ANGEL ATTACK

西山香葉子

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第15章 ANGEL ATTACK——天使、来撃。

第15章 ANGEL ATTACK——天使、来撃。

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 もう2度と来るわけに行かないから、せめてここで最後に食べて行こうというのは三村の厚顔さか。食べても味がわからないのではと毬子は想像した。
 三村が食べている間も空気はピリピリしたままで、絢子が、出来た料理を三村夫妻と毬子以外の客に運ぶのが精いっぱい。八木も固まっていて、箸をとれない。律子の次の客はまだ来ない。扉を開けて中を覗くんだけど、何かを察して入ってこない。ビビってもいる。
 三村が豚玉を食べ終わった。
 絢子に「お勘定してください」と言い、金のやり取りをして、扉の前でお辞儀をして、出て行った。
 三村の姿が扉の向こうに見えなくなった瞬間、ずっと立っていた律子が床に崩れ落ちた。ふにゃふにゃ、と言う感じで。
「どーしたのっ!?」
「律っちゃん!」
「緊張した―」
 怖いくらいの表情をしていた律子が、今度はふにゃふにゃの表情を浮かべている。
「お騒がせしました、ぐらい言いなさい」
 と毬子は小声で言い、同時に妹の肘をつついた。
「皆さま、大変お騒がせ致しました。失礼いたしました」
「お見苦しいところをお見せして申し訳ありませんでした」だよホントに。
 離婚はもう決定だ。
 しかし、律子はこれから自立するのはいばらの道だと思う。
 なにせ、27歳だというのに、学校の勉強と家事しかやっていないのだから。仕事として家事をやりたいならいいけど。
「社会復帰訓練のためにここで出会った人と話させようというのだけど……いいですかね?」
 毬子は隆宏に話しかける。と思ったところで、RRRRR
 なんだろうと思いながら絢子は電話に出る。
「ハイ藤花亭です」
『こんばんは、仁科みゆきの母ですけど、娘がそちらへお邪魔すると言って出て行ったきり、まだ帰ってこないんですが、居ります?』
 電話の向こうの中年女性の声は硬い。
 あわわわわ。
「すっ、すみません、ウチ今ちょっと立て込んでて……少々お待ちください」
 と言いながら、店と藤井家の狭間を見て、明日香や祐介と一緒にこちらを見ているみゆきと一哉を発見した絢子は。
「居ました。申し訳ありません、今みゆきちゃんに代わります」
 と言いつつ、絢子は壁に向かって頭を下げてから保留ボタンを押して、
「みゆきちゃん、おかあさんじゃけん、出羽亀してた言いんしゃい」
 と言った。
 時刻は午後10時45分である。
 中学生が友達の家に居る時間ではない。
 明日、毬ちゃん律っちゃんとお金出しあって菓子折り買ってみゆきちゃん家と一哉くん家に持っていかないと。
 根本さん家は、長女の瑞絵がかなり奔放で、中学時代なんかはあまり家に帰らない生活をしていたらしいので、男の子だけになおさら放任みたいだが、さすがに中学生を午後11時近くまで引き留めた格好なのはまずいだろう。
『大人の話に首突っ込まないでさっさと帰ってきなさい!』
 みゆきの母親の怒鳴り声は、店の奥にいる祐介たち3人にも聞こえるくらい響くものだった。
 三村さんに迷惑料請求すれば良かったかな。お客さん、入ってこようとしてたじろいだ挙句逃げちゃってたし。と考えた隆宏はさっき思いついた、
「ほんまに、七瀬姉妹に関わる男どもはこの店を窓口だと思っちょるんか」
 という考えを声に出した。。
 これを聞いて、10月初旬に白石エータローが現れた時にもたまたま店にいた中年男性常連客が、はははははと大爆笑をはじめた。
 釣られて祐介が、その後他の客、明日香、香苗、毬子、といった具合に笑いの輪は広がった。
 白石エータローが現れたことを未だに知らない八木だけが、この笑いの意味が最後まで分からない風だった。

 翌日。午前10時55分。
 八木は、藤花亭が開店するのを待っていた。
 続いて、大柄で、花の散った派手なカットソーにタイトスカートという服装の、なんとなく色香の漂う中年女性が現れた。
 更に続いて、プレスリー爺さんが現れた。
「あ、爺さんこんにちは」
「こんちは。なんかここ、昨夜凄かったんだって?」
 とプレスリー爺さんが八木に応対すると、中年女性が険のある雰囲気でこう言った。
「そのことで藤井さんのご両親にお話があって来たんですけど」
「あ、あなたは……?」
 なんとなく予測がついていたが、八木は尋ねずにいられなかった。
「仁科と申します」
 果たして、夫人の答えは八木の予想通りだった。
 キチンと化粧をした目元、その隣に青筋が立ってるような顔をしていた。
 絢子が扉のスイッチを入れ、開けて出迎えた……
「いらっしゃ……いませ……」
 凍り付く絢子。
 中学校の保護者会で頻繁に見る顔なのだが。
「子供を何時まで勉強させておくか、保護者で取り決めがしたいと思いまして」
「昨夜はすみませんでした。揉めてた連中を表へ叩き出すべきでしたが……」
 律子の予想外の迫力に飲まれて、夫婦共に何もできなかったと言った方が正しい。
 しかしマジで、中学生があの時間まで家に帰らないんじゃまず過ぎるわな。しかも受験生だろう?
 と思った八木は、持ってきてて良かった、という気持ちで、夏に毬子から借りた「BANANA FISH」の18巻を開いて読み始めた。が、耳は女性2人のやり取りに気持ちが行っている。耳だけが大きくなったような気持ち。
 目の前で絢子と緊張感のある会話をしている中年女性に見覚えがあると思いながら、眼は漫画に落とす八木である。見覚えがある理由が、彼女が近所のマツモトキヨシの店主の妻であることには思い及ばない。
「夫婦には夫婦のことがありますので……ですが物見高く見ているものではないと、今後よく言って聞かせますけど」
 昨夜藤花亭で何が起きたか絢子が簡単に説明すると、みゆきの母である仁科麻子はこう返した。
「今後二度とないと思いたいんですが……」
 三村さん律っちゃん代わりに謝って、と思っていた絢子である。
 物見高いのも問題ではある。
 ちなみに、昨夜みゆきは隆宏が送っていった。一哉は、たまたま非番だった父親に迎えに来てもらった。毬子と祐介と律子は八木が送っていった。
「それでなくとも今年に入ってから帰りが遅いことが増えていますので、一度、4軒全員の保護者が集まった方が良いですね」
「そうしましょうか……集まるのはうちにしましょう。仁科さんだけでなく、うちも根本さんも商売をやっていますし、七瀬さんも仕事がありますので……ちょっと電話しますね」
 というと絢子は店の電話を取った。
 RRRRR
 ガチャ
『はい、根本美容室です』
「琴子さんおはようございます」
『おはよー、昨夜大変だったんだって?』
「昨夜はすみませんね、一哉くんをご主人に迎えに来てもらわなきゃいけない時間まで引き留めて」
『うちは瑞絵がひどかったから気にしてませんて……あー、でも、グループにもうひとり女の子がいるんですよね』
 明日香以外に、ということである。そのみゆきは、大人から見て、見た目も中身も、なんとなく危なっかしいタイプだ。明日香からはよく転ぶと聞いているし、対面していてもなんとなく隙のある少女である。来る手紙などは断っているようだが。一哉に想いを寄せているようだ、とはなんとなく気付いているし。
「ええ、だから、その仁科さんのおかあさんと毬ちゃんと、うちと琴子さんで取り決めをしようと。まだ中学生ですし」
『話し合いいつですか?』
「毬ちゃんにも聞かないかんですけど、とりあえず明後日の2時半で」
『わかりました』
「じゃあ毬ちゃんにも電話入れときますね」
『よろしくお願いします』
「それでは」
 P! と電話を切って、今度は携帯電話を取り出し、毬子の番号を押す。
「もしもし、毬ちゃん?」
『はい、おはようございます絢子さん』
「今仁科さんうちにいらしちょるんよ」
『あっちゃー、2,3日中に菓子折り持ってこうと思ってたら』
「それで、明後日、うちと仁科さんと根本さんと、毬ちゃんで話し合わん?」
『明後日……場所は藤花亭で午後ですか?』
「ほうじゃ」
『了解です。今日これから菓子折り買ってきます』
「頼むね」
『あとで三村さんに払わせたる』
 もとを正せば三村が悪いんだ、こういう事態になったのなら領収書を突き出してもバチは当たらないだろう。

「じゃ、明後日午後2時半に」
 ということが決まって、みゆきの母は帰っていった。
「そういや八木さん、今日は早いねえ、昨日は具合悪そうにしてたのに」
「寝不足だったみたいで、帰ってすぐ寝たら良くなったっす。ほいで、大将に質問があって」
「なんじゃね」
 と受ける隆宏の横で絢子が「そりゃよござんした」と言ったが誰も拾わない。
「昨夜大将、確か…… 七瀬姉妹に関わる男どもはこの店を窓口だと思っちょるんか、とかって言ってましたけど、最近他に何かあったんすか?」
 前に彼女に告ってた漫画の編集者かな? と、この店で現場を見ていたので八木は予想する。
「それがね、今月の初めに、祐ちゃんのおとっつあんがロンドンから帰ってきちょるんよ。昨夜毬ちゃんたちを送ってった時に聞かなかったですか?」
「想像もしてなかったし聞きにくいっすよ……ふうん」
 それは盲点だった。
 俺が彼女を口説く時はちゃんとケータイに電話しよ……て待て待て待てどういうことだそりゃ。
 八木は内心動揺していた。
「毬ちゃんの今の家がわからないし、わかってても家に行くのはまずいだろう、この店に行けばおるじゃろう、ってことで、帰国したその足でここに現れよってね。ほれ、この街、成田からわかりやすいから。青砥で乗り換えさえすれば来られるから。
 毬ちゃんはりんだちゃんの仕事で来られないで、由美ちゃんがたまたま応対したんけどね。その後ふたりはどうしたか知らんけど、ロンドンに連れて行きたい言うんを毬ちゃんが断ったんちゃうかなと俺は思うんよ」
「なるほどね……
 三村さんの旦那さんは彼女に携帯着拒食らったんちゃうかと」
「それだと納得いくけど、どっちにしてもここにいきなり来るのよして欲しいわ……八木さん、毬ちゃんを口説いてもええけど、本人に直接電話したってな?」
 へ?
 さっき思ったこととそっくり同じ。
 八木は自分の頬がかすかに赤くなるのを感じ始めた。
「すみません、イカ玉とコーラ」
「あいよっ」
 八木は持ってきた漫画で顔を隠しつつ注文する。
 これはヤブヘビかな……?
 プレスリー爺さんと隆宏はそんなことを想った。
「あ、忘れてた、大将、俺にもミックスとビール! というか昨夜、なんか修羅場だったんだって?」
 プレスリー爺さんが慌てて言いだす。
「こないだ爺さん会ったろ、毬ちゃんの妹。彼女の旦那が謝りたいから会いたいって言ってきてさ」
「ふんふん」
「律っちゃん凄かったで、めっさ強く出ちょったわ」
「へええ、見たかったな、ああ、それでこないだ離婚について聞きたいとか言っとったんか。あ、
 ミックス頼んだで」
「あいよっ」
「八木さんは昨夜ここに居たの?」
「居ましたよ……怖くて、頼んだミックスもなかなか来なくて、食べれなくて、話が終わって手を付けたら冷めちょったです」
 有線が、小沢健二の「僕らが旅に出る理由」を流し始めた。
 家に帰ったら、ちょっと自分の気持ちを整理してみよう、と八木は思った。
 プレスリー爺さんは携帯灰皿とキャスターマイルドを持って、扉の外へ出た。扉で、昨夜も居て、エータローのことも見た人物とすれ違う。

 三村さんと由美の関係はえらいことになったなと思った。無関係の筈の中学生の受験勉強にまで影響及ぼして。
「律子ー、ちょっと雷おこしかなんか買いに行こう」
「なんでまた私まで」
「自分が全くの被害者だと思ったら大間違いだからね。昨夜祐介のグループの女の子のお母さんが藤花亭に電話してきたの聞いてなかったの? お詫びに菓子折り買わなきゃ。藤井夫妻の分もね。2,3人お客さんが逃げてるみたいだから。後で三村さんに領収書回すにしても。そもそもあの人が店を窓口みたいにしたのが悪いんだから」
「ケータイ着信拒否したんだもん」
「そういうことね。あー、そのカッコならいいや、行こう」
 ということで姉妹2人で、浅草へ雷おこしを買いに行った。律子を祐介の自転車に乗せた。自転車なんて何年ぶりだろうと思いつつ、文句を言えない状況なので勧められるまま律子は自転車に乗った。
 2人で雷おこし買いに行くからあんたのチャリ借りるよ、と祐介にメールをした。

 三村のメールアドレスを教わり。携帯電話で撮影した雷おこしの領収書の写真を添付する。
 三村は、雷おこし3箱分全額を慰謝料に上乗せすると返事を寄越したので、遅いような気もするけどまあいいか、と考えて了解の返事を出した。

 藤花亭での保護者会当日は、お昼ご飯を食べがてら店に居た。律子も謝らせるために連れてきていた。
 カウンターに八木が居た。
「こんにちは」
「毬子さんここに来る回数減ったよね」
「そう……かもしれないな」
 少しでも会えるのは嬉しいけど、保護者会になったら居てもらえないよね……
「えー、今日は、2時半からひとが来るので、1時45分には撤収していただくので早めに食べてください誠にすみません」
 と隆宏も言ったことだし。
 これは、5年前に隆宏が町内会の役員をやってた頃はよく起きていたことである。午後2時半から会議に使う、その応用に過ぎないので。みゆきの母の申し出にも、絢子が難なく応じる所以である。
 八木は割と、ここでする内緒にすべきな話を聞いていた気もするが。
 なんか心細くもあるな。
 三村が一方的に悪いというのは少し違うとは、毬子がずっと思っていることだけど。律子は経済力がないので、毬子が立て替えたし。
 午後1時に、黒地に白いアルファベット文字がいっぱい散った柄のカットソーを着たみゆきの母が現れた。
「あっ……どうもいらっしゃいませ」
「一昨日食べられなかったので、今日はミックスをいただきます」
「ありがとうございます!」
 発注をいただいて、隆宏はこの上ない笑顔になった。
 絢子は料理を出す合間に皿洗いに余念がない。
 午後1時45分。
「じゃあこれで」
 八木とこれと言った話は出来なかったので内心寂しい毬子を置いて、八木が店を出て行った。

 午後2時半ギリギリに一哉の母・根本琴子が現れて、4人の女性をカウンターの真ん中に呼んだ。
 そして律子が立ち上がって、
「この度は……、我が家庭……の、みっともないとこ……ろをお見せした……上に、ご子息……ご令嬢にもご……迷惑を及ぼしまして、誠に申し訳ありませんでした」
 と、ところどころ不自然な切り方ははあるものの挨拶をして頭を下げ、雷おこしを一人ずつ両手で渡した。
「本当はお宅を……訪れなくてはいけないんですけど、一堂に会する機会を作っていただいたので」
 と毬子が補足する。訪れる、という言葉がなかなか出てこなかった。
「では……
 こちらにお集まりいただいた皆様のお子さんには、うちの娘が仲良くしていただき、ひとかたならぬお世話をいただき、それ自体は誠に感謝をしているのです。ただ、今年に入ってから、一緒に受験勉強やコンサートのチケットを取るなどで帰りが遅くなったり家を空けることが相次いだものですから……」
 と言って、みゆきの母は言葉を濁した。
 娘は容姿は良いが、なんとなく隙があるというか、あぶなっかしい、ということをそのまま云うわけにもいかず。
「うちに集まることが多いものですから、仁科さんに対する配慮が働かず誠に申し訳ございませんでした」
 と言って、絢子と隆宏が頭を下げる。

 藤花亭を追い出された八木は、工事をしている脇を歩いて自宅アパートへ帰宅した。
 帰宅してから緑茶を淹れて氷を入れて、卓袱台を前に座って。このアパートに引っ越してきてからの出来事を思い出していた。
 仕事はまずまず、行きつけの店を持てて、ほどほどに幸せな今である。
 毬子さんとは、祐介くんにカツアゲされたのがきっかけで出会ったんだっけ。それで藤花亭教えてもらって、ひとりでも行くようになって。すげえ出逢い。
 藤花亭は居心地いい店だよな。
 文佳ちゃんのことはかまえなくなって、気が付いたら山本に取られてて。
 藤井家主催のカラオケにも2回参加したな、楽しかった。若い子の間で流行ってる曲も知れるし。
 ほいで、明日香ちゃんに相談されて、花火の夜にこの部屋を祐介くんと明日香ちゃんに提供して、初めて毬子さんの家に行って……あー、その時毬子さんとキスしたわ。
 ここまで思い出して八木は頬を赤くした。
 キスしてぼーっとなってる暇なく、すぐ後で毬子さんが風邪ひいて、祐介くんが、悪天候と、アスカちゃんが雷に弱いせいでライヴから帰って来れなくて、俺が毬子さんの世話をして。
 文佳ちゃんと行こうと取ってたスカルの武道館ライヴに毬子さんと行って。楽しかったな。
 毬子さんの家は妙な居心地の良さを感じたような気もする。
 彼女のこと、もっと知りたいかな。
 !
 気になることはなるな。
 待てよ、そういえば。
 俺がここへ引っ越してきた日に、マツキヨで買い物して道に迷ってたら、倒れてる人に出くわして、その倒れてる人のそばに居た着物着た女のひとが、毬子さんなんだよな。
 そんなところで出会ったひとと再会して、仲良くなって?
 ひょっとしたら。
 八木はこの時、初めて運命なるものがあることを感じた。
 年上の女性って、好みじゃなかったのに。姉もいることだし。 

 翌日。
 昼休みが過ぎた八木は、眼鏡をかけて、勤務先の三津屋百貨店日本橋店で、パソコンに向かって商品の発注を始める。
 もう10月中旬だ。前年の仕入れと売り上げのデータを元に、発注数を決めて、入力しなくてはならない。
 ジャージはやっぱり黒が一番売れるかな?
 ……キスしてもぼーっとなってる暇なかったよな。
 待て、今は職場だ。
 冬物の発注数を決めなきゃいけない。

 毬子は、このところ、三村問題に振り回されてて絵が進まなかったので、家事を全部律子に任せて信宏発注の絵に集中することにした。
 肌の色も重ね塗りしてたけど、パソコンではみんなどうやっているんだろう。
 ネットを見て、色塗りに関するページを見たいと思っているのに別の興味の沸くページを見てしまって、進捗は一進一退。

 3日後、午後9時。
「こんばんはー」
「あー、八木さんお疲れさま」
「ミックスください……なんか最近、毬子さん見ませんね」
「そういや最近来ないねえ……店辞めた頃は毎日のようにきちょったのに」
「律ッちゃんに飯作ってもらってるのと違うかね」
 隆宏は、八木さんが毬ちゃんの次の彼氏になるんだろうか、などと考えが浮かぶのに粉をボウルに出す手を止められずにいたら、
「ちょっと! 何やっちょるん?」
 と絢子に叱られた。

 翌日昼。
 藤花亭に八木が現れた。
「八木さん、今日は休み?」
「ハイ」
 などと言っていたら、11時半頃、律子が藤花亭に現れた。
「こんにちは、絢子さん、今日はテイクアウトしちゃダメかな?」
「持ち帰りのことかい? 初めて聞くけど、一体どうしたの?」
「お姉ちゃんがお好み食べたがってるんだけど、信宏の絵の締め切りが迫ってるから家で作業しなきゃいけなくて、じゃあテイクアウトしていいか聞いてOK出たら買ってきて、て言われて来たんです」
「それで最近毬ちゃん来んわけか。ってその前から……減ってたな。やっぱり仕事始めると違うんやな」
 八木は、なるほど、と思ったが、
「信宏って?」
 と聞く。
「……うちの一番下の弟ですよ。前にカラオケで会ってるんじゃないですか」
 律子は最初やや言葉に詰まったものの、すんなり答えた。
「あー、あの背の高いひとか!」
「テイクアウトええで、何にする律っちゃん?」
「イカ玉と豚玉で」
「あいよっ、ありがとう」
 隆宏、絢子、律子、ついでに八木も笑顔になった。
 これ以来、一部常連客のみ限定で、藤花亭のテイクアウトが始まった。出前は人数が少なくてできないので、電話か来訪者だけ。

 毬子がパソコンに向かったまま、律子が買ってきた豚玉を食べていると、由美から、毬子の携帯電話に電話がかかってきた。
 RRRRRRR
『もしもし』
「あいあい、どうかした?」
『こないだのエータローのライヴの記事なんだけど、あんたに関わる場所だけでいいから読んでダメ出ししてくれないかな?』
「ダメ」
 モガ……とハッキリしない発音なのは、口の中にお好み焼きが5%ほど入っているからである。
『なんでよ、理由聞いていい?』
 口の中にあった分を飲み込んでから、
「信宏の絵を描いてて自主カンヅメしてるから」
 と答えた。
『食べながら作業するほどなのね、何食べてるの?』
「藤花亭の豚玉、律子に買ってきてもらった」
『いいなあ、妹が居て言うこと聞いてくれて。あたしなんか1人っ子だからさー』
 親友だからって弟妹や息子を貸すわけに行かないからな。ましてやうちの妹はあんたに夫を取られた格好だし。
「藤花亭、あたしたちがきっかけで一部テイクアウトやることにしたみたいよ、てりんだもやるかな? りんだのスタジオでも家でも冷めそうだけど。
 まあ、記事はあんたなら悪いようにしないでしょ、任せる」
『修羅場中にあそこのお好み食べられるなら捗りそうだけどね。
 あ、記事だけど、後で文句は言いっこなしだからね』
「何処の雑誌に載るの?」
 と毬子が聞くと、とある音楽雑誌の名前を出して、そこのWEB版、と答えた。
「それが載るまでに絵をあげなきゃな」
『お互い頑張ろ』
「おー」
『じゃあね』
「ハイハイ」
 電話は切れた。

 その次の次の日の夜。藤花亭の電話が鳴る。
「はい、藤花亭でございます」
『もしもし、おばちゃん?』
「ハイ、祐ちゃん?」
『おばちゃん、今からそっち行くんだけど、3人分テイクアウトしていい?』
 という、電話での前置きがあった後、祐介が藤花亭に現れて、3人分買って行った。
 テイクアウトを引き受けるのは、だいたい半径300メートル以内、で考えたいらしい。一部仲のいい常連客には一度頼まれたら持ち帰らせて。その時の冷め具合で、次以降も受けるか決めることにした。

 ラスト、この絵の唯一の登場人物の男性バスケプレイヤーの髪や肌の色や質感をチェックする。
 よし、これで提出しよう!
 ……信宏にUSBメモリ貰ったけど、使い方わかんないや。
 電話しよう。
『ハイ』
「あたし、絵ーあがったよ」
『マジ? やっった。お疲れさん』
「でもさ、データの……なんて言うの? あんたにもらった道具の使い方わかんない、あれ名前なんて言うんだっけ?」
『USBメモリだろ? パソコンの本体に挿せる場所が必ずあるから、そこに挿したら……って、今パソコンの前に居る?』
「居る」
『じゃあ今から俺の言うとおりにして……今デスクトップなんだよな、どれが本体かはわかるな?』
 と言って、二転三転しつつもデータを収めた。

 信宏の店の看板を担当する会社・フォボスは、六本木にあるとのことで、毬子ひとりで提出に行った。ワンピースの上からモスグリーンのジャケットを羽織っていた。
 その帰り。
 ビルの狭間に綺麗な夕焼けが見える中、電話が入った。
「ハイ」
『八木だけど』
 初めて電話がかかって来た。
 ちょっとドキドキする毬子。
「どうしたの?」
『……毬子さん、今どこ?』
 口にする台詞の背後の車の音に気付いたらしい。
「六本木」
『なんでそんなところに』
「悪かったね、仕事だよ。信宏に頼まれてた看板の絵のデータを、看板製作を担当する会社に渡しに来たの」
『……ちょうどいいや、あんたを東京人と見込んで頼みがあるんじゃけど、東京タワー連れてってくれん? 最寄り六本木なんじゃろ? 今から行く』
「八木ちゃん。今どこ?」
『日本橋』
「じゃあ六本木の駅で待ってる」
 銀座線で銀座へ出て、日比谷線で着くけど、果たして八木ちゃん、これに気付くだろうか? 特別鉄道には詳しくなさそうだし。

 2人が六本木駅で会えたのは25分後だった。
 会えた改札が東京タワー最寄りでなかったので。歩く。
 表示に従って歩いたが、毬子は細身の靴を履いていたので、着いた時には疲れ切っていた。上を見上げると空は暗くなっており、きらめく夜景が広がっていた。

 少し休んだ後、エレベーターで展望台に上がった。
 久々に見たけど、綺麗だなと夜景を見て思っていると、右に居る八木の手が毬子の肩に回った。
「今夜はずっと、一緒に居たい……」
 毬子は頭を八木に傾けた。
 あ、多分相思相愛だ。
 嬉しいな。

 夕ごはんはそばにしよう、と言って、それなりの値段のする二八そばの店に行く。
「もう少し飲みたいな」
 と毬子が言った時点で21時になっていた。
「業平橋帰っておてんば屋行く?」
 毬子はこくりと頷く。

 おてんば屋に着いて個室が空いてるか聞くと、あると言うので、入って注文をする。
「最近藤花亭テイクアウト始めたんだって?」
 という話題。
「なんかうちが始めたみたいね」
「律子さん、だっけ? 妹さんが昼間注文に来た時、俺、藤花亭に居たんよ」
「へええ、本当に八木ちゃん、年中あそこに居るね」
 そのせいで少し太った……? とも見えなくもない。
「毬子さんだって」
「そんなに気に入ったの?」
「まあな」
「素直じゃないなあ」
 と言いながら青りんごサワーを飲む毬子。

 おてんば屋を出て、また八木が毬子の肩に手を回した。
 10月も終わりの夜の、冷たい風がひとつ吹く。
 ふたりは肩を寄せ合って八木のアパートまで歩いた。
 アパートの敷地に入り、階段を上がると、毬子の心臓の音のボリュームがあがった気がした。

 八木の部屋に入って、ドキドキしながらキョロキョロ見渡す毬子に、
「ビールあるけど飲む?」
 と八木が声をかける。
「いただきます」
 そのまま八木は大股で冷蔵庫の前から、ベッドの毬子の隣まで移動してくる。
 八木は毬子の隣に座ると、両のこめかみのあたりを両手で包んで、毬子の唇にくちづけた。
 唇が離れると、毬子が囁く。息子や弟や父親が知らない顔で。
「電気茶色くして……?」
「茶色?」
「小さい蛍光灯だけつけること。とある小説にあった表現なんだ」
「了解」
 ベッドに、部屋の照明から長く垂らされた紐の先がある。
 数秒間お互いの顔を見つめあった後、八木は、紐で照明を整えて、毬子のジャケットから順に彼女の衣服を脱がせていった。
 1枚脱がせる毎に彼女の身体のどこかにキスをしながら。
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