神様スイッチボックス

葦元狐雪

文字の大きさ
8 / 13

繋ぐ鋏

しおりを挟む
受話器の向こう側では、ツー、ツー、という冷徹な不通音が、桑方稲架美の空虚な心を循環し、嗜めていた。

 力なく膝を折り、地に屈するその姿は、まるで、神に懺悔する使徒の様であり、高尚な画家の描く絵画にも似た美しさを感じさせる。
 反対に、彼女の心中は夜の闇よりも深く、岸壁から伸びた無数の手が、彼女を底の知れぬ海溝へと引きずり込むようであった。
 いっそ、このまま沈みたかった。何も考えず、何も感じなくても良い場所へ連れて行って欲しい。誰でもいい、鬼でも、悪魔でもいいから。
 
 希望を失ったこの世界には、もはや生きるに値する価値などない。
 青く冷えて固まった血液は、立ち上がる気力を運ぶ役割を完全に放棄していた。
 
 彼女の屍のような手が、美しく磨き上げられたフローリングに爪を立てた。


 「行ってらしゃい。気をつけて行ってきてね」

 稲架美は、鮮やかな赤いエプロンで、手についた水滴を拭いながら、スリッパの鳴らす軽快な音とともに玄関へ向かう。
 柔らかな朝日の差す、リビングにあるテーブルでは、桑方兜が鮭入りおにぎりを、慌てた様子で食べていた。

 「行ってきます。今日は、いつもより早く帰るようにするから」

 口角を上げて、にっこりと笑う桑方歴木は言う。

 「お父さん、今日早く帰るの?でも僕、夜いないよ!」

 「そうだったな!おばあちゃんの家で、しっかり楽しんでこいよ!」

 うん!と元気よく返事をすると、兜は再びおにぎりを頬張り始めた。

 「ふふ。はい、これお弁当」

 青いチェック柄の、ナプキンに包まれた弁当箱を手渡す。

 「うん、ありがとう。それじゃぁ、行ってきます!」

 「はい、いってらっしゃい」
 「お父さん、行てらっしゃい!」

 そう言うと、歴木は玄関から飛び出し、閉じかけた扉の隙間から、戯けたように手を振った。

 「さ、兜も早くご飯食べて学校に行きましょ!そろそろ支度しないと大変よ〜」
 「ん!はーい!」

 「ごちそうさま!」と言うと、まとめた食器をシンクへ運ぶ。つま先立ちをして、なんとか手が届く。
  彼女は「ありがとね」と、兜を労うと、山盛りの衣類が詰まった洗濯カゴへ目を向ける。

 「さぁて、今日もいっちょやりますか!」

  彼女は気合を入れた声で、自身に喝を入れると、腕をまくり、洗濯カゴに手をかけた。

 
  途切れた意識から醒めた虚ろな目は、光のない、暗聵な場所を見つめていた。

  玄関を眺めていれば、いずれ2人が帰ってくるのではないのかと思ったが、おそらく、そんなことはないだろうとわかっていた。

  いっそのこと、死んでしまおうかと考える。夫は電車に轢かれ、息子は、おそらく、最大限の恐怖と苦痛を味わいながら死んだのだろう。

 ならば、私も同じ程度の苦しみを以て命を絶たねば、彼らに対して申し訳ない。そう、私だけが楽に死ぬ訳はいかないのだ。
 彼女は時間をかけて、上半身をゆらりと起こす。

 考えよう。苦しみながら死ぬ方法はなんだろうか。
 首吊りがいいだろうか。いや、失敗した時のことを考えると、確実ではない。
 私も電車に飛び込もうか。違う、多くの赤の他人に、迷惑をかけるわけにはいかない。

    そうだ。劇薬を飲めば、きっと、たいそう苦しみながら死ねるだろう。農薬は、飲むと死に至るモノがあると聞いたことがある。
    ホームセンターへ行けば、売っているだろうか。
    たしか、閉店時間は午後9時だ。まだ時間はある。

    彼女は、近くにあるたくさんの子供向けシールが貼り付けられた棚に捕まり、少しずつ立ち上がる。
    その時、唐突に玄関のチャイムが鳴った。

    その愉快な音は、鬱蒼とした雰囲気には、あきらかに場違いであった。
 まるで、葬式の最中、やって来たお坊さんが、突如タンバリンを叩き始めたような気分だった。

    間隔をあけて、もう一度チャイムが鳴る。
    いったい誰だろう。
    しびれを切らした警察が迎えに来たのか?いや、それはいくらなんでも早すぎる。
    数分前に、警察から電話があり、その後、直ぐにバスジャック36と名乗る人物から電話があったばかりだ。

     「どちら様ですか?」

      掠れた声でそう言うと、稲架美は、重たくなったドアを、ゆっくりと開ける。

     そこには、最愛の夫である桑方歴木が立っていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

つまらない妃と呼ばれた日

柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。 舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。 さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。 リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。 ――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

三十年後に届いた白い手紙

RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。 彼は最後まで、何も語らなかった。 その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。 戴冠舞踏会の夜。 公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。 それは復讐でも、告発でもない。 三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、 「渡されなかった約束」のための手紙だった。 沈黙のまま命を捨てた男と、 三十年、ただ待ち続けた女。 そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。 これは、 遅れて届いた手紙が、 人生と運命を静かに書き換えていく物語。

サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします

二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位! ※この物語はフィクションです 流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。 当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。

夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い

青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。 神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。 もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。 生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。 過去世と同じ轍を踏みたくない……

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

さようなら婚約者

あんど もあ
ファンタジー
アンジュは、五年間虐げられた婚約者から婚約破棄を告げられる。翌日、カバン一つを持って五年住んだ婚約者の家を去るアンジュ。一方、婚約者は…。

処理中です...