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2/4話
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セシリア・アルフォート、公爵夫人。
結婚して、もうすぐ三年が経とうとしていた。
「子供ができなくてもいい。君に負担はかけたくない」
そう言ってくれたのは、結婚した日の夜だった。私はその言葉を真に受け、無理をしないよう心がけてきた。病弱な体を労わってくれる、優しい夫——そう、思っていたのだ。
けれど、現実は少しずつ、しかし確実に変わっていった。
公爵家の当主となったエドガーは、忙しさを理由に次第に家を空けるようになった。彼の不在は日常となり、顔を合わせることすら珍しくなっていった。
私はそれでも、信じようとしていた。会話が減っても、目が合わなくても、彼の背中が冷たく感じられても。私は、信じることしかできなかった。
衰弱していく体を抱えながら、私は静かに暮らしていた。読書が趣味だった私は、本の中の世界に心を預けた。時折、ベランダに出て花の香りを吸い込み、季節の移ろいに小さな喜びを見出していた。
——私は、彼さえいれば生きていける。
そう思っていた。
けれど、その日。
「ただいま」
聞き慣れた声が玄関から響いたとき、私は無意識に微笑んでいた。思わず膝掛けを整え、立ち上がろうとしたその瞬間——
「セシリア、お前に客を紹介しよう」
足音と共に現れたエドガーの隣には、見知らぬ女が立っていた。
華美なドレスに、厚化粧。まるで舞踏会帰りのような装いで、彼女は私を見下ろしながら、唇の端を釣り上げた。
私は言葉を失った。動けなかった。目の前の光景を理解するのに、しばらく時間が必要だった。
エドガーの瞳は、氷のように冷たかった。
「医者から聞いたぞ。お前、もうすぐ死ぬそうだな」
その声には、哀れみも、気遣いもなかった。あるのは、ただ愉悦だけ。
私は静かに頷いた。平然とした顔で、まるで何も感じていないふりをした。
「やっとだな。病気で無能なお前は、生きているだけで公爵家の財産を食いつぶす。正直、早く死んでくれたほうが助かる」
「そう、ですか」
わずかに唇が震えた気がしたが、私はすぐに平静を取り戻した。
彼は、心底楽しそうに笑った。
「ああ、最初からこうなることは分かってたさ。病弱で親もいないお嬢様、都合のいい公爵家の箱入り。お前を口説いて、籍を入れた時点で俺の勝ちだった」
その声には、愛情のかけらもなかった。
「家柄だけ立派で中身は空っぽ、死期も近いお前は“理想的な足場”だったんだよ。なにもせずとも財産と地位が手に入る、最高の投資先だったってわけだ」
「あとは“自然に”病死してもらえば、誰も疑いやしない。完璧な後継者計画だったよ」
「そうすれば、この子と公爵家を継げる。お前のような役立たずより、よほどふさわしいだろう?」
私は微笑んだまま、何も言わなかった。いいえ、言う必要などなかった。
なにより目の前の男が吐く息を、微塵たりとも吸いたくなかった。
勝ち誇ったように肩を揺らしながら、エドガーは愛人の女とともに部屋を後にした。
その足音が消え、ドアが閉まる音だけが、やけに静かに響いた。
私はしばらくの間、その場から動けずにいた。
絶望した? 驚いて何も言えない?
――いいえ。
(思っていたよりも、ショックはなかったわね)
心の奥底ではずっと前から気づいていたのだ。
あの人はもう、私の知っているエドガーではない。
ゆっくりと立ち上がり、カーテン越しの月明かりに手をかざす。震えも、痛みも、もう感じない。
「……そろそろ潮時ね」
――――――――
本日、最終話まで公開予定。
次話は18:30ごろとなります。
結婚して、もうすぐ三年が経とうとしていた。
「子供ができなくてもいい。君に負担はかけたくない」
そう言ってくれたのは、結婚した日の夜だった。私はその言葉を真に受け、無理をしないよう心がけてきた。病弱な体を労わってくれる、優しい夫——そう、思っていたのだ。
けれど、現実は少しずつ、しかし確実に変わっていった。
公爵家の当主となったエドガーは、忙しさを理由に次第に家を空けるようになった。彼の不在は日常となり、顔を合わせることすら珍しくなっていった。
私はそれでも、信じようとしていた。会話が減っても、目が合わなくても、彼の背中が冷たく感じられても。私は、信じることしかできなかった。
衰弱していく体を抱えながら、私は静かに暮らしていた。読書が趣味だった私は、本の中の世界に心を預けた。時折、ベランダに出て花の香りを吸い込み、季節の移ろいに小さな喜びを見出していた。
——私は、彼さえいれば生きていける。
そう思っていた。
けれど、その日。
「ただいま」
聞き慣れた声が玄関から響いたとき、私は無意識に微笑んでいた。思わず膝掛けを整え、立ち上がろうとしたその瞬間——
「セシリア、お前に客を紹介しよう」
足音と共に現れたエドガーの隣には、見知らぬ女が立っていた。
華美なドレスに、厚化粧。まるで舞踏会帰りのような装いで、彼女は私を見下ろしながら、唇の端を釣り上げた。
私は言葉を失った。動けなかった。目の前の光景を理解するのに、しばらく時間が必要だった。
エドガーの瞳は、氷のように冷たかった。
「医者から聞いたぞ。お前、もうすぐ死ぬそうだな」
その声には、哀れみも、気遣いもなかった。あるのは、ただ愉悦だけ。
私は静かに頷いた。平然とした顔で、まるで何も感じていないふりをした。
「やっとだな。病気で無能なお前は、生きているだけで公爵家の財産を食いつぶす。正直、早く死んでくれたほうが助かる」
「そう、ですか」
わずかに唇が震えた気がしたが、私はすぐに平静を取り戻した。
彼は、心底楽しそうに笑った。
「ああ、最初からこうなることは分かってたさ。病弱で親もいないお嬢様、都合のいい公爵家の箱入り。お前を口説いて、籍を入れた時点で俺の勝ちだった」
その声には、愛情のかけらもなかった。
「家柄だけ立派で中身は空っぽ、死期も近いお前は“理想的な足場”だったんだよ。なにもせずとも財産と地位が手に入る、最高の投資先だったってわけだ」
「あとは“自然に”病死してもらえば、誰も疑いやしない。完璧な後継者計画だったよ」
「そうすれば、この子と公爵家を継げる。お前のような役立たずより、よほどふさわしいだろう?」
私は微笑んだまま、何も言わなかった。いいえ、言う必要などなかった。
なにより目の前の男が吐く息を、微塵たりとも吸いたくなかった。
勝ち誇ったように肩を揺らしながら、エドガーは愛人の女とともに部屋を後にした。
その足音が消え、ドアが閉まる音だけが、やけに静かに響いた。
私はしばらくの間、その場から動けずにいた。
絶望した? 驚いて何も言えない?
――いいえ。
(思っていたよりも、ショックはなかったわね)
心の奥底ではずっと前から気づいていたのだ。
あの人はもう、私の知っているエドガーではない。
ゆっくりと立ち上がり、カーテン越しの月明かりに手をかざす。震えも、痛みも、もう感じない。
「……そろそろ潮時ね」
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本日、最終話まで公開予定。
次話は18:30ごろとなります。
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