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1巻
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瀬那が祖母から受け継いだ『なごみ』という名のこの店は、住宅街の真ん中に立つ小さな店だった。昼は十一時から十五時の間に、和食を中心とした定食とあんみつなどの甘味を提供し、夜は十八時から二十二時まで小料理屋として営業している。
最寄駅から徒歩十分。生垣に囲まれた二階建ての日本家屋で、一階が店舗、二階が瀬那の住居スペースになっている。
店内は木目調の落ち着いた家具に、着物を解いて作ったタペストリーや小物が華やかな彩りを添えている。訪れる人がほっと息をつける、和の雰囲気を大切にしたくつろぎの場となっていた。
個室二部屋、カウンター五席、テーブル席が四つ。その他に春から秋にかけては、庭を眺められる場所にウッドデッキを併設し、テラス席として二席作っていた。
少し広めの庭には、様々な花樹が植えてあり、四季折々の花々が季節を通して楽しめるようになっている。五月の今は藤と皐月が見頃を迎えていた。それが終われば、紫陽花が咲き始める。
それを意識して瀬那の今日の装いは、藤色の江戸小紋の単衣に、白地に紫陽花が咲き乱れる帯にしていた。帯上げと帯締めは渋めの抹茶色にし、帯留に蛙の王様をつけて、これから迎える梅雨を思わせる合わせ方をしていた。落ち着いた色味の中に遊び心を入れた今日の組み合わせを、瀬那は気に入っていた。だから、先ほどの常連客の褒め言葉が嬉しくて、瀬那はもう一度、帯留にしている蛙の王様を撫でる。
着物は季節を少し先取りするのが基本だと言われている。実際の花の季節よりも一か月から一か月半ほど先取りして、花が咲く直前まで着るのが粋なのだと。実際の花と競うことはしないという、その考えが瀬那は好きだった。
幼い頃から粋に着物を着こなす祖母の背を見て育ったせいか、店を継ぐ時も当たり前のように、着物で接客すると決めていた。
着物姿で凛と背筋を伸ばして接客していた祖母の姿は、今も瀬那にとって憧れだ。
まだまだその背中には追い付けそうにない。でも、瀬那は今年でやっと三十歳。祖母の年齢を重ねた女性だからこそ持ち得る貫禄や美しさがないのは当たり前だ。こればかりは、日々精進だと思っている。
「周ちゃん。のれんを下ろしてきたから、それが終わったら休憩に入って」
調理場で洗い物をしていた料理人兼幼馴染の高田周大に声を掛ける。
日本食の料理人らしい白の法被コートを着た周大が顔を上げた。瞼の切れ上がった三白眼がゆっくりとこちらを見た。周大は料理人というよりは格闘家と言われる方が納得する容姿をしていた。
黒髪を短く刈り込みその上に和帽を被り、整えた顎髭が似合う精悍な顔は浅黒く日焼けしている。
見た目の迫力に反して、この幼馴染は寡黙で穏やかな気質の男だ。
「わかった。姉さんに呼ばれているから、この後の休憩時間に少し出るが、大丈夫か?」
「もちろん大丈夫よ」
「すまないな。夜の営業の仕込みはほとんど終わってる。営業に支障が出ないように戻ってくる」
真面目すぎる幼馴染の言葉に、瀬那は苦笑する。
「休憩時間だもの。周ちゃんの自由にしてくれて構わないわよ。夜の営業までに戻ってきてくれれば問題ないわ」
「ありがとう。ああ、そこに賄いを用意したから、食べてくれ」
周大が目線だけでカウンターの一角を示す。そこには昼の定食の残りのちらし寿司と総菜、味噌汁が並べられていた。
「ありがとう。周ちゃんは? ご飯、食べていかないの?」
いつもは周大の分も合わせて二人分用意されているのに、今日は瀬那の分だけだった。気になって問いかければ、「家に帰るからそこで食ってくる」と返ってきた。
「そう。じゃあ、先にいただくわね」
「ああ」
瀬那は袖を押さえていた襷を外して、周大が用意してくれた賄いの前に座った。
「いただきます」
手を合わせて、少し遅い昼食を取る。店内には、周大が洗い物をする音だけが静かに響く。
普段から寡黙な周大は、必要がなければ口を開かない。昔から二人でいても、会話はほとんどなかった。けれど、気づまりにならないのは、付き合いの長さゆえだろう。
瀬那は小鉢に入った根三つ葉の辛子和えに箸を伸ばす。旬のシャキシャキした根三つ葉の食感とかまぼこの柔らかな食感の違いが面白く、辛子の辛みが全体を引き締めていて美味しかった。
――うん。今日も美味しい。
賄いを食べる瀬那の顔は自然に綻んだ。
今どき珍しく中学卒業後に、神楽坂の老舗料亭に修業に出ていた周大が作る料理はどれも美味しい。こんな小さな町の料理屋で働いてもらうのは勿体ない腕だと思うが、そのおかげで、祖母が亡くなった後も店が続けられている。
洗い物を終えた周大が着替えるために、厨房の奥に引っ込んだ。
一人店内に残された瀬那は、夜の営業に備えて食事を続けた。
食後のお茶に手を伸ばすと同時に、店の駐車場に車が停まる音が聞こえてきて、瀬那の眉間に皺が寄る。
――まさか……
ちらりと時計を見上げると時刻は、もうすぐ四時になろうとしていた。今の時間は夜の仕込みのために店は閉めている。だからこの時間に連絡もなく訪れる人間は滅多にいないのだが、たまに営業時間を知らないお客さんがやってくることもある。しかし、何故か瀬那の頭に、一人の男の顔が思い浮かんでいた。
周期的に考えれば、そろそろ彼がやってきてもおかしくない。
のれんも下げて、『ただいま閉店中』の札が下がっているにもかかわらず、出入り口の引き戸が躊躇いもなく開けられた。
振り返った瀬那は、堂々と入ってきたかつての上司に、やはりと大きく息を吐き出した。
「ただいま、当店は休憩中です」
「知ってる」
――知ってるなら、ちゃんと営業時間中に来てよ!
心の中でだけ文句を言う。実際に文句を言ったところで、要が気にもしないだろうことはわかっていた。もうすでに、何度も注意はしているからだ。来るなら営業時間中に来てほしいと。しかし、要がそれを聞き入れる様子はない。むしろ、わざわざ店の休憩時間を狙ってきている。
挨拶もなく、真っ直ぐこちらに要が歩み寄ってきた。
相変わらずの傍若無人ぶりに、瀬那は疲れたため息を吐く。
瀬那の横に、断りもなく要が座った。
「珈琲」
すっかりここでくつろぐ気満々の態度と注文に、瀬那の口元が引きつった。
「だから、うちは今、休憩中だって言ってますよね?」
努めて冷静になろうとしながら、瀬那はもう一度、今が営業時間外だと要に伝えた。
要は一瞬、食事を終えた賄いの載った盆に視線を向けたが、「だから何だ? 珈琲」と、譲らない態度で注文を繰り返す。
それで、要に対してだけ短すぎる瀬那の堪忍袋の緒が切れて、思わず立ち上がる。
「人の話を聞いてください! うちは今、休憩中で、営業してません! そして、うちは和風喫茶なので日本茶は出すけど、珈琲は置いてない! 何度言えばわかるんですか?」
「珈琲。豆なら前回来た時に置いていったのが、まだあるだろう」
しかし、要は全く応えた様子もなく、頑固に同じ注文を繰り返す。
――ああもう! 本当に人の話を聞かないのは変わらないわね!
自分の注文が通って当たり前といった態度の要に、瀬那の苛立ちが増す。もう一度、要に物申そうと口を開いたタイミングで、周大が奥から顔を出した。
「瀬那? どうした? 大きな声が聞こえたが……」
そう言った周大が瀬那の横に座る要を見て、目を眇めた。
要も周大の姿を認めて、雰囲気が剣呑なものに変わる。バチッと音がしそうなほど、二人の間で一気に緊張感が高まった。
「あなたか……西園さん。うちは今、営業時間外なんですけどね?」
じろりと要を見て、咎める周大の声は低く威圧を孕んでいた。それに応じるように、要はフンと鼻を鳴らして、尊大な仕草で足を組んだ。
「俺が用があるのは市原だ。君には関係ない。その格好なら出かけるところだったのだろう? さっさと行ったらどうだ?」
法被コートの上にスカジャンを羽織った周大を一瞥した要は、もう周大には用がないと言わんばかりの態度で瀬那を見上げてくる。そして「珈琲」と注文を繰り返した。
要の注文に、周大の顔が険しくなる。一触即発の空気に、瀬那は頭痛を覚えた。
この二人の相性は最悪だ。猛獣の縄張り争いさながらに互いの存在を主張して、毎度空気が悪くなる。
要は毎度、周大を威嚇するような態度を取るし、周大は周大で幼馴染がこの元上司に振り回されるのを心配して、態度を硬化させる。
そのたびに、瀬那は虎と竜の間に挟まれたような気分を味わう羽目になっていた。
――周ちゃんのことを警戒しているみたいだけど、そういうことは絶対にないのにね。
周大にはそれこそ幼稚園の頃からの想い人がいる。彼の長年の片思いを知っているだけに、瀬那にとったら、要の警戒はただただ的外れに思えた。
――私の身近に周ちゃんみたいな男の人がいるのが気に入らないみたいだけど、だからといって彼が私のものになることはない。本当に勝手だ。
とはいえ、放っておいたらこの二人はいつまでも睨み合っている。ここは瀬那が大人として対応するべきだろう。
「周ちゃん。ここは大丈夫だから、もう行って。春香さんに呼ばれているんでしょう? 時間は大丈夫?」
瀬那の言葉に周大が、店の時計をちらりと見上げて、時刻を確認した。夜の営業時間を考えると、あまり時間はない。
「大丈夫か?」と眼差しに心配を滲ませて、周大が尋ねてくる。
「もちろん。大丈夫に決まっている」
それに微笑んで答える。周大の眼差しが、不機嫌そうに座る要と、瀬那の間を往復した。
もう一度戻ってきた周大の視線に、瀬那が力強く頷くと、「じゃあ、ちょっと行ってくる」と後ろ髪を引かれるような顔で、店の外に出て行った。
周大の後ろ姿を見送って、瀬那はほっと息を吐き出す。
そして、不機嫌さを隠しもせずに二人のやり取りを見ていた要を見下ろした。むっつりと黙り込む男は何も言わない。
束の間、二人の間に沈黙が落ちた。
先に根負けしたのは瀬那だった。ため息を一つ吐いて、カウンターの内側に入る。
要は自分の要求した通りに、珈琲を飲むまでは意地でもここから動かない。そういう男だ。
それならさっさと要の要求に応えて、珈琲を淹れてしまった方が話は早い。
瀬那のこういうところを周大が心配しているのは知っている。腹を立てることも多いのに、何だかんだと文句を言いながら、瀬那は要のわがままを許してしまう。
自分でも要に甘いとは思っている。もうこれはある種、習い性になっているのだろう。
秘書として過ごした時間の濃さゆえに、瀬那は要に従うことに慣れてしまっていた。
ケトルでお湯を沸かし、戸棚の中から、要専用にしている道具一式の入った籠を取り出す。その中から珈琲豆の入った缶を取り出して、蓋を開けた。
瀬那は慣れた手つきで珈琲豆の分量を量り、専用のミルに入れて豆を挽き始める。
途端に、辺りに芳醇な珈琲の香りが広がった。百グラム数千円はすると言われる高級な珈琲豆は、要が自分専用に店に置いていっているものだった。なくなる頃になると、いつも追加を持ってくる。
豆を挽きながら、瀬那は不思議な気持ちになる。
瀬那が退職した後、二人の関係は疎遠になっていくのだと勝手に思っていた。
退職の日、口づけを交わした思い出はあれど、当然、そこから二人の関係が発展することはなかった。
世界中を飛び回る多忙な男と、小さな料理屋の若女将――接点などなくなっていくのが当然だ。
けれど、その考えを覆すように、月に一、二度のペースで、要はなごみに通ってきた。
瀬那はこの男の多忙さを誰よりも知っている。疲れている男の休息を、拒むことはできない。
わざわざ営業時間外にやってきて、珈琲を注文するのは何の嫌がらせだとは思っているが、要の訪問自体を嫌がっているわけではなかった。
かつて、一緒に夜景を眺めた時間が、形を変えて珈琲を求めるわがままになっているというのなら、それは瀬那の心を甘く揺らす。
彼の秘書を辞めて二年。とうの昔に見切りをつけたはずの恋心が、瀬那の心に複雑な波紋を呼び起こす。
湯が沸いて、ケトルを火から下ろした。ドリッパーとサーバーをお湯で温め、要用の珈琲カップに湯を注いで温めておく。その間に、ペーパーフィルターを折り、ドリッパーにセットした。
挽いたばかりの豆をフィルターに入れて、ケトルのお湯を数回に分け丁寧に回し入れる。
珈琲が湯で膨らんで盛り上がる。サーバーに珈琲が落ち切ったところで、ドリッパーを外して濃度を調整するために攪拌する。最後にカップの湯を捨てて、そこに珈琲を注いだ。
茶菓子に店で出している和三盆を添えて、要の前にサーブすると、今日初めて男の表情が和らいだ。
珈琲を口にして、ほうっと満足げな吐息が聞こえてきて、瀬那は密やかに苦笑した。
ちらりと要に視線を向ければ、男はくつろいだ様子で満足げに口角を上げている。
――この顔を見ちゃうと、何でも許したくなるんだから、私も本当に甘い。
要が珈琲を味わっている間、瀬那は冷蔵庫から、水出しの冷茶が入ったボトルと氷、わらび餅の入った保存容器を取り出した。ガラス製のグラスに氷を入れて、冷茶を二人分用意する。
新緑を思わせる緑が、目に鮮やかだ。次いで、黄粉をまぶしたわらび餅を小皿に盛り付け、冷茶と一緒にお盆に載せた。そこに専用の容器に入れた黒蜜を添える。要が珈琲を手に、瀬那の動きを無言で見つめている。
「牧瀬さんたちにお茶を渡してきます」
お盆を持ち上げた瀬那は要にそう告げて、カウンターを出る。
要の眉間に皺が寄るが気にせず、店の外に出る。店の駐車場に要が乗ってきた高級車が停まっていた。瀬那はお盆を手に車に向かう。
車の中を窺えば、運転手と、後部座席に現在の要の秘書である牧瀬が待機していた。牧瀬はタブレット片手に仕事をしているらしい。
車に歩み寄った瀬那は後部座席のウィンドウをノックする。中の二人がすぐに気づいて、こちらを見た。
「こんにちは。市原さん。お邪魔しております」
車から出てきて丁寧に頭を下げて挨拶してくる牧瀬に、瀬那も微笑んで、「お疲れ様です」と頭を下げる。牧瀬は瀬那の退職後に要の第一秘書になった中年の男性で、柔和な微笑みが似合う紳士的な人だった。
もとは秘書室のベテラン秘書で、要の祖父についていた。瀬那も新人の頃は大変お世話になった。
誰に対しても腰の低い人で、かつての部下の瀬那にも丁寧に対応してくれる。
「今日は日差しが暑いので、よかったらこちらをどうぞ」
瀬那はお盆に載せてきたお茶とわらび餅を、牧瀬に差し出す。
「いつもお気遣いいただきありがとうございます」
牧瀬が嬉しそうに瀬那からお盆を受け取った。
「こちらのお茶や和菓子はとても美味しいので、実はひそかに楽しみにしているのですよ」
甘いものに目がない牧瀬は、本当に嬉しそうにわらび餅を見る。その姿に、瀬那も笑みを誘われる。
「牧瀬さんたちも店内で召し上がりませんか?」
今は休憩中だが、どうせ中では要がくつろいでいる。もう二人客が増えたところで、たいして変わらない。しかし、瀬那の誘いを牧瀬は「滅相もない!」と首を横に振って断った。
「せっかくの社長の憩いの時間をお邪魔できませんよ。社長に就任されてから、ますます忙しさに拍車がかかっています。市原さんとのお時間が何よりの癒しになっているようなので、市原さんはどうか、社長の傍についていてあげてください」
柔らかに笑って促す牧瀬に、瀬那は苦笑する。彼は瀬那と要の関係を誤解している。
あの男と恋人だったことは一度もない。だからといって、今の関係を言い表す適切な表現も浮かばなかった。
要が何を考えて、この店に通ってくるのか瀬那は知らない。
「私たちのことはお気になさらずに、どうぞお戻りください。社長がきっと首を長くして、お待ちですよ」
微笑ましそうにそう言う牧瀬に、瀬那は曖昧な表情を浮かべるしかない。
反論したところで、きっと照れているだけと思われるのだろう。瀬那は牧瀬に促されるまま店に戻った。
店内では要が一人、先ほどと同じ場所に座っている。
瀬那が戻ってきたことに気づいた要が、こちらを振り返る。その顔は明らかに不機嫌そうだ。
――今度は何に機嫌を損ねているの?
周大はいない。要の要望通り珈琲も淹れた。他に何の不満があるのだと思う。
この男のことは、いつまでたっても理解できる気がしない。
瀬那は出したままになっていた賄いの皿を片付けるために、カウンターに歩み寄る。
賄いの盆を取り上げて、カウンターの内側に入ろうとすれば、要がぼそりと呟いた。
「お前は、俺以外の男には優しいんだな……」
「あなたにも十分、優しくしていると思いますけど?」
瀬那の返答に、要の眼差しが逸らされた。決定的なことは何も言わない男の横顔を瀬那は見下ろす。
どの角度から見ても綺麗な男の顔は、いくら眺めてみても何を考えているのかわからない。
瀬那は内心でため息を吐いて、要の横顔から視線を引き剥がす。そうして、洗い物をするために、カウンターの内側に入った。襷で着物の袖を上げ、洗い物を始める。
手を動かしながら、瀬那は先ほどの要の呟きを思い出した。
『お前は、俺以外の男には優しいんだな……』
――私以外の女に優しいのはあなたも一緒でしょう?
瀬那に対してだけ要はいつだって容赦がなかった。優しくされた記憶なんて片手で足りる。
『泣きたければ泣けばいい』
不意に、そう言った男の胸に縋って泣いた夜を思い出して、瀬那の動きが一瞬だけ止まる。
――何で今、思い出すのよ……
記憶の奥底に沈めたはずの記憶――けれど、時折気泡が水面に浮かび上がってくるように思い出される記憶が、瀬那の心を惑わせる。
一度だけ――一度だけ、彼と寝たことがある。
退職の日に口づけをした思い出はあっても、それ以上の関係に発展することはなかったから、きっと一生このままだと思っていたのに、瀬那は要と一線を越えた。
半年前、祖母が亡くなった。店を一緒に始めて一年半、大きな病気の後とは思えないほど元気だった祖母。
あの日――いつもならとっくに朝食を済ませている時間になっても起きてこない彼女を心配して、瀬那は祖母の部屋に向かった。そこで祖母が亡くなっていることに気づいた。
本当にただ眠っているだけのような穏やかな顔だった。触れた体が、冷たくなっていなければ、今にも目を覚ましそうだった。
ピンピンコロリと逝くのが夢だと言っていた言葉通りに、祖母は突然この世を去った。
何とも祖母らしい最期だった。
祖母の葬儀がすべて終わった夜――その喪失感に瀬那が耐えられなくなったのを見透かしたように、要はふらりと瀬那の前に現れた。
その夜に差し伸べられた手を、瀬那は拒めなかった。
何故、あの夜、要が瀬那に手を伸ばしたのか――その理由を瀬那は知らない。
要も何も言わなかったし、瀬那も何も聞かなかった。
大切な人を亡くした喪失感に耐えられない――そう自分にずるい言い訳をして、瀬那は恋した男に慰めを求めた。
ゆらりと音を立てて記憶が蘇る――
☆
祖母が愛用していた切子の赤いグラスに、彼女が好きだった日本酒を注ぐ。
とぽとぽと酒を注ぐ音が、人気がない静かな店内では、やけに大きく聞こえた。
カウンター周りにだけ明かりのついた店内は、ひっそりとした沈黙に包まれていた。
その静けさが、もうこの家には瀬那しかいないのだと教えてくる気がして、寂しさが募っていく。
祖母の葬儀のすべてを終えた今、瀬那の肩に虚脱したような疲れがのし掛かっていた。
祖母のとは色違いの青い切子グラスに酒を満たすと、祖母のグラスにそっと打ち付ける。
このグラスセットは、去年の祖母の誕生日に瀬那が贈ったものだった。これからも一緒に酒を酌み交わして店を盛り立てていきたいという、そんな瀬那の願いを込めていた。
カツン――と軽い音を立てて、グラスが合わさった。
孤独で静かな夜に響いたその音が、どこか寂しげに聞こえて、瀬那はため息を吐く。
――今日くらいは、お父さんたちの家に行けばよかったかな。
葬儀の後、今日は実家に泊まるよう両親に提案されていたが、大丈夫だと断って店に帰ってきたのは瀬那だった。
けれど、実際に一人になってみれば、両親の言う通りにすればよかったと後悔が瀬那を襲う。
――今からでも帰ろうかな……
両親が住む家は、ここから歩いて十五分ほどのところにある。
静かに降り積もる雪のような喪失感と寂しさに押し潰されそうになっている今、家族のぬくもりが恋しかった。
瀬那はグラスの酒を呷った。祖母が愛したのは淡麗辛口のすっきりとした味わいのものだった。舌で感じるきりっとした辛味は、すぐに焼けるような喉越しに変わって、瀬那の胃に滑り落ちていく。腹の中で燃え上がるアルコールが、一瞬だけこの寂寞とした喪失感を忘れさせてくれる気がした。
強い酒にくらりと眩暈にも似た酩酊感に襲われ、瀬那は瞼を閉じた。
あまり酒に強くない瀬那にとって、祖母の愛飲する日本酒は強すぎた。
ここ数日、葬儀のために奔走した疲れのせいか、いつも以上にアルコールの回りが早い。
くらり、くらりと世界が回るようなアルコールの浮遊感に身を任せる。
瞼の裏に浮かぶのは、まるで眠っているかのような祖母の最期の顔だった。
前日に交わした最後の会話が、何だったのか――思い出そうとしても思い出せない。
きっといつものように、「おやすみ」と言い交わしたのが、最後だろう。
家族の誰一人、祖母の異変に気づかなかった瀬那を責めなかった。祖母の死に顔があまりに穏やかで、親族の全員が何とも彼女らしい最期だと笑っていた。
祖母は有言実行の人だった。最後の最期まで彼女はそれを守り通し、ピンピンコロリと逝ったのだろう。
だからきっと、祖母は瀬那が落ち込むことを望まない。それはわかっている。
だけど、もしもっと早く瀬那が祖母の異変に気づくことができれば、彼女は今も瀬那の横にいてくれたかもしれないという思いが、どうしても拭いきれなかった。
――やっぱり家に帰ろうかな……
埒もないことばかり考えてしまう自分に嫌気がさしてそう思った時、店の入り口がからりと音を立てて開いた。
重い瞼を開いた先――入り口に佇む男に、瀬那は目を見開く。
「……西園さん?」
「鍵を開けっぱなしとは、不用心すぎないか?」
そう咎めてきた男は、店の入り口の内鍵を閉めると、ゆったりとした足取りで瀬那のもとへ歩み寄ってくる。
――どうして……?
最寄駅から徒歩十分。生垣に囲まれた二階建ての日本家屋で、一階が店舗、二階が瀬那の住居スペースになっている。
店内は木目調の落ち着いた家具に、着物を解いて作ったタペストリーや小物が華やかな彩りを添えている。訪れる人がほっと息をつける、和の雰囲気を大切にしたくつろぎの場となっていた。
個室二部屋、カウンター五席、テーブル席が四つ。その他に春から秋にかけては、庭を眺められる場所にウッドデッキを併設し、テラス席として二席作っていた。
少し広めの庭には、様々な花樹が植えてあり、四季折々の花々が季節を通して楽しめるようになっている。五月の今は藤と皐月が見頃を迎えていた。それが終われば、紫陽花が咲き始める。
それを意識して瀬那の今日の装いは、藤色の江戸小紋の単衣に、白地に紫陽花が咲き乱れる帯にしていた。帯上げと帯締めは渋めの抹茶色にし、帯留に蛙の王様をつけて、これから迎える梅雨を思わせる合わせ方をしていた。落ち着いた色味の中に遊び心を入れた今日の組み合わせを、瀬那は気に入っていた。だから、先ほどの常連客の褒め言葉が嬉しくて、瀬那はもう一度、帯留にしている蛙の王様を撫でる。
着物は季節を少し先取りするのが基本だと言われている。実際の花の季節よりも一か月から一か月半ほど先取りして、花が咲く直前まで着るのが粋なのだと。実際の花と競うことはしないという、その考えが瀬那は好きだった。
幼い頃から粋に着物を着こなす祖母の背を見て育ったせいか、店を継ぐ時も当たり前のように、着物で接客すると決めていた。
着物姿で凛と背筋を伸ばして接客していた祖母の姿は、今も瀬那にとって憧れだ。
まだまだその背中には追い付けそうにない。でも、瀬那は今年でやっと三十歳。祖母の年齢を重ねた女性だからこそ持ち得る貫禄や美しさがないのは当たり前だ。こればかりは、日々精進だと思っている。
「周ちゃん。のれんを下ろしてきたから、それが終わったら休憩に入って」
調理場で洗い物をしていた料理人兼幼馴染の高田周大に声を掛ける。
日本食の料理人らしい白の法被コートを着た周大が顔を上げた。瞼の切れ上がった三白眼がゆっくりとこちらを見た。周大は料理人というよりは格闘家と言われる方が納得する容姿をしていた。
黒髪を短く刈り込みその上に和帽を被り、整えた顎髭が似合う精悍な顔は浅黒く日焼けしている。
見た目の迫力に反して、この幼馴染は寡黙で穏やかな気質の男だ。
「わかった。姉さんに呼ばれているから、この後の休憩時間に少し出るが、大丈夫か?」
「もちろん大丈夫よ」
「すまないな。夜の営業の仕込みはほとんど終わってる。営業に支障が出ないように戻ってくる」
真面目すぎる幼馴染の言葉に、瀬那は苦笑する。
「休憩時間だもの。周ちゃんの自由にしてくれて構わないわよ。夜の営業までに戻ってきてくれれば問題ないわ」
「ありがとう。ああ、そこに賄いを用意したから、食べてくれ」
周大が目線だけでカウンターの一角を示す。そこには昼の定食の残りのちらし寿司と総菜、味噌汁が並べられていた。
「ありがとう。周ちゃんは? ご飯、食べていかないの?」
いつもは周大の分も合わせて二人分用意されているのに、今日は瀬那の分だけだった。気になって問いかければ、「家に帰るからそこで食ってくる」と返ってきた。
「そう。じゃあ、先にいただくわね」
「ああ」
瀬那は袖を押さえていた襷を外して、周大が用意してくれた賄いの前に座った。
「いただきます」
手を合わせて、少し遅い昼食を取る。店内には、周大が洗い物をする音だけが静かに響く。
普段から寡黙な周大は、必要がなければ口を開かない。昔から二人でいても、会話はほとんどなかった。けれど、気づまりにならないのは、付き合いの長さゆえだろう。
瀬那は小鉢に入った根三つ葉の辛子和えに箸を伸ばす。旬のシャキシャキした根三つ葉の食感とかまぼこの柔らかな食感の違いが面白く、辛子の辛みが全体を引き締めていて美味しかった。
――うん。今日も美味しい。
賄いを食べる瀬那の顔は自然に綻んだ。
今どき珍しく中学卒業後に、神楽坂の老舗料亭に修業に出ていた周大が作る料理はどれも美味しい。こんな小さな町の料理屋で働いてもらうのは勿体ない腕だと思うが、そのおかげで、祖母が亡くなった後も店が続けられている。
洗い物を終えた周大が着替えるために、厨房の奥に引っ込んだ。
一人店内に残された瀬那は、夜の営業に備えて食事を続けた。
食後のお茶に手を伸ばすと同時に、店の駐車場に車が停まる音が聞こえてきて、瀬那の眉間に皺が寄る。
――まさか……
ちらりと時計を見上げると時刻は、もうすぐ四時になろうとしていた。今の時間は夜の仕込みのために店は閉めている。だからこの時間に連絡もなく訪れる人間は滅多にいないのだが、たまに営業時間を知らないお客さんがやってくることもある。しかし、何故か瀬那の頭に、一人の男の顔が思い浮かんでいた。
周期的に考えれば、そろそろ彼がやってきてもおかしくない。
のれんも下げて、『ただいま閉店中』の札が下がっているにもかかわらず、出入り口の引き戸が躊躇いもなく開けられた。
振り返った瀬那は、堂々と入ってきたかつての上司に、やはりと大きく息を吐き出した。
「ただいま、当店は休憩中です」
「知ってる」
――知ってるなら、ちゃんと営業時間中に来てよ!
心の中でだけ文句を言う。実際に文句を言ったところで、要が気にもしないだろうことはわかっていた。もうすでに、何度も注意はしているからだ。来るなら営業時間中に来てほしいと。しかし、要がそれを聞き入れる様子はない。むしろ、わざわざ店の休憩時間を狙ってきている。
挨拶もなく、真っ直ぐこちらに要が歩み寄ってきた。
相変わらずの傍若無人ぶりに、瀬那は疲れたため息を吐く。
瀬那の横に、断りもなく要が座った。
「珈琲」
すっかりここでくつろぐ気満々の態度と注文に、瀬那の口元が引きつった。
「だから、うちは今、休憩中だって言ってますよね?」
努めて冷静になろうとしながら、瀬那はもう一度、今が営業時間外だと要に伝えた。
要は一瞬、食事を終えた賄いの載った盆に視線を向けたが、「だから何だ? 珈琲」と、譲らない態度で注文を繰り返す。
それで、要に対してだけ短すぎる瀬那の堪忍袋の緒が切れて、思わず立ち上がる。
「人の話を聞いてください! うちは今、休憩中で、営業してません! そして、うちは和風喫茶なので日本茶は出すけど、珈琲は置いてない! 何度言えばわかるんですか?」
「珈琲。豆なら前回来た時に置いていったのが、まだあるだろう」
しかし、要は全く応えた様子もなく、頑固に同じ注文を繰り返す。
――ああもう! 本当に人の話を聞かないのは変わらないわね!
自分の注文が通って当たり前といった態度の要に、瀬那の苛立ちが増す。もう一度、要に物申そうと口を開いたタイミングで、周大が奥から顔を出した。
「瀬那? どうした? 大きな声が聞こえたが……」
そう言った周大が瀬那の横に座る要を見て、目を眇めた。
要も周大の姿を認めて、雰囲気が剣呑なものに変わる。バチッと音がしそうなほど、二人の間で一気に緊張感が高まった。
「あなたか……西園さん。うちは今、営業時間外なんですけどね?」
じろりと要を見て、咎める周大の声は低く威圧を孕んでいた。それに応じるように、要はフンと鼻を鳴らして、尊大な仕草で足を組んだ。
「俺が用があるのは市原だ。君には関係ない。その格好なら出かけるところだったのだろう? さっさと行ったらどうだ?」
法被コートの上にスカジャンを羽織った周大を一瞥した要は、もう周大には用がないと言わんばかりの態度で瀬那を見上げてくる。そして「珈琲」と注文を繰り返した。
要の注文に、周大の顔が険しくなる。一触即発の空気に、瀬那は頭痛を覚えた。
この二人の相性は最悪だ。猛獣の縄張り争いさながらに互いの存在を主張して、毎度空気が悪くなる。
要は毎度、周大を威嚇するような態度を取るし、周大は周大で幼馴染がこの元上司に振り回されるのを心配して、態度を硬化させる。
そのたびに、瀬那は虎と竜の間に挟まれたような気分を味わう羽目になっていた。
――周ちゃんのことを警戒しているみたいだけど、そういうことは絶対にないのにね。
周大にはそれこそ幼稚園の頃からの想い人がいる。彼の長年の片思いを知っているだけに、瀬那にとったら、要の警戒はただただ的外れに思えた。
――私の身近に周ちゃんみたいな男の人がいるのが気に入らないみたいだけど、だからといって彼が私のものになることはない。本当に勝手だ。
とはいえ、放っておいたらこの二人はいつまでも睨み合っている。ここは瀬那が大人として対応するべきだろう。
「周ちゃん。ここは大丈夫だから、もう行って。春香さんに呼ばれているんでしょう? 時間は大丈夫?」
瀬那の言葉に周大が、店の時計をちらりと見上げて、時刻を確認した。夜の営業時間を考えると、あまり時間はない。
「大丈夫か?」と眼差しに心配を滲ませて、周大が尋ねてくる。
「もちろん。大丈夫に決まっている」
それに微笑んで答える。周大の眼差しが、不機嫌そうに座る要と、瀬那の間を往復した。
もう一度戻ってきた周大の視線に、瀬那が力強く頷くと、「じゃあ、ちょっと行ってくる」と後ろ髪を引かれるような顔で、店の外に出て行った。
周大の後ろ姿を見送って、瀬那はほっと息を吐き出す。
そして、不機嫌さを隠しもせずに二人のやり取りを見ていた要を見下ろした。むっつりと黙り込む男は何も言わない。
束の間、二人の間に沈黙が落ちた。
先に根負けしたのは瀬那だった。ため息を一つ吐いて、カウンターの内側に入る。
要は自分の要求した通りに、珈琲を飲むまでは意地でもここから動かない。そういう男だ。
それならさっさと要の要求に応えて、珈琲を淹れてしまった方が話は早い。
瀬那のこういうところを周大が心配しているのは知っている。腹を立てることも多いのに、何だかんだと文句を言いながら、瀬那は要のわがままを許してしまう。
自分でも要に甘いとは思っている。もうこれはある種、習い性になっているのだろう。
秘書として過ごした時間の濃さゆえに、瀬那は要に従うことに慣れてしまっていた。
ケトルでお湯を沸かし、戸棚の中から、要専用にしている道具一式の入った籠を取り出す。その中から珈琲豆の入った缶を取り出して、蓋を開けた。
瀬那は慣れた手つきで珈琲豆の分量を量り、専用のミルに入れて豆を挽き始める。
途端に、辺りに芳醇な珈琲の香りが広がった。百グラム数千円はすると言われる高級な珈琲豆は、要が自分専用に店に置いていっているものだった。なくなる頃になると、いつも追加を持ってくる。
豆を挽きながら、瀬那は不思議な気持ちになる。
瀬那が退職した後、二人の関係は疎遠になっていくのだと勝手に思っていた。
退職の日、口づけを交わした思い出はあれど、当然、そこから二人の関係が発展することはなかった。
世界中を飛び回る多忙な男と、小さな料理屋の若女将――接点などなくなっていくのが当然だ。
けれど、その考えを覆すように、月に一、二度のペースで、要はなごみに通ってきた。
瀬那はこの男の多忙さを誰よりも知っている。疲れている男の休息を、拒むことはできない。
わざわざ営業時間外にやってきて、珈琲を注文するのは何の嫌がらせだとは思っているが、要の訪問自体を嫌がっているわけではなかった。
かつて、一緒に夜景を眺めた時間が、形を変えて珈琲を求めるわがままになっているというのなら、それは瀬那の心を甘く揺らす。
彼の秘書を辞めて二年。とうの昔に見切りをつけたはずの恋心が、瀬那の心に複雑な波紋を呼び起こす。
湯が沸いて、ケトルを火から下ろした。ドリッパーとサーバーをお湯で温め、要用の珈琲カップに湯を注いで温めておく。その間に、ペーパーフィルターを折り、ドリッパーにセットした。
挽いたばかりの豆をフィルターに入れて、ケトルのお湯を数回に分け丁寧に回し入れる。
珈琲が湯で膨らんで盛り上がる。サーバーに珈琲が落ち切ったところで、ドリッパーを外して濃度を調整するために攪拌する。最後にカップの湯を捨てて、そこに珈琲を注いだ。
茶菓子に店で出している和三盆を添えて、要の前にサーブすると、今日初めて男の表情が和らいだ。
珈琲を口にして、ほうっと満足げな吐息が聞こえてきて、瀬那は密やかに苦笑した。
ちらりと要に視線を向ければ、男はくつろいだ様子で満足げに口角を上げている。
――この顔を見ちゃうと、何でも許したくなるんだから、私も本当に甘い。
要が珈琲を味わっている間、瀬那は冷蔵庫から、水出しの冷茶が入ったボトルと氷、わらび餅の入った保存容器を取り出した。ガラス製のグラスに氷を入れて、冷茶を二人分用意する。
新緑を思わせる緑が、目に鮮やかだ。次いで、黄粉をまぶしたわらび餅を小皿に盛り付け、冷茶と一緒にお盆に載せた。そこに専用の容器に入れた黒蜜を添える。要が珈琲を手に、瀬那の動きを無言で見つめている。
「牧瀬さんたちにお茶を渡してきます」
お盆を持ち上げた瀬那は要にそう告げて、カウンターを出る。
要の眉間に皺が寄るが気にせず、店の外に出る。店の駐車場に要が乗ってきた高級車が停まっていた。瀬那はお盆を手に車に向かう。
車の中を窺えば、運転手と、後部座席に現在の要の秘書である牧瀬が待機していた。牧瀬はタブレット片手に仕事をしているらしい。
車に歩み寄った瀬那は後部座席のウィンドウをノックする。中の二人がすぐに気づいて、こちらを見た。
「こんにちは。市原さん。お邪魔しております」
車から出てきて丁寧に頭を下げて挨拶してくる牧瀬に、瀬那も微笑んで、「お疲れ様です」と頭を下げる。牧瀬は瀬那の退職後に要の第一秘書になった中年の男性で、柔和な微笑みが似合う紳士的な人だった。
もとは秘書室のベテラン秘書で、要の祖父についていた。瀬那も新人の頃は大変お世話になった。
誰に対しても腰の低い人で、かつての部下の瀬那にも丁寧に対応してくれる。
「今日は日差しが暑いので、よかったらこちらをどうぞ」
瀬那はお盆に載せてきたお茶とわらび餅を、牧瀬に差し出す。
「いつもお気遣いいただきありがとうございます」
牧瀬が嬉しそうに瀬那からお盆を受け取った。
「こちらのお茶や和菓子はとても美味しいので、実はひそかに楽しみにしているのですよ」
甘いものに目がない牧瀬は、本当に嬉しそうにわらび餅を見る。その姿に、瀬那も笑みを誘われる。
「牧瀬さんたちも店内で召し上がりませんか?」
今は休憩中だが、どうせ中では要がくつろいでいる。もう二人客が増えたところで、たいして変わらない。しかし、瀬那の誘いを牧瀬は「滅相もない!」と首を横に振って断った。
「せっかくの社長の憩いの時間をお邪魔できませんよ。社長に就任されてから、ますます忙しさに拍車がかかっています。市原さんとのお時間が何よりの癒しになっているようなので、市原さんはどうか、社長の傍についていてあげてください」
柔らかに笑って促す牧瀬に、瀬那は苦笑する。彼は瀬那と要の関係を誤解している。
あの男と恋人だったことは一度もない。だからといって、今の関係を言い表す適切な表現も浮かばなかった。
要が何を考えて、この店に通ってくるのか瀬那は知らない。
「私たちのことはお気になさらずに、どうぞお戻りください。社長がきっと首を長くして、お待ちですよ」
微笑ましそうにそう言う牧瀬に、瀬那は曖昧な表情を浮かべるしかない。
反論したところで、きっと照れているだけと思われるのだろう。瀬那は牧瀬に促されるまま店に戻った。
店内では要が一人、先ほどと同じ場所に座っている。
瀬那が戻ってきたことに気づいた要が、こちらを振り返る。その顔は明らかに不機嫌そうだ。
――今度は何に機嫌を損ねているの?
周大はいない。要の要望通り珈琲も淹れた。他に何の不満があるのだと思う。
この男のことは、いつまでたっても理解できる気がしない。
瀬那は出したままになっていた賄いの皿を片付けるために、カウンターに歩み寄る。
賄いの盆を取り上げて、カウンターの内側に入ろうとすれば、要がぼそりと呟いた。
「お前は、俺以外の男には優しいんだな……」
「あなたにも十分、優しくしていると思いますけど?」
瀬那の返答に、要の眼差しが逸らされた。決定的なことは何も言わない男の横顔を瀬那は見下ろす。
どの角度から見ても綺麗な男の顔は、いくら眺めてみても何を考えているのかわからない。
瀬那は内心でため息を吐いて、要の横顔から視線を引き剥がす。そうして、洗い物をするために、カウンターの内側に入った。襷で着物の袖を上げ、洗い物を始める。
手を動かしながら、瀬那は先ほどの要の呟きを思い出した。
『お前は、俺以外の男には優しいんだな……』
――私以外の女に優しいのはあなたも一緒でしょう?
瀬那に対してだけ要はいつだって容赦がなかった。優しくされた記憶なんて片手で足りる。
『泣きたければ泣けばいい』
不意に、そう言った男の胸に縋って泣いた夜を思い出して、瀬那の動きが一瞬だけ止まる。
――何で今、思い出すのよ……
記憶の奥底に沈めたはずの記憶――けれど、時折気泡が水面に浮かび上がってくるように思い出される記憶が、瀬那の心を惑わせる。
一度だけ――一度だけ、彼と寝たことがある。
退職の日に口づけをした思い出はあっても、それ以上の関係に発展することはなかったから、きっと一生このままだと思っていたのに、瀬那は要と一線を越えた。
半年前、祖母が亡くなった。店を一緒に始めて一年半、大きな病気の後とは思えないほど元気だった祖母。
あの日――いつもならとっくに朝食を済ませている時間になっても起きてこない彼女を心配して、瀬那は祖母の部屋に向かった。そこで祖母が亡くなっていることに気づいた。
本当にただ眠っているだけのような穏やかな顔だった。触れた体が、冷たくなっていなければ、今にも目を覚ましそうだった。
ピンピンコロリと逝くのが夢だと言っていた言葉通りに、祖母は突然この世を去った。
何とも祖母らしい最期だった。
祖母の葬儀がすべて終わった夜――その喪失感に瀬那が耐えられなくなったのを見透かしたように、要はふらりと瀬那の前に現れた。
その夜に差し伸べられた手を、瀬那は拒めなかった。
何故、あの夜、要が瀬那に手を伸ばしたのか――その理由を瀬那は知らない。
要も何も言わなかったし、瀬那も何も聞かなかった。
大切な人を亡くした喪失感に耐えられない――そう自分にずるい言い訳をして、瀬那は恋した男に慰めを求めた。
ゆらりと音を立てて記憶が蘇る――
☆
祖母が愛用していた切子の赤いグラスに、彼女が好きだった日本酒を注ぐ。
とぽとぽと酒を注ぐ音が、人気がない静かな店内では、やけに大きく聞こえた。
カウンター周りにだけ明かりのついた店内は、ひっそりとした沈黙に包まれていた。
その静けさが、もうこの家には瀬那しかいないのだと教えてくる気がして、寂しさが募っていく。
祖母の葬儀のすべてを終えた今、瀬那の肩に虚脱したような疲れがのし掛かっていた。
祖母のとは色違いの青い切子グラスに酒を満たすと、祖母のグラスにそっと打ち付ける。
このグラスセットは、去年の祖母の誕生日に瀬那が贈ったものだった。これからも一緒に酒を酌み交わして店を盛り立てていきたいという、そんな瀬那の願いを込めていた。
カツン――と軽い音を立てて、グラスが合わさった。
孤独で静かな夜に響いたその音が、どこか寂しげに聞こえて、瀬那はため息を吐く。
――今日くらいは、お父さんたちの家に行けばよかったかな。
葬儀の後、今日は実家に泊まるよう両親に提案されていたが、大丈夫だと断って店に帰ってきたのは瀬那だった。
けれど、実際に一人になってみれば、両親の言う通りにすればよかったと後悔が瀬那を襲う。
――今からでも帰ろうかな……
両親が住む家は、ここから歩いて十五分ほどのところにある。
静かに降り積もる雪のような喪失感と寂しさに押し潰されそうになっている今、家族のぬくもりが恋しかった。
瀬那はグラスの酒を呷った。祖母が愛したのは淡麗辛口のすっきりとした味わいのものだった。舌で感じるきりっとした辛味は、すぐに焼けるような喉越しに変わって、瀬那の胃に滑り落ちていく。腹の中で燃え上がるアルコールが、一瞬だけこの寂寞とした喪失感を忘れさせてくれる気がした。
強い酒にくらりと眩暈にも似た酩酊感に襲われ、瀬那は瞼を閉じた。
あまり酒に強くない瀬那にとって、祖母の愛飲する日本酒は強すぎた。
ここ数日、葬儀のために奔走した疲れのせいか、いつも以上にアルコールの回りが早い。
くらり、くらりと世界が回るようなアルコールの浮遊感に身を任せる。
瞼の裏に浮かぶのは、まるで眠っているかのような祖母の最期の顔だった。
前日に交わした最後の会話が、何だったのか――思い出そうとしても思い出せない。
きっといつものように、「おやすみ」と言い交わしたのが、最後だろう。
家族の誰一人、祖母の異変に気づかなかった瀬那を責めなかった。祖母の死に顔があまりに穏やかで、親族の全員が何とも彼女らしい最期だと笑っていた。
祖母は有言実行の人だった。最後の最期まで彼女はそれを守り通し、ピンピンコロリと逝ったのだろう。
だからきっと、祖母は瀬那が落ち込むことを望まない。それはわかっている。
だけど、もしもっと早く瀬那が祖母の異変に気づくことができれば、彼女は今も瀬那の横にいてくれたかもしれないという思いが、どうしても拭いきれなかった。
――やっぱり家に帰ろうかな……
埒もないことばかり考えてしまう自分に嫌気がさしてそう思った時、店の入り口がからりと音を立てて開いた。
重い瞼を開いた先――入り口に佇む男に、瀬那は目を見開く。
「……西園さん?」
「鍵を開けっぱなしとは、不用心すぎないか?」
そう咎めてきた男は、店の入り口の内鍵を閉めると、ゆったりとした足取りで瀬那のもとへ歩み寄ってくる。
――どうして……?
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