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第1話 “欠食幼女”マール
しおりを挟むアルマティア王国の南端。
凶暴な魔獣が跋扈する魔の森の近くにある、辺境伯家の食堂。
朝の光が差し込んでいるはずなのに、どこか薄暗く感じるのは──テーブルに広がる残飯のせいだろう。
そんな食堂の片隅で、幼女のメイドが黙々と後片付けをしていた。
彼女の名はマール。
八歳。小さい。とても小さい。
そして、とても……みすぼらしい。
銀紫色の髪は鳥の巣みたいにぼさぼさで、メイド服はもはや服と呼べる状態ではない。裾は破れて引きずれ、袖はぶかぶかで手が完全に隠れている。
歩けば布がひらひら揺れ、軽い彼女の体なら風でそのまま飛んでいきそうだ。
(……今日も、ごはん、ないかも)
お腹がぐぅ、と鳴る。しかしマールは特に驚かない。毎日のことだからだ。
この家で優しくされた記憶はない。怒鳴られ、使われ、空気のように扱われ──気づけば三年が経っていた。
そもそも、なぜマールがここにいるのか。
三年前、王城から突然一通の手紙が届いたのだ。
『王家の縁者を当分のあいだ預かってほしい』
その文言とともに、まだよろよろ歩きの小さなマールが辺境伯家へ送り込まれた。当時の彼女は虚弱で、まともに話すこともできず、泣きも笑いもしない静かな子だった。
本来なら辺境伯の当主が責任をもって世話をするはずだった。実際、彼は妻や娘、使用人たちへこう言った。
『この子は大事なお方だ。大切にしてやってくれ』
だがその直後、当主は魔の森の防衛任務へ招集され、そこからほとんど帰らなくなった。
残されたのは──妻ヴァネッサと娘プリシラ。よりにもよって、この家でいちばん他人に厳しい二人である。
『大事って、大げさに言ってるだけでしょ?』
『お母様。この子、私のメイドにしていい?』
当主不在の追い風を受け、二人は好き勝手にマールを扱いはじめ、気づけば“預かり物”ではなく“便利な雑用係”としてこき使うようになっていた。
廊下を掃除すれば「遅い!」と怒鳴り、落としたハンカチを拾わせるためだけに呼びつけ、食事は──ほぼ出さない。一昨日はパンの耳一欠片。昨日と今日はゼロ。ゼロの日が普通になりつつあった。
それでもマールは泣かなかった。泣いても無駄だと、幼いながら悟ってしまったのだ。
──だがそんなマールにも、たった一つだけ譲れないものがあった。
それは、食べ物への興味。
足元に転がったリンゴの欠片を、マールはじーっと見つめていた。誰よりも真剣に、誰よりも食い入るように。
(きっとプリシラ様が食べている最中に落ちたんだ。茶色くなってる……でもにおいは、まだ甘い。煮たら、いける……かも)
リンゴ一つでここまで考える八歳児は、世界でもかなりレアだろう。
しかしマール的には普通だった。生きるためには、食べられる可能性を一点でも探すしかないのだ。
──その時。
「ちょっと! シェフはどこ!? プリシラ様がお茶会を開くって言ってるんだから、準備しなさいよ!」
怒鳴り声とともに現れたのは、辺境伯家の一人娘プリシラ──肥えて、肥えて、肥えきった少女だった。
歩くたび床がミシッと音を立てるほど、身体が丸く膨らんでいる。ドレスは布が悲鳴を上げているようにパツパツだ。
肉と甘味を限界まで食べ尽くしてきた者だけが持つ“貴族肥え”である。
プリシラはマールを見つけるなり、露骨に眉をひそめた。
「なに? やだ、まだ残飯なんか触ってるわけ?」
「か、片付け……です」
「腹立つ声出さないで! ああもう、ほんっとムカつく!」
プリシラは周囲を見渡し──そこで“とてもプリシラらしい悪知恵”を思いついた。
近くに置いてあった、掃除用の雑巾入りバケツ。色は灰色を超えて黒。においは……もう言うまでもない。
プリシラはニタッと笑い、雑巾を握るとマールの頭上でぎゅーーっと絞った。
ばしゃっ。
汚水がマールごと、床のリンゴにばっちり降りかかる。
「きゃ……っ」
声にならない声がこぼれた。油・泥・カビ臭・何かの汁、それらが混ざった液体が髪を伝い、服を濡らしていく。
「うふふ。食べれば? “食べたい”んでしょ?」
その一言で、食堂にいたメイドたちからクスクス笑いが上がった。
マールの手が小さく震える。
でも拒否すれば──今日はもう確実に何も食べられない。
(……死にたく、ない……)
マールは、一度ぎゅっと服を握りしめ──汚水で濡れたリンゴの欠片をそっと口に運んだ。
味は……最悪どころではなかった。
だが、命には代えられない。
その夜。
食堂の裏の納屋で、マールは体を丸めて震えていた。
「……いた……い……おなか……いたい……」
汚水にまみれたリンゴを食べたせいで、ひどい腹痛に襲われていた。嘔吐と熱と冷汗で体はぐったりし、息も途切れ途切れになる。
「しにたく……ない……」
暗闇の中で、小さな声がか細く漏れ続ける。
そのまま夜は明け、翌朝──。
納屋の隅で、マールはまだ小刻みに震えながら倒れていた。抱えた腹は焼けるように痛み、喉はひりつき、意識は薄い。
「……マール? ちょっと、何よその顔……」
朝になっても起きてこないマールに文句を言いに来たメイドが、ぐったりと動かない彼女を見つけて顔をしかめた。
「うわ……これ、やば……どうしよう……」
しばらく迷った末、そのメイドは面倒そうにため息をつき、主のもとへと向かった。
「奥様、お嬢様……マールが、その……ぐったりして動かないのですが……どういたしますか?」
ヴァネッサは朝の茶を飲んでいた手を止め、面倒そうに眉をひそめた。隣のプリシラも、菓子をつまむ手を止める。
「はぁ? またあの子? なんでいちいち報告するのよ」
「だって……本当に動かないので……医者を呼ぶべきかと……」
「医者ぁ?」とプリシラが鼻で笑う。
「そんなの放っておけばいいじゃない。死んで何か問題あるわけ?」
「でも敷地内で死なれると処理が面倒ねぇ……そうだわ。勝手に魔の森へ入って死んだ、ってことにしておけばいいんじゃない?」
ヴァネッサはティーカップを置きながら、さらりと恐ろしいことを言った。
「あなた。マールを森の奥まで運んで置いてきなさい。二度と戻ってこられないようにね」
「……わ、わかりました」
メイドは蒼白になりながらも逆らえず、深く頭を下げた。
◆
この大陸の中央には、どの国の地図にも大きく空白として描かれる場所がある。
《魔の森》──そう呼ばれるその領域は、古くから魔獣と毒に満ち、人が足を踏み入れれば命を落とすと恐れられてきた。
しかもその森は、ただ危険なだけではない。
年を追うごとに、じわじわと周囲の土地を侵食し、境界を曖昧にしながら広がり続けている。
ゆえに各国は、それぞれのやり方で魔の森と向き合ってきた。武力で押し返す国、鉄壁で遮断する機械の国──そして、アルマティア王国は。
古くから受け継がれてきた《結界魔法》によって、森の侵食を抑え込む道を選んだ国だった。
見えない壁で災厄を封じ、かろうじて日常を守り続けている。
だが、その結界が及ばぬ一歩先は人の世界ではない──。
「んもう! 面倒ね……にしても、随分と軽いわねこの子……」
マールは半ば意識を失ったまま、粗雑に毛布でくるまれ、運ばれていく。揺れる振動に時折うめき声が漏れるが、目は開かない。
やがて空気が冷え、森特有の湿った匂いが強くなる。
「……はぁ。もうこのへんでいっか。私まで魔獣に食べられちゃったら嫌だし……」
メイドは震える手でマールを地面に降ろした。振り返ることもなく屋敷方向へ駆け戻る。
残されたのは、幼い少女ひとり。
深い森の影が覆い、風がざわりと木々を揺らす。
しばらくして──。
「……っ……う……」
マールの意識が、ゆっくりと浮上した。
目を開けると、そこはどこまでも黒い木々が続く森の中。空はほとんど見えず、薄暗さが支配している。
(……ここ……どこ……?)
体はまだ痛む。立ち上がろうとしても、力が入らず倒れ込んでしまう。
その時──。
がさり。
茂みが揺れた。
(……いや……)
ゆっくりと姿を現したのは、赤い目をぎらりと光らせた狼の“魔獣”。涎を垂らしながらマールへと鼻を近づける。
逃げる力はない。声も出ない。ただ、心臓だけが早鐘を打つ。
やがて魔獣の影がマールへと飛び込んだ──。
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