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第一章 死にたくなった若者・綾野透
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しおりを挟む大学を卒業してからは、あっという間に日々が過ぎていった。
普通のサラリーマンになりたくなかった綾野は、大学卒業後はそのままアルバイト先の焼き鳥屋で働くこととなる。
福岡市薬院の大通りにある、地元では美味いと評判の老舗焼き鳥屋。大学一年生の夏からずっと勤めていたこともあり、店の動き方、回し方、ノウハウはほとんど熟知している。アルバイト生は大体一年もしない内に辞めていくので、長く勤めていた綾野は店長からの信頼も厚かった。
だが、いずれは辞めなければならないという自覚はある。若い内はまだいいが、一生焼き鳥屋のアルバイターとして生きていけるわけがない。給料も二〇万、福岡は家賃も物価も安いから生活自体には困らないが、贅沢をできるほどではなかった。
なにか、自分に合った職業を見つけなければいけないな。最悪、サラリーマンも視野に入れておかなければならないだろう。こんなに忙しい焼き鳥屋で頼りにされているのだから、営業くらい余裕だ。それに自尊ではないが、俺は接客が得意な方だと思う。人並み以上の営業成績はすぐに達するはず。給料は三〇万、ボーナス込みで年収は五〇〇万くらいか? それも悪くはない。
綾野は、焼き鳥を焼きながらそんなことばかりを考えていた。将来に対する不安を覚え始めた24歳、夏のことだった。
その数年後、綾野は未だ焼き鳥屋で働き続けていた。
給料は二万上がり、二十二万。寸志は年に二回で三万ずつ、合計六万だ。その全てを合算しても、三〇〇万にも満たない年収。
さすがにこのままではマズイと、綾野は焦りを感じ始めていた。
ふと、昔アルバイトに入っていた男のことを思い出す。年齢は40代前半くらいの、勤めていた会社がいきなり倒産してしまったらしい。「とりあえず食いつなぐために働きたい」と、アルバイト応募をしてきたのだった。
当時アルバイト面接をしていた綾野は、その話を聞いて「大変ですね」と内心他人事だった。店長も「ああはなりたくねぇな」と、せせら笑っていた。営業終わりに立ち寄ったラーメン屋で、綾野は焼酎を呷りながら「全くですね」と相槌を打つ。
自分は若いから、まだマシだ。
じっくり、将来のことを考えよう。転職を繰り返すなんて、まっぴらゴメンだ。
大きな会社に入って、一生安泰な生活を送りたい。その場合であれば、公務員でも構わないかもしれない。しっかりと取れる休日に、程々の給料。人並みだが、俺もすでに三十路。贅沢はいってられない。
だが結局、綾野が動き出すことはなかった。
そのままずるずる時間だけが過ぎていった、2020年五月のことだ。
焼き鳥屋が、閉店することとなった。
世界規模の疫病、緊急事態宣言という社会の津波に、店はあっさり呑み込まれてしまったのだ。
借り入れや国の助成金などで持ち直しを図ったが、持って一、二ヶ月が限度。「俺も70になったからな、タイミングが良かったかもしれないな」と、店長は存外あっけらかんとした態度だった。
綾野は、焦りしか感じていなかった。
29歳の五月中旬。アルバイトである綾野には、退職金も失業保険も出ない。出たのは、国の給付金一〇万だけだ。それすらも、貰えただけ有難いと思わされる。
ただ世の中には、こういうことわざが存在する。
ピンチはチャンス──
「なあ透、この店を引き継いでみないか?」
客一人いない、五月中旬最後の営業日。
店長は、綾野にある提案も持ちかけてきた。
『このまま店を辞めると、店をスケルトンにしないといけなくなる。それはもったいない。なにより、俺はこの店に愛着がある。なくしたくはない。でも綾野、お前になら全て任せられる』
要約すると、そんな感じの内容だった。
綾野は、この先の人生を深く考え出した。
一生やり続けるはずはないと思っていた、焼き鳥屋の道。アルバイトで食いつなぐのは、絶対に無理だと思っていた。
だが、店長だったらどうだ?
やりくり次第では、サラリーマンなんかよりもずっと多く稼げる。体力勝負なところもあるが、これまでずっとこの店で働いてきたのだ。常連とも顔馴染みだし、この店のノウハウは誰よりもよく知っている。やり方次第で、今まで以上の繁盛店となり、二店舗三店舗と店が拡大していく未来も見える。少なくも、可能性は0ではない。
綾野は「ついに運が俺に回ってきたんだ」と、数日後にも店長と契約を結んでいた。オーナーは一応店長のまま、店舗契約だけを結んだ。その方が、引き継ぎが楽だという話だ。そのへんに疎い綾野は、手続きのほとんどを店長へ丸投げした。すると滞りなく、話はトントン拍子で進んでいった。
契約金の三〇〇万は、親に死ぬほど頭を下げて一〇〇万、残りは消費者金融を利用した。
そうして、六月。
綾野は、ついに焼き鳥屋の店長となった。
敵は正体不明の伝染病、不景気社会そのものだ。敗北は死、やらぬも死だ。だったら、やるしかないだろう。
このビッグウェーブに、乗るしかない。
男、綾野透。29歳。
己の進退をかけた、人生の第二章がついに幕を上げる──
※ ※ ※
「……そのはず、だったんですが」
「要するに、契約金を全て持ち逃げされたということですね」
薄暗い白熱灯に照らされた事務所に、西京の声が木霊する。ビルの外観から把握できた通りの、どんよりとした小さな事務所。壁は煙草のヤニでくすんだのか、黄色く濁っている。ヤクザの事務所みたいな場所だと、綾野は居心地の悪さを感じていた。
ガラス板のテーブル越しに座る西京は、以前として薄ら笑い。
「それで、仮にも私へ依頼をするのであれば、その店主への報復をご希望ですか?」
「報復とは、やはり殺すという意味ですか?」
「程度は依頼主の要望次第です。腕を折る程度、全治数ヶ月の大怪我を負わせる程度。指を詰める、というやり方でも構いませんよ。些か、ヤクザみたいではありますが。けじめというものです」
「西京さん、あなたはヤクザなんですか?」
「いえ、違います。なんでも屋ですよ」
信用はできない。西京と話すたびに感じる、それは不信感だった。既に胡散臭など通り越しての、西京の笑みに恐怖すら感じている。
「でも、そうですね。綾野さんはどうも、その店主に対する恨みはないようですので、報復はお門違いでしたか」
「どうして、そう思うんですか?」
「目を見れば分かります。あなたから、人を心から恨んでいる、殺意を抱いているなどといった狂気を全く感じません。むしろ、騙されてしまった自分を恥じている、そんな風に見えますね」
図星だった。他人から言及されると、改めて自分の甘さを痛感してしまう。
「騙されたってのに、全然、怒りが湧いてこないんですよ。なんでかな……」
「優しい方なんですね」
「無気力なだけ、なんじゃないですかね」
「そんなことはありませんよ。そんなに自分のことを責めないで下さい」
まさかの励まし。
「では、こういうのはどうでしょう? その店長を見つけ出し、契約金三〇〇万全額を取り返すというのは」
綾野は「えっ」と声を上げた。
「そんなこと無理ですよ。契約書の住所も全部デタラメだし、電話もメールも、全部変更されています。警察にも被害届を出しましたけど、『こういったケースは追跡が難しい』と言われましたし」
「関係ありませんよ。それに私は警察ではなく、なんでも屋ですので、どんな手を使ってでも見つけ出します」
西京の声音に戸惑いはない。
だったらいけるのか、本当に……。
「ちなみに、なんですけれど」
「はい、なんでしょう?」
「その依頼をした場合、どのくらいの費用がかかりますか?」
西京はにっこりと笑う。指を二本作って見せた。二〇万、そういうことだろうか。
「二〇〇万、請求させていただきます」
その額を聞いて、綾野は心底驚いた。
やはり、彼は詐欺師ではなかろうか?
「詐欺ではありませんよ」
心を読まれた気分だった。
「必要経費と、仕事量に見合った正当な金額を請求させて頂きます。住所も分からない、連絡も取れない、そもそも県外に逃亡した可能性もある。言ったら行方不明となった人間を、0の状態から捜し出すわけですから、労力も資金もいるわけですよ」
「そう、ですよね……」
「ただ、依頼とあれば全力を尽くします。依頼を受けてから三日後には、必ず彼を見つけ出しましょう」
「み、三日!」
「はい、三日です。ご不満ですか?」
「そういう意味じゃなくて。三日って、そんなにすぐ見つかるものなんですか?」
「もちろん、見つけますよ」
西京は、にっこりと笑った。
「なんでも屋、ですからね」
頼もしいのか、胡散臭いのかがよく分からない。だがしかし、妙な説得力はあった。
「海に沈んでいるのなら、海から引きずり出して来ますよ」
「恐ろしいこと言いますね」
「ふふふ、冗談です」
そこで話を一旦釘って、西京は「お茶を出しましょう。熱いのと冷たいの、どちらがいいですか?」と聞いてきた。
綾野は「結構です」と、やんわり断る。いろいろ考え過ぎて、吐き気を催していた。
「とりあえず、今日は一旦話を持ち帰って、家でじっくり考えてみるのはいかがでしょうか?」
そうさせてもらおうか。
綾野は「お話を聞いていただき、ありがとうございました」と頭を下げて、事務所を後にした。
「なんでもしますよ」
去り際に言われた西京の声は、しばらく綾野の脳裏にこべりつき離れなかった。
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