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第七章~おごりの盾~
四百七十二話【SIDE:陽平】
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「成己――!」
俺は声の限り叫んだ。床を這いずって、野江と共に遠ざかる成己に手を伸ばす。
――行かないでくれ……!
息をするだけで痛みを訴える頬に、涙が伝う。いやだ、と何度も繰り返した。
俺の腕から、二度もいなくなるなんて許せない。ここで逃したら、お前は二度と帰ってこないのだと――恐ろしい焦燥が胸を責めた。
「成己、行くなよ……成己ッ……!」
けれど、必死に伸ばした手は、届かない。成己は振り向いてはくれなかった。野江の腕にぴったりと身を預け、ドアを潜り行く。
待ってくれ。
いやだ――。
「成己ィッ……!!」
泣きながら、愛しいオメガを呼んだその一瞬……成己の横顔が見える。
部屋を染める夕陽に照らされ、成己は泣いていた。悲しそうな横顔に、光の雫のように涙が伝っている。
あまりに綺麗で、悲しい涙だった。
「……ぁ」
俺は息を飲み、声を失う。伸ばした手が、力なく床に落ちた。心臓が、ドクドクと激しく脈打つ。――とんでもない間違いを犯したと、気づいてしまったから。
『城山くん』
記憶の片隅から、やわらかな笑みを浮かべた成己が、手を振っている。
夕焼けに染まる教室が、ふと胸に迫りきて、俺は息を止めた――。
そうだ。
成己は、いつも笑っていた。
出会ったばかりの、あの頃。放課後の教室は、いつも静かで。俺たち二人だけの、穏やかな時が流れていた。
『なあ、春日。その本の犯人、誰かわかるか?』
『ぼくは、妹さんの旦那さんが怪しいと思うっ』
顔をつき合わせて、くだらねえことで笑い合って。たった一冊の本の為に、めちゃくちゃに言い合ったことも、真剣に推理したこともある。
城山の御曹司も、センターのオメガもなく、ただのガキみたいにさ。
『陽平。いつも一緒に待っててくれて、ありがとうね』
『……どういたしまして』
そう言って、俺がいると嬉しそうな成己がくすぐったかった。
センターの送迎を待つ成己を、気まぐれに構いだしたのはいつごろだったか。ひとりきり、夕陽に染まる教室にいるあいつが、なぜか儚く見えたからかもしれない。
――成己が、嬉しそうだから……それだけだ。
普段なら、好意の代償を期待されるんじゃないかって、面倒なのに。不思議と成己にはそれは無かった。ただ、一緒に過ごすと心地が良い。
けれど、ひとつだけ――俺には不満があった。
『あっ、お迎え来たみたい』
成己は、送迎車が到着すると、いつもあっさり帰っていく。
『陽平、また明日ね』
『……ああ』
笑って手を振って、一目散に教室を駆け去っていく背中。ふわりと揺れる生成色の髪を見送ると、いつも物足りないような、憎らしいような気持ちになった。
――んだよ。そんなに帰りたいのか……?
面白くなかった。
俺のことをもっと惜しめよ、と拗ねた気持ちがわいてきて。
窓から校庭を見下ろして、成己が送迎車に乗り込むまでを見送った。そんなこと、あいつは知らなかっただろう。車が走り去るのを、どんな思いで見送ったかなんて。
――はやく、明日になれ……。
西の空には夕陽があかあかと燃えていた。
家に帰れと急き立てるような赤に目を瞑り、俺はやわらかな笑みを想った……
「……そうか……」
そして、現在――夕陽の差し込む部屋に、俺は一人残されている。
開け放たれたドアには、成己の影すら残っていない。寂しさに、どっと涙が溢れ出した。
「成己……!」
感情のままに、ダン、と床を殴った。
――俺は、最初から間違ってたんだ……。
成己が可哀想だから、じゃない。
そんな理由で結婚できるほど、俺は器用なんかじゃない。
「俺が、成己の側にいたかった。成己に、側にいてほしかったんだ……!」
胸の奥から悲しみがこみ上げ、「クソ」と呻く。床を叩く。何度も――間違えた怒りと、失った悲しみで、心が滅茶苦茶になりそうだった。
『――陽平、また明日ね』
いつも笑って、手を振っていた成己。明日の期待を持てたのは、あいつの笑顔のおかげだった。いつだって、嬉しそうに笑ってくれたあいつのことを、手放したくないと思っていたはずなのに。
「いやだ……!」
床に両腕をつき、呻いた。
『さようなら、陽平』
悲しそうに泣きながら、あいつは言った。
その意味を悟り、胸がドリルで穿たれたように痛みだす。
「うああああ……っ!」
声の限り、叫んだ。胸の痛みを吐きつくすように。空っぽになれれば、これほど苦しまなくて済むのだろうか。床を殴りつけ、嗚咽を漏らし続ける。
「成己……っ、成己……!」
組んだ拳に額をつける。甘い残り香が、かすかに漂う。俺の腕には、成己の温もりが残っているのに。
熱い涙が溢れ、頬を濡らし、床にしみを作っていた。
「――陽平ちゃん!」
部屋の中に母さんが駆け込んでくる。
柔かい手が、むせび泣く俺の背を擦ろうとした。
――やめてくれ!
身を捩ると、母は手を引いて、それから機嫌を取るように微笑んだ。
「……大丈夫、大丈夫よ……ママがなんとかするからね!」
「……ッ」
細い腕を俺の肩にまわし、上ずった声で囁く。甘い香水のにおいが鼻につき、俺は頭を振る。
――やめてくれ。成己の香りが……。
訴えは言葉にならず、母は嬉しそうに身を寄せた。その白い指が、すらりと天井をさす。
「心配しないで。もう、成己さんを捕まえたも同然よ。あなたのものになったって証拠は、きちんと撮れているのだから……!」
「……え?」
「監視カメラに映った映像で、成己さんを脅すのよ。抱き合う姿を、野江の本家に送りつけてやるのもいいわね。野江に捨てられれば、私達の足元に縋るわ。だから、泣かないで陽平ちゃん。いい子にしていてね――」
甲高い声で狂気の計画を捲し立てられ、頭が真っ白になった。
この人は、何を言っているんだ? 俺とそっくりの紅茶色の目が、どろどろした愛着に濁るのを見て、慄然とする。絶対に自分の思い通りにしようとするときの、母さんの目……。
『なんで、お母さんの言うこと聞いてくれないの?!』
ヒステリックな叫びが蘇る。そして、その声が成己に縋る自分の声に重なった。
『離れるくらいなら、殺してやる……!』
愛する人を苦しめても、幸福でいようとする俺と――
「……やめてくれ!!!」
声の限り叫び、母さんを突き飛ばした。
床に尻もちをついた母さんは、俺を呆然と見上げる。俺は荒い息を吐き、震える手を握りしめる。成己を殺しかけた手を。
「……よ、陽平、ちゃん……?」
「いい加減にしてくれよ!! もう、放っておいてくれ……!!!」
頭を抱え蹲り、怒鳴った。
もう、全てがいとわしいと思った。いつも思い通りにしようとする母さんも。こんな母を子供に押し付け、仕事ばかりの父さんも。
この人たちの息子に生まれて、ちゃんと人を愛せない俺のことも――!!
「もう、うんざりなんだよ……!」
こんなところにいたくない。
誰の顔も見たくない。
……成己だけ。
成己がいれば、俺は幸せだったのに――。
真っ赤な部屋にひとり、俺は体を丸めて咽び泣いた。
もう失ってしまった、俺の最愛を求めて……
俺は声の限り叫んだ。床を這いずって、野江と共に遠ざかる成己に手を伸ばす。
――行かないでくれ……!
息をするだけで痛みを訴える頬に、涙が伝う。いやだ、と何度も繰り返した。
俺の腕から、二度もいなくなるなんて許せない。ここで逃したら、お前は二度と帰ってこないのだと――恐ろしい焦燥が胸を責めた。
「成己、行くなよ……成己ッ……!」
けれど、必死に伸ばした手は、届かない。成己は振り向いてはくれなかった。野江の腕にぴったりと身を預け、ドアを潜り行く。
待ってくれ。
いやだ――。
「成己ィッ……!!」
泣きながら、愛しいオメガを呼んだその一瞬……成己の横顔が見える。
部屋を染める夕陽に照らされ、成己は泣いていた。悲しそうな横顔に、光の雫のように涙が伝っている。
あまりに綺麗で、悲しい涙だった。
「……ぁ」
俺は息を飲み、声を失う。伸ばした手が、力なく床に落ちた。心臓が、ドクドクと激しく脈打つ。――とんでもない間違いを犯したと、気づいてしまったから。
『城山くん』
記憶の片隅から、やわらかな笑みを浮かべた成己が、手を振っている。
夕焼けに染まる教室が、ふと胸に迫りきて、俺は息を止めた――。
そうだ。
成己は、いつも笑っていた。
出会ったばかりの、あの頃。放課後の教室は、いつも静かで。俺たち二人だけの、穏やかな時が流れていた。
『なあ、春日。その本の犯人、誰かわかるか?』
『ぼくは、妹さんの旦那さんが怪しいと思うっ』
顔をつき合わせて、くだらねえことで笑い合って。たった一冊の本の為に、めちゃくちゃに言い合ったことも、真剣に推理したこともある。
城山の御曹司も、センターのオメガもなく、ただのガキみたいにさ。
『陽平。いつも一緒に待っててくれて、ありがとうね』
『……どういたしまして』
そう言って、俺がいると嬉しそうな成己がくすぐったかった。
センターの送迎を待つ成己を、気まぐれに構いだしたのはいつごろだったか。ひとりきり、夕陽に染まる教室にいるあいつが、なぜか儚く見えたからかもしれない。
――成己が、嬉しそうだから……それだけだ。
普段なら、好意の代償を期待されるんじゃないかって、面倒なのに。不思議と成己にはそれは無かった。ただ、一緒に過ごすと心地が良い。
けれど、ひとつだけ――俺には不満があった。
『あっ、お迎え来たみたい』
成己は、送迎車が到着すると、いつもあっさり帰っていく。
『陽平、また明日ね』
『……ああ』
笑って手を振って、一目散に教室を駆け去っていく背中。ふわりと揺れる生成色の髪を見送ると、いつも物足りないような、憎らしいような気持ちになった。
――んだよ。そんなに帰りたいのか……?
面白くなかった。
俺のことをもっと惜しめよ、と拗ねた気持ちがわいてきて。
窓から校庭を見下ろして、成己が送迎車に乗り込むまでを見送った。そんなこと、あいつは知らなかっただろう。車が走り去るのを、どんな思いで見送ったかなんて。
――はやく、明日になれ……。
西の空には夕陽があかあかと燃えていた。
家に帰れと急き立てるような赤に目を瞑り、俺はやわらかな笑みを想った……
「……そうか……」
そして、現在――夕陽の差し込む部屋に、俺は一人残されている。
開け放たれたドアには、成己の影すら残っていない。寂しさに、どっと涙が溢れ出した。
「成己……!」
感情のままに、ダン、と床を殴った。
――俺は、最初から間違ってたんだ……。
成己が可哀想だから、じゃない。
そんな理由で結婚できるほど、俺は器用なんかじゃない。
「俺が、成己の側にいたかった。成己に、側にいてほしかったんだ……!」
胸の奥から悲しみがこみ上げ、「クソ」と呻く。床を叩く。何度も――間違えた怒りと、失った悲しみで、心が滅茶苦茶になりそうだった。
『――陽平、また明日ね』
いつも笑って、手を振っていた成己。明日の期待を持てたのは、あいつの笑顔のおかげだった。いつだって、嬉しそうに笑ってくれたあいつのことを、手放したくないと思っていたはずなのに。
「いやだ……!」
床に両腕をつき、呻いた。
『さようなら、陽平』
悲しそうに泣きながら、あいつは言った。
その意味を悟り、胸がドリルで穿たれたように痛みだす。
「うああああ……っ!」
声の限り、叫んだ。胸の痛みを吐きつくすように。空っぽになれれば、これほど苦しまなくて済むのだろうか。床を殴りつけ、嗚咽を漏らし続ける。
「成己……っ、成己……!」
組んだ拳に額をつける。甘い残り香が、かすかに漂う。俺の腕には、成己の温もりが残っているのに。
熱い涙が溢れ、頬を濡らし、床にしみを作っていた。
「――陽平ちゃん!」
部屋の中に母さんが駆け込んでくる。
柔かい手が、むせび泣く俺の背を擦ろうとした。
――やめてくれ!
身を捩ると、母は手を引いて、それから機嫌を取るように微笑んだ。
「……大丈夫、大丈夫よ……ママがなんとかするからね!」
「……ッ」
細い腕を俺の肩にまわし、上ずった声で囁く。甘い香水のにおいが鼻につき、俺は頭を振る。
――やめてくれ。成己の香りが……。
訴えは言葉にならず、母は嬉しそうに身を寄せた。その白い指が、すらりと天井をさす。
「心配しないで。もう、成己さんを捕まえたも同然よ。あなたのものになったって証拠は、きちんと撮れているのだから……!」
「……え?」
「監視カメラに映った映像で、成己さんを脅すのよ。抱き合う姿を、野江の本家に送りつけてやるのもいいわね。野江に捨てられれば、私達の足元に縋るわ。だから、泣かないで陽平ちゃん。いい子にしていてね――」
甲高い声で狂気の計画を捲し立てられ、頭が真っ白になった。
この人は、何を言っているんだ? 俺とそっくりの紅茶色の目が、どろどろした愛着に濁るのを見て、慄然とする。絶対に自分の思い通りにしようとするときの、母さんの目……。
『なんで、お母さんの言うこと聞いてくれないの?!』
ヒステリックな叫びが蘇る。そして、その声が成己に縋る自分の声に重なった。
『離れるくらいなら、殺してやる……!』
愛する人を苦しめても、幸福でいようとする俺と――
「……やめてくれ!!!」
声の限り叫び、母さんを突き飛ばした。
床に尻もちをついた母さんは、俺を呆然と見上げる。俺は荒い息を吐き、震える手を握りしめる。成己を殺しかけた手を。
「……よ、陽平、ちゃん……?」
「いい加減にしてくれよ!! もう、放っておいてくれ……!!!」
頭を抱え蹲り、怒鳴った。
もう、全てがいとわしいと思った。いつも思い通りにしようとする母さんも。こんな母を子供に押し付け、仕事ばかりの父さんも。
この人たちの息子に生まれて、ちゃんと人を愛せない俺のことも――!!
「もう、うんざりなんだよ……!」
こんなところにいたくない。
誰の顔も見たくない。
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