kiss をするまでの時間

桜 朱理

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プロローグ

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「ただいま」

 家の玄関を開けて声を掛ける。

 いつもならすぐに返って来る「おかえりなさい」の妻の声が聞こえず、桂木は首を傾げた。

 出かける予定は聞いていないが?

 物音がしない静かな家の中を不審に思いながらリビングのドアを開けてすぐに、桂木は探していた妻の姿を発見して目元を緩める。

 以前はよく妻に『鉄仮面!』と言われていた端正な容貌に、穏やかな笑みを浮かべて桂木はそっと静かに足音を立てないようにリビングに入った。

 桂木の視線の先。日当たりのよいリビングのラグの上、タオルケットかけたまま気持ちよさそうに転寝をする茜と明がいた。
 
 桂木がそっと二人を起こさないように近づくと、その気配に明が目を開けた。

「あー、うー」

 桂木の姿に手足をバタバタさせて、寝返りを打った愛娘を抱き上げると、自分にそっくりだと言われている娘は、ご機嫌に声を出し始める。
 その明の声に、茜が反応して「う、うん」と声を出して眉間に皺を寄せたので、桂木は抱いた娘をあやして囁くように声を掛ける。

「しー。ママは疲れているから、もう少しだけ寝かせてやろう」
「うー?」

 桂木の言葉の意味をちゃんと理解できているわけでもないだろうが、明がこてんと首を傾げるように声を出して、大人しくなる。

「いい子だ」

 娘の反応に桂木は目元をさらに緩めると、明を抱いたままそっと静かに茜の横に座る。
 明は父親の腕のなかで、大人しく抱かれていた。
 
 明の声に反応していた茜は、静かになった娘の気配に再び深い眠りに落ちたのか、起きる気配は見せない。

 疲れているのだろうと思う。

 慣れない育児と、新しい環境に彼女が奮闘しているのを知っている。
 それでも持ち前の芯の強さと明るさで、家事をこなし、娘を育てる茜は、桂木の前でいつも笑っている。

 その笑顔に癒される自分がいる。

 彼女の笑顔を守れる自分でいたいと強く思う。

 泣けずに苦しんでいた彼女を知っているだけに余計にそう思うのかもしれない。
 
  
『何で、こんなに苦しいのに、泣けないのかな……』


 不意に耳元に蘇る、あの夜の茜の呟き。

 職場ではいつも気丈に振る舞っていた茜が、一瞬だけ見せた弱さ。
 泥酔して散々桂木相手に暴れた後、不意に力が抜けた身体を桂木に預け、ぽつりと呟くように放たれた茜の言葉が、今も忘れられずにいる。


 6年前のあの日、あの場所で、もし桂木が傷ついた茜を見つけなければ、今の自分たちはなかっただろうと思うと人生は不思議だ。


 桂木の脳裏に、6年前の夜が蘇る。  

 傷つきすぎて泣くことも出来なかった茜を見つけた夜のことが―――。

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