旬菜 かわはぎ

海帆 走 かいほ かける

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第四話 二筋の泡

第四話 二筋の泡

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まだ暑い日だった。

差し込んだ陽を慈しむ様に、その猫は目を閉じてじっとしていた。

「おいで」
静香はその場でしゃがむと白い猫に手を伸ばした。

身を閉じて小さくなっていた猫は、目を開けて物憂げに少しだけ首を伸ばすと、クンクンと静香の匂いを嗅いだ。

「よしよし。良い子ねぇ。名前はあるのかなぁ?」

喉をさすられ、猫はゴロゴロと甘えた。

「キミ、なかなか可愛いじゃない」

猫は静香を見上げて、ニイと小さく鳴いた。
ぱたと尻尾が別の生き物の様にしなって地を叩いた。


開店にはまだ時間があった。
外の話し声に健介は引き戸を開けた。

外にいたのは、静香だった。

「あれ? 静香様じゃないですか。どうしました?」
「あ、すみません、開店前に」
「いや、いいですけど。珍しいですね。お一人で」
「猫くん、飼ってるんですか?」
「いいえ。猫、いました?」
「ほら。あら?つい今まで居たのに」
いつの間にか白い猫の姿は消えていた。

「ま、こんな所じゃなんですから、どうぞお入りください」
「ありがとうございます」
健介は静香を店に招き入れた。

「今日はどうしました?」
「実はちょっと健介さんに預かって欲しい物がありまして」
そう言って手袋を外した静香は大き目の紙包みを取り出した。

「もうすぐ野村さんの誕生日なんです。誕生日に二人で来ますから、その時に時に健介さんから渡して頂けませんか。私から渡すよりサプライズになっていいかなと思って」
静香様が笑った。

「お安い御用です。じゃあ内緒にしておきますね」
「宜しくお願いします」
静香はイタズラっぽい笑顔を残して店を後にした。
その後も暫く陽が差して久しぶりに暖かい一日だった。


『かわはぎ』は商店街の外れにある。
一見(いちげん)さんはあまり来ない。
贔屓(ひいき)にして下さるお馴染み(おなじみ)さんや、そのご紹介のお客様が多い。

店名を白抜きした藍染の暖簾。
カラカラと鳴る古い引き戸の入り口。
小皿と箸が整然と並ぶ白木のカウンター。
七席だけの小さな店だ。

9月の声を聞くと朝の空気が少しだけ涼しくなる。
昼間はまだまだ暑いものの、いつの間にか彼岸花(ひがんばな)が咲いている。
季節は確実に巡っている。

そして食材は季節を先取る。
特に北の食材や山の食材は先の季節を先取る。

今朝は松茸、落ち鮎、鮭を仕入れた。
すっかり秋の食材たちだ。

松茸は原価が高いので、どうしても提供出来る値段が高くなってしまう。
高いものをお出しするのは、とても心苦しいのだが、やはり今年も仕入れてしまった。

シンプルな焼き松茸ももちろん最高に美味しいのだが、土瓶(どびん)蒸しは他の食材とのハーモニーが、松茸の美味しさを更に際立たせる点で一番だと思う。

作り方はオーソドックスに。
奇はてらわない。
松茸、海老、カマボコ、鳥肉、三つ葉、スダチ。
これだけである。
一番大事なのは出汁(だし)。
鰹節と鯖節で一番出汁をとる。
沸騰する前に火を止める。
あともう少し位で丁度良い。
土瓶に全ての具材を入れたら、燃えない様に土瓶のつるを立てて、極弱火で10分。

決して煮立ててはいけない。

この料理では、料理人は料理をしない。
土瓶が料理をしてくれる、魔法の逸品だ。
最後にスダチを忘れずに添えて完成だ。

今シーズン初の落ち鮎が入った。

鮎は秋に型が大きくなり、体色も一部が黄色やオレンジに変わる。これを鮎師は錆びると呼ぶ。

やや皮が厚くなり硬くなるが、その代わりに身は大きく肥り、仔を持つ。
塩焼きのほろ苦い腹わたの中に、プツプツと弾ける卵の食感が入るのは、この時期でしか味わえない贅沢だ。

また同時にそれは、そろそろ鮎の時期も終わりだということを意味する。

鮭が出始めた。
まだ走りなので割高だったが仕入れてみた。

大きめに切って、フライパンでバターを溶かす。皮目をパリッと焼いて、ジュッと醤油を垂らす。シメジと合わせて、軽く焦がすと香りもコクも最高だ。
バターに負けない芳醇な日本酒に合わせたい逸品となる。


17時。健介はいつものように暖簾を出した。

まだ暑い。昼の熱気が残ったままだ。余り秋は感じられない。
しかし入道雲は低く小さくまとまり、出来損ないの羊雲が見えている。
空は秋の気配を伝えている。


17時半。
引き戸をカラカラと開けてお見えになったのは山下様だ。

「山下様、いらっしゃいませ。まだまだ暑いですね」

「全くいつまでも暑いですね。でもまあこの位の方がビールも美味いですからね」
山下様は笑ってカウンターに腰掛けた。
冷やしたおしぼりをお渡しする。

「ごもっともです。ではいつもの赤星で宜しいですか?」
「はい。お願いします」笑顔の山下様

タンブラーをカウンターに置く。
ポン。良く冷やしたサッポロ『赤星』の栓を抜き、お注ぎする。

「最初だけでもどうぞ。今日もお疲れ様でした」
「ありがとう」

山下様は注がれたビールを美味しそうに喉を鳴らして飲んだ。
「いゃああ、沁みますね」
嬉しそうだ。こちらまで嬉しくなる。

健介は腰に手をあてて笑った。
「さて、何かお作りしましょうか」
「そうですね。落ち鮎を塩焼きで頂きましょうか」
「かしこまりました」
「もう鮎も終わりなんですねえ。早いですねえ」

こうして旬菜かわはぎの一日が始まった。

ガスレンジに火を入れてから、鮎に串を打つ。遠目から塩を振り、ヒレを守るために塩で化粧する。

「今日はおからを炊いてみました」
山下様の好物だ。
「お。良いですね」

「最近、小学校の通学路ボランティアを始めたんですよ」
何だかいかにもジイさん臭くて最初は嫌だったと言いながら、山下様は楽しそうに話してくれた。

カンカンに熱くなったレンジに鮎を入れる。

元々早起きだから時間は苦にならない。
毎朝テレビの前でいつの間にか時間が過ぎるよりも、子供たちの元気な挨拶と笑顔を見る方が何倍も良いと山下様は笑った。

鮎。良さそうだ。
火からおろし、串を外す。

ヒバの葉を敷いて、織部の角皿でお出しする。
「お待たせしました。落ち鮎になります」
「良いですねえ。今年の最後かも知れませんね」

山下様は慣れた箸遣いで鮎を頭から揉んでいく。
丁寧に揉んだら尾びれ、背びれを取り去る。
最後に身から頭をゆっくりと引き抜く。
頭に付いてきた中骨には一片の身もない。
完璧だ。

鮎は背からかじる人が多いが、それだと骨に身が残る。
このように身を揉みほぐし、一気に中骨を抜き取れば、身と皮と肝と卵を一度に食べることができる。

「お見事ですね。見ていて気持ち良かったです」
「いやいや、今日は気持ちよく抜けました」
ご満悦の様子だ。一度眺めてから一口。
「うーん。卵がまた堪りませんね」


六時頃、古びた引き戸を開けてお見えになったのは野村様だった。

野村様がお見えになるのは半年振り。
余りにお見えにならないのでどうしようかと思っていたところだ。

「野村様、ようこそいらっしゃいませ」

どうも様子がおかしい。いつもの元気な野村様ではない。明らかに元気が無い。
それどころか、やつれている感じだ。

野村様と何度か顔を合わせている山下様も、目で合図を送ってきた。

「お久しぶりですね。ちょうど半年ぶり位でしょうか。お元気でしたか?」
笑いかけて冷たいおしぼりをお渡しする。

表情から読み取る。辛そうだ。それしか分からない。

「お飲み物はいかがされますか?」
「スーパードライをお願いします」

良かった。いつもと同じというのは良い事だ。
先にタンブラーをカウンターに置く。
次いで冷やしたスーパードライをカウンターに置いた。

「もう一つもらってもいいですか」
「あ、これは失礼しました。気がつきませんで」

冷えたタンブラーを一つ左の席に置く。

野村様は二つのタンブラーにビールを注ぐと、まるで黙祷するように自分のタンブラーを持ち上げて目を瞑った。
数秒して苦しそうにタンブラーを煽った。

何も話さなかった。
まるで何かの儀式の様だった。
嫌な感じがした。

野村様は空になったタンブラーにビールを注ぐ。

隣のタンブラーからは、静かに泡が立ち昇っている。

俯いた野村様がポツリと吐き出した。

「実は静香、死んだんですよ」

突然の事に言葉が出ない。

「いや、野村さん、ダメですよ。そういう冗談は冗談になりませんから」
「子どもを助けた身代わりでした」

野村様はグラスの中の泡を見詰めたままだった。
「まさか。嘘ですよね、野村さん」

山下様が目を瞑って話した。
「半年前くらいに事故で保育士のお嬢さんが亡くなった記事を見たのを覚えています。まさか、それが、、、。お気の毒にとしか言いようがないです」

主人のいないタンブラーからは、変わらずただ静かに二筋の泡が立ち昇っている。


野村様がウチに来る様になったのは2年程前だ。
草野様のご紹介だった。
お二人は会社の先輩、後輩。
近くにお住まいの草野様が野村様をお連れになって以来のお付き合いだ。

さらりとした性格の草野様に対して、熱血漢の野村様。
お一人でお越しになる草野様と良くお友達をお連れになる野村様。
色々な面でお二人は全く性格が違った。

二人の共通点は日本酒がお好きなこと。
それも、さらりとした酒ではなく、菊姫や天狗舞の様な芳醇でどっしりとした日本酒がお好きなことだ。

そしてもう一つはサッカーをやっていた事。
特に野村様は素晴らしい成績を残していた。
中学、高校では全国大会に出場。特に高校2年の時にはベスト4までいったそうだ。

「その時の映像がこれです」
ある日YouTubeの映像を見せてくれた。
素人目にもフェイントから相手を置き去りにするスピードは光っていた。
その時はJリーグからもスカウトが来ていたらしい。

「その時の同期がほら、今ドイツにいるこいつです」
サッカーファンで無くとも知っている名前だった。
「怪我で膝をやられてなかったらですけどね」と陽気に笑い飛した。
常に明るく前向きなその姿勢は、全国大会レベルの経験から培われたものなのだろう。


三十代半ばの草野様と二十代半ばの野村様。
性格も好みも違うお二人が一緒に呑み、異なる価値観をぶつけ合い、お互いを認め合うのを見るのは気持ちが良かった。

そんな二人。一年ほど前のある日の事。
「どうした?遅かったな」
「先輩、ちょっと良いですか?」
「何だよ、改まって」
「実は紹介したい人がいるんですけど」
「良いけど、誰?」
「静香、来いよ。先輩、遠藤静香さんです」
「えっ?  あっ!  はっ、 は、初めまして! 草野です」
「初めまして。遠藤静香と申します。どうぞ宜しくお願い致します」

「どういう事だよ。何で今まで黙ってたんだよ」
草野様は野村様を羽交締めにしている。
「いや、ダカラあ! こうして先輩に一番初めに紹介してるんじゃないですか!」
そんな二人を見て、静香様は口を押さえて笑っていた。

こうして静香様はうちに来る様になった。
静香様はいつも野村様と二人でお見えになる。 

馴れ初めは野村様のご友人のご紹介とか。
野村様の一目惚れ。
出会ってすぐに交際を申し込み、即答でOKだったそうだ。


保育士三年目。
母親が保育士だったため、静香も自然に保育士を目指す様になった。

静香が高校に上がった頃から、母は仕事に復帰。
給料が安いとぼやいていたが、それでも嬉々として仕事に出掛けていく母。
家事が終わってから夜中に絵を描いたり、画用紙で何かを作ったり。遅くなっても楽しそうに作業に励む母。
子どもと接する事はそれだけ遣り甲斐があり、楽しいのだと見て育った。

静香の進学も自然と幼児教育に向かった。
教育を学べる短大に進学。
教育理論を忙しく学ぶ傍ら、実際に幼稚園にも実習に出掛け、子どもたちと触れ合う楽しさを学んだ。

元々余り物事に憶する事のない静香は、実習でも質問や指摘が鋭かった。

「なぜあの場であの子を連れ出して外で叱ったのか」
「子どもをひどく怒るあの若い母親には、子どもの立場最優先で接していいのか」
「横入りして、頭から砂をかけられたあの子と砂をかけた子のどちらをどう叱るべきなのか」

性格がきつい訳ではないのに、ストレートに物を言う静香は、これまで損する事の方が多った。
しかし幼稚園ではそのストレートさが先輩たちに受けた。

良くも悪くも優しい性格の多い保育士たちはぶつかる事を避けるために、納得のいかない事もそのままにし、調和を優先する人が多いのだ。

しかしそれでは心のどこかにストレスが残る。やはり言いたいのだ。
静香の声は彼らの代弁だった。
だから実習が終わってからも、先輩たちから飲み会に誘われた。

そして卒業を前にし、静香は就職先としてその幼稚園を希望して、見事その幼稚園に就職し、先輩たち一人一人に握手で祝福された。

初出勤。
緊張しながら子どもたちの名前を覚えた。
一緒に歌って笑って、踊って笑って、叱られて、悩んで、癒されたらもう卒業。

無我夢中でそれを繰り返して三年目。
やっと自分の事を振り返る時間と余裕が持てた。
そんな時に野村に出会った。

学生時代の友人に誘われて出掛けた気乗りのしない飲み会。
しかしそれが静香の人生を変える日になった。

堂々と素直な笑顔で屈託無く笑う人。
大きな声で身振り手振りも大きくて、直球で純粋な目をした人。
惹かれた。真っ直ぐに静香の世界に入ってきた。

「一目惚れしました。ぼくと付き合って下さい」
射抜く様な気迫のある視線に、思わずYesと返事をしていた。

その晩、顎まで湯船に浸かりながら静香は自分で自分を褒めた。「静香! 良くやった! エラいぞ!」
暫くして静香はかわはぎで草野さんに紹介された。


「一体何があったんですか?」
事故が起きたのは野村様の誕生日の直前だったらしい。

20時。仕事が終わり、保育園を後にした静香は同僚と二人で駅に向かって歩いていた。

十メートルほど先。
歩道。
背中を丸めて激しく咳込む女性。
手を離した隙に車道に歩き出す幼児。
近づくヘッドライト。
浮かび上がるシルエット。

「だめえ!」
声と同時に静香は走り出していた。
闇を切り裂く急ブレーキ。
走り込んだ静香の手。
子どもの腕をがっちりと掴む。
歯を食いしばって腕を引っぱる静香。
腕を前にして舗道に転がる子ども。
その反動で舗道に転び出た静香。

間に合わなかった。

火がついた様に泣く幼児。
突然の事故に呆然とする母親。
ハンドルに顔を沈める運転手。
鞄から滑り出した弁当箱とスマホ。
同僚の前に滑り出たスマホの画面は割れていた。

幼児は舗道を転がった時擦り傷だけで済んだらしい。

静香はまさに命を賭けて子どもを救った。
いくら子ども好きの保育士と言えども、何ともやり切れない話だった。


「なんで自分の命をかける必要があったのか。全く見ず知らずの子どもですよ。
その子の母親だって、何でその時に限って具合が悪くなったのか。
誰も責められないけど、静香はもう帰って来ない。
本当にやるせなくて」

野村様はビールを飲み干し、ため息とともに空のタンブラーをカウンターにトンと置いた。
「半年経って、やっと少し、泣かずに飲める様になりました」

毎月、月命日になると、そのご両親はお子さんを連れて、静香様のご実家に手を合わせに来るらしい。

本当に誰も責められないやるせない話だ。

「それはやり切れませんなぁ。野村さんの行き場の無い気持ちは察して余りあります」
次に掛ける言葉を探していたが、、、、結局山下様はビールと共にその言葉を飲み干した。

静香様のタンブラーからは、静かに二筋の泡が立ち昇っている。

身体の前で手を合わせていた健介が深く息を吐いて、顔を上げた。

「野村様。ちょっと迷いましたが、申し上げます。
実は野村様にお渡しして欲しいと静香様からお預かりしていたものがあるんです」

「最後に二人でいらっしゃったすぐ後に、静香さんがお一人でお見えになり、野村様のサプライズの誕生日プレゼントを預かって欲しいと言われていたんです」

保管しておいた包みをそっと野村様にお渡しする。

包みを開けると出てきたのは一通の手紙と写真集。

封筒の宛先には綺麗な文字で『野村 卓也様』と書かれていた。


『野村さん、あなたに会えて、本当に良かった。
私を見かけたあなたが、勇気を振り絞って私に声を掛けてくれなければ、私があなたに出会う事は無かったかも知れない。
あなたのその勇気と行動力に心から感謝します。
ありがとうございます!
結婚しても、いつも二人で笑っていたいです。
子どもが出来たら、子どもと一緒に学生の時に行ったハワイ島に行ってみたいな。
これから先、楽しい時も悲しい時も、ずっと一緒に同じものを見て、同じ時間を共有していけることがとても楽しみです。
これからもずっと宜しくお願いします』


声も無く手紙の端が震えていた。

読み終えた手紙を横に置くと、野村様は目を瞑り、深呼吸を繰り返した。

「いや、参ったなぁ。吹っ切れたつもりだったんだけどな。健介さん、オレおかしくなりそうですよ」つっかえ、つっかえ、しゃくりあげながら、何とか声になった。

その本はとても美しい英語の写真集だった。
写真集はハワイ出身のカメラマンがハワイ島の自然だけを写し撮ったものだった。
分厚い紙独特のめくる時の歯切れの良い音が響く。

山からなだらかに降りて来た稜線がそのまま海に潜っていくビーチ。
闇が近づく夕暮れに浮かび上がる流れ出した溶岩流のオレンジと黒。
マウナケア山の山頂から眺めるこぼれる様な星々と天の川。
そそり立つ山頂から彫刻刀で削りこんだ様な苔むした深い谷。
大海にぽつんと浮かぶ、周りに白い波頭を従える馬蹄型の環礁。

手紙をもう一度読み返す野村様。

あなたに会えて良かった。
子どもと一緒にハワイ島に行ってみたい。
一緒に同じものを見て、同じ時間を共有したい。

野村様のすすり泣きが嗚咽に変わった。
大きな声を吐き出す様に泣いた。

低く流れるジャズのピアノが重かった。

次の曲が終わる頃、山下様が口を開いた。

「静香さんと二人で作った想い出を大切にして下さい。それは誰のモノでも無い。あなただけの静香さんだ」

野村様の絞り出す様な嗚咽が続く。

「生きている者にできる事は、亡くなった者を忘れずにいる事です。
そうすれば静香さんは、ずっと野村さんと一緒です」

 曲はピアノソロだった。繰り返す低く重い悲しみ。
悲しみに暮れたまま曲は終わった。

「身近な人を亡くすのは本当に辛い。私の場合は六つ上の姉でした。物心ついた時からいつも私の面倒を見てくれて可愛がってくれた姉。
とても優しい姉でした。叱られた事はあっても、怒られた事はありませんでした。
忙しい両親に代わり、どこに行く時も私の手を引いて連れて行ってくれました。
姉は私が泣いた時にはいつも優しく抱きしめて頭を撫でてくれました。

そんな優しく大好きだった姉は、風邪をひいたと思ったらあっという間に死んでしまいました。

今思えば肺炎か何かにかかってしまったのでしょう。
昔は医者の数も少なく、薬のレベルも低かったですから、いくら両親が騒いでもできる事は限られていました。
亡くなったお姉ちゃんはただ白いだけで眠っている様でした。

触ったら、ゾッとするほど冷たくて、硬くて、怖くて二度とさわれなかったのを覚えています。

六十年も経つのに、キミ姉ちゃんに会いたいです。

優しいキミ姉ちゃんの記憶は、私だけの大切な宝物として墓場まで持っていこうと思っています。

野村さんも静香さんとの大切な思い出を一生大事にするといい」

野村様が手で覆っていた顔を上げる。

「山下さんの言うことは頭では解るんです。でも、なんで見ず知らずの子どものために彼女が命を投げ出さなきゃいけないのか。

相手を責められないのは解っています。
でも現実にあいつは死んじゃったんだ。
もう会えないんですよ」

野村様の声は大きく、震えていた。

「野村さん。気持ちは分かるが、あなたがそう言ってしまったら誰が静香さんを褒めてあげるのかな。

そこにいる子どもを命を賭けて護った。こんなに尊い行いをあなただけは褒めてあげないと。

そうで無いと、彼女の死は本当に意味が無くなってしまわないかな。

野村さん。あなただけは、彼女を認めて、褒めてあげて欲しい」

山下様はゆっくりとそう言うと口を閉ざした。

野村様は山下様の言葉を噛み締めているのか、首を垂れて動かない。

山下様が声を掛ける。
「健介さん。冷たい赤星を頂けますか」
「はい。畏まりました」

山下様が噛み締める様に話す。
「覚えている人が居なくなれば、愛する人は存在しなくなってしまう。
だから我々は生き延びなければいけない。

我々は飲み、食い、笑い、泣き、生きて故人を偲ぶんです」

「野村さん、我々は生きましょう。そして思い出してあげませんか」

山下様の声は大きくは無かったが、気がこもっていた。
ゆっくりと野村が顔を上げる。
山下様が野村様のタンブラーにビールを注いだ。

トクトクとタンブラーに注がれたビールが少し遅れて泡の弾ける音を立てる。

止まっていた店の空気が、弾ける泡の音と広がるホップの香りで再び動き始めた。

「 野村さん、残念ながら我々の愛する者たちは、先に旅立ってしまった。しかしそれは永遠の別れでは無く、しばしの別れだと思いたい。

今晩はお互いの愛しい者たちを想って過ごしませんか」

野村様は震える唇を噛みしめて目を閉じた

月の光を思わせるピアノが鳴り始めた。

手付かずのタンブラーからは、変わらずに二筋の泡が立ち昇っていた。




本作品はフィクションであり、小説として脚色されています。
正確な事実を描いたものではありません。
皆様にその虚構をお楽しみ頂ければ幸いです。
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