ANGEL ATTACK

西山香葉子

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第16章 My mother falls in love(本編完結)

第16章 My mother falls in love (本編完結)

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 はじめての、特別なふたりだけの夜。
 見つめあって、何度も抱き合って、お互いの素肌を頬で、掌で、身体全てで味わった。
「八木ちゃん、明日も休み……?」
「休みじゃ」
 ぎゅ……と八木に抱きつく毬子。
「離れたくないな……」
 裸のまま同じ毛布の中で、囁き合った。
 好きだよ……
 好きだよ……
 好きだよ……
 2Kの部屋に漂うとろりと甘い空気。
 毬子は心底満ち足りた気持ちになっていた。

 この2人、平日休みの仕事なので八木が休みでも問題はなかったが、毬子には同居している家族が2人もいる。その2人にバレずに帰れないものか……ということに、目が覚めた毬子は気が付いた。
「んー? 何時……? 6時か……」
 ドキドキして眠れなかったような気がするけど。
 新しい相手と共寝するとこれはたいてい同じだね。
 と。のんきなことを言っている場合ではないい!
「どうした、顔色が悪いけど」
「朝帰りして家族に会うのがきまり悪くて。あたし高校からひとり暮らしだったから、親にバレないようにこっそり帰るってスキルが全然ないのよ。そういうのは香苗や瑞絵ちゃんの方が得意かもね。親とも祐介とも同居してる時は朝帰りしなかったもん、あと、うち6階だから不可能かこれ……」
 禁を破ったことになる。
「祐介くんはひとのこと言えないんじゃないですか?」
「ちょっと、嫌な現実を思い出したじゃないのよ」
 この部屋が、息子・祐介とその幼なじみ彼女・明日香の初体験の現場らしいということを急に思い出した毬子である。真相は謎なのだが(入るところを見てた人間はいないから)。2人ともその辺表に出さないし。
「あの時は本当にすみませんでした、アスカちゃんを断り切れなくて……なんかあの時は、もっとカップルらしいことがしたかったようだけど」
「あいつも女の子ねえ」
 って息子とはいえひとの話はいい!
「とりあえず、母親やりに帰りますっ」
「またこうして逢おうぜ」
「うん!」
 毬子は八木に元気よく返事すると、昨日身に着けていた衣服を身につけ始めた。

 足音を立てぬようにして、自宅マンションの廊下を歩く毬子。エレベーターの中で鍵ケースは出してある。
 ゴミ捨て場に、ゴミが2個ほど出ている。
 あ! 自転車、浅草駅前に置きっぱなしだ!
 昼間取りに行こう。今週末からまたりんだの仕事だものね、今度は読み切り。
 音をたてないように自宅の鍵を開ける。
「おかえり」
 びくっっっ!!!
「あ……律子……ただいま……」
 律子の瞳が微かに赤い。
「取引先どんなだった? というか朝まで飲みにでも付き合わされたの?」
「あ……あわ……お風呂入る! 祐介よろしく!」
 毬子は慌てて、自室へ着替えを取りに消えた。

「お姉ちゃん帰って来たよ。でもなんか後ろ暗いことがある感じだねアレは」
 冬の学生服姿の祐介と律子の朝食の席である。
「ふーん、そういや朝帰りはじめてだな」
「へえ。真面目だったんだ」
「何人か付き合った男はいたみたいだったけど、絢子おばちゃんが経験からいろいろ言ってたらしい」
「女将さん、なんかあったの?」
「知らないんか……あのさ……」
 といって祐介は、第7章で出てきた絢子の生い立ちの話を律子にした。
 あのひともつらいことがあったのね。
 それっきり黙ったまま、叔母と甥はそのまま、朝食を続けた。

 午後。そろそろ掃除機かけていいだろうと律子が掃除機をかけ始めたら、毬子が起きてきた。
「えらーい、あんたが来てから部屋がきれいになった気がするわ、助かるー、ありがとー」
「お姉ちゃん、朝帰りごまかす気?」
「……」
 本当にきまりが悪い瞬間だった。
「あたしたちが知ってる誰かといたの?」
 毬子は観念した。
「……八木ちゃんと」
 かああーっと、毬子の頬が赤面した。
「なるほど」
 それっきり、どちらも何も言わないまま、律子は掃除を再開した。

 午後3時頃、崎谷の原稿をひと息ついたところで、携帯電話に由美から電話が入った。
「はい」
『おはよー』
「あんたたちのせいでとんでもないことだったよ」
『それは三村本人から聞いたんだけど、あいつら離婚するんだって?」
「こないだ藤花亭で大変だったんだよ。携帯着拒されたからって、会いたいって言ってきてさ。物見高く見てたみゆきちゃんの親が電話してきて」
『あらー……今度飲まない? ねえ』
「あさってからりんだの読み切りの仕事に入るんだけど」
『……明日7時半からなら行けるよ』
「りょかい」
 いやに熱心に誘うな、とは思う。

 藤花亭の前で待ってた由美に、後から現れた毬子が、
「きまり悪いからおてんば屋にしよう」
と言い、女2人は移動した。藤井夫妻にはバレなかった。
 入ってすぐ個室を通され、ビールとライムサワーをひとつずつ頼む。
「七瀬姉妹に関わる男どもは藤花亭を窓口だと思っちょるのかね」
 と言った由美の台詞が、隆宏そっくりで、毬子は大爆笑。ただし、本来なら彼女はこれを言ってはいけない立場だが。

 唐揚げを2人が食べた後で、由美は言った。
「結婚、しようと思ってさ」
「え? あてあるの?」
「ないから、相手を探すところから始めないといかん」
 由美が言いたいことは、今日では、婚活という言葉で語られているのだが、この頃はまだこんな便利な言葉はないので、由美は遠回りな表現をしたわけである。
 あー、それを言いたくてあたしと飲んでんだな、と毬子は勘づいた。
「……三村じゃあんたの妹の元夫だと知ったら、うちの親はウンと言わない気がしたし。あと、相棒と言えばそうなんだけど、もっと別に、愛せて相方となりうる人がいるような気がするんだ。今ならまだ間に合うような気がするの」
「……うちとの兼ね合い?」
「そう。後味が悪すぎる」
「そか。頑張って」
 としか言いようがない。
「ときめく気持ちを思い出すために漫画でも読もうかなー……なんかいいのない?
 ってそういえば、あんた今日機嫌イイね、ニコニコしてる。何かあったの?」
 来たか。
「おととい八木ちゃんと東京タワーから夜景見て、彼の部屋に泊まった」
「あんたたちって前にもひと晩一緒に過ごしてない?」
「実は2回……隅田川の花火の夜にも……」
 と言って毬子は、明日香と祐介のことなどから何からすべてを由美に喋った。
「あのひとそこまでお人好しなんだ。でも今回は違ったんだね」
「はい、色気のあることをしました」
「つきあいはじめるの?」
「あたしはそうしたいけど」
「はっきりしないなあ」
 と言いながら由美は、頬にかかった右サイドの髪を耳にかけた。
「夜が明けて、やばいと思って帰らなきゃって焦ってたんだもん」
「律っちゃんに任せておけるんじゃないの?」
「まあそうだけどね……」
 そうなのだ。
 幸せに浸ってる場合ではない。
 今日藤花亭を避けたのも八木ちゃんからの逃げのように感じる。
 早く行かなきゃ。
 と思っても。
「明日からりんだの読み切りの仕事なんだよなー」
「あんたりんだの仕事に入ると連絡取れなくなること続きだから、なんとかしときなよ」
「はい……」
 毬子は力なく俯いてしまった。

「あ、そうだ。あんたに会うからコレ印刷して持ってきたんだ」
 と言って由美は、某生命保険会社のクリアファイルを出した。中が白い。
「なによ」
「こないだのライヴの原稿」
 帰ったら読んで、というのでバッグに入れる。

 結局由美は、毬子のマンションの入り口まで行って、毬子に漫画を8冊取ってきてもらうのだが(「月の夜 星の朝」を貸し出された)。

 由美が帰ってから、プリントアウトされた原稿を読む。

 記事は。

 ロックバンド・PLASTIC TREEをメジャーデビュー半年で脱退してロンドンへ渡った白石エータローが、一時帰国をし凱旋ライヴをやるというので行ってきた。実は、筆者は「PLASTIC TREE」がメジャーデビューする前に追っかけていて、エータローに顔と名前を憶えられていたので、今回帰国する際に個人的にメールを貰ったりしても居たのだが。
 エータローがイギリスで発表した2枚のソロアルバムと、イギリスで参加したバンドのアルバム、音楽を制作したイギリス映画のサウンドトラック・アルバムを聴き込んでいざ再会へ。
 場所は六本木のP。バンド時代には縁のない、ベテランやジャズ・フュージョン系のミュージシャンのライヴをよく行っているライヴハウスである。
 リハーサルから見ていたが、こんなに幅広い音楽を演るミュージシャンになったのかと驚いていた。ブリティッシュロックの王道たる厚みのある音からトロピカルなもの、バラードまでまるで万華鏡のよう。
 最後のMCでは、急な渡英の真相も語られた。どうしても受けたいオーディションが1991年初秋のロンドンでしか行われなかったそうで、受かってからそれを言いたかったのに落ちたから、このライヴで初めて言った、とのこと。恋人を置いて行って寂しかったとも語っていたので、この渡英の真相をその恋人が聞いたらどう思うやら。
 MCでは、その恋人が彼の子供を出産していたなんてことまで明らかにしていた。イギリスで名を挙げている日本人ミュージシャンとして、今後日本のメディア露出も増えるかもしれないが、そのあたりのプライベートな話はそっとしておいてあげて欲しい。
 ちなみに、筆者の追っかけ時代の友人も数多くこのライヴに来ていたようで、連絡先の交換などもしていたようだ、この先そのあたりがどうなるか楽しみだ。

 というものだった。
「例のMCは複雑だったよ。あと、3曲目、信宏がBOOWYの『わがままジュリエット〉に似てるとか失礼なこと抜かしてた」
 と、メールを携帯電話で送った毬子であった。

  今回の読み切りは、芸能界の話。アイドルに、2021年の言葉で言えば「ガチ恋」してる男子高生が、そのアイドルと知り合って、という話である。
「反響が良ければ連載行けるらしいですよ、私たちも頑張りましょう」
 とみわちゃんは言った。
 32枚中、主線は15枚入ってる状態でアシスタンツが入る。アイドルの衣装にスクリーントーンが多かった。
 原稿が出来てくるにしたがって、きらめいて見えた。
 由美にこれ読ませたら、ときめく気持ちが蘇るかな?

 毬子が休憩時間に携帯電話をチェックすると、友達に会わせたいから返事ください、という八木のメールと、白石エータローから留守番電話が入っていた。
『火曜日の夕方の便で帰国します。今まで本当にお世話になりました。今後は親同士としてよろしくお願いします』
 メールを見た後、気持ちを切り替える。
 さー、ガンガントーン貼るぜっ。

「みわさん、グラデトーンが残り少ないんですけど」
 発見したのはトーン棚のそばで作業をしているリョータくんである。
「何枚? リョータくん」
「3枚です」
「ちょっと先生に聞いてみるね」
 と言って内線電話を鳴らすチーフアシのみわちゃんである。今日も黒い長袖Tシャツを腕まくりして、カーキ色のニッカボッカだ。リョータくんは長袖のボタンダウンを腕まくりしている。
「はい、了承しましたー。
  (内線を切って)今から注文もするそうですが、20枚ほど買ってきて欲しいそうです。自転車で通ってるひとでじゃんけんしてもらえますか?」
 ということで、毬子とレイちゃんと百合ちゃんでじゃんけんをして、負けた毬子が外へ出ることになった。

 夏に行ったことのある画材屋へ行けばいい話である。
 RRRRRRR と携帯電話が鳴った。
「はい」
 表示は「しらいし えーたろー」。
『やっと繋がった! アシスタント行ってるの?』
「そうだよ。買い物に出てきたの」
『火曜日にイギリス帰るから』
「成田まで見送りに行けって? 行かないよ。そんな時間ないもん」
『ちぇっ。最後に藤花亭行くから、来ない?』
 まあ、今生の別れってこともあり得るしな。
「行く」
『やった。じゃあがんばれよー』
 と言って電話は切れた。
「勝手なヤツ……」
 ひとりごちて、あっ、買い物買い物、と自転車にまたがって漕ぎだす。

 火曜日。
「おはよう、毬ちゃん、久々」
「なんかエータロー、今日イギリスに帰る前にここ寄るって言ってましたよ」
 藤花亭駆け付け早々の毬子とのやり取りに、絢子はげんなりした顔で、
「えー……」
 と言った。
 ガラララッとまた扉が開く。
「おはようございます」
 八木だった。
「あ、おはよう八木ちゃん。メール返せなくてごめんね」
「何のつもりでこないだ俺んち泊まったんだよ」
「え……」
「こっちは付き合うつもりで来てもらったのに……」
 えー!? 何か誤解されてる?
 慌てた毬子だが、
「ふたりとも表出なさい!」
 絢子に叱られた。
 絢子も先日の件で学習しているのだ。
 また七瀬姉妹だし。

「ほんとどういうつもりだったんだよ」
「ごめん!」
「友達にも新しい彼女出来た、そいつの結婚式には彼女と一緒に出たい、って言ったのに」
「えーっ!? そこまで考えてくれてたの。まさかそんなに考えてくれてるとは思わなかったのよ」
 ふたりとも、やっぱり「つきあってください」「はい」がないとだめだ、という発想になった。
「入りたいんだけど中入れてくれる? 毬子」
 声が聞こえたので振り返ると、ギターケースを担いだエータローだった。

「終わった?」
 絢子が聞く。続けての「いらっしゃい」の言葉に八木の「ハイ……」はかき消されてしまった。
「なに? 君毬子の新しい彼氏?」
 直球で聞かれた八木は固まっている。
「祐ちゃんのおとっつあんだって」
 隣で見てエータローは、背が高いな、そして若そう、と思った。
「豚玉ひとつとコーラお願いします」
 と言ってから、
「俺がロンドンで15年間忘れられなかった女なんだから大事にしてよ。大事にしてくんないなら殴りに帰るからね」
 八木は「ハイ……」とだけ言えた。
「毬ちゃん八木さん、注文は?」
 毬子がミックス、八木はネギ焼きと言った。

「また帰ったら真っ先にここ来ますよ」
 と言って、エータローは店を離れた。
「毬ちゃん、本当に送っていかなくて良かったの?」
「大将、あのひとはもうあたしには過去のひとだから。八木ちゃんを見て生きていきます」
 と言って毬子は、笑顔で八木を見た。
 よろしい、とでも言いたいのか、八木は毬子を見て頷いた。

 11月の中旬、藤花亭にて。
「矢沢勝則です。はじめまして」
「こんにちは、ここの常連の七瀬毬子です」
 実は、過去に一度、八木が矢沢を連れて藤花亭に来た時に居合わせているのだが、
「いいなあ、初々しい時期」
「そんないいもんじゃないよ。高校生みたいに『つきあってください』『はい』をやらないと駄目なこともあるな」
「なんかあったのか?」
「ちょっとな」
「もう言わないでよー、反省したよぉ」
 と毬子は少し凹んでいる。
「式は来年6月に広島でなんですが、いらしていただけるんですか?」
「いいんですか、本当にあたしで……」
 と言って毬子は、目を伏せた。
「自信持てよ!」
「ほうじゃよ、毬ちゃん」
 座敷の会話に、隆宏が割って入ったが無視される。
「はい、ネギ焼きが八木さんね」
 と言って、座敷に上がって料理を置く絢子。

 翌年元旦。
 信宏の店の入るビルの屋上。
 男性のドアップの左にオレンジ色のバスケットボール。毬子の手によるものだ。
「SPORTY LIFE」という文字が真ん中横、男性の頬ギリギリまで貫いている。

 2月の終わり。
 とある私立高校の、数字がたくさん張り出されてる掲示板の前。
「2366、2366……」
 毬子と祐介は、掲示板の前で数字を追っていた。
 11月中旬にやっと決まった志望校。
「あったー!」
 毬子が叫んだ。
「良かったよー」
「アスカにメールしなきゃ」
 明日香とみゆきは女子校を受けていて、その合格発表を観に行っている。女子2人とも一哉ともレベルが違ってて、下手をすると祐介ひとりだけ別の高校、悪くすると全員離ればなれの可能性があった。
 祐介はこの私立校単願である。

 明日香と一哉は同じ都立校に進むことになり、みゆきは女子校に進む。
 結局やらなかった開店20周年祝いは、25周年の時にやってと絢子が言った。  

 明日香が16歳の誕生日の祝いに、またハローでカラオケをやった。高校の入学祝いも兼ねている。
 高校生4人と、七瀬3姉弟、八木、由美、藤井家、プレスリー爺さんというメンバーである。今後も何かあったら会うだろうし口はきかなくてもいいから、と、律子と由美を同席させた。由美が三村とは別れたと言ってるから出来たことでもあるのだが。
 トップバッターは香苗で、その1曲目が、当時ヒット中だったyuiの「CHE.R.RY」で。
「これは、毬子さんと八木さんに捧げます」
 と言って歌い始めたのが、いつもと違うぞと思わせる。
 律子もレパートリーを増やしていた。図書館やTSUTAYAに通ってCDを聴き込んでいた成果で、MY LITTLE LOVERの「HELLO AGAIN」を歌うなどしていた。
 由美は洋楽が多い、ABBAの「ダンシング・クイーン」、シンディ・ローパーの「ハイスクールはダンステリア」、ビートルズの「I saw her standing there」やアヴリル・ラヴィーンなど。誰も知らないのにティファニーの「ふたりの世界」を歌っていたが、この曲を知っている者がいたら、若い娘の歌詞を歌う痛々しさを感じたかもしれない。かと思えば、スターダスト・レビューの「シュガーはお年頃」やユニコーン「おかしな2人」でおどけて見せた。
 昨年初秋に八木が歌って大爆笑を誘った「アポロ」の広島弁バージョンは、今回も八木が歌って大受けだった。他に八木は、Mr.Childrenの「YOUTHFUL DAYS」、ラルク・アン・シエルの「虹」の他に、毬子や由美へのサービスなのか、THE BOOMの「君はTVっ子」を歌って「何で知ってるの!?」と由美が大声を出した。他に斉藤和義の「歌うたいのバラッド」とゴダイゴの「銀河鉄道999」。
 藤井姉妹の「アジアの純真」は健在で、隆宏と祐介はこの時はやたらと携帯電話で写真を撮りまくっていた。
 絢子は荒井由実名義の曲をけっこう歌った。スタジオジブリ制作のアニメ映画に使われた曲。他に「すみれ色の涙」「亜麻色の髪の乙女」竹内まりやの「元気を出して」など。
 隆宏は、「落陽」「路地裏の少年」「時間よ止まれ」「唇をかみしめて」と途中まで広島県人の曲ばかりであったが、5曲目から「心の旅」「思えば遠くへ来たもんだ」「SORRY BABY」と望郷というか、故郷に恋人を置いてくるような歌ばかりになっていたのはどういうことだと、勘繰る者が出たことを知る者は勘繰った本人のみである。
 早い段階で由美がユニコーンの「おかしな2人」を歌ってしまったのは、毬子がこの歌を歌うことを避けることに繋がり、八木がヤキモキしなくて済んだ。律子がどう思ったかは知れないが。
 香苗は、歌詞をよく読んで選んだのか、恋のはじまりの歌、はじまったばかりの片想いの歌が多かった。
 明日香は加藤ミリヤがきっかけで知ったUAの「情熱」で始めたが、アニメソングも歌った。「ハレ晴レユカイ」、「残酷な天使のテーゼ」や「名探偵コナン」の主題歌など。他には宇多田ヒカル「AUTOMATIC」や椎名林檎「本能」など大人っぽい曲を選んでいた。「雪の華」も初めて歌っている。そんな中でいきものがかりの「SAKURA」がちょっと浮いていたかもしれない。
(ちなみに「名探偵コナン」は毬子が途中まで単行本を持っているが、ある時投げ出してしまい、「連載が終わってからまとめて読む」と宣言している。2021年になっても終わっていないと知ったらどう思うだろう)。
 香苗の親友・河村麻弥も途中で、ドリンクを持って入ってきたついでに安室奈美恵を1曲歌って持ち場に去っていった。
 みんな笑顔だった。


 一哉が「何を読んでも面白くない、読む本がない、毬子さんなんかない?」と言って、「銀河英雄伝説」を借りて行ったのもこの頃の話である。同盟にのめり込んで読んでいた。

 渋谷109。有休をとった香苗と休日の麻弥のコンビが買い物をしている。

 八木は職場・三津屋百貨店日本橋店のバックヤードで、水着の発注に頭を抱えている。スポーツ系はどの程度売れるのやら。もうすぐシーズンがやってくる。

 この章の中盤でりんだが描いていたアイドルものの読みきり漫画は連載になった。入る日数が増え、アシスタントは、アルバイトとの日程の折り合いに頭を悩ませている。チーフアシのみわちゃんは、アルバイトをやめようかと悩み始めた。そんな中、レイちゃんとみわちゃんは自分の原稿を描きあげて崎谷に提出している。レイちゃんの作品が高評価だった。

 その崎谷は今日も、担当する、新人含めた漫画家の作品を読んでいるが、並行して、少女漫画の名作を読むことを始めた。知識がないので新人の作品やネームをそのまま通してしまい、編集長に「これ誰それさんのあの作品と似てるよ」と言われることが3回ほど起こったためである。三村も、似たり寄ったりの漫画の読書歴なため、競争するように名作を読み倒している(ちなみに2人とも姉妹がいない)。

 律子は、翌2007年2月に離婚が成立した。毬子と家事を分担しつつ、7月から職業訓練に通い始める予定だ。学習する内容よりも人間関係の方を心配されている。インターネットにも慣れて、家事や家庭菜園・ガーデニングなどのサイトに書き込みをしたり、そこで知り合った人とチャットで会話もするようになってきた。

 信宏は、2007年1月に始めたスポーツ用品店が苦戦している。ネットに広告も出している。どう広告を打って客を呼び込み、販売につなげるか悩む日々が続いている。

 藤井夫妻は、相変わらず藤花亭で忙しい。昨年秋から偶然始めたテイクアウトは、使える範囲は少ないものの好調だ。特に毬子は、原稿を描いているとすぐ頼りにしている。
 実は2006年3月には、現在の東京スカイツリーの建設が決まっており、東京ソラマチに入るかどうかは、この物語の時点では決めかねていたが、結局入らず2008年4月に浅草へ移転した。

 明日香と祐介は、高校は離れたものの月に2回はデートをするようにしている。幼なじみで毎日会えていたので、逢うのが減った今は逆に新鮮なのかもしれない。明日香と一哉が、同じ高校に入学して同じクラスである。ちなみに制服が無地のプリーツスカートの高校を受験した。長さを選べるから。
 逆にタータンチェックのスカートが制服の高校を受験したのがみゆきである。女子校だが長身でカッコ良いと人気者になりつつある。しかし、一哉に会えず寂しいので、卒業時に告白しておけば良かったと悔いている。受け入れてもらえる保証はないのであるが。

 由美は自身のブログで、80年代邦楽ロック・ポップスのアルバムの名作語りの連載を始めた。新たな読者が付きつつあるようだし、1年半も経つと書籍化しようという声も出てくるようになった。他は、シングルやアルバム発表時などのアーティストやプロデューサーのインタビュー、ライヴレポートなどに追われる日々である。

 祐介は私立高校に入学して、受験で中断していたボクシングを再開した。高校は思ったより勉強のレベルが高く、やらなくてもついて行けるほど甘くないとこぼしている。制服のネクタイがホック式でなく結ぶタイプで、その結び方を八木に習っていた。

 毬子は、律子と家事を分担しながら、りんだのアシスタント以外は自分の作品に集中できている。崎谷に見てもらった学園ものは、16枚に登場人物4人は多く、そのせいかごちゃごちゃした内容で、そこを指摘された。あと、学園ものよりお仕事ものをやってみた方がいいかもしれないというアドバイスもあった。それを踏まえて新たな作品に取り組んでいる。
 八木との関係は、たまに言い争うこともあるけど、カラッとしたもの。八木の友人・矢沢勝則の結婚式にも、2007年6月に広島まで行って出席してきた。

 今、とても幸せだよ。
 今まで関わってくれた全ての人にそう言いたい気持ちを抱えて、七瀬毬子は生きている。

                END
 
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逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

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