ANGEL ATTACK

西山香葉子

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第3章 Discharged——まだまだ夢見る少女

第3章 Discharged——まだまだ夢見る少女

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 黒いショートカットにばっちり化粧して大きな荷物を持った女の子の隣にいる男の子。
 八木だった。
「おはようございますう」
「え、何? 先輩。知り合い? なんかどっかで見たことあるな……」
「おはようございます」
 りんだが毬子に声をかけるのを、八木は見るからに不機嫌という顔で、朝の挨拶をして遮った。
「なに、八木ちゃん。知り合い?」
 彼女が八木を見上げて甘えたように言った。
「こないだ話しただろ。俺に金出せって言いよったガキの母親」
「え、わかーい。そんなことするような大きい子がいるように見えませんねえ。あ、八木ちゃんの遠恋の彼女でーす。沢村文佳といいます」
 八木はちょっと眉を寄せて、
「おい、飛行機の時間大丈夫なんか?」
「あ、ごまかしてる……まずーい、ここどうなったかわかったら教えてねえ。じゃあまた縁があったら」
 と言って文佳は深々と頭を下げた。
 押上駅の方へふたりは歩いていった。

「なんだったの?」
 そうか、彼女いるのか。
 て、わざわざ拾い上げなくても!
 あいつどう見ても年下よ!
 いくらキレイなカオしてても!
「先輩」
 と言われて毬子ははっとした。
 ハローがある建物の2階へ直接通じる外階段に、白い開襟シャツにピンクのズボンという服装の人物が2人出てきた。片方は髪型からして麻弥だろう。もう1人もズボンの色からして女の子。ここの制服は、男性は青いズボンだから。
「あの人日本橋の三津屋デパートで道教えてくれた人だあ、イケてるっすよねえ」
「気難しそうだよ」
「どういう知り合いなんです!?」
「そうそう!」
 アシスタント連中のうち女達が一斉に騒いで毬子に聞き、2人だけいる男の子は小さくなっていた。
「ちょっと、戻ろう! 香苗の友達がここの社員だから聞いてあげるから!」
 あわてて毬子は、予防線を張る。
「そうですねえ」
「戻りましょうか」

 結局帰ってから花束贈呈をして。
 花束贈呈が終わる頃には崎谷が写植を貼るのが終わっていた。
 そして翌火曜日。
 もう6月に入っていた。
 暑い。
 駅前の近代的なビルに勤めてる人が会社に帰った。
 午後1時半を過ぎてお客さんも少なくなった頃。
 毬子は今日も藤花亭。
「それで結局なんて言ってごまかしたん?」
「ありのまま言いましたよ」
「子供が迷惑かけた人じゃって?」
「それでまた『見えなーい』って」
「うれしいわけやね」
「そりゃあね」
「ホントに若いやないか」
 すると、ガラッと扉が開いた。
「ただいまー、あ、毬ちゃん来てたのー?」
「はい」
 絢子が買い物から帰ってきたところだった。
「今日きゅうり1本58円だって。むっちゃ高くなーい?」
「えー何それー」
 と言っていると、扉が開いた。
「いらっしゃいませー」
 八木だった。
「昼間いらっしゃるのは初めてですね。今日はお休みなんですか?」
「ええ」
 答えつつも苦虫を噛み潰したような顔。
 そのままカウンターの端に座った。
 その時、扉は途中まで戻ったと思ったら、再び開いた。
「いらっしゃいませー」
「麻弥ちゃん! いいとこで会った!」
「あ、こんにちは、毬子さん」
 麻弥は頭を下げた。
「ねえ、おととい……昨日か。どうしたの? 店の前にいっぱい消防車いたじゃん」
「もー。そればっか言われますよ昨日から……」
「八木ちゃん、こっち来て真相聞こう」
 毬子は八木を手招きした。
 彼女ちゃんの呼び方が伝染っている。
「なんなんです……?」
 八木は訝しげに聞く。
「この子ハロー……あのカラオケ屋の社員なのよ。河村麻弥ちゃん」
「はじめまして」
 麻弥は毬子の隣で頭を下げた。
 八木が麻弥の隣へ寄ってきた。その時隆宏が、
「うちの娘の友達なんですよ。
 先日は娘が迷惑かけてすみませんねえ」
「娘……ってひょっとして……」
「そ。茶髪の上の娘」
 うろたえる八木に毬子はとどめ。
 八木の頭には、ひょっとしてこの子もああいう商売してるんじゃ、などという思いがよぎった。
「堅気のくせに何しちょるんじゃろねえ。毬ちゃんの方がよっぽど素人臭いわ」
「香苗何かやったんですか?」
 何があったのか読めない麻弥は聞く。
「このひとええ男じゃろ?」
「はい」
 麻弥は頭を下げてあいさつをする前から、カッコいいひとだな、と思っていたので、隆宏の言葉に素直に頷いた。
「でも残念だったね。遠恋の彼女いるんだよ」
「あんたなあ!」
「えーっ!?」
 ばらした毬子への八木の抗議の声よりも落胆を示す女性の声の方が大きかった。そしてその時、ガラッ。
「なに大きな声出してんの」
「あー、瑞絵ちゃん、いらっしゃい」
 覚えている方もおいでだろうが、物語の冒頭で毬子の相手をしていた美容師である。根本瑞絵という名前で、見当がついた読者の方もいると思うのでここで書いてしまうが、根本一哉の8歳年上の姉である。
「こちらのいい男さんが遠恋中だって言うんで落ち込んでたんだよ」
「何であんたらまでそんなことする必要あるんです……ええと……」
「私のことは『大将』と呼んでください」
「えー、ウチ本気で落ち込んだのに」
「絢子……」
 若いいい男にコロッといった妻に落胆している隆宏である。
「絢子さん、ファン宣言?」
「説明が足らないよ、毬子さん」
 瑞絵が長い髪をかきあげながら言った。23歳という年齢より更に大人の女の雰囲気なので、八木はつい見とれてしまう。
「八木さん、ファンでいていいですか?」
 絢子は頬を染めている。
「まあ、ヨン様にもハマらなかったんじゃけえええか……」
 隆宏のひとり言を耳にした麻弥が、
「ヨン様よりかっけえじゃんこの人―。あたしもファンになっちゃおお」
「あーもう、いい加減にして! どうなってんの!?」
 瑞絵が叫んだ。
「そうだよ、麻弥ちゃん、何であんなことになったの? この人も彼女連れであの場にいたんだから説明聞く権利あると思うのよ。だってその後がわかったら連絡してくれって彼女言ってたよね。あたしゃ忘れないよ。あたしもわかったらりんだに電話しなきゃいけないんだし」
「そういえば、りんださん本当に大丈夫なんですか? 結婚式のヘアメイクウチでやることになったんですよ」
「へー」
 新たな情報に毬子は内心で、10へえ、と思った。
「昨日の朝終わった仕事で独身最後の仕事だって言ってたよ」
「ならこれから準備するのかな?」
「毬子さん、香苗なにやったんです……」
「麻弥ちゃんが教えてくれなきゃ教えてあーげない」
「息子の恥言いたないんやろ」
「すいません、豚玉お願いしますっ!」
 瑞絵、麻弥、毬子、隆宏と収拾がつかなくなりかけたところで八木が大きな声で言った。
「あー、すいませんねえ、今準備します。みんな何がいい?」
「あたし豚玉」
 絢子が割烹着で手を拭きながらフォローするとすぐさま毬子が注文。
「あたしミックス」
 前髪を眉の辺りでパツンと切った黒いシャギー入りロングヘアをかきあげた毬子の隣で、瑞絵。
「あたしも豚玉」
 殿は麻弥。
「毬ちゃん、話してやりんさい」
「自分の娘の恥でもあるでしょーが」と隆宏につっこみ返して、毬子は明日香の誕生日のことを語り始めた。

 その頃。
 墨田区立××第6中学校では、球技大会が行われていた。
 体育館。
 バレーボールのネット。
 ネットの上に上がったボール。
「おりゃーっ!」
 みゆきがパワフルにスパイクを決めている。
「やったね」
 チームメイトと腕を上げて手を叩き合う。
 髪をみつあみ2本にした明日香が後衛に下がった。
 サーブを打つ。
 敵チームは返せない。
 ピーッ。
 その時ホイッスルが鳴った。
「3年B組対3年D組は15対7で3年B組の勝ちでーす」
 審判が言った。
 ネットを挟んで選手があいさつをする。

「さ、ベスト4だ。あと2つだよ」
「それよりお腹すいたよ。アスカあ」
「今日は祐介が作ったからね」
「やったあ」
「たまにはおまえも作って来いよな」
 有事の際の弁当を交替で豪華に作っているのである。
「あたし料理できなーい」
「甘えンな」
 明日香とみゆきは教室へ戻る。
 窓辺に寄って、グラウンドを見た。
「あ、ネモちゃんだ」
 みゆきの方が見つけるのが早い。
 さすが片想い、というか。
 サッカーの試合中のグラウンドで今にもシュートを決めそうなのは、祐介である。
 一哉は、今祐介が居るのと反対のゴールの前で腰を落として戦況を見つめていた。

「えー、祐介がこの人に因縁つけたんですか?」
 麻弥がやや大袈裟に驚いてみせる。
「そうなのよ。まったく」
「パチンコすればよかったのに」
「おいおい」
 麻弥と毬子の会話に八木が割り込んできた。
「彼いくつなんですか?」
「中3。ここの次女の明日香と、ツインタワーと同じクラス」
「ツインタワーってあたしの弟ですよ」
 八木の素朴な疑問に毬子が答え、瑞絵がひとこと入れた。疑問が解けた八木は、そりゃパチンコなんかしちゃまずいやろ、と思っている。
「瑞絵ちゃん一哉くんが可愛くてしゃあないもんね」
「もう1人はそこのマツキヨの一番上の娘」
 と、毬子は、知らないうちに八木のアパートの方を指差していた。
「仁科さん家もすっかりなじんだよね」
「まだ2年くらいでしょ」
「話を戻しましょうよー」
 麻弥が言った。
「それで、広島弁だったからここへ案内したら香苗がしなだれかかっちゃってさあ」
「あいつはもう……。
 すみませんでした」
 麻弥は八木に向かって深々と頭を下げた。
「いや、麻弥ちゃん、親友の不始末を君が謝る必要はないんだよ」
 毬子は麻弥に言ったが、
「2度としないでって伝えてくれん?」
 と八木は言った。
「わかりました」
 と言ったのは香苗の父親だった。母親は、
「ところでビール飲む?」
「飲む飲む」
 絢子の勧めに瑞絵がノリノリで言った。
「毬子さんは?」
「あたしゃこれから仕事だよ」
「どーせ仕事で飲むんでしょうが」
「飲んで出勤していい仕事なんかないの」
「あの、仕事何やってんすか?」
 八木が素朴な疑問を言うと、
「ああ、銀座の女。見えないでしょ?」
「えっ!?」
「ちなみに香苗はちっちゃい会社の新人OL。嘘みたいでしょ?」
 驚いた八木に麻弥は追い討ちをかけた。
 このひとはこうして見るととりあえず酒飲むとこの仕事には見えない。逆にこないだしなだれかかってきた女(香苗と言う名前なんだな、と八木はやっとわかった)の方がキャバクラのねーちゃんっぽい。
 キャバクラって……札幌で一度だけ行ったか。札幌のキャバクラの評判の割には大人しい店らしかったけど。
「あ!」
 八木は手を打った。
「どうしたの?」
「さっき大将が言った意味がわかりました」
「なんか言ったっけ?」
「あたしの方が素人っぽいってあれでしょ。よく言われるのよ。店でも銀座に染まってないねってお客さんに言われるもの。でも店に来るお客さんは銀座ずれしてる方がいいんだってさ」
 素人臭い理由は漫画が好きだからかな、などと考えなくもない毬子である。
「毬ちゃん、居直らないで」
「でもさ、親子2人食ってくために必死なのよ」
「産まなきゃ良かったって思わない?」
「瑞絵ちゃん……」
 蜂の一刺しのような瑞絵の言葉に絢子が彼女の名前をこぼす。
「ちょっとね」
 と言って毬子は舌を出した。
「え!?」
 また八木が驚いた。
「どうしたん八木さん」
 絢子が口を挟んだ。
「いや、ホントの親子なんだって……」
「えーっ? そんな風に思ってたの?」
「だって似てないじゃないですか。
 旦那さんはどうしたんです」
 つい嘴を入れていた。
「最初からいない。話すと長いから、いつかね」
 毬子のこの発言で、誰も口をきかなくなった。
 有線が浜田省吾の「君に捧げるLOVE SONG」を流し始めた。

 午後。
 バレーボールで優勝を決めた明日香とみゆきは、グラウンドに出て、祐介と一哉に会いに行った。
「あとひとつじゃない」
 明日香は後ろから祐介の肩をたたいた。
「おう」
「ネモちゃんは?」
「水飲みに行ってる。あ、ほれ、あそこ」
「みゆきだ」
 見ていると、みゆきは、一哉がいる水飲み場の手前7メートルのあたりで派手にすっ転んだ。
「あーまたやった」
「あいつなんでああなんもないところで転べるんだ?」
「謎だよねえ……。さっきあれだけ派手にスパイク決めてた人がさあ」
 転んだみゆきに気づいた一哉が、彼女を叱っている。

 サッカーの決勝戦か始まった。
 敵のシュートを一哉が防ぐ。
 防いだボールを右手でテークバックして……。
 投げる!
 縦に一本、きれいに通った。センターラインを超える。
 小柄な少年が胸で受け止めて、ドリブルする。
 ディフェンスが寄って来たので、パス。
 祐介に渡った。
 祐介が足をあげる。
 シュートッ!
 決まった!
 わああああっ! とグラウンドは一気に盛り上がった。
「いっけえー!」
「いけいけB組―」
 明日香たちB組は、一心に応援する。

 有線から尾崎豊の「15の夜」が流れている。
「これ昔歌ったなあ」
「八木さんギター弾けるんですか?」
「ちょっとね。バンドやっちょったし」
「すごーい」
 麻弥が言う。
「大したことなおらん。ただ、うちのバンドにはエンターテイナーがいてな、物真似うまいから、客を一気に引き込んじまって、文化祭じゃそいつヒーローじゃったよ」
「でもこれくらいの子っていつの世も変わらないんだね」
 絢子が言った。
「へ?」
「明日香がねえ。先生と折り合い悪ぅてね。このままじゃ高校行くのに何かされるんじゃないかってね。まだ内申書ってあったかね」
「こないだのウェーブの黒髪の子ね」
 と八木に補足する毬子。
 瑞絵が言った。
「そういえばアスカ、いきなりパーマかけてくれってうち来てさ。毎度うちでかけてくれるけどなんでわざわざパーマかけるのかわからないんだよね。中学パーマ禁止じゃないの?」
「そうだよ。でもね、あれ、抗議行動なんよね」
「どういうことなん?」
 八木はなんとなく話題に引き込まれていた。
「1年生のときあの子たちのクラスにいじめられとる子がおって、その子かばいよったら先生にまで目の敵にされよったン。それで抗議行動でパーマかけてスカート長くしよったんじゃと。今は短くするのは陳腐だから、よりインパクトあるからやて。あと、脚出したくないらしいし。
 それ以来、いじめとる子と先生と戦いの日々や。
 学校で髪三つ編みにしとるのは後ろの席の子に髪が邪魔で黒板見えん言われて、その子に恨みはなかったけえ、結んどるんじゃと」
 絢子が言った。
「あいつ短いスカート全然履かないじゃん」
 瑞絵が嘴を入れた。
「あの時の連中でしょ。彼女のグループ」
 八木は七瀬親子と初めて出会った日を思い出す。
「そ。良識派を自認する人らはあの子達を不良と呼ぶんじゃけど、いい子達じゃけエ。会ったら邪険にしないでやってな」
「姉妹で全然違うんだよここの娘」
 屈託なく笑う毬子。
 八木は表情が少し緩み始めていた。

「そういえば八木さん、前はどこに住んでらしたんですか?」
 隆宏が皿を洗いながら口を開いた。
「ほじゃねえ。広島ですか?」
「いや、札幌です。高校まで広島で、大学京都で、就職して2年札幌にいました」
 その時倉木麻衣の「FEEL FINE!」が流れ始めた。
「この子大学卒業したんだっけ? 京都だよね?」
「そーそー。あ、八木さん大学京都ってことは、この子とおんなじとか!?」
「この歌歌ってる子? そうですよ。見たことないですけどね」
「すごーい」
 何がすごいんだ。
 別に言わなくてもいいことじゃないか。
 なんでしゃべってるんだろう。
「すいません、トイレどこですか?」
「あ、こちらへどうぞ」
 絢子が手を指して教えたのは、座敷の奥だった。
 8人座れるカウンターがあって、カウンターの真正面が出入り口で、カウンターの左手に座敷が3組分あって、その奥。カウンターにくっつく厨房の奥が藤井さんのおうちの部分だ。

 用を済ませて鏡を見て。
 え!?
 どうして俺は涙なんかこぼすんだろう。
 八木は左目から涙を流している自分に呆然としていた。

 涙を拭いた八木がトイレから出てきて。
「さー、明日香の誕生日の話はこれでいいでしょ? 麻弥ちゃん、昨日の朝の消防車の真相、話してくれるよね?」
 毬子は麻弥をまっすぐに見た。
「八木さんと祐介の話に比べりゃ大した話じゃないですよ。
 おてんば屋でおとといバルサン炊いたんですよ。それで、水野さんうちに断りもしない、警備会社に連絡もしないで帰っちゃって」
「なあんだ」
「そういや昨日の朝早く、サイレン聞いたなあ……毬子さんそれ見てたの? なんで?」
 瑞絵は更にわからないという顔をした。そこで毬子は、
「りんだの手伝いしてたのよ。りんだ昨日で結婚前の仕事全部終わったんだって。
 あ、昨日のメンバーは、漫画家とアシスタントだったんですよ。売れてる少女漫画家があたしの中学の後輩に居るんです」
 と前半は瑞絵に、後半は八木に言った。
「俺の方は……あいつが朝の飛行機で札幌に帰るから、駅まで送る途中でした。で、水野さんて?」
 と八木が質問もする。
「おてんば屋の店長です」
「そうなの? 誰かが言ってたけどそうなの。
 にしちゃえらい騒ぎじゃないの」
 毬子は絡む。
「だから、連絡しないと警備会社が自動的に消防に連絡しちゃうんですよ。うちでもバルサン焚く予定だったけどやめました。バルサンには懲りました」
「ホウサン団子仕掛けてみたら? うちそれよ」
 絢子が言った。
「そういえばここでゴキ見たことないねえ」
「よく効くよー」
「うちもホウサンにしたら効いてる」
「毬子さん家もそうなの? うちもそれにしようかなー。なんせうち古いからさ……」
 瑞絵が老朽化する我が家兼職場の愚痴をこぼし始めた。

 それからあーでもないこーでもないと盛り上がっていたのだが(来訪者は来なかった)、4時になった。
「あたしそろそろ帰って準備しなきゃ」
「お疲れ様でーす」
 という声が出たところで、扉の向こうから声がした。
「毬子さんいるー!?」
「大将―!」
「電源入れちょらんから手で開けえ」
 隆宏は、呼ぶ声におっとりと言い慣れた台詞を言う。
 ガラッと開いた。
 そこには、白いシャツに黒いズボンの一哉と、白いブラウスに紺無地のプリーツミニスカートのみゆきが立っていた。毬子が「あ、ツインタワー」と小声で言うのが八木と麻弥には聞こえた。
 本当にでけえな。
 マジで中3かよ。この子ら。
 多分この男の子、俺より背高い。
 女の子も俺くらい身長ありそう。胸もありそうだし、佐藤江梨子みてえ。
 おっと、と八木が思う横で瑞絵が弟に聞く。
「どうかしたの?」
「姉ちゃん、ケータイ貸して」
「だからなに?」
「七瀬と藤井がいないんだよ!」
「あらま」
 毬子が目を丸くした。。
「連絡ナシに突然いなくて、ケータイ切ってるし……」
「学校帰りにどっか行ったンじゃないの?」
「あんたたち邪魔にされたのかもよ。あんまりいつも一緒だからたまにはふたりきりになりたーいって」
「……」
「ちょっといいスか?」
「どーぞどーぞ。ジュースでも飲む? えらい走り回ったみたいだもんね」
 中学生ふたりはカウンターに身をぶつけるように座った。

「どーぞどーぞ。ジュースでも飲む? えらい走り回ったみたいだもんね」
 中学生ふたりはカウンターに身をぶつけるように座った。
 絢子は携帯電話を出して、メールを打つ。 

 午後4時半。渋谷センター街。
「うふふ。ごめんねえ」
 明日香は長い筒と大きな平べったい物を抱えてニマニマしている。
「キモいからよせ」
「だって、こんな大事なもん忘れとったんだもん」
「こんな遠いところで予約するからだ」
 某海外のパンクバンドの再発CD (予約特典ポスターとLPサイズのブックレットが付いている) を抱えているのである。
「いつの間にこんなとこ来てやがったんだ」
「みんなが花粉症で出不精になってる間だよ」
 4人組で唯一の非花粉症が明日香なのである。
「ねえねえ、ちょっと寄ってこうよ」
「どこよ」
「この先」
「おい」
「暑いんだもん。歩き回って汗かいたしさ」
 暑いと言っているのに明日香は歩きながら三つ編みを梳く。
 長いウエーブヘアがふわあっと風で広がった。
 隣で見てドキッとする祐介。
「ちょっと待て」
 追いかける祐介。

 毬子は髪を自分でセットして、スーツを着込んで、ICカードでホームに入って都営浅草線に乗る。
 祐介が帰ってきたら連絡寄越すように言っといたけどね。
 ふたりきりになりたくてあの2人をまいた。
 あり得るかもしれない。

「あの建物きれいだなー」
「言っとくけど俺金ねーぞ」
「えー、そんなー」
「そろそろ押上帰ろうぜ。疲れてんだよ今日。身体動かしたから」
 そんな言い方をする割には大会の得点王になっているのだから、大した運動神経である。
「シャワーぐらい浴びてこうよー」
「そんな気ねえ」
「えー、あたしたち付き合い始めてまだ4ヶ月だよー」
「ちょっと待ておい」
 明日香は、なんだか足に力が入ってない風で祐介の前を歩いていく。
 坂の上を上がると、一見メルヘンな建造物が見えてきた。

「あれ? 迷っちゃった?」
 しばらく歩いた後、明日香は口に出す。やっぱり暑いと言いながら、髪を今度はひとつに結ぶ。
 まさにラブホテル街と言わんばかりの場所に出ていた。
「てめえのせいだろが」
 知らねえぞ俺は、とでも言いたげであった祐介がこの瞬間一変した。
「おい、ちょっとこっち来い!」
「え? なーに?」
 振り返る明日香。珍しい感覚。
 祐介は右手を明日香の身体に回して、そばにある電柱の陰に寄った。
 小声で言う。
「叔父貴と由美さんだ……」
「信宏さんじゃないじゃん」
「律子さんわかるだろ? 律子さんの旦那」
 律子さん、と母親の妹のことをここでは名前で呼んでいる。

 ふたりが今目撃しているのは、祐介の言う通り、三村芳樹と岩淵由美である。
 毬子にとっては、妹の夫と親友にあたる。
 先の方に書いたが、この2人は元同僚である。
 話を戻して。
「え!?」
「声でかい」
「それって不倫じゃない?」
 言われて明日香は声を潜めた。
「だろうな」
「そうに決まってるよ。ここを歩いてて建物の中に入ってないなんてあたしたちくらいだよ」
「とんでもねえもん見ちまったな……」
「由美さん相変わらずカッコいーね」
 ふとその時、由美が振り返った。続いて、あたりをキョロキョロする。
「どうした?」
「いや、なんか呼ばれた気がして……」
「俺たちを知ってる奴がいたら大変だろ」
「そーだね、ハハッ」
 一度止まってこのような会話を交わした後、2人は神泉駅の方へすたすた歩いて行った。
 祐介は、自覚してるならなぜここに居るんだ、と思いながら、口を開く。
「おい、このことは誰にも言うなよ?」
「どーしよっかなあ」
 言いながら明日香は上を向いた。
「ふざけろ」
 本当にどついたろかとか思った祐介である。
 これはえらいことである。
 そもそも、中学生が何でそんなところに居るんだという突っ込みが来そうだが。
 見てしまったものは見てしまったのだ。
「帰ろうか」
「ああ」
 やっと帰る気になってくれたぜ、と少しホッとしている祐介だった。
「携帯貸して」
 4人組で携帯電話を持っているのは祐介のみである。
「あ、もしもし、おかーさん? あたし。今渋谷……予約してたCD……」
 母親の携帯電話にかけたようだ。

 明日香が母親に電話をかけるに先立つこと数分。
 藤花亭に到着した時はバテていた一哉とみゆきが、ジュースを飲んだりしたおかげで大分回復してきた。
「姉ちゃん、ケータイ貸してよ。どうせここから動かねえんだろ?」
「……失くしたり壊したりしたらただじゃ置かないからね」
「はーい」
 RRRRR
「おっと、あたしか」
 絢子が言った。今日から変えたエプロンのポケットから携帯電話を出す(昨日まで割烹着を着てた)。
「ハイ」
『あ、もしもし、おかーさん? あたし、今渋谷……予約してたCD……』
「明日香かね。そんなところで何やっちょるん? 祐ちゃんはどうしたん?
 早よ帰ってきんしゃい。みゆきちゃんや一哉くんが汗水たらして走り回って、あんた達探し回っちょっとったんよ!」
 その後は娘に相槌を打って電話は切れた。
「渋谷やて。今から帰る言うた」
「何でそんなところに居るのあいつら」
「予約してたCD取りに行ったんじゃ言うとった」
「なんでそんなところまで……」
「とりあえず、携帯貸すのナシにしていいね? 一哉」
「あーい」
 と言った一哉は緊張から脱したか、カウンターにへたばった。腕で輪を作って間に頭を置いている。
「さて、毬ちゃんにメールせんと」
「電話の方がいいんじゃない?」
「瑞絵ちゃんそう思う?」
「うん」
「じゃあ電話にしよっと……もしもし、毬ちゃん? あたしあたし……」
 電話がつながったようだ。

 明日香と祐介が押上に帰って来たのは、藤花亭が夜の開店をしてからだった。
 藤花亭の扉をくぐったのは明日香ひとりだったが。
「明日香! よその街行くのなら断って行かんかい!」
「はーい」
「みゆきちゃんと一哉くんとに探させてごめんって謝って、あと祐ちゃんは? ご飯に連れておいで」
「はいはい、祐介ね」
 明日香は身を翻して外へ出て行った。

「もしもし、毬ちゃん? 祐ちゃん帰ってきたから。もう心配要らないからね」
 絢子は、毬子の携帯の留守電に、メッセージを吹き込む。

「まったく、おまえが携帯切れって言うからとんだ騒ぎじゃねえか。責任取れよ。疲れてるから行きたくねえって絢子おばちゃんに伝えて」
 毬子と祐介のマンションの玄関。
「仁科には電話しとけよ」
「うん……シャワー貸して」
「まだ言うかこの口がー!」
 祐介は明日香の後ろに廻って、彼女の口を横に広げた。
「痛いイタイイタイ!」
 明日香は右手で祐介の片腕をとんとんと叩いた。これは柔道などでよくある「ギブアップ」の意思表示である。
「ごまかさないでよ。今のと同じだよ。コミュニケーションじゃん」
「コメント避けさせて。おやすみ」
「……おやすみ」
 ばたん、とドアが開閉して、明日香が消えた。

 七瀬家から帰宅した明日香は、藤花亭の店の方に廻った。
「祐介疲れてるから来たくないって。今日球技大会だったんだ」
「あー、祐ちゃん活躍したでしょう」
 小さい頃から身体能力は高いのである。
「得点王とってたよ」
「そりゃ呼んで悪かったわ。でも携帯は切らないように言わんとね」
 この母の意見に返事をしなかった明日香は、裏から自宅に入ると、言われたとおりみゆきに電話する。
「もしもし、仁科さんのお宅ですか? いつもお世話になってます藤井です。みゆきさんいらっしゃいますか?」
『はい、今替わります。おねーちゃーん、アスカさーん』
 小学5年生の、みゆきのすぐ下の妹が出て、受話器を塞がずに後半の台詞を叫んでいる。
『ばーか、入ってンじゃん……もしもし、あたし。あんた今日どこ行ってたのよ』
「渋谷。CD取りに行っててさ」
『言って行きなさいよー。七瀬に携帯切らせたでしょー。よっぽどあたしたちが邪魔だったの? 毬子さんがそんなこと言い出してさ』
「うん、邪魔」
『……アスカ……』
「でも祐介その気なさそうなんだよね……」
『あたしは七瀬じゃないからわかんないよ』
「だってあたしたち付き合い始めてまだ4ヶ月だよ」
『あたしなんか片想いだよ。彼氏いたことないから付き合ってる人のことはわかりません』
「もっと盛り上がってもいいのになあ」
『幼なじみにそれを求めるのが間違ってるんじゃないの?』
「そうかなあ……」
 電話は続く。

「いや。だから自動車はこれから……」
 空いているグラスを見つけて、毬子は水割りを作り直した。
 隣では太った熟年男性が、自動車業界について熱く語っている。
「もう今日はそんな堅い話はよしましょう。紗里奈ちゃんに来てもらって……」
「いいですねえ」
 あたしじゃ物足りないですか? と先ほどからその席について水割りを作っている毬子は思う。
 毬子のいるソファの近くを泰子ママが通った。
「ママ入ってよ。ママ」
 ととある偉そうな客が泰子ママを呼んでる。
「はいどうなさいました?」
 泰子ママはとびきりの笑顔をつくって、ソファに着席した。
 ママがひとこと言う度ごとに席がわっと盛り上がる。さすがはママ、盛り上げ上手だ、というかそれが仕事と言って良い。
 盛り上がる中、泰子ママは毬子にこっそり耳打ちした。
「明日話があるから早く来て」
 ? と思う毬子である。

 仕事が終わって、タクシーの中の毬子。
 あ。
 りんだに電話しなきゃ。
 RRRRR
『はい、先輩?』
「起きてた?」
『ぐっすり眠って元気いっぱいっすよー。どうかしました?』
「おとといの朝の真相がわかったよー」
 少しウキウキする毬子。明日の夕方には不安があるから。
「おてんば屋でバルサン炊いて、ハローに断らないでおてんば屋のえらいひとが先に帰っちゃって、センサーがキャッチして、それで消防車が来たんだって」
『なるほどねえ……バルサンか……これいつか漫画に使おう』
「今の話で使えるかね」
 りんだこと里奈は現在月に2本連載を持っているが、どちらもファンタジーである。先日毬子が手伝った方の作品は、最初から、現代日本と違う世界のファンタジー、手伝ったことのない作品は、異世界転生型のファンタジーだ。
『知りたいって言ったの憶えてくれてたんですか? 先輩ありがとうー』
「どう致しまして」
『先輩今仕事終わったとこ?』
「うん」
『お疲れさま。うちでも待ってるよー』
「考えてみる」
『じゃあおやすみなさい』
「おやすみー」
 電話を切る2人。
 毬子はそれっきり、シートに身を沈めて、車が押上に着くまでぼーっとしていた。なんか最近疲れるな、と思いながら。

 翌日。午後3時半。
 早くと言われたので午後3時半に到着。
「あれ?」
 店の扉が開いた。
「毬ちゃん、おはよー」
「おはようございますママ」
「悪いわね早く来て貰って」
「いえ、何か……?」
「うん、それがねえ……」
 泰子ママは一度言葉を切って、姿勢を正した。
 そして。
「毬ちゃん、店、辞めてくれるかな……?」

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