Fleurs existentielles

帯刀通

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生命の代償

03

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コンコン、とノックの後にドアが開いた瞬間、パァァァンっと人型浮き輪が弾けた。拡散される濃厚な飛沫。部屋中に充満する噎せ返る程の甘い甘い蜜の匂い。

「…こ、れは凄い」

手で口と鼻を覆いながら医師はくらりと傾いた頭を数度、ふるふると振って迷いを落とす。その拍子に目には見えない粒が更に花の露となって空中を飛ぶ。全身に浴びる濃厚な欲望の名前は、喉から手が出て目の前の男の心臓を握り潰そうとするほどの絶望的な希求。浅ましい欲望の結果。

「私はどちらの体質でもないんだけど、こんなに空気の重みを感じるほど濃厚なパートナーには出会ったことがないですよ」

短い白昼夢でも見ていたのか、銀縁眼鏡の奥の細い目を瞬かせてどこか茫洋とした表情を見せて医師が呟いた。チラリとドアを後ろ手に閉めてその場に立っているだけのアイツに視線を投げて軽く会釈をすると、俺の方に顔を向けて脈を測りだす。さっきよりはるかに親身になった心配そうな視線が、俺の身体的変化をひとつも見逃すまいと注意深く様子を窺っている。立ち上がった医師の前屈みの白衣が腕に触れるだけで、じゅわっと火を押しつけられるような痛みが走る。細胞が覚醒しすぎてどんな些細な刺激すら痛みに変えていくようだった。

痛みの方角に目を向けて一瞬、呼吸が止まった。
突然目の前にホラー映画の凄惨なシーンが映し出されたヒロインのように咆哮が迸る。衝撃に耐えかねた心臓がぐっと縮こまる。

医師に握られていた右の手が、指先から徐々に水分を失って茎が干からびて茶色くグラデーションを帯びて枯れていく。かさかさと乾いた皮膚が日焼けの後のようにハラハラと白い欠片になって剥がれ落ちていく。まざまざと失われていく生命力。花が、萎んでいく。

「せ、んせ…」

呆然とする俺の声でハッと我に返った医師は必死な形相で振り向きアイツの名前を呼んだ。

緊迫した空気をそっと押しやる優美な足取りで静かに俺の横に立つと、アイツはとても満足そうに微笑んだ。

「俺が、欲しい?」

それは飼い猫が擦り寄ってくるときの甘えた鳴き声にも、絶対的権力を持つ君臨者が制裁を与える断罪の声にも聞こえた。置き去りにした過去が今まさに、復讐しに来ている。

お互いのためだなんて嘯いて離れた俺を憎んでも恨んでもいるのだろう。あの時の選択権は俺に委ねられていたが、今は俺が死ぬも生きるも全てコイツの思うがままで、拒まれたら死ぬしかない俺は情けを乞うしか出来ない。見下ろされているのは身体だけじゃない。

白い柔らかなリネンのシャツの袖口が伸びてくる。短く整えられた形の好い爪。この指に触れられるのがとても、好きだった。

「選んで。今、ここで」

余りにも短い言葉の切っ先が喉元に突きつけられて、真っ白になる。
死ぬか、生きるか。運命の分岐。やっぱり、
お前は俺を恨んでるんだな。

「っ、早くwaterを!」

医師の切羽詰まった声にも動じず、あの美しい顔をぴくりとも動かさず、彫像じみた笑みを浮かべたまま止まっている。柔和な印象に騙される奴は多いけれどコイツの頑固さ、意志の強さは他の追随を許さない。自分の意に添わない行動には誰がどんなに強要しても決して膝を折らない強さがあった。
一歩、近づく踵。医師がそっと場所を譲って、今にも触れそうな距離で、

「選んで」

有無を言わせない氷点下の声で胸に釘を打つ。凍てついてひび割れた心臓が粉々に砕けるまであと、

「ほら」

伸ばされた手を、掴んでしまう代償を。考えないわけではなかった。それでも俺は、意地汚く『生きたい』と思ってしまった。お前と一緒に。

萎れた指先でそっと触れた傍から、細かな粒子が舞い上がって鮮やかに空気を染め上げていく。近づいてくる、俺が世界中の誰よりも好きな、愛しいと思っていた、あの美しい花の顔。

くちゅり。

口唇が重なる。
触れた瞬間、世界がもう一段、色を変えた。

全身の神経が膨れ上がって弾け飛んだかと思うような衝撃。細胞のひとつひとつまで刻まれ浸透していく甘い水。6割が水分で出来ているというこの身体が絡まり合う唾液を吸い込んで爆速で全身を駆け抜けていく。爪の先の毛細血管の一本一本にまで満ち満ちていく生命力、潤い過ぎた肌が激痛と共に生まれ変わる。世界の中心がこの男に収斂して凝縮して閉じ込められてしまった。俺の何もかも、俺を活かす全てが今この男に真っ直ぐ一本に繋がってしまった。

何度も繰り返し絡み合う舌が、養分を伝えていく。たかが水やり、でもこれ程官能的に五感を攫っていく口づけを今まで体験したことなどなかった、在りし日の俺たちでさえ。

恍惚が脳天を駆け抜けていき、戦慄きがベッドを震動させていく。熱い息が漏れて、焦点がブレて、音が遠のいていく。満たされていた。今まで生きてきたのはこの瞬間のためだったのかと心の深いところで納得するくらい、今や花瓶となった体内になみなみと張られた水を残らず吸い上げて咲き誇る俺の花は、大輪の百合の姿をしていた。
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