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Scene 08
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篠崎教授に指定された期限日に、俺は住職が書いてくれたレポートをきちんと提出した。さすがに碩学な人と見え、雪江のパソコンを使って清書しているうちに俺にも一通り内容が理解できた。
レポートを一読した教授はただ一言、「完璧だ」とつぶやいた。「家庭教師のおかげで」と俺が笑うと、教授は真剣な顔で「君はすごい家に婿入りするんだから、がんばりなさい」と言った。そして、最大限協力する、結婚式にもかならず出席させてもらう、と何度も繰り返した。
もう8月になっている。来月からバイトのシフトを変えてもらうよう店長に頼まなければならない。思えば、これだけ向学心に燃えたのは、入学してミギに出会い、バンドを組むまでの2ヶ月だけだった。卒業直前の6ヶ月だけ、また向学心に燃えることになるとはついこの間までは考えられなかったわけだが。
もうひとつ、問題は残っている。俺の実家のほうだ。実家からは勘当同然である俺なので、この2ヶ月の間の激動に関しては、何一つ実家に報告していない。そろそろ、報告をしなければとは思っているのだが、長いこと実家に足が向いていないので、なかなか踏み切れないでいた。
バイトを終えて雪江の部屋に戻ると、雪江は課題のレポートを熱心に作成してるところだった。
「あら、お帰り」
雪江はパソコンのモニターから目を離さず、俺に声をかけた。
「ごめんね、もう少しで終わる」
「何のレポート?」
いつもバイト先の居酒屋からもらって帰る余り物の料理を、手早く皿に並べながら俺は尋ねた。
「うん、シュレーディンガーの猫に関する論理学的考察」
それがどんなレポートになるのか想像もつかなかった。「猫」以外の単語がひとつも理解できない。
「おまえさ、ホント頭いいのな」
「あら、バカだと思ってた?」
雪江がパソコンのモニターから視線を外し、俺を見て笑った。
「バンドマンにヤられちゃって、そいつと同棲してるような女はバカ?」
「そういうわけじゃねぇけどさ、おかあさんも学あるし」
「一応、高校のときはほとんどトップだったから、テストは」
初耳だった。
「石川の娘だもの、トップ以外は認められないのよ」
「石川家って、すげぇのな、やっぱ」
「でも、普通の家だよ」
雪江は料理の並べられたテーブルにつき、炊飯ジャーのふたを開ける。
「普通とは思えないがね」
石川家は江戸時代の中期から続いている、と義母がいっていた。
「でも、お母さんが高校の理事長で、お父さんが市議会議員なだけよ。こないだ来た時は、党の本部に挨拶行ったって言ってた」
「ほら、普通じゃないよ」
「子供のときからそうだったからねぇ。おばあちゃんは農業やってるよ。このお米はおばあちゃんが作ったやつだもん」
雪江が、いただきます、と飯に手を合わせた。
「おまえの家ってさ、いわゆる地主様とかなわけ?」
「そうだったみたい。戦後農地解放のとき、ほとんどなくなったらしいけど。死んだおじいちゃんが言ってた。寒河江市の4分の1は石川家の土地だったって」
危うく飯を吹き出すところだった。
「それって、半端なく大金持ちじゃん」
「昔の話だよ。おばあちゃんが子供の時は、東京に住んでたって言ってたかな。広尾のあたりだってさ」
俺はまた気絶しそうになった。
「没落地主ってやつよ、石川家は。名家の流れを汲む戦国大名が滅亡を免れて生き残った、高家みたいなものかしら」
考えてみれば、雪江の話の中には時々えらく学術的なたとえが出てくる。
「今はね、自分の家で食べる分の田んぼと畑と、古い家が残ってるだけよ」
「俺の家はただのサラリーマン家庭だからな」
「そうそう、あーくんのご実家に行かなきゃ」
「うん。わかってる」
「いつにする?」
「夏休みだし、いつでもいいよ。土日なら親父もお袋も、兄貴もいるだろうし」
「じゃあ、今度の日曜にしよう」
雪江が、ごちそうさまでした、と手を合わせた。
レポートを一読した教授はただ一言、「完璧だ」とつぶやいた。「家庭教師のおかげで」と俺が笑うと、教授は真剣な顔で「君はすごい家に婿入りするんだから、がんばりなさい」と言った。そして、最大限協力する、結婚式にもかならず出席させてもらう、と何度も繰り返した。
もう8月になっている。来月からバイトのシフトを変えてもらうよう店長に頼まなければならない。思えば、これだけ向学心に燃えたのは、入学してミギに出会い、バンドを組むまでの2ヶ月だけだった。卒業直前の6ヶ月だけ、また向学心に燃えることになるとはついこの間までは考えられなかったわけだが。
もうひとつ、問題は残っている。俺の実家のほうだ。実家からは勘当同然である俺なので、この2ヶ月の間の激動に関しては、何一つ実家に報告していない。そろそろ、報告をしなければとは思っているのだが、長いこと実家に足が向いていないので、なかなか踏み切れないでいた。
バイトを終えて雪江の部屋に戻ると、雪江は課題のレポートを熱心に作成してるところだった。
「あら、お帰り」
雪江はパソコンのモニターから目を離さず、俺に声をかけた。
「ごめんね、もう少しで終わる」
「何のレポート?」
いつもバイト先の居酒屋からもらって帰る余り物の料理を、手早く皿に並べながら俺は尋ねた。
「うん、シュレーディンガーの猫に関する論理学的考察」
それがどんなレポートになるのか想像もつかなかった。「猫」以外の単語がひとつも理解できない。
「おまえさ、ホント頭いいのな」
「あら、バカだと思ってた?」
雪江がパソコンのモニターから視線を外し、俺を見て笑った。
「バンドマンにヤられちゃって、そいつと同棲してるような女はバカ?」
「そういうわけじゃねぇけどさ、おかあさんも学あるし」
「一応、高校のときはほとんどトップだったから、テストは」
初耳だった。
「石川の娘だもの、トップ以外は認められないのよ」
「石川家って、すげぇのな、やっぱ」
「でも、普通の家だよ」
雪江は料理の並べられたテーブルにつき、炊飯ジャーのふたを開ける。
「普通とは思えないがね」
石川家は江戸時代の中期から続いている、と義母がいっていた。
「でも、お母さんが高校の理事長で、お父さんが市議会議員なだけよ。こないだ来た時は、党の本部に挨拶行ったって言ってた」
「ほら、普通じゃないよ」
「子供のときからそうだったからねぇ。おばあちゃんは農業やってるよ。このお米はおばあちゃんが作ったやつだもん」
雪江が、いただきます、と飯に手を合わせた。
「おまえの家ってさ、いわゆる地主様とかなわけ?」
「そうだったみたい。戦後農地解放のとき、ほとんどなくなったらしいけど。死んだおじいちゃんが言ってた。寒河江市の4分の1は石川家の土地だったって」
危うく飯を吹き出すところだった。
「それって、半端なく大金持ちじゃん」
「昔の話だよ。おばあちゃんが子供の時は、東京に住んでたって言ってたかな。広尾のあたりだってさ」
俺はまた気絶しそうになった。
「没落地主ってやつよ、石川家は。名家の流れを汲む戦国大名が滅亡を免れて生き残った、高家みたいなものかしら」
考えてみれば、雪江の話の中には時々えらく学術的なたとえが出てくる。
「今はね、自分の家で食べる分の田んぼと畑と、古い家が残ってるだけよ」
「俺の家はただのサラリーマン家庭だからな」
「そうそう、あーくんのご実家に行かなきゃ」
「うん。わかってる」
「いつにする?」
「夏休みだし、いつでもいいよ。土日なら親父もお袋も、兄貴もいるだろうし」
「じゃあ、今度の日曜にしよう」
雪江が、ごちそうさまでした、と手を合わせた。
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