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第三話 迎え火

第三話 迎え火

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旧盆の入り。
胡瓜(きゅうり)の馬。茄子(なす)の牛。
二体を店の脇に並べる。

胡瓜の馬には、ご先祖様に早く家に来ていただきたいと言う迎えの気持ち。
茄子の牛には、なるべくゆっくりとお帰りいただきたいという別れを惜しむ気持ちが込められているのだそうだ。

しゃがみこんで、マッチを擦る。
おガラにはすぐに火が点いた。
夏空にゆらゆらと立ち昇る白い煙。
健介は汗を拭いながら、黙って立ち昇る煙を見送った。

健介の足元の馬と牛は寄り添う様に下を向いていた。

火の勢いが落ちて、おガラが灰になった。
深呼吸。
カラカラと古い引き戸を開けると、カウンターに両親が座っていた。

「おう」と邦夫。
「久しぶりね、健介。元気だった?」
子どもの頃の母が笑っていた。

迎え火が消えてから店に入ると、両親がカウンターに座っている。
最初は驚いた。死んだ肉親が実際に戻って来るなど話に聞いた事もない。
他人に話した事も無い。

だいたい何で暮らした事も無いこの店に来られるのか?
迎え火を焚いたら、そこがどこであれ戻れるのか?

「知らないわよ。そんなこと」
母は取り付く島も無い。
確かに両親がそんな事を知らなくてもしょうがない。
そもそも両親がここにいること自体が十分に不思議な事なので、深く考えてもしょうがない。
それ以上詮索するのは止めた。

両親の姿は他人には見えないらしい。
一度、両親と話している時に、お客様がお見えになったことがあったが、その方に両親は見えていなかった。
それでもお客様がいらっしゃる時は、気を利かせているのか、姿が見えない。
もしかすると店にはいないのかも知れない。

父の邦夫は相変わらず無口で必要なこと以外話さなかった。
母は最低限の話しは聞いてくる。
日々の暮らしや店の話。
そしてお決まりの結婚の話。
久しぶりに帰省した親子の会話と変わりはしない。
母には「まあいつもの通りだよ」と答える。
ノンビリとしたどこでもある会話になる。
年に4日の里帰り。まるでそんな会話の様だ。

両親は意外に酒も魚も喜んだ。
味は分かるらしく、やはり美味しいのだそうだ。
なるほど。それであれば墓参りで色々とお供え物をする習慣も納得がいく。
死んだ人もそれなりに食べるのだ。

他にも不思議な事はいくらでもあったが、あちらにはあちらの都合もあると思うので、余り根掘り葉掘り聞くのは止めた。
たったの4日。詮索よりも両親と過ごせる有難い時間を慈しみ、楽しむ事にしていた。


父は私が中学の時に亡くなった。
一匹狼の現場を渡る鳶(とび)だったらしい。
人と付き合うのが苦手だったのだろう。父らしい気がする。
血を吐いて倒れて、あっという間に亡くなった。癌(がん)だったと後から聞かされた。

それからは母の靖子が女手ひとつで兄と私を育ててくれた。
調理師の専門学校まで出してくれた母には本当に感謝している。
しかしその母も私が二十一の時に亡くなった。
仕事を始めてすぐだった。
一人暮らしのアパートで、死後しばらく経ってから発見された。
隠していた心臓の持病が原因らしかった。
兄と二人で、簡素な葬儀をあげた。
幸薄い人生だったのでは無いか。
何もしてあげられなかった様で悲しかった。

「ねえ、母さん、、、」
初めて両親に会った時に聞いてみた。
「バカね。幸せだったに決まってるでしょ。お父さんは先に死んじゃったけどね、あんた達がいてくれたから幸せだったわよ」
その言葉は心に沁みた。


そんな両親に、年に一度会うことができるのは、理由はともかく、とても有り難いことだった。

かわはぎは、お盆も店を開ける。
お盆は祖先や家族との団らんを大事にする日だが、都会には位牌や故人がない世帯は少なくない。店を開けていれば、それなりに人は来るのだ。


今朝は太刀魚(タチウオ)と鱸(スズキ)を仕入れた。

太刀魚は愛媛産。愛媛は太刀魚の水揚げ高が日本一。今日は立派な指五本サイズを選んだ。
値は少し張ったが、肉厚で脂もバッチリ。旨いサイズだ。
今回は塩焼きとお造りをセットにしてお出しする。

塩焼きは強火の遠火。
予めロースターの中は熱しておく。
そうすると焼き上がりまでの時間を短くする事ができ、水分が飛ばずにフンワリと瑞々しい焼き魚ができる。

太刀魚には鱗(うろこ)は無いが、そのままお造りにすると薄皮が口に残る。表皮はバーナーで炙り(あぶり)、削ぎ切りにする事で口に残らなくなるのだ。

香ばしく焼いたふわふわの塩焼きと皮目をサッと炙った刺身のコンビネーション。
これは太刀魚のいいとこ取りのメニューだと思う。

鱸の旬は夏。出世魚である鱸は、小さいときにはセイゴ、少し大きくなるとフッコ、成魚になると鱸と呼ばれる。釣って面白いのは60cmオーバーの鱸サイズらしいが、食べて美味しいのは40cmから50cmのフッコだ。

お勧めの食べ方は、何と言っても刺身か洗いだ。
さっぱりとした白身なのに、身にとても味がある。
旨みの濃い白身についつい酒が進んでしまうのだ。

野菜はゴーヤと冬瓜が旬だ。
ゴーヤは色々な楽しみ方が出来る野菜。ゴーヤチャンプルが最も一般的だが、意外に使える食材だ。
軽く茹でて絞ったゴーヤは苦味が適当に抜けてお浸しに丁度良い。
出汁(だし)醤油に鰹節も良いが、マヨネーズと和えて塩、胡椒(こしょう)、蜂蜜を隠し味にしたサラダ風もビールに良く合う。

冬瓜は“冬の瓜(うり)”と書く癖に、実は夏から秋が旬の食材だ。出汁で柔らかく煮てから、薄口醤油で味を整えて、冷やしてお出しする冷菜が基本だが、やはりこれが一番美味しい。夏の火照った体に心地良いのだ。

まずは鱸から仕込みを始める。
鱗落としで全体の鱗を落とし、出刃でヒレ周りの鱗を丁寧に落とす。
頭を落としたら、腹からひらいて切っ先で内臓を掻き出し、首の辺りから出刃の刃を背ビレから入れる。中骨に沿って滑らせる。

「父さん、母さん。お造り、食べるだろ?」
呼び方はつい子どもの時の呼び方になる。

「ああ」
「いいのかい?悪いね」
懐かしい母さんの言い方だった。
その昭和な言い回しが懐かしく、微笑んでしまう。

クルリと魚を返して腹に刃を入れて、中骨に沿って刃を滑らす。
簡単に半身二つと中骨とアラに別れた。
更に半身を柵に分けて、刺身に分け下ろす。
真菜箸(まなばし)で七寸皿に乗せ直して、形を整えてカウンターに置く。
「お待ち遠様でした」


父や母と交わす短い会話は懐かしかった。
子どもの頃に住んでいた古い木造アパートを思い出させた。
共同風呂の色んな人がいるアパートだった。

「このお刺身美味しいわね。昔はこんな魚無かったわ。刺身と言えばマグロだったもの。ねえ、お父さん」
「ああ」

「父さんはやっぱり酒にするかい?」
「ああ」
こんな他愛もない会話も嬉しかった。


17時。いつものように暖簾(のれん)を出す。

外に一歩出るだけでサウナの様な息苦しい熱気が全身にまとわりつく。

道の向こうの植え込みの下では白い猫がのびている。
完全に溶けている。それでも尻尾だけはしなやかにとんと地を叩いた。

少し離れた公園の蝉しぐれはまだ止む気配もない。
西の空には積乱雲が伸びている。
あっちは降っているのかも知れない。

「外はまだまだ暑いよ」
「そりゃそうよ。まだお盆なんだから」
店に戻ると母に笑われた。
この時間はいつも一人だから、人の声や笑いがあるのが新鮮だ。
悪くない。


こんな暑い日はしっかり冷えたビールが旨い。
ポンと音を立てて栓を抜く。音の出る抜き方というのがあるのだ。
傾けた瓶からトクトクと小気味好い音を立てて、タンブラーに注がれるビール。遅れて広がる発泡音。
私はコレがビールの原点だと信じている。だからウチには生ビールは無い。瓶ビールのみだ。


『かわはぎ』は商店街の外れにある。
一見(いちげん)さんはあまり来ない。
贔屓(ひいき)にして下さるお馴染み(おなじみ)さんや、そのご紹介のお客様が多い。

店名を白抜きした藍染の暖簾。
カラカラと鳴る古い引き戸の入り口。
小皿と箸が整然と並ぶ白木のカウンター。
七席だけの小さな店だ。

高校を卒業してからは、包丁修行が忙しく、学生時代の友人に会う機会はなかった。
今の様にみんなで会う様になったのは30歳を過ぎてからだ。

引き戸がカラカラとゆっくりとした音を立てた。
そっと顔をのぞかせたのは野球部の同期の松本だった。

「いらっしゃいませ。おお、松本。一人は珍しいな。」
「ああ。ちょっと近くに来たんでな」
「そうか。まずはビールか?」
「ああ。頼む」

会うのは先月の安西先生の通夜以来だ。

松本は高校生の頃から背が高く肩が良かった。
遠投をさせるとチーム随一。足も速かった。
特に出足の一歩目の反応が速く守備範囲が広かった。
だからポジションはセンター。全員が納得した。
打順は常にクリンナップの一角。

飄々とした性格で、あだ名は「兄貴」。
どこと無く兄貴の様でみんなに頼られていた。


松本は流れ落ちる汗を冷たいオシボリで拭う。
「生き返る様だな」
どこと無く元気がない。
大丈夫だろうか。

「今日はどうした」
「ああ。ちょっと近くの客の所まで来たんでな」
確か仕事は神田。家は練馬の方だった。かわはぎの方向は帰り道では無い。

健介は冷えたタンブラーをカウンターに置いた。ポンと音を立ててビールの栓を抜く。
「お待ちどう様です。最初くらい注ごうか」
「おお。悪いな」
松本は両手でビールを受ける。
トクトクトク。小気味良い音。
シュワー。遅れて広がる発泡音。

「お前もどうだ」
「それじゃ、お言葉に甘えて。有難うございます」
健介もタンブラーを取り出してビールを受ける。
「いただきます」
「乾杯」
二人はグラスを合わせる。松本は半分ほど開けた。

お通しは仕込んでおいた冬瓜の冷菜だ。
冷たく冷やした出汁の沁みた冬瓜に生姜を少しすり下ろして添えたら完成だ。
「まずはこれで始めてくれ」
「おお。冷たくて旨いな。身体の内側から涼しくなるよ」

「松本。お前にはさ、一生の借りがあるからさ」
「またその話か。センターとしてはライトをカバーするのは当然だからな。全然負い目に思う必要なんてないんだけどな」と松本はいつもの様に少し笑った。


あの日も今日みたいなよく晴れた、やたらと暑い日だった。

先輩の引退が掛かった大会の予選。
二回戦目。
どちらも守備が光った良い試合だった。
0対0のまま迎えた最終回。

健介チームの攻撃。
ようやく火を吹いた三年生キャプテン栗田の痛烈な二塁打から、送りバント。
スクイズと続いて、何とか1点をもぎ取ってチェンジ。守り切れば勝ちだ。

その裏。ショートゴロ。三振。二アウトであと一人。
最終バッターは当たり損ねのアンラッキーなヒット。
ランナー一塁で迎えたのは左の三番スラッガー。

声はよく聞こえていた。
「あと一人」
「ライト行くぞ」
「ツーアウト!」
「オーケー!」健介も声を返す。

軽く屈伸。その場で三回高くジャンプ。
空を仰ぎ、深呼吸。良し。
バッターを見ようとした瞬間に音が聞こえた。

カキーン。

しまった。遅れた。右!
奥歯を噛み締めながら懸命に走った。
先輩の引退がかかる試合。負ければ引退。
打球は伸びている。速い。ダメだ。
間に合わない。抜かれた。
右後ろからスパイクの音。松本がダイビングキャッチ。アウト!
応援団の歓声。
笑って健介とハイタッチする松本。
ゲームセット。


「あれは本当に悔やまれるミスだった」
「何度も言ってるだろ。普通だって。カバーってそういうものだろう」
松本が笑った。


松本が手酌で静かにビールを満たす。
「どうだ?」
薦めてくれたが、まだまだ酔う訳にはいかない。
「また後でな。有難う」
「そうか」

会話が途切れた。

両親は居るのか、居ないのか、姿は見えない。

健介は冷蔵庫から鱸の柵を取り出すと柳刃をスッスッと動かした。下ろした鱸を真菜箸でツマを乗せた七寸の黑釉の皿に乗せ直す。少しバランスを整えて出来上がりだ。

「お待ちどうさまです。鱸のお造りです。夏が旬だ。サッパリしてるけど旨いぞ」
皿を傾けて松本に見せる。
笑った松本の前にお造りを置く。

鱸の身にワサビを乗せて、醤油に付ける。口に入れる。
「鱸って旨いんだな。知らなかったよ。気に入った」
「良かったよ」
そうなのだ。鱸は見た目よりもずっと豊かな味わいを楽しめる。

「日本酒にするかな。この刺身に合うやつあるか?」
「おう。良いのがあるよ」

小皿の上に枡をおく。冷蔵庫から綺麗なグリーンの一升瓶を取り出して、ポンと栓を抜く。酒を静かに皿までこぼし注ぐ。

「お待たせしました。『くどき上手 純米吟醸』です。山形の酒だ。美山錦を50%まで磨いて作る。華やかな香りが評判だぞ」
カウンターにそっと置かれた。
「そうか。ありがとう」

松本は酒の香りを確かめて口に含んだ。
「確かにいい香りだ」
「ああ。人気のある酒だよ。吟醸だから淡白な白身によく合うんだ」
「そうか」

日本酒は人の気持ちをほぐす酒だ。
ビールから日本酒に変えてから、松本を囲む空気から角(かど)が取れてきた。

そして松本が切りだした。

「先週、人事に呼ばれてな。いよいよ肩叩きだ。年収三分のニで子会社出向か、自己都合退職か、どちらか選べと来たもんだ」
「そうなのか。それはキツいな。三分の二は倹約で乗り切れるレベルじゃないだろ。会社の業績は相当悪いのか?」
「ああ。出版業界はどこも似たり寄ったりだ。お前だって本とネットどっち見るよ。そういうご時世だって言えばそれまでなんだけどな」
鱸をつまみながら、松本は枡に口を付けた。

つい一月(ひとつき)前に会った時にはこんな話はしていなかった。顔付きまで違う。一月の間に何があったのか。

「おまけに今、上の息子がな。お恥ずかしい話だが、どうもその筋と繋がっちまったみたいなんだ。
昨晩帰ったら家の中はメチャクチャでな。
家内は目の周りが腫れ上がってて、唇も腫れて切れてて、泣いてたよ。
何があったのか、何度聴いても何も言わない」
「それも息子さんなのか?」
「たぶん金でもせびりに来て、暴れて出てったんだろう。参ったよ。昔はいい子だったんだけどな。一体どうしたら良いのか」
松本は力無く笑った。

「その後、息子さんとは話せたのか?」
「いや。出てったっきり戻ってない。最近は家にも戻らないことが多くてな」
「そういう事か。それは困ったな」
「ああ。参ったよ。リストラも子どもの非行も話には聞いてたけどな。いざ自分がそうなると、どうしたら良いのか、動けないもんだ」
ため息。苦い酒だった。

「仕事も家庭もどちらもないがしろに出来ないからな、、、」松本は自分の手を見つめながら、握ったり開いたりしている。
「確かに難しいな。でもその話を聞く限りでは、息子さんの方が優先だろう」
「そうかも知れないな」
「警察には相談した方がいいな。どこの警察にも丸暴対策課はあるんだよ。そこに相談するとそれなりにアドバイスや対応をしてくれるものだぞ。ウチでも、みかじめ料のことでお世話になったことがある」
「そうなのか」
「よくあるだろう。テレビとかで縄張り代とか、用心棒代とか言うやつだよ」

ジジジー、ジジジー、ジジジー。
スマホのマナーモード。画面をチラリと見た松本は電話に出た。
「もしもし。ああ。え!すぐに救急車を呼べ。すぐに帰る。道すがらまた連絡するからな」
顔色が違う。緊急事態の様だ。
「悪いな健介。すぐに帰らないと」
「早く行け。困ったら電話しろよ」
「ありがとう」
松本は鞄を掴むと飛び出して行った。

金をせびるグレた長男。止める母親。殴られて怪我をした。
そんなことだろうと思う。大事に至らないと良いのだが。


「健介」
片付け始めると唐突に声がした。
「母さん、居たんだ。いつからいたの?」
「今の人、野球部だった松本くんだろ?」
「ああ、そうだよ。良く分かったね」
「分かるわよ。それよりあの人。すごい変なのに憑かれてるわよ。すごく臭い奴」
「そうなのか。どうりで松本が入ってきただけで空気が変わった訳だ」
「あんたそんなの分かるの」
「さあ。さっきは何となく感じた」
「今、お父さんが後を付いて行ったわよ。だいぶ臭いやつ奴だからさ、どうなるか分からないね」
「どうなるか分からないってどういうこと」
「そのままの意味よ。お前の大事な友達なんだろ。お父さん、本気だった。もしかすると私たち、もう来られないかもしれないね」
世間話のような気軽さで母親はそう口にした。


都心に向かう上りの特急列車は空いていた。
松本の近くには誰も立とうとしなかった。
松本のすぐ後ろにはニヤニヤと笑う黒い老人が立っていた。

「もしもし。どうだ。そうか。分かった。あと20分位で着くから。気をしっかりな」

健介の父は隣の車両にいた。連結部のドアのガラス越しに様子を見守っていた。


松本がタクシーで自宅に着くと、赤色灯を回したパトカーが数台止まっていた。
自宅に近づくと警官に止められた。
「家の者です」
家に入ると妻が取り乱しながら警官に説明していた。
床にはかなりの量の出血。部屋は酷い有様だった。

妻は目の周りが昨日よりさらに腫れ、唇からまた出血している。
「おい、靖子。大丈夫か」
警官が松本を振り向き、僅かに退がる。

「あなた。涼介が、竜介を」
靖子は両手を伸ばして松本に歩み寄る。
溢れ出す涙。口を覆う右手。嗚咽。
靖子は松本にすがりついた。
その先はもう言葉にならなかった。
靖子の両肩を掴み、顔を覗き込む。靖子はボロボロと涙をこぼした。
「何も言うな」
「竜介にもしもの事があったら」
「大丈夫だ。あいつは昔から強かっただろ。あいつなら乗り切れる」
「何で。こんな。昔はあんなに優しかったのに。二人ともとても仲が良かったのに。どうして。どうしてなの」
松本はただ、妻を抱き寄せ、嗚咽するその背中を優しさ撫でた。


救急車で運ばれた竜介は、運良く近くの大学病院がすぐに受け入れてくれた。
病院に着いてすぐに緊急手術になった。
刺し傷は心臓や主要な動脈、静脈を逸れていた。
肺に血が溜まってはいたが、処置が早かったために一命は取り留めた。
血管と傷を縫合し、肺に溜まった血を抜いて手術は終わった。
幸い単純な切り傷だったので穿孔手術で済んだ。
今はICUで様々な装置に繋がれたまま、規則正しい機械音に囲まれて眠っていた。
上半身の包帯と晴れ上がった顔を覆う大きな絆創膏が痛々しかった。


その頃、警察の取り調べ室では、ぬるっとした服に着替えた涼介が一人座っていた。
竜介の血が飛び散ったシャツとズボンは脱がされ、地味な個性のない服に着替えさせられた。
何人かの刑事が入って来ては、代わる代わる涼介の前に座ったが、涼介はずっと黙って下を向き、硬い目をして自分の両手を見つめ続けた。
掌に残った、刃物が肉にすっと刺さっていく感触を、反芻していた。


割れた食器。倒れた椅子。
ガラスが割れたサイドボード。
おかしな場所にあるダイニングテーブル。
倒れたテレビ。
荒れ放題のダイニングルームを鑑識が写真に収めている。
松本と靖子は、やるせない哀しみを飲み込んだまま、別々に警察官に尋問され、答えていた。


黒い老人の形をしたそれは、ニヤニヤしながら階段に座っていた。相変わらず臭い息を吐いている。

そいつを鋭い目つきで睨みつけたまま、邦夫は一歩ずつユックリと近づく。小さな鼻歌。
「おい。そいつは息子の友だちだ。退いてもらおうか」

老人の形をしたそれは、お面の様にニヤニヤしたまま邦夫に目を向ける。

「言っとくが」
腰を少し落とした。
右足を少しずつ後ろに動かして、半身の姿勢になった。

「俺は強えぞ」
ギラリと射抜くように睨む。
口元は笑っている。
ピタリと動かないその右手には厚ノミが逆手に握られていた。


今日は誰も来なかった。
盆の入りだから、普通は祖先を迎え、家で一緒に食卓を囲むのだろう。客が少なくて当然の日だった。

その後松本から連絡は無かった。
母も居るのか、居ないのか、話し掛けて来なかった。

健介は中砥と仕上げ砥を水に浸した。
細かな泡が少しずつ浮かび上がる。それを黙って見ていた。
松本の奥さんは大丈夫だったのか。
長男はどうなったのだろう。
すぐに救急車を呼ぶほどの事が起きたのだ。少なくとも誰かは無事でないという事だ。
今、健介にできることは無かった。

出刃から研ぎ始める。
中砥の上を規則的に前後する出刃。
少しずつ砥石が削れ液状化して、出刃の歯を磨く。刃物を研ぐ時に大事なのはこの液化した研ぎドロなのだ。これは最後まで洗い流してはいけない。
そのまま手を動かした。
歯が研げ、返しができる。
ひっくり返して、返しを削り落とす。
うっすらと汗がにじみ始める。

店の中にはアコースティックギターの調べが流れていた。ゆっくりと始まったメロディーが速く強くなる。

出刃に指の腹を当ててみる。微かな引っ掛かり。
十分に歯が立っていることはやらなくても分かっていた。
時間を研いでいるようなものだった。


「お父さん、やったわよ」
唐突に母が話し掛けた。

「お父さんは昔から本気の時は強かった。負けたことないのよ。でもあの臭いやつよっぽど強かったのね。お父さん、動けないみたい。ちょっと行ってくるわ」
「父さん、どうなんだかい?」
「行って見ないと分からないけど、もしかしたらもう戻れないかも知れないわ」
「そうなの?」
「松本くんはもう大丈夫よ」
「ありがとう。父さんにもありがとうって伝えて」
「健介、しっかりやりなさい。出来れば孫の顔が見られると嬉しいわ」
一瞬。温かい空気の塊が健介を包んだ気がした。
何だか懐かしい感じがして、思わず目を閉じてその優しい感じに身を預けた。


松本は鑑識が帰るのを待って、靖子と一緒に病院に向かった。
既に事故の情報は世間に流れているらしく、正面にはカメラが数台張り込んでいた。
二人は脇にあるヒッソリとした入院受付側から建物に入った。
20時。そろそろ面会時間は終わる時間だ。
靖子の顔の傷や腫れを簡単に治療して貰って二人はICUに入った。
竜介はまだ麻酔で眠っていた。規則的な電子音がしている。

竜介を見つめたままで靖子が小さな声で話した。
「ねえ。あなた、覚えてる?竜介が幼稚園の時」
靖子は竜介を見たまま、横顔で微笑んだ。
「竜介ったら小学校の裏山から仮面ライダーの真似して斜面を転がり落ちて、傷だらけになったでしょう。あなたが顔中絆創膏だらけにしたの」
靖子が松本の手に手を重ねた。
「何だかあの時の寝顔を思い出しちゃったわ」
松本は震える声の靖子の肩を抱いて、動かない竜介を眺めた。


翌日、松本と靖子は朝早くに家を出た。
入り口で敬礼されて建物に入ると、電話で聞いた刑事課を訪ねた。

「いやいや。中々強盛なお子さんですな。参りました。礼儀正しいですが、事件の事については何も話してくれなくて困ってます」
刑事は笑いながら松本に話し掛けた。
その目は笑っていなかった。

「分かりました。私から話す様に言ってみます」
「宜しくお願いします。このままだと何も進まない。彼も不利になるばかりです」
そう言って少しだけ席を外してくれた。

「おはよう。涼介。眠れたか」
「あ、父さん。母さん。迷惑掛けてごめんなさい」
「どうして刑事さんに本当の事を話さないんだ?」

まだ高校生の涼介は、自分の言動で竜介と靖子の立場が不利になる事を怖れて、何も言えなかったのだった。

涼介は靖子と一緒に記憶を辿った。
母と一緒に思い出した記憶を刑事に話し、涼介はそれで裁かれることになった。


一月経った9月の半ば。
気の早い彼岸花が河川敷に見られるようになった。

河岸から戻るとポストに一通の手紙が届いていた。松本からだった。

もうすぐ竜介は退院。涼介も元気に過ごしていると書かれていた。刺した涼介は、計画性がない事、初犯である事、本人の反省が見られる事などから、保護観察処分となった様だ。 

松本は出向を選択し、年収は下がったが新しい生き方で、妻や息子との時間を増やして、新しい人生を送っていると書かれていた。

父が自らを賭して守ってくれたものは、新たな形で動き始めた。

果たして来年両親は戻って来てくれるのだろうか。
健介は松本からの手紙をしまうと、仕込みを始めた。



本作品はフィクションであり、小説として脚色されています。
正確な事実を描いたものではありません。
皆様にその虚構をお楽しみ頂ければ幸いです。
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