精霊の御子

神泉朱之介

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75話

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「では、阿留摩アルマ さまはすべてを捨てて、陀伊褞ダイオン さまについていらしたのですね?」
 うっとり、といった口調で、藍絽野眞アイロノマ の小さな姫君、愛理洲アイリス は 阿留摩アルマ に尋ねた。
 月が出ていた。
 満月の、丸い月。
 遊び疲れた 愛理洲アイリス を、阿留摩アルマ はその小さなわがままと侍女たちの嘆願に応じて、手を引いて彼女の寝室へと連れて行くところだった。
「さぁな。あたいが捨てたもんなんか、たいしたもんじゃないかもしれないよ。あたいが捨てたのはあの腐れた 根威座ネイザ の都市だ。ま、あたいの生まれ故郷ではあるけどね」
 阿留摩アルマ はこともなげに答えた。
陀伊褞ダイオン は、もっとステキなちゃんとした娘を幾らでも奥さんにすることが出来たんだ。あたいなんかじゃなく。
 だって、あいつはちゃんとした家柄のちゃんとした男だ、とびきりのいい男だもんね。あたいなんかと一緒になったことで、あいつはそうした自分の立場を全部なくしちまった。
 かつての仲間に笑われたり、謗られたりすることだってあるだろうさ。
 そう、あいつがあたいのために捨てたものの方が絶対に多いさ」
「でも! 阿留摩アルマ さまは、陀伊褞ダイオン さまのお命の恩人でもあるのでしょう?」
 愛理洲アイリス は生真面目に反論した。
 阿留摩アルマ は闇の中で真ん丸く開いた猫の瞳孔の目を見開き、小さな姫君の横を歩いていく自分に似た虎の子の頭をくしゃっと撫でて、笑って言った。
「お姫さま、あんたにだってわかるだろう? 陀伊褞ダイオン は、騎士だ。だから、あの人には命は一番大切なものじゃない。命より大切なものがいっぱいあるのさ。騎士としての名誉とか、家の誉れとか、ね」
 虎の子はミャアゥ、と、低い声で出った。
 辺りは暗くなっているし、虎の子はもう眠くなっているらしく、とろんとした目をしている。
 続けて、大あくびをした。
 愛理洲アイリス は眉をしかつめらしく寄せて、不満そうにちょっと考えた。
 それから 阿留摩アルマ の顔をじっと見上げ、思い切ったように尋ねた。
阿留摩アルマ さま、もしかしたら失礼にあたることをお尋ねするのかもしれないですけれど、もとは 阿留摩アルマ さまはそうしたお姿では無かったのでしょう? その……」
「ああ、そうだよ」
 阿留摩アルマ は猫の口元をにやりと笑わせた。
「普通の人間の体と顔をしていた。結構、美人だったんだよ、あたいは」
「もとのお姿には、戻れませんの?」
「うん、無理だろうね」
 阿留摩アルマ は、あっさりと言う。
 諦めているように。
「でも。なんとかして! 根威座ネイザ に 阿留摩アルマ さまをそういうお姿にした技があったのたら、元のお姿に戻す技もあるのではありませんかっ?」
「それは、違うんじゃないかな、お姫さま」
 歩きながら、阿留摩アルマ はそっと溜め息をついた。
「その、さ。人間には、いろんなものを違う形に加工する技術がある。でも、一度変えてしまったものを元の形に戻すのは、それを加工するよりずっと難しいのさ。
 たとえば、ここには木で作った机や椅子や寝台がある。このお城の柱や天井や、いろんなものが木で出来ている。でも、その木を解体したところで、その柱やら天井やらを造った人がそれをもとの生えている木に戻すことが出来ると思うかい、お姫さま?」
 愛理洲アイリス は 阿留摩アルマ に言われたことをしばらくじっと考えていた。
 それから、曖昧な口調で答えた。
「よくわかりませんけれど、わたくし、きっとその机も椅子も、大切に使うと思いますけれど?」
「そうだね。それなら、いいのさ」
 阿留摩アルマ は優しく、微笑んだ。
「でもね、そんなふうに、一度変えてしまったものっていうのは、元に戻すのはなかなか難しいものなのさ、お姫さま。たとえば、お姫さまの大切にしているぬいぐるみだってそうだ。お姫さまが例えば癇癪を起こして、放り投げて、破いてしまったとする」
「わたくし、そんなこと、しませんわ!」
 愛理洲アイリス は、即座に抗議の声を上げた。
「例えば、の話だよ」
 阿留摩アルマ は、諭すように指を振り上げた。
「でも、わかるだろう? 一時の癇癪で破いてしまうのは一瞬でも、それを元の形に縫い直すには、破くのより、ずっと時間がかかるだろう?
 それが命なら、なおさらのことさ。あんたの腕の中にいる、そのトラくん。きっとお姫さまよりずっと早く大きくなるだろうけどさ、でも、その生命を奪うのも、失われるのも、一瞬だ。だけど、慈しみ育てるのには、長い時間がいる。
 あたいは、変えられてしまった。根威座ネイザ にはあたいをもとの姿に戻す技術がどこかにあるかもしれない。可能性は皆無ではないね。でも、いいんだ。こんな姿にされたことで見えたものもいっぱいあるからね。
 あたいだけのことなら、だから、いいのさ。あたいはこの体でもそんなに苦労してないし。そりゃ、イヤな思いをすることもあるけどね。
 気になってるのは、あたいの赤ちゃんのことさ」
「赤ちゃん?」
 愛理洲アイリス は、キョトン、とした顔になった。
「うん。たぶん、生まれるんだ。ここに来てから気がついたんだけどね」
 阿留摩アルマ は、ちょっぴり決まり悪げに言葉を濁した。
「ステキ! それならなおさら、もっとここにいらっしゃればいいのにっっ! この 藍絽野眞アイロノマ で、赤ちゃんを生めば!」
 しかし、愛理洲アイリス があげた歓声に答えた 阿留摩アルマ の声には、影があった。
「そう。ちゃんと 陀伊褞ダイオン に似た子が生まれればいいんだけどね」
「大丈夫ですわ! きっと、陀伊褞ダイオン さまにも 阿留摩アルマ さまにも似た!」
 そこまで言って、愛理洲アイリス は自分の言葉から、阿留摩アルマ が心配していることにハタと気付いてしまった。
「そうなのさ、お姫さま」
 阿留摩アルマ は、苦笑いした。
「あたいに似て生まれてこないといいんだけど、ねぇ」
 愛理洲アイリス は言葉が継げずに、つい、黙り込んでしまった。
 そんな 愛理洲アイリス の肩をそっと恕き、阿留摩アルマ は宥めるように語りかけた。
「優しいお姫さま。そんなにお心を悩まして下ささることはないんだよ。丈夫な子でありさえすれば、きっとこの子はちゃんと自分の人生を切り拓いていくだろうから。
 お月さまがキレイだ。
 光は、誰にでも平等に輝いてくれるね。
 いい夢を見ておくれ」
 そして 阿留摩アルマ は 愛理洲アイリス を部屋まで送っていって、侍女たちと一緒にぬいぐるみが所構わずいっぱいに積み重なっている寝台へと彼女を寝かしつけてくれた。
 愛理洲アイリス は、 阿留摩アルマ のふわふわとした毛皮に覆われた首に腕を巻き付け、その頬にお休みのキスをした。
 そして、そっとささやいた。
「ごめんなさい、阿留摩アルマ さま。わたくし、なんだか、聞いてはいけないことを伺ってしまいましたのね?」
「なんで? 構わないよ、おしゃまなお姫さま」
 阿留摩アルマ は、またしても苦笑した。
 まだほんの少女なのに、大人のように気を回す少女の言葉に、彼女はちょっぴり驚いていた。
 阿留摩アルマ はためらい、そして、付け加えた。
「そう、たぶん、一番大切なことはね、お姫さま。あいつは、陀伊褞ダイオン はあたいを愛してくれてるってこと、たったそれだけのことなんだ」
 愛理洲アイリス は満足の笑みを満面に浮かべて、こくん、と首をうなずかせた。
「そうですわね、阿留摩アルマ さま。わたくし、それ、わかります。お休みなさい、阿留摩アルマ さま」
「お休み、お姫さま。あんたは、ホント、よく出来たお姫さまだよ。さすがあの 炎の御子 の妹だ」
 そう言って、阿留摩アルマ は部屋から出て行った。
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