶるっと身を震わせて言うと、麗羅符露 はびっくりしたような顔をする。
「まさか。忘れたの? あたしは 水の御子 よ。水があたしに冷たいわけ、ないじゃない。気持ちいいわ。
そりゃ、今はこの水の中にいなくても生きていけるけれど。でも、だからといって、水があたしに優しくしてくれなくなったわけじゃないわ」
そういって、麗羅符露 は白い手を差し伸べて、さらさらと流れる小川の水を掬った。
白銀の髪の先端が、屈み込んだ拍子に、水に濡れる。
月光の下で、麗羅符露 の姿は、まるで水の妖精のようだ。
そう、麗羅符露 は水に愛される 水の御子 。
李玲峰 が炎に愛される 炎の御子 であるように。
だからこそ、二人は 炎の精霊王、水の精霊王 から、それぞれに人より遙か昔に取り上げられた精霊たちの恵みを秘めた三振りの剣、宝剣 のうち、炎の宝剣、水の宝剣 を託された。
二振りの剣は合わさって今は一本の剣、水と炎の剣 となっていて、この 藍絽野眞 の王宮に保管されている。
李玲峰 は 麗羅符露 に歩み寄った。
腕の中に、そっと抱き寄せる。
先日、禹州真賀 の 根羽 王より、李玲峰 の父である 藍絽野眞 の 競絽帆 王へと、書簡が届いた。
麗羅符露 は庶腹であるために、正式には 禹州真賀 の王女とはされていないが、根羽 王の娘である。
その、娘 麗羅符露 と、藍絽野眞 の王子 李玲峰 との婚約を認める、という趣旨のことが書かれていた。
正式の婚約は、まもなく九大陸連合の教義のために 根羽 王自らが 藍絽野眞 に訪れたときに儀典に則り、結ばれることになった。
その時には、他の大陸からも王公たちがこの王宮に集まるはずである。
おそらく、その式は、かなり盛大なものとなるだろう。
炎と水の婚礼。
人々はひそかに、二人の婚約を、そう呼び交わしていた。
二人が結ばれることは、二つの王家に婚姻が結ばれる以上に、二大精霊の力が結びつき、人々の力となることを象徴していた。
だが、この二、三日、麗羅符露 の顔色が冴えないのにも、李玲峰 は気がついていた。
微笑みかければ、微笑みを返してくる。
肩を抱けば、拒絶するふうもなく、身を寄せてくる。
そのくせ、麗羅符露 は深い物思いに耽っていて、どこか遠いところにいるふうなのだ。
「レイラ?」
「なぁに、イレー?」
「その……」
李玲峰 は、ためらった。
その手は、麗羅符露 の白銀の艶やかな髪に触れていた。
もしかしたら……?
でも、確かめるのは、怖い。
もし、確かめて、そうだ、と言われてしまったら、そう思うと。
(もしかしたら、レイラはおれと婚約するのが嫌なのかな?)
美しく成長した幼馴染みの少女が、自分のこの腕から逃れ去ってしまう。
そんなことは、考えるだけでも辛い。
でも、レイラに嫌な思いをさせるのは、もっと嫌だ。
麗羅符露 は、李玲峰 の腕の中で、微かに体を震わせた。
「寒い?」
李玲峰 が慌てて聞くと、
「ううん」
麗羅符露 は首を振って、微笑んだ。
「あなたは、暖かいわ、イレー」
やがて、長い逡巡の後、 李玲峰 はようやく勇気を出して、尋ねた。
「レイラ、その、きみはいいのかな。おれと」
「……?」
「その。おれはきみの意思を尊重するよ。きみの思うとおりにするといい。おれはきみが好きだけど。でも、もし、きみがおれのこと嫌だったら。おれから、ちゃんと父上に話すし」
「イレー? 何を言っているの?」
麗羅符露 は目を丸くした。
そして、可笑しそうに言う。
「やだ、変よ、イレー。どうして、そんなふうに言うの? あたしの心はわかるでしょう? あなたの炎があたしの心を溶かしてくれた。あたしはあなたが好きよ。きっと、ずっと小さいときから。あなたは、イレー?」
「え……おれ……は」
李玲峰 は口ごもった。
顔が赤くなる。
それは……。
最初に 那理恵渡玲 の腕に抱かれた 麗羅符露 を見たときから、彼の今の思いは続いている。
李玲峰 がそう思うと、その思いは口に出さなくても 麗羅符露 の心に伝わる。
麗羅符露 は体を伸ばして、李玲峰 の口元へとそっと口付けた。
「あたしは幸せよ、イレー。今まで、こんな幸せって、感じたことはないわ。それくらい、幸せなの。でも、だから、思うのよ。
あたしがこんな幸福で良いのかしら、って」
麗羅符露 の心が曇るのが、李玲峰 には感じられた。
まるで、月の光が雲に遮られたかのように。
面を伏せた 麗羅符露 の背で、銀の髪が月光のように青く美しく輝く。
「於呂禹 の夢を見たの」
震える声で、麗羅符露 は言った。
李玲峰 は、体を強張らせた。
(於呂禹 の夢!?)
「たぶん、宇無土 だと思うわ。あたしたちが育った懐かしい島。一面の草が風にそよいでいた。
於呂禹 は一人で、たった一人でその草の波の中にいたわ。
寂しそうに。
そしてあたしの方を見て、呼んだの。
「レイラ」って」
おそらく、同じ夢だ。
李玲峰 にはわかった。
「おれも、見たよ」
李玲峰 は、言った。
「於呂禹 は、おれも呼んだよ。「イレー」ってね」
麗羅符露 は、顔を上げた。
麗羅符露 の顔の表情が、くしゃり、とゆがんだ。
麗羅符露 は身を投げるようにして、李玲峰 の首に抱きついた。
少女の体を、李玲峰 は抱きとめた。
「イレー、あたし、氷の大陸の冷たい氷の中で、見ていたわ。あなたと 於呂禹 が戦っているのを。あなたの剣が 於呂禹 を貫き、於呂禹 があなたを殺そうとしていた。
夢かと思った。でも、あれは夢ではなかったのね? 於呂禹 は、根威座 の魔将軍なのですってね? 魂を 亜苦施渡瑠 に吸い取られてしまって。
でも、あれは 於呂禹 じゃないわ。あたしを助けてくれた 於呂禹 では。
於呂禹 は、言ったの」
麗羅符露 の言葉が、凍り付いたような怯えた口調になる。
「あたし、震えていた。何も出来なかった。あの 根威座 の仮面騎士団に 宇無土 の地下湖からさらわれて。 根威座 の魔都に連れて行かれて。
怖かった。恐ろしかった。あの 根威座 の魔皇帝は、あたしたちを憎んでいたわ。どうなるんだろう、何をされるんだろう。そう思って、怖くって、怖くって、於呂禹 の後ろに隠れて、ただ、震えていた。でも、於呂禹 が言ったの。「大丈夫だ」って。逃がしてくれるって。たとえ、自分はどうなっても、あたしだけは逃がしてくれるって。
あたし……」
麗羅符露 の水の色を映した淡い瞳から透明な滴が溢れ、白い頬を濡らしていった。
「追われて、追われて。氷の大陸に逃げ込んで、水の精霊王 に匿われて。
そして、イレー。あなたがあたしを氷の中から連れ出してくれた。怯えて、何もかも空逃げ出してしまったあたしの心を、あなたは救ってくれた。
でもね、イレー。あたしは、何もしていないわ。泣いていただけ」
「麗羅符露」
「於呂禹 は身を挺してあたしを助けてくれて、あたしのために自分を犠牲にしたのに!」
「レイラ、違うよ。泣かないで」
意地っ張りで、傷付きやすいレイラ。
でも、麗羅符露 がそんな少女だから、李玲峰 も 於呂禹 も、レイラのことが大好きだった。
臆病で、わがままだったレイラ。
でも、彼女は美しく成長した。
「だから。こんなに幸せではいけないの。そう思うの、イレー。
昼間に、あなたのお父上にお会いしたわ。藍絽野眞 三世陛下に。陛下は、あたしのお父さまがこの 藍絽野眞 に来たら、婚約と間を置かずに、婚礼を、とおっしゃったの。
あたし、嬉しかった。でも、こんなに幸福で良いのかしら。そう思ったわ。
於呂禹 は 根威座 に囚われたままなのに。世界には、まだたくさんの人たちが戦火に苦しんでいて、みんな、戦っているのに。於呂禹 はあたしを助けるために自分は 根威座 に残り、亜苦施渡瑠 魔皇帝の元できっと今もひどい目に遭っているのに違いないのに。
ねぇ、イレー。あたしたちは、精霊の御子 でしょう?
炎と水、そして大地。あたしたちは三人。
それなのに、於呂禹 がいない。
あたし、思うの。
あたしたちの婚礼の時には、於呂禹 にもいて欲しい。そうでなければ、あたし一人、幸せにはなれないって。でも、それはわがままかしら?」
「ううん、レイラ。わかった。おれも、きみと同じ気持ちだよ」
李玲峰 はうなずいた。
麗羅符露 の言うとおりだ。
「きみが正しいよ、レイラ。おれも、なんとかして、於呂禹 は取り戻す! そう思っている。於呂禹 は、大切な親友だから。
でも、おれと結婚したくないわけじゃないんだね、レイラ? この戦いが終わり、於呂禹 が僕らの元に戻ったら、そうしたら、おれの花嫁になってくれる?」
麗羅符露 は青い瞳を見開き、即座にこくり、とうなずいた。
李玲峰 はほっと安堵し、優しく彼女の額にキスをした。
「じゃあ、婚約だけはいいね?
婚礼は、於呂禹 が僕らの元に返ってから。根威座 との決戦が終わってから。父上には、そう申し上げるよ」
「ごめんなさい。あたし、いつも、わがまま言って」
「泣くなよ、レイラ。きみに泣かれると辛いよ。それにこれはわがままじゃない。当然のことだよ。わがままっていうのは、昔のきみのことを言うんだぜ、レイラ。やれ、あの花を摘んでこい、あれがいい、これがいい。そのあげくに、来るのが遅いって文句は言うし。
於呂禹 もおれも、いつだって呆れてたんだから」
麗羅符露 はまぁっ、と言って目を見開き、涙を拭うと、知らないっ、というようにぷんと横を向いた。
それから、ちょっと照れたような笑みを浮かべる。
(そう、笑って、レイラ)
李玲峰 は微笑みかけつつ、心の中で呟いた。
たぶん、それが 於呂禹 の望みでもあったはずだから。
麗羅符露 が無事に逃げのびて、そして、そんなふうに笑うこと。
夜風がそよぐ。
庭園の樹木の梢を騒がせる。
もうすぐ、この地に九大陸連合の軍が集結し、戦いが始まる。
皆を、守らねばならない。
藍絽野眞 の民を。
そして、変容を遂げつつある、この世界を。
「そして、ね。イレー。あたしにも戦い方を教えて」
すっかり涙を拭い、さっぱりした顔になると、麗羅符露 は 李玲峰 の腕の中から抜けて立ち上がり、きっぱりした口調でそう言った。
「レイラ。戦う、って?」
李玲峰 は、戸惑った顔になる。
「あたしだって、精霊の御子 だもの。あなたと 於呂禹 がそうであるように。
あたしには水の恵みがある。水の精霊の力を操ることが出来るわ。きっと、あたしでも役に立てるはずよ。あたしも、根威座 との戦いに参加させて、イレー」
「レイラ、無茶だ!」
麗羅符露 は真顔で、満月の下で頑固な決意のこもった目をしてこちらを見る。
「本気よ、あたし。足手纏いにはならないわ」
李玲峰 は絶句する。
そして、彼は幼馴染みの少女の、もう一つの性質も思い出していた。
(レイラって、一回、言い出したら、聞かないんだったよな。確か)
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