76 / 97
76話
しおりを挟む
寝室に一人で残されても、愛理洲 はなかなか寝付かれなかった。
トラは 愛理洲 が横になった寝台の脇に体を丸めて眠り始めた。
愛理洲 は、お気に入りの虎のぬいぐるみを胸に抱きしめた。
(お兄さま……)
愛理洲 は、兄である 炎の王子、李玲峰 のことを思った。
最近は 李玲峰 は九大陸連合を統率する者としてとみに忙しいし、婚約者である、麗羅符露 姫と一緒にいることが多くて、なかなか 愛理洲 に構ってくれる余裕がない。
愛理洲 はちょっぴりそのことが寂しいと思っているが、我慢している。
だって、今はそんなことを言っている時ではないっていうことぐらい、愛理洲 にもわかったし、遊び相手、話し相手なら、宇摩琉場 から亡命してきている丁度同じ年頃の少女、菜美禮 姫がいる。
戦争。
ずっと行われてきた戦争、そしてこれから始まるらしい決戦のことを考えると、愛理洲 は、心臓がどきどきしてくるのを感じる。
李玲峰 と 愛理洲 の二人の母である 李絽妻良 は、特にこの頃はずっと不安そうにしている。
父である 競絽帆 王の顔付きも、いつになく厳しい。
なんとか母を慰め、気持ちを引き立てようとせいいっぱいに明るく振る舞っているのだけれえども、幼い 愛理洲 にも決戦を前にして 藍絽野眞 城内に高まりつつある緊張感はひしひしと感じられた。
(平気、大丈夫よっっ! 李玲峰 お兄さまがいらっしゃるもの。きっとお兄さまがわくしたちを守って下さる。きっとお兄さまが)
これまでだって、お兄さまはいつだってわたくしたちのもとに戻ってきて下さった。 お兄さまは、わたくしたちの期待を裏切ったことなど、一度もないのだもの。
きっとお兄さまは。
(ううん!)
ぶるるん、と 愛理洲 は頭を振り、ぬいぐるみを抱いたまま、寝台の上でがば、と起き上がった。
「お兄さまにばかり、こんなふうに頼ってばかりいてはいけないわっっ!」
でも、自分に何が出来るだろう、と考えると、愛理洲 はちょっと悲しくなった。
信じること、祈ること。
出来ることは、それくらいだ。
早くもっと大きくなって、麗羅符露 お姉さまのようにお兄さまのお力になれればいいのにっ。
(でも、だったら、お祈りをしよう、お兄さまたちのためにっ。出来ることはその場ですぐにしなさいって、お母さまが)
いつもおっしゃっているものね、と 愛理洲 は早速、寝台から抜け出しながら考えた。
グルッ、唸り声がして、愛理洲 が動く気配に気づいて、虎の子のトラが頭を上げた。
「しっ、トラ。来ないでいいのよ。眠っておいで。眠ってらっしゃいって言ってるのにっっ。
ダメですってば。こら、トラ!」
のそっと起き上がってきたトラは、愛理洲 にポカリ、と頭をはたかれて、ミャウ? と訝しげに泣いた。
が、愛理洲 が幾ら言い聞かせても、ついてこようとする。
「しょうがないわね。じゃあ、騒いじゃダメよ、トラ? 侍女たちが起きてしまいますもの。わかる? シィィッ。静かに、ね?」
愛理洲 が口元に指を立てて、しぃっ、と言うと、その意図はわかったようだ。
まだ幼さが残る顔をした虎の子は、しきりに頭をこくこくとうなずかせた。
少女と虎の子は足音を忍ばせて、宿直の侍女たちの脇を擦り抜け、部屋を抜け出して、夜の 藍絽野眞 城内へと出ていった。
愛理洲 が向かったのは、後宮内にある祈りの廟だ。
丸い月と星々が夜空を飾っている。
その星々の合間に、明らかに星とは違う、瞬かない光が点在している。
それは、藍絽野眞 のの上空に停泊している九大陸連合の飛行船に点る光だ。
今、ここの上空には幾千もの飛行軍船が集結しているから。
そう、まもなく、戦いが始まるから。
根威座 軍が、根威座 の魔皇帝 亜苦施渡瑠 がついにこの 藍絽野眞 に攻めてくるだ
(お兄さま、麗羅符露 お姉さま、お父さま、藍絽野眞 の将軍たち。ううん、九大陸連合の勇者たち、この浮遊大陸に生きるみんなを守ろうとしてくれている誰もが、出来るだけ生き残ることが出来ますように。無駄に命を捨てることがありませんように。
早く、早く、戦いが終わりますように。根威座 に負けることがありませんように。
平和な世界が来ますように。精霊たちのすべての恵みがわたくしたちの元に戻りますように)
愛理洲 は思った。
そして、星々に祈った。
たとえ祈ったところで、そのすべての望みを実現するのは、きっととても難しいことだろうけれども。
(李玲峰 お兄さま……)
赤い髪の宿命を背負った、この世でたった一人、同じ父と母の血を分けたあの兄は、まだ少年の身なのに、そうした人々の祈りを実現しようと、頑張っている。
すべてがうまくいって、誰もが幸せになれるように、と。
この世界に海が生まれ、藍絽野眞 の大陸の岸にその波が打ち寄せ、初めて海原をその目で見たとき、愛理洲 の兄に対する敬愛と憧憬の気持ちは、ほとんど崇拝に近くなった。
愛理洲 は、精霊の力を知った。
世界を覆うその力の大きさを。
この世界を形造っているという、四つの精霊の力。
風と炎、水、そして大地。
兄が封印された失われた精霊たちの力を背負っている 精霊の御子 である、ということの意味を、本当のところ、 愛理洲 はずっとわかっていなかった。
どうして 愛理洲 が生まれた時から、兄の 李玲峰 が 愛理洲 たちのところにいなかったのか。
いつも、母は嘆いていた。
兄である 藍絽野眞 の世継ぎの王子が、母の手から奪われてしまったことを。
それを慰めるのは、愛理洲 の役目だった。
その意味を知った今、愛理洲 は兄のことを前以上に尊敬していた。
後宮にある祈りの廟へと急ぐ 愛理洲 は、その途中で奇妙なものをみつけた。
庭園の花園の中だ。
小さな噴水の側に、小柄な少年の姿があった。
最初、愛理洲 はそれが兄か、と思った。
王家の後宮に出入りが許される少年といったら限定されるし、その少年が浮遊大陸の他の住民たちと違って、どうも黒髪よりは薄い色の髪をしているように見えたからだ。
(お兄さまっ?)
愛理洲 は小躍りして駆け寄ろうとして、トラが唸り声を上げたのと、月光に照らされたその少年の髪が赤い炎の髪よりもなお明るい、白っぽい薄い色なのに気がついたのとで、足を止めた。
まるで、その色ときたら……。
(金色? 黄金の、大地の色?)
少年は、夜空を見上げている。
愛理洲 はその視線の行方を求めて、同じく夜空を見上げた。
それは、たぶん、王宮の軍営の方向だ。
夜だというのに、 鵜吏竜紗 の巨鳥兵の編隊が満月の明るい空へと飛び立っていくのが見えた。
そんなに大きな編成の隊ではないが、夜空に映るその鳥たちの陰影からしてもかなり立派な 鵜吏竜紗 たちなのがうかがえる。
たぶん、藍絽野眞 の近衛鳥兵たちの編隊だろう。
でも、こんな時刻に、何故?
この少年は、どうしてこんなところで、その編隊の出発を見ているのだろう?
それに、こんなに辺りは暗いというのに、その少年の表情がこんなにもくっきりと見て取れるのは何故?
悪い人には見えないわ、と 愛理洲 は思った。
なんだか、哀しそうな顔をしている。
でも、弱々しくは見えない。
芯がとてもしっかりした少年のように見える。
少年はそっと息を吐き、それから身を伸び上がらせるようにして、ふわり、と空中に浮かび上がるのが見えた。
金髪の、大地の色をした髪の少年!
「あのっっ!」
思い切って 愛理洲 は彼のいる花園の中へと足を踏み込み、叫んで声を掛けた。
空中に浮かび上がりかけた少年は、声を掛けられたことにびっくりしたように地上へと戻ってきて、両手を握りしめて立ち尽くした小さな女の子の方を見た。
その時になって、愛理洲 は初めて気がついた。
その少年の体の背後が、透けて見えることに。
「誰?」
びっくりしたように、少年は大地色の瞳を見開いて、愛理洲 の心の中へと尋ねかけてきた。
愛理洲 はごくり、と唾を飲み込んでから、心を落ち着かせ、話しかけた。
「わたくしは、 愛理洲 、ですわ。藍絽野眞 の王女の」
「藍絽野眞 の王女? じゃあ、もしかしたら、李玲峰 の?」
「ええ。妹にあたりますわ、李玲峰 お兄さまの。えっとあなたは……」
愛理洲 は一生懸命、記憶の中にその名前を探した。
「あの、確か、於呂禹 さま? 大地の御子 の?」
透き通った体の少年は、礼儀正しく、丁寧に言葉を返した。
「ええ、そうです、王女さま」
それからしげしげと小さな姫君をみつめて、温かい、温和な笑みをその顔に浮かべた。
愛理洲 が思わずホッと、体の緊張を解いてしまうほどに優しい笑みだった。
「はじめまして。驚いた。ぼくの姿が見える人がいるだなんて。 李玲峰 たちだって、ぼくの姿を 宇無土 以外では見ることが出来ないのに。
李玲峰 にあなたのような妹姫がいらっしゃるなんて、知りませんでした。黒い髪の姫君。
あなたはよほど、精霊たちの心に適う魂を持っておられるのですね」
今度は、愛理洲 の方が目をぱちくりさせた。
それでは、他の人にはこの方のお姿は見えないの?
李玲峰 お兄さまにも?
トラが、 愛理洲 の横で、また、低い唸り声を上げた。
愛理洲 は慌ててトラを叱り、その首根っこを押さえつけてから、また口を開いた。
「それでは 李玲峰 お兄さまは、ここに貴方さまがいらっしゃるのをご存じではないのですか? あの、それたらわたくし、呼んでまいりましょうか、お兄さまを? だって、お兄さまはいつだって、その、心を痛めていらっしゃいましたもの、於呂禹 さまのことを。
ちょっと待っていて下さいませね、すぐにっっ!」
身をひるがえそうとした 愛理洲 を、於呂禹 は押しとどめた。
「良いんです、お姫さま。それに、李玲峰 は部屋にはいません」
「いらっしゃらないって、あのっっ!」
「今、出発してくれたんです、李玲峰 たちは、ぼくのために。ぼくの頼んだことを実行してくれるために」
「出発したって?」
於呂禹 は、再び夜空を見上げた。
(では、今、出撃していった巨鳥編隊は、李玲峰 お兄さまが? お兄さまたちって、お兄さまと誰が?)
まさか、麗羅符露 お姉さまも?
直感的に、愛理洲 はそう思った。
夜空から少年の方へと視線を戻すと、金髪の少年は静かな眼差しを返した。
そして、その体は、また、ふわり、と空中に浮かんだ。
「ごきげんよう、お姫さま。ぼくはこれから、李玲峰 たちの後を追っていかないと。彼らは他ならぬぼくの求めに応じて、出掛けてくれたのだから。
また、お会い出来れば光栄です、李玲峰 の妹君。精霊たちに対して汚れない心を持った、愛らしい小さなお方」
愛理洲 の前から、幻のような金髪の少年の姿は、風に乗るように夜空へと消え去っていった。
愛理洲 は目を丸くして、それを見送った。
やがて、目の前には月の光に照らされた、藍絽野眞 の王宮の柱廊や花園だけが残っていた。
夢、だったのかしら、と 愛理洲 は自分に問い返した。
思わず、ギュッ、と頬っぺたを自分で引っ張ってしまった。
トラが、ミュウウと、愛理洲 の腕の中で心細げに啼いた。
トラは 愛理洲 が横になった寝台の脇に体を丸めて眠り始めた。
愛理洲 は、お気に入りの虎のぬいぐるみを胸に抱きしめた。
(お兄さま……)
愛理洲 は、兄である 炎の王子、李玲峰 のことを思った。
最近は 李玲峰 は九大陸連合を統率する者としてとみに忙しいし、婚約者である、麗羅符露 姫と一緒にいることが多くて、なかなか 愛理洲 に構ってくれる余裕がない。
愛理洲 はちょっぴりそのことが寂しいと思っているが、我慢している。
だって、今はそんなことを言っている時ではないっていうことぐらい、愛理洲 にもわかったし、遊び相手、話し相手なら、宇摩琉場 から亡命してきている丁度同じ年頃の少女、菜美禮 姫がいる。
戦争。
ずっと行われてきた戦争、そしてこれから始まるらしい決戦のことを考えると、愛理洲 は、心臓がどきどきしてくるのを感じる。
李玲峰 と 愛理洲 の二人の母である 李絽妻良 は、特にこの頃はずっと不安そうにしている。
父である 競絽帆 王の顔付きも、いつになく厳しい。
なんとか母を慰め、気持ちを引き立てようとせいいっぱいに明るく振る舞っているのだけれえども、幼い 愛理洲 にも決戦を前にして 藍絽野眞 城内に高まりつつある緊張感はひしひしと感じられた。
(平気、大丈夫よっっ! 李玲峰 お兄さまがいらっしゃるもの。きっとお兄さまがわくしたちを守って下さる。きっとお兄さまが)
これまでだって、お兄さまはいつだってわたくしたちのもとに戻ってきて下さった。 お兄さまは、わたくしたちの期待を裏切ったことなど、一度もないのだもの。
きっとお兄さまは。
(ううん!)
ぶるるん、と 愛理洲 は頭を振り、ぬいぐるみを抱いたまま、寝台の上でがば、と起き上がった。
「お兄さまにばかり、こんなふうに頼ってばかりいてはいけないわっっ!」
でも、自分に何が出来るだろう、と考えると、愛理洲 はちょっと悲しくなった。
信じること、祈ること。
出来ることは、それくらいだ。
早くもっと大きくなって、麗羅符露 お姉さまのようにお兄さまのお力になれればいいのにっ。
(でも、だったら、お祈りをしよう、お兄さまたちのためにっ。出来ることはその場ですぐにしなさいって、お母さまが)
いつもおっしゃっているものね、と 愛理洲 は早速、寝台から抜け出しながら考えた。
グルッ、唸り声がして、愛理洲 が動く気配に気づいて、虎の子のトラが頭を上げた。
「しっ、トラ。来ないでいいのよ。眠っておいで。眠ってらっしゃいって言ってるのにっっ。
ダメですってば。こら、トラ!」
のそっと起き上がってきたトラは、愛理洲 にポカリ、と頭をはたかれて、ミャウ? と訝しげに泣いた。
が、愛理洲 が幾ら言い聞かせても、ついてこようとする。
「しょうがないわね。じゃあ、騒いじゃダメよ、トラ? 侍女たちが起きてしまいますもの。わかる? シィィッ。静かに、ね?」
愛理洲 が口元に指を立てて、しぃっ、と言うと、その意図はわかったようだ。
まだ幼さが残る顔をした虎の子は、しきりに頭をこくこくとうなずかせた。
少女と虎の子は足音を忍ばせて、宿直の侍女たちの脇を擦り抜け、部屋を抜け出して、夜の 藍絽野眞 城内へと出ていった。
愛理洲 が向かったのは、後宮内にある祈りの廟だ。
丸い月と星々が夜空を飾っている。
その星々の合間に、明らかに星とは違う、瞬かない光が点在している。
それは、藍絽野眞 のの上空に停泊している九大陸連合の飛行船に点る光だ。
今、ここの上空には幾千もの飛行軍船が集結しているから。
そう、まもなく、戦いが始まるから。
根威座 軍が、根威座 の魔皇帝 亜苦施渡瑠 がついにこの 藍絽野眞 に攻めてくるだ
(お兄さま、麗羅符露 お姉さま、お父さま、藍絽野眞 の将軍たち。ううん、九大陸連合の勇者たち、この浮遊大陸に生きるみんなを守ろうとしてくれている誰もが、出来るだけ生き残ることが出来ますように。無駄に命を捨てることがありませんように。
早く、早く、戦いが終わりますように。根威座 に負けることがありませんように。
平和な世界が来ますように。精霊たちのすべての恵みがわたくしたちの元に戻りますように)
愛理洲 は思った。
そして、星々に祈った。
たとえ祈ったところで、そのすべての望みを実現するのは、きっととても難しいことだろうけれども。
(李玲峰 お兄さま……)
赤い髪の宿命を背負った、この世でたった一人、同じ父と母の血を分けたあの兄は、まだ少年の身なのに、そうした人々の祈りを実現しようと、頑張っている。
すべてがうまくいって、誰もが幸せになれるように、と。
この世界に海が生まれ、藍絽野眞 の大陸の岸にその波が打ち寄せ、初めて海原をその目で見たとき、愛理洲 の兄に対する敬愛と憧憬の気持ちは、ほとんど崇拝に近くなった。
愛理洲 は、精霊の力を知った。
世界を覆うその力の大きさを。
この世界を形造っているという、四つの精霊の力。
風と炎、水、そして大地。
兄が封印された失われた精霊たちの力を背負っている 精霊の御子 である、ということの意味を、本当のところ、 愛理洲 はずっとわかっていなかった。
どうして 愛理洲 が生まれた時から、兄の 李玲峰 が 愛理洲 たちのところにいなかったのか。
いつも、母は嘆いていた。
兄である 藍絽野眞 の世継ぎの王子が、母の手から奪われてしまったことを。
それを慰めるのは、愛理洲 の役目だった。
その意味を知った今、愛理洲 は兄のことを前以上に尊敬していた。
後宮にある祈りの廟へと急ぐ 愛理洲 は、その途中で奇妙なものをみつけた。
庭園の花園の中だ。
小さな噴水の側に、小柄な少年の姿があった。
最初、愛理洲 はそれが兄か、と思った。
王家の後宮に出入りが許される少年といったら限定されるし、その少年が浮遊大陸の他の住民たちと違って、どうも黒髪よりは薄い色の髪をしているように見えたからだ。
(お兄さまっ?)
愛理洲 は小躍りして駆け寄ろうとして、トラが唸り声を上げたのと、月光に照らされたその少年の髪が赤い炎の髪よりもなお明るい、白っぽい薄い色なのに気がついたのとで、足を止めた。
まるで、その色ときたら……。
(金色? 黄金の、大地の色?)
少年は、夜空を見上げている。
愛理洲 はその視線の行方を求めて、同じく夜空を見上げた。
それは、たぶん、王宮の軍営の方向だ。
夜だというのに、 鵜吏竜紗 の巨鳥兵の編隊が満月の明るい空へと飛び立っていくのが見えた。
そんなに大きな編成の隊ではないが、夜空に映るその鳥たちの陰影からしてもかなり立派な 鵜吏竜紗 たちなのがうかがえる。
たぶん、藍絽野眞 の近衛鳥兵たちの編隊だろう。
でも、こんな時刻に、何故?
この少年は、どうしてこんなところで、その編隊の出発を見ているのだろう?
それに、こんなに辺りは暗いというのに、その少年の表情がこんなにもくっきりと見て取れるのは何故?
悪い人には見えないわ、と 愛理洲 は思った。
なんだか、哀しそうな顔をしている。
でも、弱々しくは見えない。
芯がとてもしっかりした少年のように見える。
少年はそっと息を吐き、それから身を伸び上がらせるようにして、ふわり、と空中に浮かび上がるのが見えた。
金髪の、大地の色をした髪の少年!
「あのっっ!」
思い切って 愛理洲 は彼のいる花園の中へと足を踏み込み、叫んで声を掛けた。
空中に浮かび上がりかけた少年は、声を掛けられたことにびっくりしたように地上へと戻ってきて、両手を握りしめて立ち尽くした小さな女の子の方を見た。
その時になって、愛理洲 は初めて気がついた。
その少年の体の背後が、透けて見えることに。
「誰?」
びっくりしたように、少年は大地色の瞳を見開いて、愛理洲 の心の中へと尋ねかけてきた。
愛理洲 はごくり、と唾を飲み込んでから、心を落ち着かせ、話しかけた。
「わたくしは、 愛理洲 、ですわ。藍絽野眞 の王女の」
「藍絽野眞 の王女? じゃあ、もしかしたら、李玲峰 の?」
「ええ。妹にあたりますわ、李玲峰 お兄さまの。えっとあなたは……」
愛理洲 は一生懸命、記憶の中にその名前を探した。
「あの、確か、於呂禹 さま? 大地の御子 の?」
透き通った体の少年は、礼儀正しく、丁寧に言葉を返した。
「ええ、そうです、王女さま」
それからしげしげと小さな姫君をみつめて、温かい、温和な笑みをその顔に浮かべた。
愛理洲 が思わずホッと、体の緊張を解いてしまうほどに優しい笑みだった。
「はじめまして。驚いた。ぼくの姿が見える人がいるだなんて。 李玲峰 たちだって、ぼくの姿を 宇無土 以外では見ることが出来ないのに。
李玲峰 にあなたのような妹姫がいらっしゃるなんて、知りませんでした。黒い髪の姫君。
あなたはよほど、精霊たちの心に適う魂を持っておられるのですね」
今度は、愛理洲 の方が目をぱちくりさせた。
それでは、他の人にはこの方のお姿は見えないの?
李玲峰 お兄さまにも?
トラが、 愛理洲 の横で、また、低い唸り声を上げた。
愛理洲 は慌ててトラを叱り、その首根っこを押さえつけてから、また口を開いた。
「それでは 李玲峰 お兄さまは、ここに貴方さまがいらっしゃるのをご存じではないのですか? あの、それたらわたくし、呼んでまいりましょうか、お兄さまを? だって、お兄さまはいつだって、その、心を痛めていらっしゃいましたもの、於呂禹 さまのことを。
ちょっと待っていて下さいませね、すぐにっっ!」
身をひるがえそうとした 愛理洲 を、於呂禹 は押しとどめた。
「良いんです、お姫さま。それに、李玲峰 は部屋にはいません」
「いらっしゃらないって、あのっっ!」
「今、出発してくれたんです、李玲峰 たちは、ぼくのために。ぼくの頼んだことを実行してくれるために」
「出発したって?」
於呂禹 は、再び夜空を見上げた。
(では、今、出撃していった巨鳥編隊は、李玲峰 お兄さまが? お兄さまたちって、お兄さまと誰が?)
まさか、麗羅符露 お姉さまも?
直感的に、愛理洲 はそう思った。
夜空から少年の方へと視線を戻すと、金髪の少年は静かな眼差しを返した。
そして、その体は、また、ふわり、と空中に浮かんだ。
「ごきげんよう、お姫さま。ぼくはこれから、李玲峰 たちの後を追っていかないと。彼らは他ならぬぼくの求めに応じて、出掛けてくれたのだから。
また、お会い出来れば光栄です、李玲峰 の妹君。精霊たちに対して汚れない心を持った、愛らしい小さなお方」
愛理洲 の前から、幻のような金髪の少年の姿は、風に乗るように夜空へと消え去っていった。
愛理洲 は目を丸くして、それを見送った。
やがて、目の前には月の光に照らされた、藍絽野眞 の王宮の柱廊や花園だけが残っていた。
夢、だったのかしら、と 愛理洲 は自分に問い返した。
思わず、ギュッ、と頬っぺたを自分で引っ張ってしまった。
トラが、ミュウウと、愛理洲 の腕の中で心細げに啼いた。
応援ありがとうございます!
1
お気に入りに追加
76
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる