いつでも僕の帰る場所

高穂もか

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第七章~おごりの盾~

四百六十八話

 ――たっぷりの沈黙があった。

「……え?」

 ぼくは、呆然と聞き返す。
 何を言われたかわからない。陽平は、動きをとめたぼくに気をよくして、ほっと息を吐いた。

「お前のことが、好きだ。いなくなって気づいた……晶じゃない。俺が好きなのは、お前なんだ……」

 言って、ぎゅっと抱きすくめられる。……濃い、薔薇の香りが漂っていた。塗りこまれた精油と違う、陽平のフェロモン。肌がざわざわする様な匂いに、息を詰める。

「何を……」
「本当なんだ。信じてくれ……」

 切ない訴えが耳に触れ、肩が跳ねる。

 ――陽平が、ぼくのことを好き……?

 嘘だ。
 ぼくは、自分の体がぶるぶると震えだすのを感じていた。ぼくを抱く陽平の腕にも伝わったのか、不思議そうに尋ねてくる。

「……成己?」

 紅茶色の瞳に覗き込まれた。

 『お前を好きだったことは一度もない』

 そう言って、ぼくを切り捨てた陽平の冷たい瞳と重なる。惨めに縋った記憶が蘇り、かああと怒りで目の前が真っ赤になった。

「――っ、ふざけんといて! 信じるわけないやろ……!」

 ぼくは、思い切り体を捩り、陽平の手から逃れようともがく。ますます強く抱かれてしまい、悔しさに呻いた。

「はなしてッ!」
「嫌だ! 成己、本当なんだ。俺は、お前のこと……」
「やめてよ……! そんな嘘、聞きたくない!」

 言い募ってくる陽平に、激しく頭を振った。ガチャガチャとヘッドボードが軋むほどに腕を引くと、陽平が血相を変える。

「手を痛める! 大人しくしてくれ!」
「痛……っ!」

 両腕を掴まれ、ベッドに磔にされる。
 荒い息を吐いて、間近にある陽平の顔を睨んだ。驚いたような顔にさえ、めちゃくちゃに腹が立っている。どうして、そこまでぼくを馬鹿に出来るのかわからない。

「好きなんて……そんなんで、丸め込もうっていうの? 馬鹿にすんな!」
「成――」
「ぼくはもう、宏ちゃんの奥さんなんや! 宏ちゃんの側に、ずっと居たいの……!」

 大切な夫だけを思い、叫んだ。
 陽平に捨てられたぼくを、迎えてくれた優しい人。絶対に離れたくないのに、こんなことになってしまうなんて……嗚咽を堪え、怒鳴った。

「陽平なんか、大っ嫌い……もう、顔も見たくない!」

 頭上で、息を飲む声が聞こえる。
 でも、どうでもいい。こんな事をするアホは、好きに傷つけばいいと思った。

「はなしてよ……!」
 
 必死に身を捩ると、黙っていた陽平が圧し掛かってきた。
 
「――いやだ」




 聞いたこともない低い声に、ギクリとする。両腕を強く戒められ、陽平が真上から見下ろしてくる。紅茶色の目が炎を抱いているように、揺らめいていた。
 気圧されて、体が震える。

「っ、陽平……」
「俺を嫌いでもいい。あいつのもとには返さない……!」

 陽平は唸るように言い、身を屈めてきた。咄嗟に背けた顔を、顎を掴んで引き戻される。

「んうっ……!」

 唇を強引に塞がれた。裂けんばかりに見開いた目に、炎のような目が迫る。

 ――いや!!

 必死に顔を振りもぎろうとする。なのに、陽平の力は強く、ほどけない。ぴたりと合わさった口の中で、ぼくの悲鳴が潰れる。

「うううっ……やっ……!」

 身勝手なキスに、ぼろぼろと涙が溢れる。力の限り暴れても、馬乗りになられているせいで、踵が空しくマットを叩く。

「……ぃや!」
「――ッ!?」

 やめてほしくて、思い切り唇に噛みついた。……がり、と薄い皮膚が破れ、温い血が頬に伝ってくる。
 けれど、陽平はちょっと眉をしかめただけで、キスをやめてくれない。報復のように頬を強く掴まれ、強引にひらかされた唇に舌が入ってくる。

 ――やだぁぁっ! 宏ちゃん……!

 意思を無視し、執拗に唇を蹂躙されて、ぼくは咽び泣いた。

 『成、大好きだよ』

 舌を絡めとられ、ううと嗚咽が漏れる。……この唇を愛おしんでくれた、夫の笑顔が浮かんだ。
 大切なキスが塗りつぶされていくようで、心が滅茶苦茶になる。

「うぅ……や、め……」
「成己……俺のだ。絶対に離さない……」

 陽平は恍惚の声で囁く。強引に抱き寄せられ、密着した肌から薔薇の香りの汗が伝ってきた。強いフェロモンに、くら、と脳が揺れる。いやなのに、恐ろしいのに。おかしな薬を飲まされた体は、次第にぴりぴりと甘い痛みを訴えはじめる。

 ――いや……どうして……!?
 
 熱い手のひらが全身を這う感覚に、ぼくは呻いた。自分の反応が耐えがたかった。
 
「……成己、いいんだろう」

 違う、と頭を振る。石のようにいようとするぼくを、陽平は嬉々として暴こうとする。執拗に弱い部分を撫でる指に、耐え切れず息を乱すと、責め苦がひどくなった。

「っ……ぅあ……」
「ほら……こんなに濡れてきてる。俺が欲しいよな?」
 
 勝利を確信したように、陽平が囁く。宏ちゃんの愛してくれた痕を塗りつぶされ、ビクリとのけ反った。

「ちがッ……いや……!」

 宏ちゃんじゃなきゃ、嫌なのに。自分の反応が信じられない。こんな事はあり得ない。逃げたいのに、薔薇のフェロモンを浴びせられ、身体がどろどろに砕けていく。

「……あんな男のこと、すぐに忘れさせてやる」
「ひっ……!」

 足首を掴まれ、胸が潰れそうになった。
 涙で霞む視界に、愛しい面影が浮かんだ。ここで、宏ちゃんを裏切ったら、本当に合わせる顔が無くなってしまう。

 『成』

 優しく笑い、ぼくに腕を広げてくれたあの人を失う。――計り知れない恐怖に、がちがちと歯が鳴った。

「……いやだっ……ひろにいちゃん……ひろにいちゃんっ!」

 絶望でぐしゃぐしゃの声で、叫んだ。
 そのときだった。
 
 バンッ!
 
 凄まじい打撃音が響いた。
 はじかれたようにそっちを見れば――もう一度、バンッと爆ぜるような音がし、ドアが撓った。

「何……!?」

 陽平が驚愕に叫んだ。ドアの向こう側が、ざわざわと騒がしい。呆然として、撓るドアを見ていると、バキッ、と無残な破壊音とともにドアがへし折れる。

「――成!」

 愛おしい声が、ぼくの名を呼んだ。
 ドアを失った部屋の入り口。大きい椅子を振り下ろした格好で、宏ちゃんが荒い息を吐いていた。

「野江……ッ」

 陽平が唸る。ぼくは、呆然と唇を震わせた。

「……ひろ、ちゃん……?」

 本物? 都合のいい幻じゃないかと思うけれど、脳を揺さぶるような森の香りが、現実と訴える。灰色がかった瞳は、ぼくだけを見つめている。

 ――宏ちゃん……!

 残骸を乱雑に踏み、歩いてくる大きな影に、ぼくは涙を溢れさせた。

「成……遅くなってごめん」
「……っ」

 痛みを孕んだ声に、ふるふると頭を振る。雨のように散る涙に、苦しげに眉を寄せた夫は、陽平に向き直る。

「成を苦しめたら許さない、と言ったはずだ」

 静かな声は、深い怒りをたたえていた。
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