影牢 -かげろう-

帯刀通

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逆行する歯車

03

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「あら、見つかっちゃったわ」

悪戯いたずらとがめられた子供のように、チラリと赤い舌を見せて彼女は笑った。成程、小悪魔というのは此れか。美しいのは天使だけかと思ったら、悪魔というものも随分蠱惑的こわくてきうるわしいらしい。

「みすみさま、お探し致しましたよ。大奥様がお呼びでございます」

どうやら祖母に呼ばれてきたらしい。真っ白なワンピースは光を反射して、より彼女の肌の白さを浮き立たせる。

胸元のリボンを、ほどいてみたい、と思った。

真愛まさちかさま、此方においででしたか。そろそろピアノのお時間です。先程から佐藤が探しておりました」

門倉の言葉に頷く。だが、ピアノよりも今は彼女の声を聴いていたい。心の琴線をはじいて鳴り止まない、至上の音楽を。

「あら、じゃあ君が真愛くんね?初めまして、私は“みすみ”よ」

ゆっくりと地面に膝をつくと、目線を合わせて覗き込み、にっこりと笑った。先程までの淡い印象は消え、意思の強さと快活さが顔を出す。瞳の力に飲み込まれそうだった。

「真愛です。初めまして、みすみさん」

己の知る限り、最も優雅で美しく見える角度とタイミングで、彼は彼女に微笑み返した。隣で門倉の眉が僅かに跳ね上がる。聡明な故に老成した彼が、初対面の人間に笑いかけることなど皆無だったからだ。

「噂通り本当に美しい方ね、君は。どうぞ仲良くしてくださいな、“ちかちゃん”」

真っ直ぐな笑顔で、彼女は彼を呼んだ。その愛称で呼ばれるのは初めてのことで、他の誰でもない彼女が名付けてくれたその名を、心の一番奥の深い深い処にある宝箱の中に、壊れないようにそっと仕舞いこんだ。

何にも汚れないように、誰からも汚されないように。

柔らかで滑らかな天鵞絨びろうどの布に包んで、時折ちらりと覗いてはまだ其処にあの時のまま変わらずに在ることを確認して、安心する。

未だ彼女を確かに愛していると、色褪せない記憶は存在していると、確認して安心する。変わらない己の想いに、安心する。もうこの世界の何処にも彼女が存在しないからこそ、確かめずにはいられない。試さずにはいられない。この心は濁らずに生涯彼女だけを見詰めていられるのかと。

あの運命の邂逅かいこう以来、彼女には一度も逢えなかった。逢えないまま、彼女はこの世に別れを告げた。本当の天使が一瞬だけ、彼の元に降臨した。そう信じてしまいそうになる程、夢現ゆめうつつの出来事だった。

そして直ぐに、彼女の忘れ形見と出逢うことになる。

その子供は、天使の面差しを遺していた。だが彼女と比べると、違和感だけが際立った。彼女の痕跡を散見はしても、同質同量の存在ではないことを厭でも実感させる。天使ではない、唯の子供。美しい面影を遺すだけの、普通の子供。

だからこそ、認められない。あの天使の遺伝子を遺すのが、こんな不完全で心許ない存在である筈がない。ありえない。彼女の跡を継ぐ者が、何の力もない幼な子で赦される筈がない。

彼女の出来損ないのレプリカを、僕は赦すことが出来なかった。

幼な子に罪はなかった筈なのに。僕もまた幼かったが故の、愚かな過ち。恋というものは此れ程までに人間を愚かにするものだと、義務教育が始まるより前に、僕は学んでいたのだった。
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