ANGEL ATTACK

西山香葉子

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第2章 Long distance call ——陰険自己紹介

第2章 Long distance call ——陰険自己紹介

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 白いジャケットにマイクロミニのスカートで夜の街へ飛び出した七瀬毬子が、日頃の運動不足にもめげず必死で走ってたどり着いた場所は、交番である。風は微風。
 その風に乗って、蛍光灯に照らされた黒いけど微妙に明るい色のシャギー入りロングヘアがなびく。
 その交番の中には、彼女の息子である祐介と警官と、あとどこかで見たような美青年が1人いる、のが見えた。
「電話いただきまして……七瀬……祐介の……保護者です」
 サッシ型の交番の扉に手をかけて肩で息をしながら、毬子は自分がここへ来た理由を言った。
「入んな」
 身長はやや高め、やせていてとがった顎を持つどこか貧相な雰囲気の30代後半の警官は、毬子に顎をしゃくると椅子をひいてやったが、毬子はそれを見もしないで息を整えている。
「おい、何やって……」
 警官が声をかけたところ、毬子が体を起こして、テーブル越しに祐介をはたいた。
「!」
「何すんじゃいこのクソババア!」
「捕まるよーな真似すんなっていつも言ってんだろ!」
 ……。
 怒鳴り合う似てない親子を見て、美青年は無言でなんと思ったか。しかし、次の瞬間、
「あら、あんたオデコどしたの。手当てしたの?」
「負けたんだよ。ばけーろう」
「マキロンとバンソコくらいないのかね……」
 言いながら手を伸ばして、着ている白いジャケットのポケットに入ってたウェットティッシュで擦り剥けてる患部を拭いてやってから、
「ところで、何があったんですか?」
 毬子は警官の方を向いて言った。
「……じゃあ始めっか。ええと、八木明拓さん、三津屋百貨店日本橋店勤務、同百貨店からの帰宅途中にこのガキにケンカ売られて金とられかけた……」
 警察官の口調は、途中まではまじめな調書のようだが。
「あのお、おれ、腹減ってますけえ、ちゃっちゃかやってつかあさい」
 薄味な顔立ちの美青年がふくれっ面でこう言った。
 !
 毬子は思わず青年に目をやってから、息子と顔を見合わせた。
 祐介も、わかっているのかいないのか、頷く。
 美形の口から広島弁……。
 なじみある言葉だから。
「あ、すみません。ええっと、2006年5月28日日曜日、午後9時35分、墨田区押上1丁目……東武伊勢崎線業平橋駅前にて……」
 警察官が、先に2人から聞いてあった事件の中身を整理すると、以下のようになる。

 七瀬祐介は、幼なじみ彼女の藤井明日香の誕生パーティでカラオケボックス「ハロー」にいた。
 同じビルの1階にある同じグループのチェーン居酒屋「おてんば屋」から料理を注文したりして、宴を楽しんでいたが、出席者20人全員があり金をはたいてもその宴の支払いができないことがわかった。
 そこで彼らがとった解決策というのが、出席者全員参加のトーナメントでじゃんけんをして、負け残ってしまった者が外へ出て金を調達してくる、という物だった。
 それで負けて、街へ出たのが祐介だったのである。

 自分の息子が、殴り合いには強い(実はボクシングジムでトレーニングをしていたりするのだ)が、じゃんけんはまるで弱いというのをよく知っている毬子は、うんうんと頷きながら警察官の説明を聞いている。
「それでこいつは外へ出て最初にぶつかった人から金を脅し取ろうとしたんだったな? ええ?」
「余計な恫喝はええからさっさと説明したってください」
 八木につっこまれながら警察官が続けたところによると、最初に会ったのが八木だったわけだ。

 本日午後9時35分。
 業平橋駅の入り口から本当にすぐの場所で、出てきたばかりの八木と祐介は激突する。どうやらわざとだったようだが。
「ってぇーー」
「何処見てんだコラア!」
 祐介は定番の台詞を怒鳴る。
「そらこっちの台詞じゃ!」
「よう言うわ。慰謝料としてこんだけ寄越さんかい」
 言いながら祐介は指を3本立てる。
「3千円?」
 八木はきょとんとした顔をしたが。
「ひとケタ違うわボケ!」
「イヤじゃね。それだけとられたら家賃払えんもん」
「なんじゃと……ざけんなコラ!」
 実にまっとうな反応だが、祐介も金を調達しないと戻れないので必死なのだ。
「ワレェまだ12か3じゃろ……こなとこヨタっとらんでさっさとウチ帰りんしゃい」
「じゃかあしい! さっさと出すもん出さんかい!」
 今「じゃかあしい!」と怒鳴った子は、茶髪をポマードで後ろに撫でつけてはいるが、顔立ちはあどけない。身長は160センチ台前半か、中盤か。
 とりあえず176センチの自分より頭半分以上小さい。
 見た目より年齢少し上かも。それでコンプレックスつつかれて怒鳴ったか。
「ないっちゅーとるでしょ」
『ない』の部分のアクセントを強めて、八木は言う。
「ああ、ざけんなコラ!」
「ボキャの少ないやっちゃな……」
「じゃかあし! 出せっちゅーとんじゃろ!」
「でけんもんはでけん!」
 電車を降りてきた人が2人の横を通り過ぎていく。見て見ぬふりをしたりしながら。
 少年が、
「うらーっ!」
 と怒鳴りながら殴りかかってきた。
「あらよっと!」
 八木は左足だけを残して、避ける。
 べしゃっっ! と彼はすっ転んでしまう。
 その時。
 ピーピーピーピー!
 笛が鳴って。
「そこの2人! ちょっと署まで来てもらおうか!?」
 誰が呼んだのか。
 薄暗い照明の中、2人に、警察官が持ってくる白い明かりが見えた。
「ちっ」
 祐介は舌打ちした。

「とまあ、負けて、被害も出とらんようですし、保護者も来ましたし、これで収めてくれるといいんですがね、八木さん?」
 これは別に警察の世話になる話じゃない、さっさと飯が食いたい、という思いの八木は、かったるそうに警官に頷いた。
「……ええよ」
「よし、八木さんのOKが出たことだ、帰っていいぞ」
「どうもすいませんでした」
 毬子は頭を下げた。
 八木、祐介、毬子の順で交番を出る。
 毬子は、
「すみませんでした、あのっ、広島の方ですか?」
 と八木の後姿に声をかけた。
「そうですが、それが何か?」
 冷たい表情を崩さない八木。
 あ、いい男じゃん、と一瞬思ったがそれは表に出さないようにして。
「近くに広島風お好み焼きのいい店があるんですよ。この子がバカやったお詫びに案内させてください」
 口を挟めない祐介だが、いい男だからって……という思いはある。
 八木は、
「じゃあ連れてってもらいましょうか」
 と言った。
 毬子が先頭に出て歩き始めた。

 扉についた大きいスイッチを押すと、今度は営業時間だから開いてくれる。
「祐ちゃん! オデコどうしたの?」
 と店の主の妻である藤井(ふじい)絢子(あやこ)がすっとんできた。
「負けた」
「まあたあ、喧嘩ばっかりしとるんじゃけえ、もうちょっとおとなしゅうしんさい」
 言いながら彼女は救急箱を持ってきて、
「祐ちゃん、ここ座りんしゃい」
 と言った。祐介は、
「はーい」
「あ、すいません、絢子さん」
 交番で救急箱借りても良かったかな、と思いながら毬子は自分が先刻まで座っていた場所の隣に、
「どうぞ」
 と八木を座らせた。
 テレビが、広島東洋カープの黒田投手の今にも投げるところを映している。
「いらっしゃいませ。大将と呼んでください。なにになさいまひょ」
 と、大将こと 隆(たか)宏(ひろ)が言った。
 八木はメニューをざっと見て、
「ほいじゃあぶた玉とビールお願いします」
 と言った。
 その時、毬子の弟・七瀬(ななせ)信(のぶ)宏(ひろ)がビールと灰皿とケントスーパーライトを持って、カウンターの八木の隣へ移動してきた。座敷に残った料理の皿を絢子が後ろから持ってくる。
「なんだったの……よお、久しぶり、祐介」
「あ、叔父貴久しぶり」
 祐介は信宏に軽く手を振った。
「明日香ちゃん今日誕生日なんだって?」
「そう、それで払えもしないのにいっぱい頼んだとかで、こいつがじゃんけんで負けて金調達しに行って、この人と警察沙汰になっちまったの。本当にすみませんでした」
 言って毬子は、この日何度目かと言う感じであるが、八木に向かって頭を下げた。八木が口を開く前に隆宏が、
「そりゃ、ここは毬ちゃん持ちやな。せめてそれくらいはしたらんと」
「ああーー」
 とうめきながら財布の中を見る毬子。
 今月カードあんまり使わないでよかった。とうつむいて思う。
 顔を上げると振り返り、
「じゃあ祐介。行くよ!」
「どこへ」
「ハローに決まってんでしょ。お勘定してこなきゃ。大将、悪いけど奴らここへ連れてきていいかな?」
「他に行くとこないんじゃろ?」
「うん。じゃあ行ってきます。信宏、ごめんね」
 七瀬親子が藤花亭を出て行った。
 八木が胸ポケットからラッキーストライクを出して、火をつけた。

「やだ毛虫! ああもう最悪……」
 歩道の車道側にあるガードレールのそばの桜の木から毛虫が落ちてきて、毬子をなおさらイライラさせた。
 業平橋駅のそば、先ほどの事件現場の、道路一本挟んではす向かいに、カラオケボックス・ハローと居酒屋「おてんば屋」はある。周辺は駅前という割には、平屋建てが連なっているだけで、夜はどこか寂しい。平屋建ての中に立ち食いそば屋があったりするが。
 寂しい周辺と裏腹な、近代的な、15階建てビル。
 2階にあがって自動扉が開くとすぐカウンターで、カウンターにはふたりの少女がいた。
 ひとりは、ワンレングスの茶髪を肩で切りそろえ、店の制服である、白い開襟シャツと、サーモンピンクのパンツ姿。もうひとりは茶色のシャギー入りロングヘアに、マイクロミニスカートに黒いハイソックスとミュール……藤井(ふじい)香(か)苗(なえ)である。
「いらっしゃいませー。あ、毬子さん、ご無沙汰してます」
「麻(ま)弥(や)ちゃんいたの? あんたがいたんならもうちょっとどうにかできなかったの? って新入社員にゃ無理か……」
「バカ、なに毬子さん連れてきてんのよ! マザコンと呼んでやろうか?」
 麻弥ちゃんと呼ばれた制服姿が言うより早く、香苗が祐介を毒づくが、
「警察に捕まっちゃ出てこないわけに行かないでしょ。麻弥ちゃん、領収書書いて。部屋どこ?」
「えーっ! 捕まったの!? 何やったの?」
「12号です」
 香苗の叫びを無視した麻弥が指しながら言ったのは、この店で一番広い、窓から車の通る通りと立ち食いそば屋をはじめとする平屋建てと東武伊勢崎線の線路が見える部屋だった。お値段も、夜1時間5千円と、この店で一番高い。
 毬子は部屋に入ると、
「はい帰るよ。支度してさっさと出る!」
 と言った。部屋の中は煙草の煙でちょっと白い。13歳から20歳までの若者が20人くらいいた。広い部屋が狭く感じる。
「えー、まだ曲入ってるー」
「払えないんだから入れるんじゃないっての。立て替えてやるから、後で……何人いんの?」
 毬子は、代表した青い髪の若者に聞く。
「20人です」
「20で割って出たひとり分をあたしに払いなさい。わかった?」
 最新ヒットのなんだかアイドルチックなナンバーのカラオケが流れている中、わらわらと若者たちが出てきた。
「わざわざ毬子さんの手煩わせて……」
「能書きはいい。払える範囲で宴会しなさい。あんたがリーダーでしょ?」
「はあ……」
 と若者は言った。
「だいたい給料日後じゃないのか!? そんなだからオジサンオバサンにばかにされるのよ」
「えーっ」
「悔しかったら髪黒くするかしっかりしな。これだけ人集めることできるんだから今度は予算をしっかりたてるように」
「えー、パチンコやらなかったのお前!?」
 毬子の背中で誰かが祐介に聞く。
「もう9時半だったから」
 祐介が答えてる一方で、
「「はーい」」
 誰かと青い髪の青年がハモった。
「はい。カード使える?」
「はい、使えます」
 向き直った毬子はレジにクレジットカードを置いた。
「お預かりいたします」
 麻弥は仕事をする。機械にクレジットカードを読み取らせると、続いて、何かを探している手つきで、
「領収書切るんですよね?」
「七瀬でお願い」
「はい」
 40数秒後、麻弥はそばにいる先輩に教わりながら領収書を書き終えた。印紙を貼る。
「じゃあ藤花亭行くよ。麻弥ちゃん、お邪魔」
「はい、ありがとうございました」
 麻弥が頭を下げた。
「頑張ってね」
「じゃあね、香苗」
 18歳の女の子しているふたり。
 人がぞろぞろと、「ハロー」から出て行く。

「ただいまー」
「お邪魔しまーす」
「お邪魔しまーす」
「ただいまー。あ、みんな、座敷に座ってて」
 わらわらと入ってきた色とりどりの髪の若者たちは、座敷に誰もいないことを素早く見つけた明日香の指示で、三々五々座敷に座った。
「なんだなんだ」
 カウンターで信宏が、タバコを灰皿に打ちつけながら腰を浮かす。
「あ、信宏さんおひさー」
「おお、アスカ。誕生日だって? おめでとー」
 信宏は上機嫌に応じた。
「香苗ー、元気かあ?」
「元気だよ……ちょっとどいて。
 いらっしゃいませ」
 香苗が信宏を押しのけて、あっけに取られている八木の隣に座った。反対隣はハゲ頭の中年男性がゲラゲラ笑いながら座ってる。
「……」
 八木は香苗を見た。
 一方、明日香は、髪をお団子ひとつにまとめていて、カウンターの上の銀盆を取り、冷蔵庫からビールを3本出してあっという間に栓を開け、その銀盆で座敷に運んだ。それを見つけた絢子が、
「こら、さんざん飲んできたんじゃろ? もうよしんさい」
 カウンターでは、
「汚い店ですけどどうぞお……」
 言いながら香苗は八木のコップにビールを注ぎ始めた。
「こら香苗、何やっとンじゃ!」
 父親の隆宏が止めるのも聞かず。
「ここの長女の香苗ですぅ。豚玉がお勧めなんですよお」
 香苗は八木の前でしなを作りまくる。そんな香苗に気付いた明日香が、
「おねーちゃん、なにやってんのん!?」
「まあまあ、アスカ。はい、かんぱーい!」
「「「「カンパーイ!」」」」
 仁科みゆきの音頭で座敷が盛り上がった。
「豚玉召し上がりましたか?」
 べたっと八木に擦り寄る香苗。その一方で、
「毬子さん、これ……」
 と言って、現れたのは、祐介の同級生の根本一哉だった。祐介の同級生に見えない大柄な体と老けた顔立ちだが。
 財布から千円札を出す。続いて数枚の硬貨も。
「そうよねえ、千円札一枚とちょっとでいけるのになんで払えないんだろうね」
「すいません」
 一哉が頭を下げてる背後で。
「なんか食べる?」
 明日香が聞く。
「豚玉!」
 祐介は目の前の人物のコップが空になってるのを見て、
「あ、アスカ、あれとって」
「はいはい」
 明日香は祐介にビールを取ってやる。
「明日香! 今ここでみんなが飲んどるビール代お小遣いから引くけえね!」
 絢子が言った。
 すると、八木が立ち上がった。
「お勘定してつかあさい」
「あ、あたし出しときますから!」
 毬子が叫ぶ。
「いや、すみませんでした、うるさくして。これに懲りずにまたいらしてください」
「ここ、『そういう店』と違うんじゃろ?』
「ええええ! 違います違います! ありがとうございましたー」
「ありがとうございましたー」
 絢子と隆宏は感謝の台詞を言いながら深々と頭を下げた。

 八木は結局、藤花亭からでさえ、普段駅から家まで帰るのの倍の時間をかけて歩いて帰宅した。まだこの街に慣れたわけではない。
 206号室の鍵を開けて中に入る。
 電気をつけて、まず電話の留守番電話ボタンを押す。
 なかなかきれいな部屋。
『1件を、再生します』
 機械音に続いて、女の子の声が聞こえてきた。
『八木ちゃん、また電話します。頑張ってね』
「文佳ちゃんか……風呂出おったら電話しよ」
 寝室と思しきドアを開けて中に入った八木は、出てきたときは、Tシャツにボクサーパンツ姿で両手に替えの下着とパジャマを持っていた。

「そろそろ解散しい、もう11時半じゃから」
 隆宏が言う。
「祐介、帰ろう。信宏、また話そう。今日はもう勘弁して」
「おう」
「おう。祐介、あんま心配かけんなよ」
 えらそーに、と思いながら毬子は、
「あんたビールここで飲んでない?」
「ない」
「じゃあたしが食べた分だけ払えばいいのね」
「八木さんの分も入れて3550円ね」
「はーい」
 ここではカードが使えない。
 5000円札を出した毬子の手に、1450円が返ってくる。
「毬ちゃん、うちの分今度払うから」
 450円を手渡しながら絢子が小声で言うが、
「香苗に払わせて。絢子さん、だめよそーゆーの。
 じゃ。ごちそうさまでした」
 自動扉が開いて。
 母子は帰途についた。

 白い灯りのついた電柱の下を、母子は歩く。
「おふくろー」
「なーに?」
「ごめんなー」
「警察にだけは気をつけなさい」
「あーい」
 それっきり、マンションまで、黙って歩く2人。

「業平橋第2コーポ」206号室では、煌々と明かりのついた部屋に、八木が白いタオルで髪を拭きながら出てきた。緑基調のチェックの長袖のパジャマ姿。
「011の……」
 久しぶりに押す番号。
 店が開いてる時間に携帯にかけるなと言ってあるし、勤務シフトを教えていないので、めちゃくちゃな時間にかけているようだ。
 久しぶりに早く終わったのに……。
 でもあの店美味かったからまた行ってみよう。
 あの母子店と妙に親しそうだったけど。
 おまけに娘(ほんとか?)はなれなれしいし。
 さ、電話だ。
 愛しの文佳ちゃん。

 RRRRR。
 RRRRR。
『はい』
「ワシじゃ」
『八木ちゃん!?』
 いつも八木の留守番電話にメッセージを入れていた声である。
 沢村文佳という。
 三津屋デパート札幌店の婦人服売り場でアルバイトをしていた者である。八木とは衣料部の飲み会で知り合った。
 去年から札幌市役所戸籍課に勤めている。
『久しぶりー。うれしーい』
「おれも。ごめんな」
 八木の表情が崩れた。きれいな顔がちょっとにやけてる。
『うううん。でももっと連絡してえ』
「悪りィ」
『東京には慣れた?』
「ちょっとだけ」
『こないだもおんなじこと言ってたじゃーん』
「そやったか?」
『山本くんも美紗子も藤原さんも元気だよ』
「おー、山本税務署には慣れたって言ってたか?」
『うん、慣れたって言ってたよ。こないだ先輩が10億円の所得隠しやっつけたって言ってた』
「マジかよ。北海道でよくそんな稼いだな」
 三津屋デパートの札幌店は閉店するのしないのという噂が、八木がいた時も飛び交っていた。いつ店舗がなくなるか、に怯えた2年間でもあった。北海道も相変わらず景気が冷え込んでいる。
 だから、札幌店の様子は今でも気になっている八木である。
『そうだ、美紗子6月から異動だって』
「へー、長沢仕事できたのにな」
『認められてでしょ? 藤原さん嘆いてたよ。仕事できる奴はみんな本州に行っちまうって』
「藤原さんも出て行きたいんじゃないのか?」
『藤原さんどこ出身だっけ?』
 藤原さんとは、八木の元上司で衣料部課長。長沢美紗子は札幌出身で去年の新入社員で、文佳の短大の同級生。山本幸治も去年まで、三津屋デパートの子供服売り場でアルバイトをしていた。
「仙台」
『そっか。美紗子はこっち出身だから不安がってる』
「どこ行くの?」
『仙台』
「なんねえ、近いやん」
『近いって言っても北海道民には本州へ行くのはすごくプレッシャーなんですっ』
「わりいわりい」
『本気で謝ってなーい』
 文佳は頬を膨らませた。
「今ほっぺたふくらませたろ」
『してないもんっ』
「嘘つけ。音がした」
『嘘だあ』
 電話の向こうとこっちで笑いあった。
『ところで八木ちゃん。お店売れてる?』
「そうでもない。札幌の1割増しかな」
『そんなもんなの? 東京の方がバイト多いでしょ』
「東京も服には金出さねんだよ。婦人はけっこう売れてるみたいだけどな。日本橋って、OLが会社帰りに寄って買ってくか、おばさま方が歌舞伎のついでにか『わざわざ出てくるとこ』だからな。東京来てまず教わった。住宅地の方が客読みやすいんだと」
『楽じゃないよね……やーん、残念。もうこんな時間だ。もう寝なきゃ。日曜日ってなんて早いんだろ』
「俺は曜日の感覚ないが」
『でも八木ちゃんが札幌にいた頃はもっと早かったよ』
「嬉しいこと言ってくれるねえ。今日嫌なことあったから身に沁みる」
『なにかあったの?』
「駅前でガキに絡まれてさー……」
 八木は先ほどの話をした。
 香苗にしなだれかかられたことは除いて。
『そのお好み焼き屋おいしかったの?』
「美味かったけどな」
『じゃあいいことにしなよ。八木ちゃんの故郷の味でしょ。それがおいしかったならいいじゃない』
「そうかねえ」
『八木ちゃん充実してそうだね。
 あーあ、役所なんて辞めてそっち行きたいな』
「親御さんがうるさいんだろ」
『もう大人なのにさ、あ、来週そっち行くね』
「こないだ来たばっかだろ」
『あ、もう時間だ』
「おう。おやすみ」
『おやすみなさーい』
 電話が切れた。
 ゴールデンウイークに来たばっかりと違うのか?
 あんまり早くから有給使うと上司の目が痛くなるで。
 時計を見て、手帳を見て、明日の出勤時間が12時だということを確認した八木は、眼鏡をかけて、書類を読み始めた。

 翌月曜日、午後2時。
「八木さん、休憩行って来て下さい」
「あ、はい」
 ネームプレートを、「REST TIME」バッジに変えてエスカレーターをあがり始めた。
 社員食堂へ。
 チケットを入手して並ぶ。
 A定食(ごはん、なめこと豆腐の味噌汁、豚のしょうが焼き、ほうれんそうのおひたし)を見て考える。
 相変わらず思考は広島弁じゃけえ。
 2ヶ月たってもこっちの言葉に慣れんなあ。
 札幌ン時もこんなやったなあ。
 あん時はぽろっと出た広島弁を藤原さんが受け止めてくれたけど……。
 食おうか。
 八木は箸を手に取る。

 同じ頃。
 毬子のマンション。
 あー、やる気しない。
 同僚達はこの時間、もしくは午前中から電話営業かけて同伴のお客さんをゲットしようとか励んでる。
 同伴かあ。
 もうどれくらいそゆことしてないだろう。
 なんかすっかりやる気なし。
 みんな若い子に行っちゃうし。
 あーあ。

 土曜日も更けて。
 夜中、というか朝の4時に、毬子の携帯が鳴った。
 あんまり言われたので着メロを「乙女の祈り」に変えた。
 RRRRRRR……。
「あ、あたしか……今何時よ……」
 一度目をこすって、窓の外を見て。
 カーテンを閉めているので外が暗いかどうかはわからない。
「はい」
『もしもし、先輩?』
「りんだあ……?
 なによこんな時間に」 
『手伝いに来てください!』
「は?」
『アシの子が急に不幸できちゃって、なのに締め切り月曜の朝で、残りが23枚もあるんですう、助けてくださぁい……』
「出来が悪くなっても知らないよ」
 毬子は目をこすりつつ言った。
『そんなこと言ってる場合じゃないんです、やばいんです。担当がうち来てて、できたヤツから写植貼ってるんです』
「わかった。1時間で行く。ちょっと電話させて」
『待ってますよお』
 電話が切れた。
 そのまま毬子は、祐介の携帯の番号を呼び出した。
 祐介は、根本一哉と、トラフィック・ジャムの東京ドームコンサートのチケット(開催は7月下旬)を買うために、浅草で並んでいた。女子2人が朝から合流することになっている。
「もしもし」
『なーに、おふくろ』
「あたしりんだの手伝いに行くから、明日帰ってこない。いい?」
『いいよー。小遣いもらっときやー』
「なに生意気言ってんの。喧嘩とかしてないね?」
『ないよ』
「じゃあね」
 電話を切る。
「さーて、風呂入ってくるかあ」
 毬子は起き上がった。

「こちら七瀬毬子さん。あたしの中学の先輩です。
 こちら崎谷健太郎さん、あたしの担当編集者です。もと『ROKETS』です」
「よろしくお願いします」
「……」
 夜明けの空の下自転車でたどり着いた、隅田川沿いのりんだの自宅兼アトリエで彼女が2人をそれぞれ紹介する。
 毬子は愛想良く頭を下げたが、崎谷はぺこっと軽く頭を下げただけで、黙々と写植を貼っている。無精ひげが生えていて、髪もぼさぼさだ。
「熱中するタイプなのよ。さ、仕事仕事」
 言って、アシスタント部屋に入る。
「みわちゃん、こちら七瀬毬子さん。あたしの中学の先輩。手伝ってもらうから、トーン貼りとかベタ塗りとか、仕事分けてね。
 先輩、彼女がチーフアシだから、トーンやナイフなんかがどこにあるかは全部彼女に聞いてください。
 じゃ、みわちゃん、よろしくね」
 と言って、りんだは自分の仕事部屋に戻った。

「七瀬さん、この漫画ご存知ですか?」
 作品は、先日話に出て由美が大爆笑していた、毬子に言わせると「ガンダムで白雪姫やってる」作品の第6話である。
「みわちゃん」という、ひとつに結わいた髪にメガネにTシャツ、ニッカボッカ姿のチーフ・アシスタントに聞かれ、「はい」と言った。
「このキャラの頭に61番トーン貼るのお願いします。終わったら言ってください。あ、レイちゃん、 アディンの頭にベタって言ったでしょ?」
「みわちゃん」は、原稿用紙の中の、毬子と同じシャギー入りロングヘアの女の子を指差して彼女に言う。ついでに他のアシスタントを叱責しながら髪を結びなおした。アディンというのは男性キャラだったな、と記憶をたぐり寄せる毬子。
「わかりました」
 さあ、責任重大だぞ。
「締め切り明日の朝ですんで、よろしくお願いします」
 部屋の中はピンと張り詰めた緊張感に包まれていた。

 24時間が過ぎた。
「完了―」
「お疲れ様でしたー」
「完徹……」
 毬子はつぶやいた。
 自分はひと晩ですんだが、みんなは何日寝てないんだろうか。
「結婚式前の仕事、全部終わりました!」
 りんだが叫ぶと、どこからともなく花束が出てきた。
 その時。
 ファンフォンファンフォンファンフォンファンフォン……
「火事だ」
 サイレンは止まった。
「近いね」
「見に行かない?」
「行きますか?」
「行こう行こう!」
「崎谷さん、ちょっと行ってくるねー」
「……」
 この期に及んでなにも言わないらしい。
「え……」
「ほら! 先輩も!」
 りんだに腕を引っ張られて。 
 8人で家を出て野次馬しに出かけたのである。

「……」
 たどり着いたのは、ハローの前。
 消防車8台、救急車2台が、毬子たちの前の道路に並んでいる。
「何もないねー」
「何でこんなに消防来てるわけ?」
「バルサン焚いたんじゃないの?」
「まさかあ、イマドキそんな」
「ないとは限らないよ」
 アシスタントが口々に言う。
 その時。
 見覚えのある姿が見えた。
「あっ」
 振り返る。
 化学繊維製の黒いトレーニングウェア姿の八木が、黒いショートカットで大きな荷物を持ち、ばっちり化粧した女の子を貼り付かせて立っていた。
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