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第一章 死にたくなった若者・綾野透

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 綾野はビルを飛び出すと、真っ先に昭和通りへと向けて走った。人通りの多い大通りに出てしまえば、さすがに下手な行動には出れないはずだ。

 以前ならば混じりたくもなかった人の波も、今ではとにかく落ち着く。

 そのまま昭和通りから地下鉄空港線へと移り、沿って歩くことしばらく。福岡城跡地近くに差し掛かったときだった。

 歩いていた綾野の隣に、スーと、一台のタクシーが止まった。窓から顔を覗せる、それは先程のドライバーであった。

「兄ちゃん、まさか一日に二度も会うなんて、奇遇やね」

 奇遇……いや、綾野にとってそれは、行き場がなく頼るあてもない、そんなにも救いのない自身へ差し伸ばされた救いの手。

 誰でもいい。今は一人不安なこの時間を、誰かと共有したい。

 迷うことなく、綾野はタクシーへと乗り込んだ。行き先は決めていない。とりあえず、なるべくなら遠くへ。北九州までと、そう伝える。ドライバーは驚いていた。だがすぐにも、「わーかりやした」とトランスミッションを動かした。

 それからは、しばらくは無言のまま。街の喧騒とタクシーの走行音だけが聞こえてくる車内。

「兄ちゃん、なにかあったと?」

 痺れを切らしたのか、ドライバーが慎重そうに尋ねた。「酷い顔色しとるねぇ」、言葉尻にそう付け足す。

 綾野は、

「信じられないかも、しれませんが……」

 今日これまでに起きたことを、洗いざらいドライバーに打ち明け始めた。それは西京無敵というなんでも屋の男に出会った日から、本日のことに至るまで。綾野一人で抱え込むには、闇も業も深過ぎる話だ。

 その間、ドライバーは黙って綾野の話へ耳を傾けていた。口を開いたのは、一通り話し終わった綾野が「嘘みたいな話、ですが」と話の現実味のなさに失笑したのと同時だった。

「小説みたいな話やね」
「ですかね」
「まさか、全部作り話とか」
「まさか、全部事実ですよ。現実は小説より奇なり、そういうやつです」

 ドライバーは「うまいこと言うなぁ」と感心する。

「ま、この業界におるとそういった裏社会の話もたまに聞くけどね」

 この業界とは、タクシー業界のことだろうか。

「それこそ福岡って、昔からヤクザ絡みの話が多いっちゃん」
「ヤクザ絡み、ではないんですけどね」
「ばってん、ヤクザが絡んでるかもしらんよ? きな臭い話には大抵、バックにヤクザの一人や二人おるもんやし」

 確かにその通りかもしれない。今回の一件は、言うなれば人身売買そのもの。裏にヤクザが潜んでいても不思議ではない。

 もしかして、あの西京無敵という男はヤクザだったのか?

 最近のヤクザは、外見だけで判断できない。どこかで、綾野はそんな話を聞いたことがあった。インテリヤクザと、そう呼ぶらしい。

「知っとう? 福岡って、他県の奴らから『修羅の国』って、そう呼ばれとるらしいよ」
「聞いたことあります。家に手榴弾を投げ込まれたとか、道端で銃で撃たれたとか、そういったニュースが原因らしいですね。実際住んでると、そんな物騒な事件もそうないんですけどね」
「でも、たまにある。たまにあるってことは、一般的に行われとうってことやろ。火がないと、煙は立たんけんね」
「そう、なんですかね」
「そうくさ。まだ兄ちゃんが生まれる前の話やけど、俺の知り合いもヤクザに巻き込まれて何人も死んだけん。ドスで腹を刺されたり、ヘマうってそのままいなくなったり。ああ、そうそう、コンクリート固めにされて海に沈められた、そんな奴もおったかいな」

 それこそ創作話のようだ。
 それにしてもこのドライバー、先ほどからやけに怖い話をペラペラと。

 ふと、綾野は視線を窓の向こうへ。

 一面に広がる木々。どうやら、山道に差し掛かったらしい。

 でも、どうして山道なんかに入ったのだろう?

 北九州までだったら、高速を使った方が早いのに。もしかしたら、タクシードライバーしか知らない裏道でもあるのだろうか。個人タクシーのようだから、独自で開拓したルートがあるのかもしれない……いや、それにしたってこんな山奥を通る必要はあるのか?

 静謐とした車内に、綾野は不安を覚えてしまう。

「すみません、これ、北九州に向かってるんですよね?」
「え? もちろんくさ。向かうよ、最終的には」
「最終的には? それ、どういう意味ですか?」
「言葉通りの意味やけど」

 ちぐはぐなやり取り。この妙なやり取りに、綾野は既視感を覚えて止まない。先ほど、孔雀というオカマとのやり取りもこんな感じだった。俺がことの顛末を知らないだけで、あちらは既にこの先の展開を全て把握している、みたいな。

 ……え?

「どうかしたと、兄ちゃん」

 ドライバーの声を受けて、綾野の心臓がバクンと高鳴る。綾野は恐るおそる、フロントミラーに映るドライバーの顔を見た。サングラスで、目は見えない。なぜか、こんな話を思い出していた。ヤクザを判別するときは、目を見れば分かるという。ヤクザの目は、普通じゃない。昔、誰かからそう聞いた。

 綾野の首筋を、ツーと汗の粒が伝っていく。
 危ない橋を渡っている、そんな気がする。もしくは、既に崖っ淵に立たされている、のかもしれない。

「……すみません。やっぱり、引き返してもらっても、いいですか? お金は、ちゃんと払うんで」
「ん、なんで?」
「よ、用事を思い出して」
「そうと? でも今から戻っても結構時間かかるよ」
「それでも、構いませんから……今じゃないと、ダメなんです」

 そんな綾野の下手な言い訳に、ドライバーは口角を歪ませる。笑って、言った。

「人生の最後に、なにかやり残したことでもあったと?」

 綾野は、恐怖で言葉を失っていた。ドライバーの嗤い声だけが、無情に響き渡る。

「バカたれ。西京さんと関わっておいて、今更逃げられるわけないやん。世間知らずにも程があるやろ」

 次の瞬間だった。綾野の背中が、ぐんっと座席に吸い寄せられる。そのままグングンと、強烈なGが綾野の体へのし掛かる。

 タクシーが、次第に加速していた。

「あ、あぁぁ……」
「もう全部遅いわ。あの時ああしとけばよかったとか、これは、もうそういう次元の話じゃないと。兄ちゃんの人生は、もうお終いったい」
「これから、どうなるんですか、俺……」
「とりあえずは収容所で買い手を決めないかんけん。この先にあるっちゃん。その後は、北九州港で船に乗ってもらう。それからのことは知らん」
「ふ、船!? なんで!?」
「やけん、知らんって。売られた人間をどうするかは、買った人間にしか分からんやろ」
「そ、そんなこと、警察が黙ってませんよ!?」
「はぁ? 警察って兄ちゃん、あれほとんどヤクザみたいなもんよ。なんやったら、ヤクザよりタチ悪いわ。今回のことも、もちろん全部知っとるに決まっとうやろ」

 綾野は、絶句した。

「年間、日本の行方不明者は八万人。その半数以上は、ボケ老人の徘徊とかガキの家出ですぐ見つかるっちゃけど、問題は一割の人間。絶対に見つからん。兄ちゃんはこれから、その一割になるったい」

 ドライバーは、淡々と語り続ける。

「詳しくは知らんけど、自分を売ったんやろ、兄ちゃん。どのくらいやった? 若いけん、高く買ってもらえたやろ。それに面もいいし、買い手によっては高値がつくやろうね。
 若さって、金じゃどうしても買えんけん。皆んな欲しがるんよ。特に、日本人は高値で売買される。義務教育の賜物ってやつやろうね。読み書きも出来て、主人に従順で、どんなことしても逆らったりせん。なにやらしても、大抵のことは器用に熟す。中には自分のこと無能って思っとる奴が多いみたいやけど、全然そんなことないけんね。
 ま、ある意味でそれが日本人の美徳かもしれんけど。もったいなかったね、兄ちゃん。死ぬ気になれば、なんだって叶えられたのに。こんな恵まれた国で暮らしとったくせに、自分で自分を売るとか平和ボケにも程があるやろ。これからどうなるかは知らんけど、いっぺん死んだつもりでそのシャバい根性リセットしてき」

 ドライバーの言葉一つ一つが、綾野の心に突き刺さる。全く、その通りだったと思わされていた。

 死ぬ気になれば、なんだって出来たはずだ。
 
 これからの自分がどうなるかなんて、全て自分次第ではないか。仮に不幸な人生を歩むこととなったにせよ、旨い飯を食うことも、お笑い番組を見て笑うことも、酒を飲んで嫌なことを忘れることもできる。生きていれば、そんな明日が待っていたはずだった。死より恐ろしい絶望なんて、この世にはない。そもそも死んだら、苦しいことを苦しいと思うことすらできないではないか。生きているから、この苦しみを感じられるのだ。その逆も、然り。生きているからこそ、生きていて良かったと思える瞬間がたくさんある。

 生きてさえいればの、話だが。

「それか、今から死ぬ気になって運命にあらがってみるとか」

 笑いながらそう言ったドライバーの言葉が、綾野の心に火をつけた。

 綾野はドアノブを引く。ガチャリ──手応えがあった。走行しているのは山道。車は未だ加速を続けている最中である。こんな中道路に飛び出せば、人間の体などたちまちミンチとなってしまうことだろう。では、山側。土の上ならどうだろうか? 先日、福岡一帯は雨だった。まだ、土がぬかるんでいるかもしれない。とは言っても、一歩間違えば死んでしまう可能性もあるのだが。

 どうせ死ぬのなら、同じことだ。

 綾野はタイミングを見計らう。山側のガードレールが切れる、その一瞬を伺う。

 数十秒後、車一台は停められるだろう開けた箇所が視界に飛び込んでくる。しかも、地面は土。奥側は斜面となっているから、そのまま転げ落ちて逃げられるかもしれない。可能性は限りなく低いが、チャレンジしなければチャンスを掴み取ることすらできない。

 明日の朝を迎えられるのは、今日という一日を生き抜いた者だけだ。

 綾野は人生の大一番にうってでる──ドアノブをひねり、扉を開く。次に頭を腕で守りながら、勢い任せに車内から飛び出した。

 車から投げ出された綾野の体は、地面を転がり崖の下へと投げ出され、倒木の一本にぶつかり止まった。連日の豪雨で薙ぎ倒されたのか、倒木の枝葉がクッションとなり、擦り傷程度済んだので幸いである。体も打身を負ったくらいで、歩けないこともない。

 綾野は、賭けに見事勝利する。絶望的な状況に変わりはないが、妙に清々しい気分だった。

 怖いことばかりの一日だったが、それでも俺はまだここにいる。自分の力で、今この瞬間を勝ち取ったのだ。

 綾野に、もう迷いはなかった。無我夢中で、山の斜面を駆け下りていく。

 もしも生きて帰ることができたのならば、背筋を伸ばして、ちゃんと真っ直ぐに生きよう。

 生きてさえいれば、なんとかなる。

 それは万能感でも、蛮勇でもなく、死に直面した綾野の率直なる思いだ。

 そんなにも生まれ変わった綾野に、神さまも微笑みかけてくれたのだろうか。

 宵闇迫る頃合い。山道から降りた道路脇に電話ボックスを見つける。崖から転げ落ちた衝撃でスマホは粉々に壊れてしまったから、もしも助けを呼ぶなら今しかないと、綾野は電話ボックスへと駆け込んだ。

 問題は、電話をかける相手だった。
 そもそもの話、ラインの無料電話に依存していた綾野は、友達の番号も親の番号すらも覚えていない。

 だったら一一〇番……いいや、ダメだ。
 先ほど、あのタクシードライバーから聞いたばかりではないか。警察は、ヤクザみたいなものだと。そして多分、あのドライバーは本物のヤクザだったのだろう。

 綾野は迷う。
 唯一、頭の中に残っている番号が、走馬灯のよう脳内に蘇る。焼き鳥屋の番号だ。あの番号は、固定電話ではなく店長の携帯へ直接繋がるようになっていた。何度も何度も、繰り返しかけた。十年近く働いた店の番号を、忘れるはずもない。

 思えば、店長と連絡がつかなくなった時、その番号にだけはかけていなかった。まさか繋がるわけないと、そう思っていたからだ。でも、試したわけではない。もしかしたら、繋がるのかもしれない。やってみないことには、なにも始まらない。

 財布から一〇〇円を取り出している時だった。車道の方から見える、それは眩いハイビームの光。光はゆっくりと、綾野のいる電話ボックスへと近付いていた。

 もしかしたら、あのタクシーかもしれない。

 綾野は一〇〇円を投入し、急いで番号を打った。プルルル、プルルル。コールが鳴る。

 頼む、繋がってくれ──

『……もしもし?』

 ──繋がった。
 電話口越しに鳴ったその声が、果たして店長のものだったのかまでは聞き取れなかったが、今は店長であることを信じるしかない。

「もしもし、店長! 俺です、綾野です!」

 返事はなかった。それでも、綾野は賢明に話し続ける。

「お願いします、助けてください! お金のことは、もう結構ですので! 恨んでませんから、だから──」と、刹那。

『探しましたよ、綾野さん』

 その声音は、綾野を絶望の淵へと突き落とした。
 間違いない、この声は、

『どうやら、逃げ出してしまったようですね』

 そして、電話ボックスの脇に車が止まる。ジャガーエンブレムが特徴的な、黒くて立派な高級車だった。中から出てきたガラパゴス携帯を耳に当てたスーツの男が、電話ボックスの扉をコンコンとノックした。

「お迎えにあがりました、綾野さん」
「ど、どうして…………」

 その男は、にっこり笑って言った。

「なんでも屋、ですから」

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