剣士に扮した男爵令嬢は、幽居の公子の自由を願う

石月 和花

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42. 眠れぬ夜

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 ショックのあまりどうやって家に帰ったかは全く記憶にない。それでも、ちゃんと家にたどり着いて、今こうして夕飯の支度をしているのだから身に染み付いた習慣というのは大したものだと思った。

 アンナは野菜を切り刻みながら、先程の事を思い出していた。あれは一体なんだったのだろうか。

 一週間も会えなくて、やっと会えたと思ったら、まるでアンナの事を知らないみたいに他人行儀に扱われ、挙句の果てには腕まで振り払われてしまったのだ。

 あんなルーフェスは今までに見たことがなく、以前の彼とはまるで別人の様だった。

 思い出すだけで、ズキっと胸に痛みが走る。
 あの女性は誰なのか、何故そんな親しげに話していたのか、気になる事は山ほどある。けれど、考えれば考えるほど、どす黒く醜くなっていく感情が膨れ上がって、より一層アンナを苦しめた。

「姉さん……」

 姉の様子がおかしい事に気づき、エヴァンが横から呼びかけるも、アンナは反応を示さずに、ただひたすらに野菜を切り刻み続ける。

「姉さんっ!!どんだけ野菜細かく切るの?!」

 弟の大きな声での呼びかけにやっと我にかえると、まな板の上には野菜だったものがとても細かく微塵切りにされていた。

「……この方が消化に良いから、いいのよ。」

 アンナはぎこちなく笑うと、鍋に刻んだ野菜を全て入れた。先程のショックが彼女に与えた精神的ダメージは、思ったより深刻なものとなっていたのだ。

「姉さん、何かあった?」
「……何でもないわよ。」

 心配そうに顔を覗き込んでくる弟に、アンナはニッコリと笑ってみせたのだが、その笑顔が、かえってエヴァンの不安感を煽った。

 長い付き合いから、エヴァンには分かっていた。こうやって笑う時は大抵何か傷付いたり悩んだりしている時なのだ。
 しかし、問い詰めても彼女が絶対に口を割らないことも知っていたので、姉の様子がいつもと違う事は明らかなのに、その作られた笑顔を向けられると、エヴァンはそれ以上踏み込めなかった。

 二人が黙ったまま夕飯の支度をしていると、不意に大きな音を立てて勢いよく玄関の扉が開いたのだった。この家にそうやって入ってくる人は一人しかいない。

「何なのアイツ、信じられないわっ!ぶん殴ってやるわっ!!」

 エミリアは憤慨しながら家に入ってくると、物騒な言葉を口にした。彼女の態度から、本当に腹を立てているのが分かる。

「アンナっ!この前言った事は撤回するわ!!あの男は止めた方がいいわ!というか、絶対にやめなさい!!!」

「エミリア、一体どうしたの?」

 物凄い剣幕で捲し立てるエミリアに気圧されるも、エヴァンは恐る恐る彼女が怒っている理由を尋ねた。

 するとエミリアは、頭から湯気が出そうなくらい憤慨して、怒りの理由を口にしたのだった。

「アイツよ、アイツ。ルーフェス。あの男、今日の舞台に綺麗な女性と二人で観に来てたのよ。」

 そこで一回言葉を止めて、エミリアはアンナの方をチラリと見てから、声のトーンを落として言いにくそうに続けた。
「その……一緒に居た女性と……とても親密そうだったわ……」

 エミリアのその言葉を聞いて、アンナはまた胸の奥がズキリと痛んだ気がした。

「……やっぱり見間違えじゃなかったんだ……」
「アンナも見たのね?!」
「中央広場に向かう道で見たわ。お人形みたいな綺麗な女性と一緒に歩いてるところを……。そして、話しかけたら知らない人って言われたわ……」

 そこまで言うと、アンナは辛そうな表情を見せて俯いた。

「なによそれ?!信じられないっ!!!」

 憤りを隠そうともしないエミリアが両手で机を叩いたので、部屋にはドンっという大きな音が響いた。

 憤慨しているエミリアと、酷く落ち込んでいるアンナを前に、一人冷静なエヴァンはこの場を一体どうやって収めたら良いのか見当もつかず小さくため息をつくと、途方に暮れていた。


「ねぇ……二人とも落ち着いたら?それ、本当にあの人なの?他人の空似ってこともあるんじゃないの?」
「人違いなんてことはあり得ないわ。あれはルーフェスだった。それに一緒にいた女性も、彼の事ルーフェスって呼んでいたわ……」
「そうよ!そっくりさんってレベルじゃないのよ。あれは本人よ。私はここで一度しか会っていないけど、あんな目立つ美形見間違える筈ないわ!!」

 傍観者であるエヴァンが、二人が見かけた人物は、ルーフェスでは無い別の人物であったのではと、可能性の一つを示唆してみても、即座に二人から否定されてしまった。

「……とてもそんな人には思えないけどねぇ。」
「エヴァンは、現場を実際に見てないからそう言えるのよ!!」

 彼の肩を持つ様な発言を少し漏らしただけで、エミリアに睨まれるので、エヴァンはたじろぎ頭を抱えた。

(あぁ……。これはもうあの人完全にエミリアに嫌われたな。まぁ、俺の知ったこっちゃないけど……)

 きっと、ルーフェスが次にエミリアに会った時には口を聞いてもらえなかったり、下手したら殴られるだろうなぁと思った。

 けれども、それはエヴァンにとってどうでも良い事。彼にとっての問題は、姉がずっと沈んだ顔で居ることだった。姉が辛そうにしている姿は、とてもじゃないが見ていられなかったのだ。

 エヴァンにはルーフェスを庇う理由など何一つ無いのだが、アンナを元気付けたい想いから、もう少しだけ、二人を宥めてみることにしたのだった。

「だってさ、一週間前であの状態だったんだよ?あの傷がそんな簡単に治ると思う?最上級の傷薬つかってもまだ左手動かせてなかったんだよ?」

「そう言えば……」

 エヴァンの言葉にアンナは昼間咄嗟に掴んだ彼の腕が左腕だった事を思い出した。痛がる素振りもなく、彼はとてもスムーズに腕を振り解いたのだ。
 たった一週間で何事もなく機能回復するとは思えなかった。

「確かに……。それは、そうかも……」

 エヴァンの示すその可能性に、アンナは少しだけ、心が楽になった。

「本人の口から、ちゃんと話を聞くまでは、勝手にあれこれ考えるのは良くないんじゃない?悪い方にばかり考え過ぎだよ。」

 最年少のエヴァンに、叱られる様に諭されると、アンナとエミリアはバツが悪そうな顔を見合わせたのだった。

「それもそうね……」
「えぇ。そうよね。」

 アンナはこのエヴァンの説明を受け入れてくれたようで、彼女の表情は先程より幾分か和らいでいた。

 そんな姉の表情の変化に気づいてエヴァンは胸を撫で下ろすと、「さぁ、それより早くご飯を作ろうよ。俺もうお腹空いたよ。」と言って、中断してしまっていた夕飯作りの再開を促したのだった。

 いつも通りに食事を摂り、いつも通りに食後にお茶を飲みながら雑談し、そしていつも通りに就寝の時刻を迎えてベッドに入った。

 けれどもいつもと違って、ベッドに入ったのにアンナは直ぐに眠る事が出来なかった。

 多少マシになったとはいえ、彼女の中に居座ったもやもやとした気持ちのせいで、良くない考えが浮かんでは消えを繰り返し、その日は中々寝付く事が出来ずに、アンナは一人長い夜を過ごしたのだった。
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