Straight Flash

市川 電蔵

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Scene 30

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土曜日、社会人としての生活の初の休日である。特に仕事をしているわけではないが、さすがにこれまでとはまったく違う環境で暮らし始めたせいか、軽くだるさが残っている。朝食は休日でも変わらぬ時刻に開始されるため、寝坊はご法度だ。父は本業は団体役員だが、政治家であるため実質年中無休なのである。
朝食の席で、父が小川の来訪について雪江と母と話している。夕方戻るから、宴に加わるという。さすが政治家、新規の一票には敏感だ。
「どだなおなごや、愛郎、ほの小川さん、て」
飯を食いながら父が俺に尋ねる。入籍してから、父は俺に対して他人行儀な言い方は一切しなくなっている。母にしろこの父にしろ祖母にしろ、そのへんの切り替えが早い。
「んー一言で言うと、真面目で地味なタイプ、かな。あと強度のアニメオタク」
俺も変な遠慮をやめて、ですます体では話さない。実家にいた時のような話し方を心がける。まぁ実家でもけっこう他人行儀な話し方ではあったのだが。
「大学は慶応、修士だからあーくんより二学年上」
母も注釈を加える。この家の女性は俺をあーくんと呼ぶ。
「まんず学院の先生は誰も彼も偏差値高い学校出でくるな」
父がチラリと俺を見てニヤッと笑った。
「あーくんは特別」
雪江が俺に飯のおかわりを渡しながら笑う。
「学院では特別扱いしないわよ」
母も笑った。
「わかってます」
朝食が終わり、俺の部屋となった先代の書斎に入り、重厚な机で世界史の勉強に入る。いくら低偏差値の大学出とはいえ、生徒からは先生と呼ばれてしまうのだから、恥ずかしい真似はできない。何より俺は今、石川宗家の若旦那なのだし。
高校の頃、世界史は得意教科だったこともあり、俺は時間を忘れて資料を読みふけった。
「お勉強してるねぇ」
いつの間にか雪江が書斎に入ってきていた。エプロンをしている。
「石川宗家の若旦那様がおバカじゃ、みんなの顔に泥を塗ることになる」
「私の顔にはいろんなモノ塗っていいのよ、あん時みたいに」
「まぁまぁ、その件は置いといて」
初夜に少し張り切った時のことを言い出し、俺のほうが恥ずかしくなった。部屋がたくさんあるこの屋敷だけに、俺にあてがわれた書斎、もともとの雪江の部屋、それとは別に寝室として和室の六畳間を使っている。雪江の部屋には彼女がずっと使っていたシングルベッドがあるが、俺達は寝室の畳の上で布団を並べている。雪江はその布団の上でさんざん乱れるのだ。
「小川さん、四時頃に来るから、お昼ごはんは作らないよ。夕飯を早めにって感じで」
時計を見ると十二時半を回っていた。俺は別に構わないと答える。雪江は俺の頬にキスをして部屋を去った。また一時間ほど資料を読み、煙草を喫おうと外へ出た。父も俺も煙草を喫う。先代はかなりのヘビースモーカーだったそうだが、火事を出してはいけないと庭の一角に喫煙所を建てたという。それから、石川宗家では屋敷内禁煙となったそうだ。この屋敷自体が文化財クラスのものなのだし、危機管理という点でも先代はきわめて聡明なお方だ。
俺の煙草はあいにく切れていたため、広い庭を歩いて門をくぐり、駅前のコンビニに行かねばならない。門を出ると、若い女が警官に職務質問されている。
小川だった。
警官に話を聞くと、一時間以上石川家の周辺を回っては写真を撮ったりメモを取ったりと不審な行動をとっていると言う。小川は、歴史的意義のある建造物調査だと釈明している。
警官に俺と小川の素性を解説し、今日石川家に招いている客に間違いないと説明し、ようやく警官が疑いを解いた。中年のがっしりした体格の警官は、あなたが石川のわが旦那様がっす、話し聞いっだ、駅前交番さいっから、何があったら連絡してけろなっす、と敬礼して去っていった。
「小川さん、四時じゃなかったっけ」
警官を見送りながら傍らの小川に問いかけた。
「石川家住宅の調査をしないとと思って」
年季の入ったデニムにチェックのネルシャツ、親父っぽいブルゾンにスニーカーというフィールドワーク・ファッションでキメた小川は、普段にも増して野暮ったい。おまけにリュックを背負って迷彩柄のブッシュハット、定番の銀縁眼鏡と、この姿で若い女が真っ昼間から建物の周りでメモを取っていたなら、それを発見して訝しがらない警官は職務放棄していると宣言したようなものだ。
「じゃあもう建物の周りは調査終了して、中入ってよ」
俺の進言に、小川は出会って初めての満面の笑みを俺に見せてくれた。
「はい、では遠慮無く」
門をくぐった小川は、五メートル単位で足を止めて撮影したりメモを取ったりしている。俺はともに歩くのをあきらめ、屋敷に戻って台所の雪江と母に小川のことを報告した。ふたりは聞き終わるなり爆笑する。
「好きなようにさせてあげて。サーヤは面接のとき専攻のことを話し出したら止まらなくなったほどだから」
母が笑い涙を拭きながら優しい声で言った。それにしてもプライベートではサーヤと呼ぶことにしていたのか。
「背が高くてスタイルもいいのにね、彼女。男に興味ないのかな。まぁ安心してられるけど」
雪江が煮物の味を確かめて鍋に醤油を足した。いい香りが漂っている。
「今日は純正田舎料理よ」
「サーヤが喜ぶわね、伝統料理だって」
台所は女性に任せ、俺はまた書斎に戻り小一時間資料を読む。そして、煙草を買い忘れたことを思い出してまた外へ出た。庭をざっと見回してみたが、小川の姿は見えなかった。敷地内でもあるし問題はなかろうと思い、てくてく歩いて門を出てコンビニへ向かう。門を出ればコンビニまで徒歩1分なのだが、門を出るまでそれ以上の時間がかかる家なのだ。
煙草を買ってまた門をくぐり、駐車場の隅に設えられた喫煙所へ向かう。喫煙所は古くなった納屋を解体した時の建材を再利用して作ったというあづまやだ。やはり納屋の建材を再利用したベンチがあって、使わなくなった火鉢が灰皿として置いてある。
喫煙所にたどり着くと、なんと父と小川が楽しそうに会話しているではないか。
「お父さん、お、お帰りなさい」
「おう愛郎、いや、小川さんだばやっぱり大したもんだ、この火鉢の年代まで当てた」
普段はいかつい感じの父が破顔大笑している。
「旦那様、火鉢もですが、この柱、ここに貼ってある御札は、嘉永年間頃の八幡神社のものと思われます」
「んだのが?古いどすか思わねっけこりゃ。八幡様だらでっかいのあっさげな、寒河江は。観る人みっど違うなぁー」
小川が指し示す、柱の少し高いところに貼られた御札を見て、父は感心している。
「小川さん、家さ入れ、家ん中好ぎなだげ観でけろ、入れ入れ」
父は小川の肩を抱きかかえんばかりにして玄関の方へ去った。俺は呆気にとられて、とりあえず煙草を喫った。
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