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第1章 First Access
第1章 First Access
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確か救急車……119はテレカ要らず。だったよね。
プッシュボタンを押す指が少し震えているのを感じる。
2コールで。
『はい、消防ですか? 救急ですか?』
「救急です」
『そちらの住所をお願いします』
「ええと、本所税務署の前……」
『それが公衆電話ならあなたのまん前の上の方にそこの住所が書いてある筈です、それを読み上げてください』
電話に出ている消防署員は、ちったあ落ちつけよ、と思いながら早口に言った。
「はい。墨田区業平……」
言いながら毬子は、少しは落ちついたか、病人の方に目をやった。
野次馬がたくさんいた。
病人はどうやらまだ立てないらしい。
『わかりました。5分くらいでそちらに着くんで』
「はい、よろしくお願いします」
ガチャ。
手配終わり。
どうやら、有難迷惑大きなお世話、とならずに済みそう。
「救急車呼びましたからー」
毬子は大きな声でこう言いながら病人の方に歩いていく。
野次馬は10人くらいだった。年齢性別は様々……自転車のハンドルにシートをくくりつけて子供を乗っけたおばちゃんまでいる。
毬子が第一発見者だというのが彼らにはわかったらしい。彼女と入れ替わりに三々五々去って行く。
残ったのは。ジーンズを履いた若い薄味な顔立ちの美青年だった――これが先程マツモトキヨシで買い物をしていた男性である。片手にひとつずつ荷物を持っている。
真ん中でへたばっているのはかなり汚い、くたびれた格好の初老の男性。
「すんません。もう平気ですから……」
しかし彼は、それから毬子が見ただけでも、2回自力で立ち上がろうとして2度とも失敗した。
「今日寒いですよねえ。寒さで血管詰まったかな……?」
毬子は生噛りの知識を披露している。
救急車がやってきて、男性を運んで行く。
行ってしまうと。
「そろそろ行きます」
と美青年が言うので、
「あ、どうも」
と所在なげな挨拶をした。
毬子はスタスタと、駅に向かって歩き出す。
数分後。青年は東武伊勢崎線業平橋駅寄りに歩いていく。
いささかぐるぐる歩いて、知っている者が見たら「近いじゃねえか」と嘆くような場所にある2階建てアパートの階段を登った。壁についたプレートに「業平橋第2コーポ」と書いてある。
206号室の前で止まると、Gジャンのポケットから鍵を出して開ける。
中へ入った。
「206」という表示の横には、何も書いてない。
同じ頃。
上野駅近くの、アメ横と呼ばれている商店街の一角。入り口近くに何台か自転車が止まっているゲームセンター。
中では。
ばたんきゅう。
画面から、甲高い典型的なアニメ声でそんな台詞が流れた。
「あらー、俺勝っちゃってえーの? ごっつぁんでした」
ゲーム機の前に座っている茶髪を長めにして額を出した髪型の小柄で童顔な少年が、片手を左に出した。横を向くと耳にピアスが覗く。服装は紺のジャケットにブルージーンズだ。左隣には黒いウェーブの長い髪。
「アスカぁ、落ちゲーまで負けてどうしたの。調子悪いじゃん」
と彼らの背後で言ったのは、シャギー入りのショートカットにミニスカート、シャツをスカートにインして肩にカーディガンをかけた、長身ナイスバディを強調しているような、そこに立っている美少女。よく見ると口紅が塗られている。背が高い。
「藤井は受験勉強始めたんだろ。じゃなきゃコレ絶対負けねーよな」
これを言ったのは元ヤンキースの松井秀喜かはたまた、という感じの老けた顔立ちに、ガタイの良い長身を持つ、美少女の隣に立っている……少年。隣の少女より頭半分背が高い。カーキ色のブルゾンにストレートジーンズ姿。
「そんな真面目にじゃないよ。あたしの周り勉強に関しては役に立たんのばっかじゃけえ」
ゲーム機に座っている、黒く長い髪をウエーブへアにして、デニムの長いスカートを履いた美少女が言った。口紅がローズピンク。サーモンピンクのシャツをインして、上にカーディガンを羽織っている。
彼女が「藤井明日香」。
「じゃあなんで七瀬とつきあってんの」
「俺で悪いか」
老けた少年が言うと、明日香より早く、その隣の茶髪の少年が答え、遅れて、
「人生勉強だけじゃないじゃんネモちゃん。そんなことゆっとると村木みたいになっちゃうよ」
明日香が言った。
「学年トップの人間が言う台詞じゃねーな」
ネモちゃんと呼ばれた老けた少年は、隣のゲーム機にもたれて腕を組みつつ言った。
「ネモちゃんお母さんもお姉さんも手に職あるんだもん。方程式知らなくたってなんかのプロであれば生きていけるええお手本やん」
「やめてっ、縁起でもないこと言わないでっ。5日からアイツが担任だったらどーすんの! 1番ヤバイのあんたらだろーが」
「みゆき、悲観的に考えたってしょーがないじゃん。
ねえ、あたしも1回これやりたい」(もっかい、と発音した)
「俺もうパス。弱い奴倒してもつまらんわ」「なんじゃと祐介!」
明日香は激昂して立ち上がる。それを聞いた店員が、筐体を4つ挟んだところにある両替機のそばから彼女を睨んだが、それに気付いた者はいない。
「はーい、挑戦者根本一哉行きまーす」
「っっしゃあ、やったるぜい」
「どっちか次替わってよ。立ってるのって疲れるんだから」
「おう。んじゃコレで負けた方が仁科と交替な。いいか藤井」
「わかった」
不遜な発言をして席を立った祐介に、恋人とはとても思えない口調でつかみかかった明日香を、一哉が仲裁。みゆきにも愛想と、彼は如才のないところを見せる。
七瀬祐介。藤井明日香。根本一哉。仁科みゆき。
ちょっと見えないが、4人はもうすぐ中学3年生になる。
銀座。午後6時。
毬子は「YASKO」という店で、鍵を開けて中に入った。
一番乗りはここ数年いつものこと。
でも、それやるようになったら成績が落ちた。
挫折気味の今日この頃。
今日は泰子ママが早く来て「いつまでも寒くてや―ですねえ」等と世間話したけどいつもは7時くらいまでひとりだ。
その夜……午前2時半。
「ただいまー……」
毬子、帰宅。
そのままある部屋のドアをノック。
「帰ったン?」
部屋の中から少年の声がした。
「ただいま、まだ起きてたの? 早く寝なよ……煙草吸ってないね?」
「ないよ」
「本当かァ?」
ドアを開けた。
中にいたのは、先程アメ横のゲームセンターにいた茶髪の少年。
「どーせならノックしたすぐ後に開けろよ」
小さな音でラルク・アン・シエルが流れている。コーラの缶。「のりしお」と書かれたポテトチップスの袋。
「あたしすぐ寝るわ……あ、明日生ゴミなのよ。まとめとくから出しといてくれる?」
「えー?」
「稼いでから文句いいな、中学生」
「ふぁーい」
「おやすみ」
毬子は扉を閉める。
可愛いんだか可愛くないんだか。
3日前に14歳になったばかりのマイ・スウィート・ダーリン。
もとい。
我がひとり息子殿。
翌日午後10時。
またやってる。
昨日は和服デーだからいなかったけど、若い子の中には、お客様の前で足を組んだり煙草を吸ったりする子がいる。なのに何故か売上げいいんだ。何回注意してもやめない。お客様が注意しなきゃいいのか?
後で、
「やめろって言ってるでしょ。何度言ったらわかんの」
と言っても、
「売上げ悪いヒトにそーゆーこと言う権利ないじゃん。ババアの負け惜しみにしか聞こえないんだけど」
化粧の濃い顔でふてくされて言い返しやがった。
彼女達が言うことを聞かないのはあたしに問題があるからだ、と泰子ママの論理ではなるらしいし。
ママに言わせりゃ、
「マリちゃんよりあの娘達の方が水商売に向いてる」
そうだ。
その週の日曜日の昼下がり。
根本美容室や毬子の自宅マンションの近くにある、「藤花亭(とうかてい)」という名前の広島風お好み焼き屋。
そのカウンターに、毬子はいた。
カウンターの中には、大柄で迫力が見える、体重の重さがギャグじゃなく重厚さに繋がりそうな中年男性と、二重まぶた系正統派美人が年齢を重ねて太ってしまった典型、という感じの中年女性。
毬子の隣には、茶色いシャギー入りロングヘアに、黒い光沢シャツと細いパンツ、ハローキティ柄でピンク色の厚底健康サンダルを履い化粧の濃い少女。
3人は、藤井明日香の家族だった。
「しっかしよくそんな汚い奴助ける気になりますね、毬子さん」
藤井家長女香苗は、足を組んで座ってる。
「香苗。あんたね。もうすぐ自分とすれ違うだろう人が目の前でバタッとイってごらんよ。そんなことかまってられなくなるって。あ、大将、ビールちょうだい」
「おう」
大将、と呼ばれた中年男性は、毬子の目の前にサッとコップと瓶を置く。彼女はそれを受けとって手杓した。香苗が、
「そーゆーもんかねえ」
「そーゆーもんだよ。そうじゃなきゃ玉の輿になんか乗れないよ。そーゆー男ってずるいからね。よく見てるもんだよ。ボケた親の世話させようって魂胆持ってる奴とか女ときちんと向き合わないくせにヤりたいだけでええカッコしいする奴とか、いろんなのがいるから」
「まあまあ。毬ちゃん、そう言わんと。ちゃんとええ人はおるけえ。そーゆーことする奴は幸せになれんと決まっちょる。いい奥さんがおっても満足せんもん。
香苗は本当に自分に合う人かどうか考えんさいよ。だいたい今の彼氏をどう思っちょるの」
冷めたことを言う毬子と身の程を知らないような娘を、絢子という名前で割烹着を着た元(?)美人がたしなめた。
「早く結婚して落ちつきたいんだけどねぇ」
「そんな魂胆じゃワレは一生落ちつかんわ。大体やっと就職できたばっかりで」
「1回決まったのに化粧濃くしてたら内定取り消してきたもんねえ」
「毬ちゃんよう笑て(わろて)られるなあ。祐ちゃんがそやったらどないするん?」
店主・藤井隆宏氏にこうつっこまれ、毬子は「うー……」とうなった。
「ありえそうで怖い……」
「確かに」
「香苗。内定取り消された張本人が何言うとんの?」
「折角決まったんじゃけえ、仕事を続けることを考えんさい。おまえ高校時代はバイトばっかりしちょッたくせして、1日中働くようになったらなにゆうとるんじゃ」
カウンター越しに両親からステレオで言われて内心、ピーンチ! と思った香苗の耳に、
「かーなーえーちゃん、あーそーぼ」
という合唱が飛び込んできた。
「何小学生みたいなことやってんだか」
と毬子。
大将・隆宏が、
「開いとるけど電源入っちょらんけえ、手で開けえ」
言うと、扉が開いて、茶髪金髪当たり前、真っ白いヤマンバや青い髪・鼻ピアス等など派手な若い者達が男女取り混ぜ20人ほど立っていた。
中に、明日香、祐介、一哉、みゆきの4人の姿も見える。隆宏は、
「あれ、明日香、上におったのと違うか?」
「今呼ばれて下りたんよ」
「あ、じゃああたし靴履いてくるねえ」
手をひらひらさせて香苗が消えた。
「祐介、あんた今日夕飯どうすんの」
毬子は母親の顔をした。
「いらね。どーしたの、わざわざ言っちゃって」
「たまには一緒に食べようよ……」
「よく言うぜ……」
今のやり取りの何処が受けたのかわからないが後ろの若い者も、藤井夫妻も笑っている。
「お待ちぃ」
扉の外から香苗の声が聞こえた。
皆に囲まれて見えないが、きっと黒い厚底ブーツを履いているんだろう。
「おー、行こ行こ」
「車に気をつけな」
「警察の厄介になるようなことすんじゃないよ」
ガラガラ……と扉が閉まっていく。
刹那、黒い踵がちらと見えた。
「返事は!?」
絢子が怒鳴った。
「ふあーい」
「行ってきまーす」
店の中は、夫妻と毬子の3人になった。
「やれやれだね」
「ああ」
「毬ちゃんもああやった」
「絢子さん、一緒にしないでよ。あたしあんなに派手じゃなかったもん」
「スカートのウエスト巻き上げてライヴハウスばっか行っとったやろが」
「やめて」
「でもあいつらクスリはやっとらんでしょ」
絢子が切りこんできた。
「やってたらタダじゃすまんでしょ」
「大丈夫だと思うよ。多分シンナーもやってない」
「それはわかる。あれやると歯ァスカスカンなるけえ」
「大将だって人のこと言えないじゃん」
「毬ちゃん……」
よせやい、という気分の隆宏。その時、
「あれー、どーしたのー?」
扉越しに女性の声が聞こえた。
「今日日曜だもん、休みじゃないよねえ?」
隆宏が、
「開いとるけど電源入っちょらんけえ、手で開けえ」
先ほどと全く同じ台詞を言った。
それで店に入ってきたのは、毬子や瑞絵と同じ位ある長身をパンツスーツに包んだ、黒いショートボブカットの美女である。
「はいはい。
チーィッス。御無沙汰してます。
毬子も御無沙汰。別れたんだって?」
「あら由美ちゃん、どしたの」
「ホント御無沙汰……話したい時つかまらないで今更言うなっつの」
岩淵由美は毬子の小学校以来の親友だ。
「これから仕事なんだけど、たまにはここでお昼食べようかなあ、って」
「あんたたち開店以来のお客さんだもんね」
「ねえ、ここって今年開店20年?」
「おーよ」
「言わないでー。年食ったの実感してイヤだ」
言って、両耳にあてた由美の両手首を、素早く立ち上がった毬子が背後から両手で押さえた。そして。
「由美、もっとイヤなこと教えてあげるよ。香苗こないだ入社式だったんだよ」
「経産婦の図々しさかい」
由美がこう言った途端、場の空気が凍った。
「由美ちゃん」
「え、原因またそれなの? あんたロクな男にあたんないねえ。3度めじゃん」
絢子に呼ばれただけで由美は理解した。
「付き合い始めてしばらく経って家にあげない時点で、なにか変だと思うみたいね。それでいるってうちあけた途端よそよそしくなってさ」
「ええよ。呼ばなくて。子供邪険にして殴るのおるから」
「絢子さん……」
こういう話題になると妻がこういう発言をするのはいつものことだから、隆宏は黙っている。心の傷はそうそう癒えないから。
「今度は1番ひどかったね。ただ二股かけやがっただけならまだしも、向こうの女妊娠させて、あたしには『もうひとりいるからいいだろ』って勝手なこと言った挙句、別れ話する時に女連れてきたんだよ」
「ほじゃけえ始めから言うとったやろ。やめとけって。大体今時銀行の頭取の息子がええとも思えンが。あ、由美ちゃん、なににするか決まったんか?」
隆宏が割って入る。
「何、お客さんで来てたの? あ、大将、ぶた玉とオレンジジュース」
「あいよ」
「よくわかったね」
「あんたがそんな相手と出会うなんて店しかない」
「悪かったね」
由美が毬子をやりこめてるところへ。
「由美ちゃん飲まないの? 珍しいね」
言いながら絢子は、オレンジジュースの瓶とコップをカウンターに出して注いでやった。
「だからあたしはこれから仕事なんだって……あ、絢子さんありがと」
「こんなお花見日和にもったいない」
「何、ライヴ見に行くの?」
毬子と絢子が同時に言った。
「そう。渋公の“トラフィック・ジャム”」
「りんだが好きなバンドじゃない?」
「ああ、そーいやそうだね。楽屋で会うかもね」
「りんだちゃんも久しく来ちょらんねえ……部外者が楽屋なんか入ってええんかい?」
「ホントだよ。少女漫画家ってオイシイよなあ……あんたなんでそっち目指さなかったの。りんだとよく本つくってたじゃん。ガンダム好きでさ……って、りんだで思い出した。三村が“まりあ”の編集部に異動になったんだ。知らない?」
「三村さんが? 聞いてないよ。最近律子と話してないもん。独立した人間がなんで知ってんの」
「おととい原稿届けに行ったら、ね。フロア変えもするからってバタバタしてたよ」
「ふうん……“まりあ”って最近出来た少女漫画雑誌だよね……なんかやたらなんでも載ってる……そーいや1度見たことあるわ。りんだが描いてたから」
「あいつ今回はどんな話を描いてたの?」
「国をのっとられた王女様が、巨大ロボット乗り7人くらいと手ェ組んで、のっとった悪徳政治家に喧嘩売ってた」
平然と言う毬子に対し、
「ガンダムで白雪姫やってんの……原典回帰かよ……笑う……はははは……ああおかしい……」
由美はたっぷり3分笑い続けた。挙句、
「頼むから誰か止めて……」
とうめく惨事となった。
「由美ちゃん、話を戻そ。最近みんな御無沙汰だね。律っちゃんも信宏くんも」
皿を拭きながら、絢子。
「信宏くんていやー、ニカバーやめるって言ってたのどうした」
ニカバーとは業界最大手のスーパーマーケットである。食料品だけでなく、衣類や本や一部家電や寝具も売っている。
「やめたんじゃないの? あいついっつも自分で決めてからあたし達に言うんだから」
毬子はふくれる。寂しい、という風を言外に滲ませて。
「せっかくいる3人姉弟なんじゃけえ、もうちょっと仲良くしんさいよ。妹の旦那の異動話なんて友達から聞く話じゃないじゃろう。
あ、今から電話して一緒にお花見にでも行けばええやんか。
はい由美ちゃんぶた玉お待ち」
毬子はビールの入ったコップを置くと、
「……あいつ極端な人込み嫌いだかんなあ、ま、たまには誘ってみよ」
と言って、携帯電話を出した。横で由美が、いただきまーす、と言って箸を割っている。
毬子より、律子は5歳、信宏は7歳年下の弟妹。三村は律子の夫で毬子より2歳年上で、ドーリアン・マガジンズという出版社に勤めている。由美とは『ROKETS』という、80年代に出来た少年少女向け音楽雑誌の編集部に所属する同僚だったのだが、彼女は2年前フリーライターになった。
“まりあ”とは、ドーリアン・マガジンズが2年前に創刊した少女漫画誌で、りんだというのは、本名を佐藤利奈という2人の中学の後輩でもある売れている少女漫画家だ。 “まりあ”には創刊時から描いている。
「あ、もしもし、律子?」
『お姉ちゃん? 久しぶり』
「久しぶり。今由美と一緒に藤花亭にいるんだけどさ、出ておいでよ。上野に夜桜見に行かない? 由美今から仕事だからあたしと2人なんだけど祐介呼んでもいいしさ。どう?」
『……ごめん、頭痛くって。せっかくだけど……』
「あんたいっつもそんなことばっか言ってんじゃん。外に出る方がかえっていいと思うよ?」
『ごめんね。わざわざどうもありがとう』
「うん、しょうがないな。わかった。じゃあね。お大事にね」
ピッ。
「りっちゃん来ないって?」
「絢子さん、あいつどーしたらいい? 年がら年中塞いでて、なにかあるのかなあ。鬱かなあ?」
「もともと内気じゃったけどね」
「内気じゃ内気じゃって甘やかしすぎたのと違う? 前に信宏くんも言うとったやんか」
隆宏が口を挟んだ。
有線放送からは、大滝詠一の〈君は天然色〉が流れてる。
「まあ、転校が多かった子ってサービス精神旺盛になるか内気になるかのどっちかや言うモンなあ」
「てそれについて行かんかったけえ、祐ちゃんが生まれよったんな」
「それは置いといて。転校ってやっぱり心細いよ。それを繰り返して……しかもあの2人が行ったのって全部言葉が違うとこじゃない。あたしも東京へ来る時は不安じゃったけえね」
由美は経験者顔。
「お、出たね広島弁」
「何年ぶりね?」
「ええやん。たまには」
由美は照れた、が、
「20年間どうもありがとうな」
「これからもよろしく」
「何言ってんですか」
「あ、由美が『ここ入りたい』って言わなきゃ来てなかったね」
「ほんまにね」
「いろいろあったなあ」
空気がしんみりしてきたとこで由美が腕時計を見て、
「あ、そろそろあたし出るわ。御馳走様でした」
「あいよ。850円ね」
「ちっ。はい」
「千円から……150円のお返しな」
「ありがとうございましたあ」
ガラガラ。
由美は自力で扉を開けて出て行った。
有線が,KATZEというバンドの『LOVE GENERATION』に変わった。
そして彼女は、地下鉄をICカードで乗り継いで渋谷へ出ると、目的地へ。
バックステージ・パスを受けとったところで、
「おう岩淵、早いな」
と同世代の男性に声をかけられた。振り向くと、
「三村じゃん。どうしたの?」
「異動挨拶。俺が担当してたから」
「あ、そうだったね」
それであたしにライヴ・ルポ書く仕事が来たんだわ。
思い出したところへ。
「先輩取材ですか?」
「りんだ、やっぱり来てたね」
噂をすれば影だわ、と頭半分背の低い後輩を見て由美は思う。
「由美さん、『やっぱり』ってなんですか? それ」
「だって、前にあんたに会ったのもジャムの武道館だったじゃん」
「そうでしたっけぇ」
佐藤“りんだ”利奈がふくれた時、
「なあ、今楽屋入ってって大丈夫かな? メンバーいます? マネージャー……西口さんも」
「大丈夫ですよ。今会いました……御無沙汰してます……えと……」
前に打ち上げで見た顔だ。その時いろいろ名刺とかもらったけど……でも、名前まで思い出せない。
「あ、こちら三村芳樹さん。ジャム担当だったんだけど、今度の人事で “まりあ”に異動になっちゃってねえ……」
「え、 “まりあ”に来られるんですか?
あ、あたしこういう……」
言いながらりんだは名刺を出そうとバッグをかき回し、由美はりんだを指して、
「 “まりあ”でも描いてる漫画家なのよこの子。佐藤りんだっていうペンネームで、でもってあたしの中学の後輩なんだ」
「そーいやいつか後輩に少女漫画家がいるって言ってたなおまえ……」
「由美さん先に言わないでくださいよー……あ、あったあった、はい、私こういう者です」
「どうも……お手やわらかにお願いします。今名刺ないんで」
「そのうちわかるでしょ。そーいえば崎谷さんも前〈ROKETS〉にいたって言ってたなあ」
「何、今崎谷が担当なの?」
由美と三村は驚いた顔をした。
「あたしまりあじゃずっと崎谷さんですよ……やっぱり知ってたんだ」
「あたりまえでしょ。“ジラフ”のツアー取材の時に仙台で3人で雑魚寝した仲だよ」
「どーゆーツアーだったんですかそれ……あ、ちょうどいいから渡しちゃお。決まったんですよ」
言いながらりんだは再びバッグをかきまわし、白い封筒を出した。
「何これ……!」
3人で封筒を囲む格好になり。
「……」
封筒を裏返して書いてあった文字に絶句してから、
「あ、俺楽屋行ってきていい?」
三村は恐怖を浮かべた面持ちで歩き始めた。
「りんだ?」
やられたぜ、という気持ちになりながら、由美は封筒をぐしゃっと握って後輩を見た。
「随分急な話じゃないの?」
「先輩紙にシワできちゃう!」
4月6日。
午前11時に起きてみると誰もいない。
「始業式今日だっけ」
呟くと毬子は、リビングを横切ってドアを開け、ポストを開けた。
中には、携帯電話の請求書と、真っ白い封筒がひとつずつ。
その封筒には、金箔で「寿」の文字。
封筒の裏には、中谷家・佐藤家云々とある。
「やられたぜ……」
少女漫画家をナメちゃいけねえなー。
ドアを閉めて封筒を開け、中を見ると、6月25日に浅草の式場、と書いてあった。
「随分急だなあ……」
毬子は顎に手をあてて考えた。
「あいつ子供出来たのかしらん」
その頃。
墨田区立××第6中学校。3年B組の教室の中である。
髪を三つ編みにした明日香と、みゆきが白いブラウスに紺のブレザーとプリーツスカートの制服で、ひとつの机を挟んで向かい合っている。胸に細めの赤いリボン。スカート丈が大違いで、みゆきは膝上20センチ、明日香は膝下20センチ。
明日香は机に突っ伏している。
「ああ、しんど」
「やな予感当たっちゃったね」
「あんたが縁起でもないこと言うからや。責任とんなさい」
「と言われてもねえ……具体的にどうすりゃいいのか……1年は長いよ?」
みゆきは明日香に目線を合わせようと首をかしげた。
「3年続けて4人一緒で良かったって思おう、ね?」
窓際では、祐介と一哉が男の子達と雑誌を広げていた。
同時刻。
「業平橋第2コーポ」206号室には、「八木」という名前が出ていた。
今、そのポストに若い者がピザ屋のチラシを入れたところ。
時は飛んで5月中旬。
「何、ウエストでスカート折ったの?」
朝、大荷物を持った明日香が祐介を迎えにやってきた、七瀬家の玄関。
いつもより制服のスカート丈を短くしている。
「外野うるさいからさー、ちょっと折りゃ校則と折り合うっしょ? でもこれ、慣れないとけっこう難しいのね、こないだの日曜日にお姉ちゃんに教えてもらったんだけど、うまくできなくてボロクソ言われてさ」
明日香の方が勉強ができることへのやっかみだろうか、と、考えなくもない毬子であるが、黙って明日香の言い分を聞く。
「俺はやっと安心してコイツと歩けるわ」
玄関に出てきた祐介が言った。
「失礼だなー祐介。なんでそんなこと言うの?」
「こいつと歩っとると皆振り返るけえ、なんか辛い」
「そりゃああたしが可愛いからよ」
「おまえなあ……」
「あんた達何時集合なの?」
慌てて借り物の腕時計を見た2人は、
「ヤバッ……行ってきまーす」
「八つ橋あればええんよな?」
お土産の話をするのは祐介。
「あんたにまかせる。いってらっしゃい」
エレベーターに向かう2人に、毬子は手を振った。
中学生共は修学旅行で京都へ行った。
修学旅行に行っている間は彼氏を家に呼んで過ごそうと休みをとってあったのだが、肝心の男がいなくなってしまったので、仕方なく今日も藤花亭である。
ただし、今日はりんだと由美も一緒だ。
失恋アンド結婚祝いの飲み会で、主にりんだの都合で今日まで延びたのである。
有線が〈てんとう虫のサンバ〉をかけている。
「あんたも本当に急なこと言ってきたもんよね。ぶた玉ちょうだい」
「ギリギリで招待状寄越してくるんじゃないよ、あたしイカ玉ね」
「でもホンマにおめでとう。はい、これはウチからのお祝い。奢りやよ」
言いながら絢子が、カウンター越しに利奈のグラスにビールを注いだ。
「先輩達差し置いてスミマセン」
りんだは照れながら頭を下げた。
「そうだよぉ。特にあたしがね」
由美は、弱くない筈だが顔を赤くしてふくれた。
「ちょっと、由美だけじゃないでしょ」
「毬子は祐介がいるから」
「それって、旦那はいらないけど子供は欲しいってあれ?」
毬子がボリュームを上げた。
「そんな甘いもんと違うぞ。あんたらが今更そんなこと言うとは思わんかったな」
隆宏が口を挟む。
「でもねえ」
「ちょっと違いますよね。あとバツイチの人も。友達でもいるけどさ」
「あたしだって30になる時イヤだったよ」
ったく、という顔で毬子はビールを煽り、
「産んだはいいけど可愛いばっかりじゃないしさ。小さい時はちょっと目ェ離すと具合悪くなるし、あたしに似たのかアタマは悪いし、大きくなったら問題起こしたっちゃ呼び出されるし。あたしがあいつの件で今まで2回警察呼ばれてるの忘れたの?
由美だったら絶対ツアーの追っかけ取材はできないね」
「せやな」
「そこまで悪し様に言うことないでしょ」
「うちみたいに双親揃っちょったって、香苗はどんどん派手になりよるし、明日香は勉強はようできるけど先生と折り合い悪うて揉めよるし、子供おったら大変やぞ、わかっちょるかりんだちゃん……。
まさかもうおるとか……」
「いや、できてません、できてません」
利奈は顔の前で手を振る。
「ホンマか? 招待状発送いやに急やったちゅうやんか」
隆宏も絡み酒の様相になってきた。手元にあるコップには水しか入っていないのだが。
「違いますって。たまたま式場開いたから入ったんですよ。狙ってキャンセル待ちして……殆ど賭けでしたね。先に6・7月仕事開けちゃったから」
「はいはい。あ、大将、ネギ焼き天かす入り追加」
由美が言った。
「しっかしりんだちゃんに会うの久しぶりやねぇ思ったら結婚決めとったかぁ」
「本当にねえ、いつの間に」
藤井夫妻は厨房で仕事をしながらしんみり。
有線がウルフルズの〈バンザイ〉になった。
「よく暇があったこと」
「三津屋デパートの日本橋でスーツ見てたの。そしたらそこにいたんだ」
「アパレル勤務か」
由美が自分のコップにビールを注ぎ足しながら言った。
「そう♪ “マリー・マーメイド”」
「また着る人を選ぶブランドに……」
出てきたブランドの名前は、りんだお気に入りの、細身でないと着にくいタイプの洋服のブランドである。デザイナーはパリコレ出品経験豊富なベテラン。
りんだは先輩2人に比べると貧弱に見える体型なのだ。身長も2人より頭半分低い。
「シナロケの鮎川誠みたいな感じかな。もう少しあったかいけど」
「誰も聞いとらんっつーの」
由美は呆れ通しである。
「明日また会うんだ♪」
「一生のろけてろ」
毬子はそう言うとコップの中のビールを一気にあおった。
「あ、もう試合始まっちょる。TVつけよ」
隆宏が言って、TVが広島東洋カープの試合の中継を始めた。
「スカパー入れたんだ」
りんだは目聡い。
「そ」
絢子が言ったその時。
どう聞いても携帯電話の着メロという音質で、〈ルパン3世のテーマ〉のメロディが流れてきた。
少し聞いて、
「あ、これあたしだ」
と毬子。
「え、あんたこれ使ってんの?」
「いつの間に変えたの?」
由美と絢子が口々に言う中、毬子は携帯電話を持って入り口へ。
「はい大変お待たせしました」
『姉ちゃん? ゴブサタ』
「信宏? どうしたのよ。あんたニカバーやめるとか言ってたから皆で心配してたのに連絡よこさないで……」
「なに、信宏くん?」
厨房から隆宏が口を挟んだ。
『今藤花亭なの?』
隆宏の声を耳聡く聞きつけて、信宏は電話の向こうが何処であるかを読み取った。
「そ。りんだが結婚決まったから飲んでんの」
『2人揃って後輩に先越されてどーすんの』
「今すぐおいで。そんで由美に殺されな」
『怖えー。ところでさ、俺店出すことになったんだ』
「つーことはニカバーやめたのね」
『そ。で、退職金使って、原宿に』
「んな土地代高そうなとこで大丈夫なの? 違うとこでやったら」
『ま、ね。それで相談なんだけど……』
「金ならないよ」
この素早さこそけんもほろろという。
『じゃなくて。看板描いてくんない?』
「は?」
『300センチ✖️1000センチくらいで、ジョーダンでもロッドマンでも桜木花道でもなんでもいいや』
「また肖像権うるさそうなもんばっかり……いったい何売る店なの」
大体桜木花道は〈スラムダンク〉の主人公だから使えないじゃないか。NBAはNBAでうるさいって噂だし。
『スポーツウェアとかグッズとか。いつか年に1回くらいの割で3ON3大会やりたいなあ……』
「もう古くないか?」
『姉ちゃんまた漫画描けば? 店でも立場弱ぇんだろ。主人公バスケプレーヤーにして、そいつうちの看板にすりゃあいい』
「なんか最近そういうことよく言われるような……」
人の話を聞かんかい、と続けたいが、
『まあいいや。とにかくその件で打ち合わせしたいから近いうちに会おうぜ……っつっても……俺来週の日曜の夕方がいいんだけど』
「28日? いいよ。どこにする」
『久びーにお好み焼き食いてーから藤花亭にしようよ』
「わかった」
『ああ……皆元気?』
「元気だよ」
『ふうん、じゃあな』
「あ、こら、あんた今の住所……」
ツー、ツー、ツー。
「切りやがった……」
がっくりと肩を落とす毬子に、
「元気そうなら良かったやないの」
「何言われたの」
皆が水を向ける。
「もうすぐ原宿に出す自分の店の看板描いて、だって」
「ホンマにニカバーやめたんか」
「絵の依頼か。良かったじゃん」
「そうだよね、先輩描けるんだよね……。人手足りない時は手伝いお願いしますね」
「あんたマニアに人気あるからなあ、あたしごときを使ってファン減ったら悪いよ」
また漫画描いたらと言われた、とは言わないが。
『2番。セカンド、東出……』
TVからは、野球中継のアナウンス。
少し立ち直る。そこへ絢子が、
「りんだちゃん、プロから見た毬ちゃんの絵ってどうなの?」
「あたしじゃあプロというより先輩として見ちゃうからなあ……」
「まだまだじゃなあ」
「逃げじゃないの?」
由美も隆宏も、それぞれに甘いと思った。
「でも描いてみたら」
「そうだね……」
「先輩の絵の成功を祈って、かんぱーい!」
りんだがはしゃいだ。
同じ頃。
「業平橋第2コーポ」206号室。
無人だから真っ暗。
RRRRR。
電話が鳴っているのが外まで聞こえてくる。
鳴っている。
ピーッ。
「八木です。ただいま留守にしております。ピーッという発信音が鳴りましたら、お名前とご用件をお願いします」
ピーッ。
『明拓。お母ちゃんじゃけど。休みとれたかい。6月25日じゃけえ、すぐよ。休みとれたかどうかくらい連絡しんしゃい。夏美の結婚式じゃ、絶対来るんよ』
ピーッ。
2時間後。同じ住所。
やはり無人。だから真っ暗。
RRRRR。
電話が鳴っているのが外まで聞こえてくる。
鳴っている。
ピーッ。
「八木です。ただいま留守にしております。ピーッという発信音が鳴りましたら、お名前とご用件をお願いします」
ピーッ。
『八木ちゃん、文佳です。家にいるんで電話ください』
ピーッ。
翌日。
「じゃあ7時半にね。頑張ってねえ」
三津屋百貨店日本橋店でりんだは、満面の笑顔で手を振ってから踵を返すと歩き出した。鮎川誠に似ているという彼氏・中谷氏は、今苦笑いをしている眼鏡をかけた長身細身の男性。
上行ってお風呂用品見てこよう、と思って歩いたはいいが、着いた場所にあったエスカレーターは下り用だった。
ちっ。
体を斜めにして前方を見るが、このフロアのエスカレーターは対になっていないらしい。
そこへ、目の前にネクタイを締めて名札をつけた店員とおぼしき青年が下りてきた。「REST TIME」というのと、「八木」と書いてあるのと、名札を2つつけてる。美青年だ。薄味な顔立ち。足は短いけど。
周りに他の店員がいないので、
「すみません。上りエスカレーターはどちらですか?」
聞かれた青年は、エレベーターガール風に片手を伸ばし、
「ここをまっすぐ行って右に曲がった壁際です。よろしいですか」
と言った。
「有難うございました」
「いえいえ。では」
そのまま下りエスカレーターに乗って行ってしまった。
いい男だったなあ。
ついつい丁寧にしちゃったぜ。
さ、買い物買い物。
りんだは教えられた通りに歩いて上りエスカレーターを見つけ、それに乗って上がって行った。
翌週。
墨田区立××第6中学校では1学期の中間試験が行われていた。
3年B組の教室でも、皆真剣な顔で問題に取り組んでいる。
中でも藤井明日香は問題を睨みつけて、綺麗な顔立ちが凄いことになっていた。
水曜日午後9時。
また「業平橋第2コーポ」206号室。
相変わらず無人。従ってまた真っ暗。
RRRRR。
今度も電話の音が鳴っているのが外まで聞こえてくる。
鳴っている。
ピーッ。
「八木です。ただいま留守にしております。ピーッという発信音が鳴りましたら、お名前とご用件をお願いします」
ピーッ。
『八木ちゃん、文佳です。家にいるんで電話ください』
ピーッ。
次の日曜日。
「毬子さんありがとう」
試験中の鬼のような形相は何処へやら。
明日香は髪を下ろして、淡いグリーンのカットソーにブルーデニムのロングスカートを合わせて可憐に微笑んでいた。
「白々しいことするなあ」
と言ったのは、マイクロミニに、ハイソックスと同じ黒のミュールの香苗。
「誕生日のお礼くらいしおらしくないとこれから誰もくれないじゃないの」
「まあね」
「わかってんなら言いなさんな」
母のたしなめる声は無視して、似たような服装のみゆきと話している。一方妹は包みを開け、青一色のシンプルなカットソーを認めて、
「あー、こーゆーの欲しかったんだ! ホントにありがとう!」
と言ってあらためて満面の笑みを浮かべる。
「どう致しまして。あとで信宏も来るよ」
「珍しいね」
「あたしと打ち合わせがてらお好み焼き食べたいんだって」
「ふうん」
その時。どう聞いても携帯電話の着メロという音質で、浜崎あゆみの曲のメロディが流れてきた。
「誰か電話鳴ってるよ」
「あ、あたしだ」
「やっぱり香苗か」
と言ったのは青とオレンジが基調なアロハシャツっぽい柄のマイクロミニスカートを履いている毬子。
「やっぱりってどーゆー意味毬子さん……もしもし?」
「われェどっか行くのと違うのか? いつまでも店ン中でうろうろしちょると邪魔じゃけえ、とっとと行きんしゃい」
電話で話している長女を無視して隆宏が言ったら、
「根本がまだなんよ。ほじゃけえ行けんの」
「すまんな祐ちゃん」
と言っていたら店の扉に背の高い人影が透けて見えた。
「開いとるけど電源入っちょらんけえ、手で開けえ」
店の主のその台詞でガラッと開いた扉の向こうには、根本一哉。
「おっ来たな」
「噂をすればなんとかじゃん」
「なんか今日ミニのひと多くねえ?」
「おふくろまであんなもん履くから……悪い」
「仁科だけならいつものことだけどな」
「よく見ちょるね」
「あっおばちゃん……」
「体壊しやすいからやめえ言うとんじゃけんどねえ……」
少年2人が、(絢子)おばちゃんが天然系で良かった、と思っていると、
「あ、一哉来たの? じゃそろそろ行こうか」
といつの間にか電話を切っていた香苗が言った。
「行ってきまーす」
と言って、5人は出て行く。
「ごぶさたしてまーす」
と言って、七瀬信宏が自動になった扉から入ってきたのは午後6時半だった。
「まったく何やってんだか」
「姉ちゃんだっておふくろにそう思われてるよ。ところで祐介は?」
「今日明日香の誕生日だからね、“ハロー”行ってるよ」
“ハロー”とは最寄り駅そばのカラオケボックスの名前である。
「えっ、そうなの? 忘れてた。
すみません……何も持ってきてない……」
「気にせんでええよ。ホンマ久しぶりやね」
次女が今日15歳になったおばちゃん・絢子は、のんきに笑う。
しかし、
「あんた今住所何処なのよ。それくらい教えときなさい」
「今? 友達のトコあちこち」
へらっとしている弟に、
「いいかげんなこと言ってんなよ。あんた仕事としてあたしに物頼んだでしょ。そういう時にクライアントの連絡先知らないわけにいかんでしょうが。姉弟だからって甘く見るんじゃない」
言われた信宏は、渡されたおしぼりで手を拭きながら、
「んなこと言ったって部屋探せないで寮追い出されちまったんだもん。暇なくてさ」
荷物はトランクルームを借りている。
「有給休暇はどうしたのよ。やめる前にまとめて取るってよく言うじゃん」
「それが……」
「どうしたのよ?」
「2人とも何か頼みなよ。まだ暇じゃけえ、今のうちやで」
「助かった……大将ありがと、俺豚玉とビールね」
毬ちゃんやっぱり長女なんねえと思いつつ、隆宏は割って入るが。
「大将甘いこと言ってないでよ。あたしもビール。あとミックスね。
で? 電話番号くらい教えなさいよ」
「チッ、わかったよ。
今は……なに線だっけ……十条の、高校時代の友達ン家にいる。携帯が、090……」
解決しそうだ。
『2番。セカンド、東出……』
今、スカイパーフェクトTVから、広島東洋カープの試合中継で、アナウンスが流れる。
「打てよ……」
隆宏が手を止めてTV画面を睨んだ。
午後9時。
また「業平橋第2コーポ」206号室。
主は今日もまたいない。だから今度も真っ暗。
RRRRR、と、電話の音。
ピーッ。
「八木です。ただいま留守にしております。ピーッという発信音が鳴りましたら、お名前とご用件をお願いします」
ピーッ。
『八木ちゃん、文佳です。家にいるんで電話ください』
ピーッ。
午後10時。
「あいつらまだ歌っとるんか? 出てったん何時じゃ?」
藤花亭で隆宏が言った。
「また20人くらいで歌ってるんじゃないの? それにしても遅いね……おや?」
〈ルパン3世のテーマ〉が流れた。
「祐介かな?」
「姉ちゃんの着メロ今それなの?」
吹き出す信宏だが。
「うるさい。はい。え!? はい、私です」
だんだん顔つきが真剣になる毬子。
「はい、今から伺います」
真剣な表情のまま、背もたれにかけていた白いジャケットをつかんで立ち上がり、扉に向かう。
「何じゃって?」
「交番から。祐介いるんだって。ちょっと行って来る!」
毬子は、振り返ってこれだけ言うと、マイクロミニで夜の街へ飛び出して行く。
日頃の運動不足にもめげず、毬子は必死で走った。
そして、彼女が息を切らせてたどり着いた交番の中には、祐介と警官と、あとどこかで見たような薄味な顔立ちの美青年が1人居るのが見えた。
プッシュボタンを押す指が少し震えているのを感じる。
2コールで。
『はい、消防ですか? 救急ですか?』
「救急です」
『そちらの住所をお願いします』
「ええと、本所税務署の前……」
『それが公衆電話ならあなたのまん前の上の方にそこの住所が書いてある筈です、それを読み上げてください』
電話に出ている消防署員は、ちったあ落ちつけよ、と思いながら早口に言った。
「はい。墨田区業平……」
言いながら毬子は、少しは落ちついたか、病人の方に目をやった。
野次馬がたくさんいた。
病人はどうやらまだ立てないらしい。
『わかりました。5分くらいでそちらに着くんで』
「はい、よろしくお願いします」
ガチャ。
手配終わり。
どうやら、有難迷惑大きなお世話、とならずに済みそう。
「救急車呼びましたからー」
毬子は大きな声でこう言いながら病人の方に歩いていく。
野次馬は10人くらいだった。年齢性別は様々……自転車のハンドルにシートをくくりつけて子供を乗っけたおばちゃんまでいる。
毬子が第一発見者だというのが彼らにはわかったらしい。彼女と入れ替わりに三々五々去って行く。
残ったのは。ジーンズを履いた若い薄味な顔立ちの美青年だった――これが先程マツモトキヨシで買い物をしていた男性である。片手にひとつずつ荷物を持っている。
真ん中でへたばっているのはかなり汚い、くたびれた格好の初老の男性。
「すんません。もう平気ですから……」
しかし彼は、それから毬子が見ただけでも、2回自力で立ち上がろうとして2度とも失敗した。
「今日寒いですよねえ。寒さで血管詰まったかな……?」
毬子は生噛りの知識を披露している。
救急車がやってきて、男性を運んで行く。
行ってしまうと。
「そろそろ行きます」
と美青年が言うので、
「あ、どうも」
と所在なげな挨拶をした。
毬子はスタスタと、駅に向かって歩き出す。
数分後。青年は東武伊勢崎線業平橋駅寄りに歩いていく。
いささかぐるぐる歩いて、知っている者が見たら「近いじゃねえか」と嘆くような場所にある2階建てアパートの階段を登った。壁についたプレートに「業平橋第2コーポ」と書いてある。
206号室の前で止まると、Gジャンのポケットから鍵を出して開ける。
中へ入った。
「206」という表示の横には、何も書いてない。
同じ頃。
上野駅近くの、アメ横と呼ばれている商店街の一角。入り口近くに何台か自転車が止まっているゲームセンター。
中では。
ばたんきゅう。
画面から、甲高い典型的なアニメ声でそんな台詞が流れた。
「あらー、俺勝っちゃってえーの? ごっつぁんでした」
ゲーム機の前に座っている茶髪を長めにして額を出した髪型の小柄で童顔な少年が、片手を左に出した。横を向くと耳にピアスが覗く。服装は紺のジャケットにブルージーンズだ。左隣には黒いウェーブの長い髪。
「アスカぁ、落ちゲーまで負けてどうしたの。調子悪いじゃん」
と彼らの背後で言ったのは、シャギー入りのショートカットにミニスカート、シャツをスカートにインして肩にカーディガンをかけた、長身ナイスバディを強調しているような、そこに立っている美少女。よく見ると口紅が塗られている。背が高い。
「藤井は受験勉強始めたんだろ。じゃなきゃコレ絶対負けねーよな」
これを言ったのは元ヤンキースの松井秀喜かはたまた、という感じの老けた顔立ちに、ガタイの良い長身を持つ、美少女の隣に立っている……少年。隣の少女より頭半分背が高い。カーキ色のブルゾンにストレートジーンズ姿。
「そんな真面目にじゃないよ。あたしの周り勉強に関しては役に立たんのばっかじゃけえ」
ゲーム機に座っている、黒く長い髪をウエーブへアにして、デニムの長いスカートを履いた美少女が言った。口紅がローズピンク。サーモンピンクのシャツをインして、上にカーディガンを羽織っている。
彼女が「藤井明日香」。
「じゃあなんで七瀬とつきあってんの」
「俺で悪いか」
老けた少年が言うと、明日香より早く、その隣の茶髪の少年が答え、遅れて、
「人生勉強だけじゃないじゃんネモちゃん。そんなことゆっとると村木みたいになっちゃうよ」
明日香が言った。
「学年トップの人間が言う台詞じゃねーな」
ネモちゃんと呼ばれた老けた少年は、隣のゲーム機にもたれて腕を組みつつ言った。
「ネモちゃんお母さんもお姉さんも手に職あるんだもん。方程式知らなくたってなんかのプロであれば生きていけるええお手本やん」
「やめてっ、縁起でもないこと言わないでっ。5日からアイツが担任だったらどーすんの! 1番ヤバイのあんたらだろーが」
「みゆき、悲観的に考えたってしょーがないじゃん。
ねえ、あたしも1回これやりたい」(もっかい、と発音した)
「俺もうパス。弱い奴倒してもつまらんわ」「なんじゃと祐介!」
明日香は激昂して立ち上がる。それを聞いた店員が、筐体を4つ挟んだところにある両替機のそばから彼女を睨んだが、それに気付いた者はいない。
「はーい、挑戦者根本一哉行きまーす」
「っっしゃあ、やったるぜい」
「どっちか次替わってよ。立ってるのって疲れるんだから」
「おう。んじゃコレで負けた方が仁科と交替な。いいか藤井」
「わかった」
不遜な発言をして席を立った祐介に、恋人とはとても思えない口調でつかみかかった明日香を、一哉が仲裁。みゆきにも愛想と、彼は如才のないところを見せる。
七瀬祐介。藤井明日香。根本一哉。仁科みゆき。
ちょっと見えないが、4人はもうすぐ中学3年生になる。
銀座。午後6時。
毬子は「YASKO」という店で、鍵を開けて中に入った。
一番乗りはここ数年いつものこと。
でも、それやるようになったら成績が落ちた。
挫折気味の今日この頃。
今日は泰子ママが早く来て「いつまでも寒くてや―ですねえ」等と世間話したけどいつもは7時くらいまでひとりだ。
その夜……午前2時半。
「ただいまー……」
毬子、帰宅。
そのままある部屋のドアをノック。
「帰ったン?」
部屋の中から少年の声がした。
「ただいま、まだ起きてたの? 早く寝なよ……煙草吸ってないね?」
「ないよ」
「本当かァ?」
ドアを開けた。
中にいたのは、先程アメ横のゲームセンターにいた茶髪の少年。
「どーせならノックしたすぐ後に開けろよ」
小さな音でラルク・アン・シエルが流れている。コーラの缶。「のりしお」と書かれたポテトチップスの袋。
「あたしすぐ寝るわ……あ、明日生ゴミなのよ。まとめとくから出しといてくれる?」
「えー?」
「稼いでから文句いいな、中学生」
「ふぁーい」
「おやすみ」
毬子は扉を閉める。
可愛いんだか可愛くないんだか。
3日前に14歳になったばかりのマイ・スウィート・ダーリン。
もとい。
我がひとり息子殿。
翌日午後10時。
またやってる。
昨日は和服デーだからいなかったけど、若い子の中には、お客様の前で足を組んだり煙草を吸ったりする子がいる。なのに何故か売上げいいんだ。何回注意してもやめない。お客様が注意しなきゃいいのか?
後で、
「やめろって言ってるでしょ。何度言ったらわかんの」
と言っても、
「売上げ悪いヒトにそーゆーこと言う権利ないじゃん。ババアの負け惜しみにしか聞こえないんだけど」
化粧の濃い顔でふてくされて言い返しやがった。
彼女達が言うことを聞かないのはあたしに問題があるからだ、と泰子ママの論理ではなるらしいし。
ママに言わせりゃ、
「マリちゃんよりあの娘達の方が水商売に向いてる」
そうだ。
その週の日曜日の昼下がり。
根本美容室や毬子の自宅マンションの近くにある、「藤花亭(とうかてい)」という名前の広島風お好み焼き屋。
そのカウンターに、毬子はいた。
カウンターの中には、大柄で迫力が見える、体重の重さがギャグじゃなく重厚さに繋がりそうな中年男性と、二重まぶた系正統派美人が年齢を重ねて太ってしまった典型、という感じの中年女性。
毬子の隣には、茶色いシャギー入りロングヘアに、黒い光沢シャツと細いパンツ、ハローキティ柄でピンク色の厚底健康サンダルを履い化粧の濃い少女。
3人は、藤井明日香の家族だった。
「しっかしよくそんな汚い奴助ける気になりますね、毬子さん」
藤井家長女香苗は、足を組んで座ってる。
「香苗。あんたね。もうすぐ自分とすれ違うだろう人が目の前でバタッとイってごらんよ。そんなことかまってられなくなるって。あ、大将、ビールちょうだい」
「おう」
大将、と呼ばれた中年男性は、毬子の目の前にサッとコップと瓶を置く。彼女はそれを受けとって手杓した。香苗が、
「そーゆーもんかねえ」
「そーゆーもんだよ。そうじゃなきゃ玉の輿になんか乗れないよ。そーゆー男ってずるいからね。よく見てるもんだよ。ボケた親の世話させようって魂胆持ってる奴とか女ときちんと向き合わないくせにヤりたいだけでええカッコしいする奴とか、いろんなのがいるから」
「まあまあ。毬ちゃん、そう言わんと。ちゃんとええ人はおるけえ。そーゆーことする奴は幸せになれんと決まっちょる。いい奥さんがおっても満足せんもん。
香苗は本当に自分に合う人かどうか考えんさいよ。だいたい今の彼氏をどう思っちょるの」
冷めたことを言う毬子と身の程を知らないような娘を、絢子という名前で割烹着を着た元(?)美人がたしなめた。
「早く結婚して落ちつきたいんだけどねぇ」
「そんな魂胆じゃワレは一生落ちつかんわ。大体やっと就職できたばっかりで」
「1回決まったのに化粧濃くしてたら内定取り消してきたもんねえ」
「毬ちゃんよう笑て(わろて)られるなあ。祐ちゃんがそやったらどないするん?」
店主・藤井隆宏氏にこうつっこまれ、毬子は「うー……」とうなった。
「ありえそうで怖い……」
「確かに」
「香苗。内定取り消された張本人が何言うとんの?」
「折角決まったんじゃけえ、仕事を続けることを考えんさい。おまえ高校時代はバイトばっかりしちょッたくせして、1日中働くようになったらなにゆうとるんじゃ」
カウンター越しに両親からステレオで言われて内心、ピーンチ! と思った香苗の耳に、
「かーなーえーちゃん、あーそーぼ」
という合唱が飛び込んできた。
「何小学生みたいなことやってんだか」
と毬子。
大将・隆宏が、
「開いとるけど電源入っちょらんけえ、手で開けえ」
言うと、扉が開いて、茶髪金髪当たり前、真っ白いヤマンバや青い髪・鼻ピアス等など派手な若い者達が男女取り混ぜ20人ほど立っていた。
中に、明日香、祐介、一哉、みゆきの4人の姿も見える。隆宏は、
「あれ、明日香、上におったのと違うか?」
「今呼ばれて下りたんよ」
「あ、じゃああたし靴履いてくるねえ」
手をひらひらさせて香苗が消えた。
「祐介、あんた今日夕飯どうすんの」
毬子は母親の顔をした。
「いらね。どーしたの、わざわざ言っちゃって」
「たまには一緒に食べようよ……」
「よく言うぜ……」
今のやり取りの何処が受けたのかわからないが後ろの若い者も、藤井夫妻も笑っている。
「お待ちぃ」
扉の外から香苗の声が聞こえた。
皆に囲まれて見えないが、きっと黒い厚底ブーツを履いているんだろう。
「おー、行こ行こ」
「車に気をつけな」
「警察の厄介になるようなことすんじゃないよ」
ガラガラ……と扉が閉まっていく。
刹那、黒い踵がちらと見えた。
「返事は!?」
絢子が怒鳴った。
「ふあーい」
「行ってきまーす」
店の中は、夫妻と毬子の3人になった。
「やれやれだね」
「ああ」
「毬ちゃんもああやった」
「絢子さん、一緒にしないでよ。あたしあんなに派手じゃなかったもん」
「スカートのウエスト巻き上げてライヴハウスばっか行っとったやろが」
「やめて」
「でもあいつらクスリはやっとらんでしょ」
絢子が切りこんできた。
「やってたらタダじゃすまんでしょ」
「大丈夫だと思うよ。多分シンナーもやってない」
「それはわかる。あれやると歯ァスカスカンなるけえ」
「大将だって人のこと言えないじゃん」
「毬ちゃん……」
よせやい、という気分の隆宏。その時、
「あれー、どーしたのー?」
扉越しに女性の声が聞こえた。
「今日日曜だもん、休みじゃないよねえ?」
隆宏が、
「開いとるけど電源入っちょらんけえ、手で開けえ」
先ほどと全く同じ台詞を言った。
それで店に入ってきたのは、毬子や瑞絵と同じ位ある長身をパンツスーツに包んだ、黒いショートボブカットの美女である。
「はいはい。
チーィッス。御無沙汰してます。
毬子も御無沙汰。別れたんだって?」
「あら由美ちゃん、どしたの」
「ホント御無沙汰……話したい時つかまらないで今更言うなっつの」
岩淵由美は毬子の小学校以来の親友だ。
「これから仕事なんだけど、たまにはここでお昼食べようかなあ、って」
「あんたたち開店以来のお客さんだもんね」
「ねえ、ここって今年開店20年?」
「おーよ」
「言わないでー。年食ったの実感してイヤだ」
言って、両耳にあてた由美の両手首を、素早く立ち上がった毬子が背後から両手で押さえた。そして。
「由美、もっとイヤなこと教えてあげるよ。香苗こないだ入社式だったんだよ」
「経産婦の図々しさかい」
由美がこう言った途端、場の空気が凍った。
「由美ちゃん」
「え、原因またそれなの? あんたロクな男にあたんないねえ。3度めじゃん」
絢子に呼ばれただけで由美は理解した。
「付き合い始めてしばらく経って家にあげない時点で、なにか変だと思うみたいね。それでいるってうちあけた途端よそよそしくなってさ」
「ええよ。呼ばなくて。子供邪険にして殴るのおるから」
「絢子さん……」
こういう話題になると妻がこういう発言をするのはいつものことだから、隆宏は黙っている。心の傷はそうそう癒えないから。
「今度は1番ひどかったね。ただ二股かけやがっただけならまだしも、向こうの女妊娠させて、あたしには『もうひとりいるからいいだろ』って勝手なこと言った挙句、別れ話する時に女連れてきたんだよ」
「ほじゃけえ始めから言うとったやろ。やめとけって。大体今時銀行の頭取の息子がええとも思えンが。あ、由美ちゃん、なににするか決まったんか?」
隆宏が割って入る。
「何、お客さんで来てたの? あ、大将、ぶた玉とオレンジジュース」
「あいよ」
「よくわかったね」
「あんたがそんな相手と出会うなんて店しかない」
「悪かったね」
由美が毬子をやりこめてるところへ。
「由美ちゃん飲まないの? 珍しいね」
言いながら絢子は、オレンジジュースの瓶とコップをカウンターに出して注いでやった。
「だからあたしはこれから仕事なんだって……あ、絢子さんありがと」
「こんなお花見日和にもったいない」
「何、ライヴ見に行くの?」
毬子と絢子が同時に言った。
「そう。渋公の“トラフィック・ジャム”」
「りんだが好きなバンドじゃない?」
「ああ、そーいやそうだね。楽屋で会うかもね」
「りんだちゃんも久しく来ちょらんねえ……部外者が楽屋なんか入ってええんかい?」
「ホントだよ。少女漫画家ってオイシイよなあ……あんたなんでそっち目指さなかったの。りんだとよく本つくってたじゃん。ガンダム好きでさ……って、りんだで思い出した。三村が“まりあ”の編集部に異動になったんだ。知らない?」
「三村さんが? 聞いてないよ。最近律子と話してないもん。独立した人間がなんで知ってんの」
「おととい原稿届けに行ったら、ね。フロア変えもするからってバタバタしてたよ」
「ふうん……“まりあ”って最近出来た少女漫画雑誌だよね……なんかやたらなんでも載ってる……そーいや1度見たことあるわ。りんだが描いてたから」
「あいつ今回はどんな話を描いてたの?」
「国をのっとられた王女様が、巨大ロボット乗り7人くらいと手ェ組んで、のっとった悪徳政治家に喧嘩売ってた」
平然と言う毬子に対し、
「ガンダムで白雪姫やってんの……原典回帰かよ……笑う……はははは……ああおかしい……」
由美はたっぷり3分笑い続けた。挙句、
「頼むから誰か止めて……」
とうめく惨事となった。
「由美ちゃん、話を戻そ。最近みんな御無沙汰だね。律っちゃんも信宏くんも」
皿を拭きながら、絢子。
「信宏くんていやー、ニカバーやめるって言ってたのどうした」
ニカバーとは業界最大手のスーパーマーケットである。食料品だけでなく、衣類や本や一部家電や寝具も売っている。
「やめたんじゃないの? あいついっつも自分で決めてからあたし達に言うんだから」
毬子はふくれる。寂しい、という風を言外に滲ませて。
「せっかくいる3人姉弟なんじゃけえ、もうちょっと仲良くしんさいよ。妹の旦那の異動話なんて友達から聞く話じゃないじゃろう。
あ、今から電話して一緒にお花見にでも行けばええやんか。
はい由美ちゃんぶた玉お待ち」
毬子はビールの入ったコップを置くと、
「……あいつ極端な人込み嫌いだかんなあ、ま、たまには誘ってみよ」
と言って、携帯電話を出した。横で由美が、いただきまーす、と言って箸を割っている。
毬子より、律子は5歳、信宏は7歳年下の弟妹。三村は律子の夫で毬子より2歳年上で、ドーリアン・マガジンズという出版社に勤めている。由美とは『ROKETS』という、80年代に出来た少年少女向け音楽雑誌の編集部に所属する同僚だったのだが、彼女は2年前フリーライターになった。
“まりあ”とは、ドーリアン・マガジンズが2年前に創刊した少女漫画誌で、りんだというのは、本名を佐藤利奈という2人の中学の後輩でもある売れている少女漫画家だ。 “まりあ”には創刊時から描いている。
「あ、もしもし、律子?」
『お姉ちゃん? 久しぶり』
「久しぶり。今由美と一緒に藤花亭にいるんだけどさ、出ておいでよ。上野に夜桜見に行かない? 由美今から仕事だからあたしと2人なんだけど祐介呼んでもいいしさ。どう?」
『……ごめん、頭痛くって。せっかくだけど……』
「あんたいっつもそんなことばっか言ってんじゃん。外に出る方がかえっていいと思うよ?」
『ごめんね。わざわざどうもありがとう』
「うん、しょうがないな。わかった。じゃあね。お大事にね」
ピッ。
「りっちゃん来ないって?」
「絢子さん、あいつどーしたらいい? 年がら年中塞いでて、なにかあるのかなあ。鬱かなあ?」
「もともと内気じゃったけどね」
「内気じゃ内気じゃって甘やかしすぎたのと違う? 前に信宏くんも言うとったやんか」
隆宏が口を挟んだ。
有線放送からは、大滝詠一の〈君は天然色〉が流れてる。
「まあ、転校が多かった子ってサービス精神旺盛になるか内気になるかのどっちかや言うモンなあ」
「てそれについて行かんかったけえ、祐ちゃんが生まれよったんな」
「それは置いといて。転校ってやっぱり心細いよ。それを繰り返して……しかもあの2人が行ったのって全部言葉が違うとこじゃない。あたしも東京へ来る時は不安じゃったけえね」
由美は経験者顔。
「お、出たね広島弁」
「何年ぶりね?」
「ええやん。たまには」
由美は照れた、が、
「20年間どうもありがとうな」
「これからもよろしく」
「何言ってんですか」
「あ、由美が『ここ入りたい』って言わなきゃ来てなかったね」
「ほんまにね」
「いろいろあったなあ」
空気がしんみりしてきたとこで由美が腕時計を見て、
「あ、そろそろあたし出るわ。御馳走様でした」
「あいよ。850円ね」
「ちっ。はい」
「千円から……150円のお返しな」
「ありがとうございましたあ」
ガラガラ。
由美は自力で扉を開けて出て行った。
有線が,KATZEというバンドの『LOVE GENERATION』に変わった。
そして彼女は、地下鉄をICカードで乗り継いで渋谷へ出ると、目的地へ。
バックステージ・パスを受けとったところで、
「おう岩淵、早いな」
と同世代の男性に声をかけられた。振り向くと、
「三村じゃん。どうしたの?」
「異動挨拶。俺が担当してたから」
「あ、そうだったね」
それであたしにライヴ・ルポ書く仕事が来たんだわ。
思い出したところへ。
「先輩取材ですか?」
「りんだ、やっぱり来てたね」
噂をすれば影だわ、と頭半分背の低い後輩を見て由美は思う。
「由美さん、『やっぱり』ってなんですか? それ」
「だって、前にあんたに会ったのもジャムの武道館だったじゃん」
「そうでしたっけぇ」
佐藤“りんだ”利奈がふくれた時、
「なあ、今楽屋入ってって大丈夫かな? メンバーいます? マネージャー……西口さんも」
「大丈夫ですよ。今会いました……御無沙汰してます……えと……」
前に打ち上げで見た顔だ。その時いろいろ名刺とかもらったけど……でも、名前まで思い出せない。
「あ、こちら三村芳樹さん。ジャム担当だったんだけど、今度の人事で “まりあ”に異動になっちゃってねえ……」
「え、 “まりあ”に来られるんですか?
あ、あたしこういう……」
言いながらりんだは名刺を出そうとバッグをかき回し、由美はりんだを指して、
「 “まりあ”でも描いてる漫画家なのよこの子。佐藤りんだっていうペンネームで、でもってあたしの中学の後輩なんだ」
「そーいやいつか後輩に少女漫画家がいるって言ってたなおまえ……」
「由美さん先に言わないでくださいよー……あ、あったあった、はい、私こういう者です」
「どうも……お手やわらかにお願いします。今名刺ないんで」
「そのうちわかるでしょ。そーいえば崎谷さんも前〈ROKETS〉にいたって言ってたなあ」
「何、今崎谷が担当なの?」
由美と三村は驚いた顔をした。
「あたしまりあじゃずっと崎谷さんですよ……やっぱり知ってたんだ」
「あたりまえでしょ。“ジラフ”のツアー取材の時に仙台で3人で雑魚寝した仲だよ」
「どーゆーツアーだったんですかそれ……あ、ちょうどいいから渡しちゃお。決まったんですよ」
言いながらりんだは再びバッグをかきまわし、白い封筒を出した。
「何これ……!」
3人で封筒を囲む格好になり。
「……」
封筒を裏返して書いてあった文字に絶句してから、
「あ、俺楽屋行ってきていい?」
三村は恐怖を浮かべた面持ちで歩き始めた。
「りんだ?」
やられたぜ、という気持ちになりながら、由美は封筒をぐしゃっと握って後輩を見た。
「随分急な話じゃないの?」
「先輩紙にシワできちゃう!」
4月6日。
午前11時に起きてみると誰もいない。
「始業式今日だっけ」
呟くと毬子は、リビングを横切ってドアを開け、ポストを開けた。
中には、携帯電話の請求書と、真っ白い封筒がひとつずつ。
その封筒には、金箔で「寿」の文字。
封筒の裏には、中谷家・佐藤家云々とある。
「やられたぜ……」
少女漫画家をナメちゃいけねえなー。
ドアを閉めて封筒を開け、中を見ると、6月25日に浅草の式場、と書いてあった。
「随分急だなあ……」
毬子は顎に手をあてて考えた。
「あいつ子供出来たのかしらん」
その頃。
墨田区立××第6中学校。3年B組の教室の中である。
髪を三つ編みにした明日香と、みゆきが白いブラウスに紺のブレザーとプリーツスカートの制服で、ひとつの机を挟んで向かい合っている。胸に細めの赤いリボン。スカート丈が大違いで、みゆきは膝上20センチ、明日香は膝下20センチ。
明日香は机に突っ伏している。
「ああ、しんど」
「やな予感当たっちゃったね」
「あんたが縁起でもないこと言うからや。責任とんなさい」
「と言われてもねえ……具体的にどうすりゃいいのか……1年は長いよ?」
みゆきは明日香に目線を合わせようと首をかしげた。
「3年続けて4人一緒で良かったって思おう、ね?」
窓際では、祐介と一哉が男の子達と雑誌を広げていた。
同時刻。
「業平橋第2コーポ」206号室には、「八木」という名前が出ていた。
今、そのポストに若い者がピザ屋のチラシを入れたところ。
時は飛んで5月中旬。
「何、ウエストでスカート折ったの?」
朝、大荷物を持った明日香が祐介を迎えにやってきた、七瀬家の玄関。
いつもより制服のスカート丈を短くしている。
「外野うるさいからさー、ちょっと折りゃ校則と折り合うっしょ? でもこれ、慣れないとけっこう難しいのね、こないだの日曜日にお姉ちゃんに教えてもらったんだけど、うまくできなくてボロクソ言われてさ」
明日香の方が勉強ができることへのやっかみだろうか、と、考えなくもない毬子であるが、黙って明日香の言い分を聞く。
「俺はやっと安心してコイツと歩けるわ」
玄関に出てきた祐介が言った。
「失礼だなー祐介。なんでそんなこと言うの?」
「こいつと歩っとると皆振り返るけえ、なんか辛い」
「そりゃああたしが可愛いからよ」
「おまえなあ……」
「あんた達何時集合なの?」
慌てて借り物の腕時計を見た2人は、
「ヤバッ……行ってきまーす」
「八つ橋あればええんよな?」
お土産の話をするのは祐介。
「あんたにまかせる。いってらっしゃい」
エレベーターに向かう2人に、毬子は手を振った。
中学生共は修学旅行で京都へ行った。
修学旅行に行っている間は彼氏を家に呼んで過ごそうと休みをとってあったのだが、肝心の男がいなくなってしまったので、仕方なく今日も藤花亭である。
ただし、今日はりんだと由美も一緒だ。
失恋アンド結婚祝いの飲み会で、主にりんだの都合で今日まで延びたのである。
有線が〈てんとう虫のサンバ〉をかけている。
「あんたも本当に急なこと言ってきたもんよね。ぶた玉ちょうだい」
「ギリギリで招待状寄越してくるんじゃないよ、あたしイカ玉ね」
「でもホンマにおめでとう。はい、これはウチからのお祝い。奢りやよ」
言いながら絢子が、カウンター越しに利奈のグラスにビールを注いだ。
「先輩達差し置いてスミマセン」
りんだは照れながら頭を下げた。
「そうだよぉ。特にあたしがね」
由美は、弱くない筈だが顔を赤くしてふくれた。
「ちょっと、由美だけじゃないでしょ」
「毬子は祐介がいるから」
「それって、旦那はいらないけど子供は欲しいってあれ?」
毬子がボリュームを上げた。
「そんな甘いもんと違うぞ。あんたらが今更そんなこと言うとは思わんかったな」
隆宏が口を挟む。
「でもねえ」
「ちょっと違いますよね。あとバツイチの人も。友達でもいるけどさ」
「あたしだって30になる時イヤだったよ」
ったく、という顔で毬子はビールを煽り、
「産んだはいいけど可愛いばっかりじゃないしさ。小さい時はちょっと目ェ離すと具合悪くなるし、あたしに似たのかアタマは悪いし、大きくなったら問題起こしたっちゃ呼び出されるし。あたしがあいつの件で今まで2回警察呼ばれてるの忘れたの?
由美だったら絶対ツアーの追っかけ取材はできないね」
「せやな」
「そこまで悪し様に言うことないでしょ」
「うちみたいに双親揃っちょったって、香苗はどんどん派手になりよるし、明日香は勉強はようできるけど先生と折り合い悪うて揉めよるし、子供おったら大変やぞ、わかっちょるかりんだちゃん……。
まさかもうおるとか……」
「いや、できてません、できてません」
利奈は顔の前で手を振る。
「ホンマか? 招待状発送いやに急やったちゅうやんか」
隆宏も絡み酒の様相になってきた。手元にあるコップには水しか入っていないのだが。
「違いますって。たまたま式場開いたから入ったんですよ。狙ってキャンセル待ちして……殆ど賭けでしたね。先に6・7月仕事開けちゃったから」
「はいはい。あ、大将、ネギ焼き天かす入り追加」
由美が言った。
「しっかしりんだちゃんに会うの久しぶりやねぇ思ったら結婚決めとったかぁ」
「本当にねえ、いつの間に」
藤井夫妻は厨房で仕事をしながらしんみり。
有線がウルフルズの〈バンザイ〉になった。
「よく暇があったこと」
「三津屋デパートの日本橋でスーツ見てたの。そしたらそこにいたんだ」
「アパレル勤務か」
由美が自分のコップにビールを注ぎ足しながら言った。
「そう♪ “マリー・マーメイド”」
「また着る人を選ぶブランドに……」
出てきたブランドの名前は、りんだお気に入りの、細身でないと着にくいタイプの洋服のブランドである。デザイナーはパリコレ出品経験豊富なベテラン。
りんだは先輩2人に比べると貧弱に見える体型なのだ。身長も2人より頭半分低い。
「シナロケの鮎川誠みたいな感じかな。もう少しあったかいけど」
「誰も聞いとらんっつーの」
由美は呆れ通しである。
「明日また会うんだ♪」
「一生のろけてろ」
毬子はそう言うとコップの中のビールを一気にあおった。
「あ、もう試合始まっちょる。TVつけよ」
隆宏が言って、TVが広島東洋カープの試合の中継を始めた。
「スカパー入れたんだ」
りんだは目聡い。
「そ」
絢子が言ったその時。
どう聞いても携帯電話の着メロという音質で、〈ルパン3世のテーマ〉のメロディが流れてきた。
少し聞いて、
「あ、これあたしだ」
と毬子。
「え、あんたこれ使ってんの?」
「いつの間に変えたの?」
由美と絢子が口々に言う中、毬子は携帯電話を持って入り口へ。
「はい大変お待たせしました」
『姉ちゃん? ゴブサタ』
「信宏? どうしたのよ。あんたニカバーやめるとか言ってたから皆で心配してたのに連絡よこさないで……」
「なに、信宏くん?」
厨房から隆宏が口を挟んだ。
『今藤花亭なの?』
隆宏の声を耳聡く聞きつけて、信宏は電話の向こうが何処であるかを読み取った。
「そ。りんだが結婚決まったから飲んでんの」
『2人揃って後輩に先越されてどーすんの』
「今すぐおいで。そんで由美に殺されな」
『怖えー。ところでさ、俺店出すことになったんだ』
「つーことはニカバーやめたのね」
『そ。で、退職金使って、原宿に』
「んな土地代高そうなとこで大丈夫なの? 違うとこでやったら」
『ま、ね。それで相談なんだけど……』
「金ならないよ」
この素早さこそけんもほろろという。
『じゃなくて。看板描いてくんない?』
「は?」
『300センチ✖️1000センチくらいで、ジョーダンでもロッドマンでも桜木花道でもなんでもいいや』
「また肖像権うるさそうなもんばっかり……いったい何売る店なの」
大体桜木花道は〈スラムダンク〉の主人公だから使えないじゃないか。NBAはNBAでうるさいって噂だし。
『スポーツウェアとかグッズとか。いつか年に1回くらいの割で3ON3大会やりたいなあ……』
「もう古くないか?」
『姉ちゃんまた漫画描けば? 店でも立場弱ぇんだろ。主人公バスケプレーヤーにして、そいつうちの看板にすりゃあいい』
「なんか最近そういうことよく言われるような……」
人の話を聞かんかい、と続けたいが、
『まあいいや。とにかくその件で打ち合わせしたいから近いうちに会おうぜ……っつっても……俺来週の日曜の夕方がいいんだけど』
「28日? いいよ。どこにする」
『久びーにお好み焼き食いてーから藤花亭にしようよ』
「わかった」
『ああ……皆元気?』
「元気だよ」
『ふうん、じゃあな』
「あ、こら、あんた今の住所……」
ツー、ツー、ツー。
「切りやがった……」
がっくりと肩を落とす毬子に、
「元気そうなら良かったやないの」
「何言われたの」
皆が水を向ける。
「もうすぐ原宿に出す自分の店の看板描いて、だって」
「ホンマにニカバーやめたんか」
「絵の依頼か。良かったじゃん」
「そうだよね、先輩描けるんだよね……。人手足りない時は手伝いお願いしますね」
「あんたマニアに人気あるからなあ、あたしごときを使ってファン減ったら悪いよ」
また漫画描いたらと言われた、とは言わないが。
『2番。セカンド、東出……』
TVからは、野球中継のアナウンス。
少し立ち直る。そこへ絢子が、
「りんだちゃん、プロから見た毬ちゃんの絵ってどうなの?」
「あたしじゃあプロというより先輩として見ちゃうからなあ……」
「まだまだじゃなあ」
「逃げじゃないの?」
由美も隆宏も、それぞれに甘いと思った。
「でも描いてみたら」
「そうだね……」
「先輩の絵の成功を祈って、かんぱーい!」
りんだがはしゃいだ。
同じ頃。
「業平橋第2コーポ」206号室。
無人だから真っ暗。
RRRRR。
電話が鳴っているのが外まで聞こえてくる。
鳴っている。
ピーッ。
「八木です。ただいま留守にしております。ピーッという発信音が鳴りましたら、お名前とご用件をお願いします」
ピーッ。
『明拓。お母ちゃんじゃけど。休みとれたかい。6月25日じゃけえ、すぐよ。休みとれたかどうかくらい連絡しんしゃい。夏美の結婚式じゃ、絶対来るんよ』
ピーッ。
2時間後。同じ住所。
やはり無人。だから真っ暗。
RRRRR。
電話が鳴っているのが外まで聞こえてくる。
鳴っている。
ピーッ。
「八木です。ただいま留守にしております。ピーッという発信音が鳴りましたら、お名前とご用件をお願いします」
ピーッ。
『八木ちゃん、文佳です。家にいるんで電話ください』
ピーッ。
翌日。
「じゃあ7時半にね。頑張ってねえ」
三津屋百貨店日本橋店でりんだは、満面の笑顔で手を振ってから踵を返すと歩き出した。鮎川誠に似ているという彼氏・中谷氏は、今苦笑いをしている眼鏡をかけた長身細身の男性。
上行ってお風呂用品見てこよう、と思って歩いたはいいが、着いた場所にあったエスカレーターは下り用だった。
ちっ。
体を斜めにして前方を見るが、このフロアのエスカレーターは対になっていないらしい。
そこへ、目の前にネクタイを締めて名札をつけた店員とおぼしき青年が下りてきた。「REST TIME」というのと、「八木」と書いてあるのと、名札を2つつけてる。美青年だ。薄味な顔立ち。足は短いけど。
周りに他の店員がいないので、
「すみません。上りエスカレーターはどちらですか?」
聞かれた青年は、エレベーターガール風に片手を伸ばし、
「ここをまっすぐ行って右に曲がった壁際です。よろしいですか」
と言った。
「有難うございました」
「いえいえ。では」
そのまま下りエスカレーターに乗って行ってしまった。
いい男だったなあ。
ついつい丁寧にしちゃったぜ。
さ、買い物買い物。
りんだは教えられた通りに歩いて上りエスカレーターを見つけ、それに乗って上がって行った。
翌週。
墨田区立××第6中学校では1学期の中間試験が行われていた。
3年B組の教室でも、皆真剣な顔で問題に取り組んでいる。
中でも藤井明日香は問題を睨みつけて、綺麗な顔立ちが凄いことになっていた。
水曜日午後9時。
また「業平橋第2コーポ」206号室。
相変わらず無人。従ってまた真っ暗。
RRRRR。
今度も電話の音が鳴っているのが外まで聞こえてくる。
鳴っている。
ピーッ。
「八木です。ただいま留守にしております。ピーッという発信音が鳴りましたら、お名前とご用件をお願いします」
ピーッ。
『八木ちゃん、文佳です。家にいるんで電話ください』
ピーッ。
次の日曜日。
「毬子さんありがとう」
試験中の鬼のような形相は何処へやら。
明日香は髪を下ろして、淡いグリーンのカットソーにブルーデニムのロングスカートを合わせて可憐に微笑んでいた。
「白々しいことするなあ」
と言ったのは、マイクロミニに、ハイソックスと同じ黒のミュールの香苗。
「誕生日のお礼くらいしおらしくないとこれから誰もくれないじゃないの」
「まあね」
「わかってんなら言いなさんな」
母のたしなめる声は無視して、似たような服装のみゆきと話している。一方妹は包みを開け、青一色のシンプルなカットソーを認めて、
「あー、こーゆーの欲しかったんだ! ホントにありがとう!」
と言ってあらためて満面の笑みを浮かべる。
「どう致しまして。あとで信宏も来るよ」
「珍しいね」
「あたしと打ち合わせがてらお好み焼き食べたいんだって」
「ふうん」
その時。どう聞いても携帯電話の着メロという音質で、浜崎あゆみの曲のメロディが流れてきた。
「誰か電話鳴ってるよ」
「あ、あたしだ」
「やっぱり香苗か」
と言ったのは青とオレンジが基調なアロハシャツっぽい柄のマイクロミニスカートを履いている毬子。
「やっぱりってどーゆー意味毬子さん……もしもし?」
「われェどっか行くのと違うのか? いつまでも店ン中でうろうろしちょると邪魔じゃけえ、とっとと行きんしゃい」
電話で話している長女を無視して隆宏が言ったら、
「根本がまだなんよ。ほじゃけえ行けんの」
「すまんな祐ちゃん」
と言っていたら店の扉に背の高い人影が透けて見えた。
「開いとるけど電源入っちょらんけえ、手で開けえ」
店の主のその台詞でガラッと開いた扉の向こうには、根本一哉。
「おっ来たな」
「噂をすればなんとかじゃん」
「なんか今日ミニのひと多くねえ?」
「おふくろまであんなもん履くから……悪い」
「仁科だけならいつものことだけどな」
「よく見ちょるね」
「あっおばちゃん……」
「体壊しやすいからやめえ言うとんじゃけんどねえ……」
少年2人が、(絢子)おばちゃんが天然系で良かった、と思っていると、
「あ、一哉来たの? じゃそろそろ行こうか」
といつの間にか電話を切っていた香苗が言った。
「行ってきまーす」
と言って、5人は出て行く。
「ごぶさたしてまーす」
と言って、七瀬信宏が自動になった扉から入ってきたのは午後6時半だった。
「まったく何やってんだか」
「姉ちゃんだっておふくろにそう思われてるよ。ところで祐介は?」
「今日明日香の誕生日だからね、“ハロー”行ってるよ」
“ハロー”とは最寄り駅そばのカラオケボックスの名前である。
「えっ、そうなの? 忘れてた。
すみません……何も持ってきてない……」
「気にせんでええよ。ホンマ久しぶりやね」
次女が今日15歳になったおばちゃん・絢子は、のんきに笑う。
しかし、
「あんた今住所何処なのよ。それくらい教えときなさい」
「今? 友達のトコあちこち」
へらっとしている弟に、
「いいかげんなこと言ってんなよ。あんた仕事としてあたしに物頼んだでしょ。そういう時にクライアントの連絡先知らないわけにいかんでしょうが。姉弟だからって甘く見るんじゃない」
言われた信宏は、渡されたおしぼりで手を拭きながら、
「んなこと言ったって部屋探せないで寮追い出されちまったんだもん。暇なくてさ」
荷物はトランクルームを借りている。
「有給休暇はどうしたのよ。やめる前にまとめて取るってよく言うじゃん」
「それが……」
「どうしたのよ?」
「2人とも何か頼みなよ。まだ暇じゃけえ、今のうちやで」
「助かった……大将ありがと、俺豚玉とビールね」
毬ちゃんやっぱり長女なんねえと思いつつ、隆宏は割って入るが。
「大将甘いこと言ってないでよ。あたしもビール。あとミックスね。
で? 電話番号くらい教えなさいよ」
「チッ、わかったよ。
今は……なに線だっけ……十条の、高校時代の友達ン家にいる。携帯が、090……」
解決しそうだ。
『2番。セカンド、東出……』
今、スカイパーフェクトTVから、広島東洋カープの試合中継で、アナウンスが流れる。
「打てよ……」
隆宏が手を止めてTV画面を睨んだ。
午後9時。
また「業平橋第2コーポ」206号室。
主は今日もまたいない。だから今度も真っ暗。
RRRRR、と、電話の音。
ピーッ。
「八木です。ただいま留守にしております。ピーッという発信音が鳴りましたら、お名前とご用件をお願いします」
ピーッ。
『八木ちゃん、文佳です。家にいるんで電話ください』
ピーッ。
午後10時。
「あいつらまだ歌っとるんか? 出てったん何時じゃ?」
藤花亭で隆宏が言った。
「また20人くらいで歌ってるんじゃないの? それにしても遅いね……おや?」
〈ルパン3世のテーマ〉が流れた。
「祐介かな?」
「姉ちゃんの着メロ今それなの?」
吹き出す信宏だが。
「うるさい。はい。え!? はい、私です」
だんだん顔つきが真剣になる毬子。
「はい、今から伺います」
真剣な表情のまま、背もたれにかけていた白いジャケットをつかんで立ち上がり、扉に向かう。
「何じゃって?」
「交番から。祐介いるんだって。ちょっと行って来る!」
毬子は、振り返ってこれだけ言うと、マイクロミニで夜の街へ飛び出して行く。
日頃の運動不足にもめげず、毬子は必死で走った。
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「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
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