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還章⑥ アリアスタ村Ⅲ
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馬の嘶きと蹄音が、かすかに耳を通る。
薄く、目蓋を開く。
いつの間にか、仰向けになっていたようだ。
部屋に差し込む白い光が、顔を照らす。
日の匂い。
朝が来たのか。なら、今の物音はリーネが出発した音だ。
――無事に辿り着いてほしい。オレにはそう願うことしか出来ない。
上半身を起こそうとする。
覚えのない重みがあった。起き上がれん。
鎧は脱がされているようだが……。
顎を引き、視線を下に向けると、リリス様がオレの胸にしがみつくようにして眠っていた。
彼女だけじゃない。さらに視線を下げると、ゴンがオレの腿を枕代わりにしてやがった。どちらも熟睡だ。
「…………」
悪い気分はしない。
胸に伝わる彼女の体温が、空になった気力を取り戻してくれる。
起こすのは気が引ける。オレは静かに、溜息をついた。
そこで気が付く。オレの顔の近くには、誰かが居た。
顔を横に向けると、メルルが膝を抱えながら、オレたちを見つめているのに気が付いた。
「……おはよ」
「……おはよう」
オレは、顔の向きを戻した。
なんとなく、言葉を紡げなかった。
リリス様とゴンの寝息だけが聞こえる。
無理矢理、話題を捻り出した。
「リーネさんは、先ほど出発したぞ」
「うん。少し前に挨拶しに行ったよ。魔除けの呪いを掛けておいた。……ウェルバインドへの書簡を書いてくれて、ありがとう」
「……気にするな」
また、静かになった。
「あのさ……」
メルルが口を開く。
「私自身の話を聞いてほしくて――起きるのを待ってた」
「……二人を起こすか?」
彼女は少し考える素振りをして、首を振った。
「いや、二人に聞かせるには、辛い話だろうから」
オレは良いのか。
「オレは良いのか」
しまった。口に出てしまう。
「バルなら大丈夫だよ。君は、乗り越えた人だ」
メルルは、寂しそうにオレを見た。
「…………そんなことは、無いがな。あいつは、知っているんだろ? 話して良いのか」
きっと、イサムには話をしているのだ。
彼らには、オレたちには無い絆があるのだと感じている。
音が鳴るほど、奥歯を噛みしめる。
怒りは通り越していた。
これはきっと、悔恨だ。
メルルは静かに頷いた。
「そうか。お前が良いのなら……聞こう」
彼女は、ぽつりぽつりと語り始める。
メルル・アリアスタという、孤児の話を。
□ □ □
赤ん坊が、アリアスタ村の門口に捨てられていた。
その赤ん坊は後にメルルと名付けられた。おくるみに刺繍されていた言葉から取られたのだという。
「それを教えてくれたのは、孤児院で教鞭を振るっていたザイラスという男でね……」
「待て。ザイラスとは、審問官ザイラスか?」
「知ってるの? そう、審問官のザイラス。神について語る時は煩いけど、彼だけが孤児に優しかったんだ」
彼だけが。
それに追求はしない。きっと、語られるだろうから。
「……ザイラスは、オレが殺したようなモノだ。奴が炎の児に潰されるのを、止められなかった」
だが、謝りはしない。
彼はオレの護りたいモノに、危害を加えたからだ。
「そっか。死んじゃったのか」
メルルは少し、口を噤んだ。
その表情が、オレの記憶を呼び起こす。
耳にこびりついていた、奴の哄笑が蘇る。
ザイラスにも、普通の人間のように、誰かを想う心があったのだろうか。
「気にしないで。殺したのは、炎の児だ――というか、炎の児と戦ったのか?」
「戦ったが、去って行った――あのまま戦っていたら、全滅していただろう。……見逃されたのか、それとも……」
思えば、ザイラスを燃やし潰してから、炎の児は去った。
奴が何をしたのかは知らんが、助けられたと言っても良いのかもしれない。
今となっては、その真意は分からないが。
どう考えても、あの時のザイラスは狂っているようにしか見えなかった。
オレは、リリス様の頭をそっと撫でる。
愛する人が、死ななくて良かった。
「ごめんね……側に居られなくて」
「いい……もう、終わった事だ。続きを話してくれ」
「うん――」
メルルのような孤児は、教会の孤児院で暮らすことになっていた。
審問官たちが学問と神学、魔術を教えた。
何故かこの村には、孤児が流れ着く。
そして、孤児たちはみな、魔導の才能がある女児だった。
孤児院を卒業すると、アリアスタ村の各施設に送られる。
メルルの後にも、次々と女児が増えていった。
女児たちは、メルルを『姉さん』と呼び、慕っていたのだという。
メルルが九歳になった頃、この村の異常性を知った。
彼女の上の世代――十歳の少女たちだ。
その少女たちが毎晩、教会に行くのだという。
好奇心旺盛なメルルは、彼女らの後ろをつけ、何をしているのかを確かめたのだ。
窓から覗いた時に見えたのは、聖職者や村の重鎮たちが大勢集まり、一人の少女に覆い被さっている瞬間だった。
彼らはひとしきり腰を動かしたあと、次の人間に交代する。それを何度も何度も繰り返した。
当時のメルルは、それが何をしているのか、分からなかった。
だからザイラスに、あれは何なのかと聞いたのだ。
『……アレは、儀式だ。魔導の才能がある少女たちに、魔力強化を施しているのだ』
『審問官は参加しないのですか? 偉い人たちはみんな、行ってますよ』
彼はかぶりを振る。
『しない。我にとって、アレは吐き気を催すモノだ。……もう、夜中に教会へ行くな。その時間を、神学の復習に使いなさい』
メルルは、ザイラスの言葉を守った。
胃に何も入れていないのに、肚の中から悪心がこみ上げてくる。
思わず、口を押さえ、頭を上げた。
「メルルッ……! お前、それは――!」
「想像させちゃってごめんね。そう、奴ら教会は――魔力強化という名目で、年端もいかない少女たちを、複数人で囲って強姦していたんだ」
吐きそうだ。
喉が灼かれて、片目を細める。
リリス様の頭に触れて、気持ちを落ち着けようとする。
だが、吐き気は治まらない。
「『解かれよ、悪病を』」
――ふいに、楽になる。
メルルがオレに、解毒魔術を唱えていた。
「……ありがとう」
「……こちらこそ。奴らは、少女に自らの子種を流し込むことで、魔力を増大させられるのだと信じていた。それを信仰だと信じていたんだ。歪な村だよね。正しい意味で神を信仰していたのは、ザイラスだけだったよ」
歪だなんて、そんな言葉では表せない。
彼女は言葉を紡ぐ。
一年が過ぎ、メルルの順番がやってきた。
助祭クレアスが、メルルの手を引いて教会に連れて行った。
その時、孤児院から見送ったザイラスの顰め面が、印象的だったらしい。
奴は、教会の中では下の立場だったのだろう。
少女だったメルルは、テーブルに押し倒され、衣服を脱がされたのだという。
当然嫌がって、抵抗した。だけど、大人たちには力で勝てなかった。
定期的に、メルルは教会に呼ばれることになる。
もう、抵抗する気力すら失せたのだ。
自分は人形なのだと、そう思い込んで耐えていた。
孤児院では、『姉さん』として頼られている。
それを心の支えとして、生きていた。
十一歳になる。
メルルの上の世代が孤児院を出た。教会の奉仕から逃れられた。
しかしそれは同時に、彼女の『妹たち』が、奉仕に参加するということである。
メルルは、それだけは嫌だった。彼女たちを護りたかった。
だから、慰み者として、自ら立候補したのだ。
『毎日、私が行きます。だから、妹たちには手を出さないで』
と。
オレはいつの間にか、涙を流していた。
オレが十一の頃。何をしていた。
自己満足のために、騎士を志して。家を飛び出して。
いったい、何をしていたんだ。
ウェルバインドの近くに、自らを犠牲にしている少女がいたと言うのに。
「バルが泣かなくてもいいだろ……」
「……すまない。オレが、気付いていれば……」
オレの言葉に、メルルは虚を衝かれたようだった。
そして、目尻を拭って、笑った。
「ひひ」
「……何を笑っている」
「いや……イサムと、同じようなことを言うんだなって」
「そうか……」
「気持ちだけは受け取っておくよ。それに、あの頃のバルが気付いたところで、どうにも出来なかったさ。だろ?」
それはそうだが……。
「だけど、すまん。自己満足に過ぎないが、謝らせてくれ」
「……うん、分かった。許す」
「…………」
オレは、右の掌で、涙を拭った。
まだ、涙は止まらない。
鼻を強く啜った。
ふと、オレの衣服……胸と腿が湿っているのに気が付いた。
幼少期からそんな生活を強いられ、生気を失うのにそう時間はかからなかった。
犯される度に、回復魔術を掛けられた。だから、身体は壊れない。
でも、精神が壊れていった。
メルルは、神を信じられなくなったのだ。
神が居るなら、みんなを救ってくれるはずだ。でも、神は見ているだけ。
私をこの地獄から救い出してくれなかった、と。
「……この村の神は、角を持っていた。イサムが会った神とは、違う神だ。きっと、邪神だろうな」
「だね。でもね、何年か経ったあと、私にはある出会いがあった」
彼女は発達が早く、十四歳頃には身体が成長しきっていた。
いつも通り、夜になったら教会に連れて行かれて、犯されて、夜中に教会を出た。
その時、彼女の頭に重いモノが落ちてきたのだという。
「とんでもなく痛くて、涙が出た。でも、久しぶりに痛みを思い出した。それで、なんなんだよって、落ちてきたモノを見たら――この本だった」
メルルが見せてくれたのは、彼女がいつも使っている魔導書だ。
「いつも、持っているやつ」
「その通り! なんで本が空から――そう思った私は、本を拾って、読んでみたんだ。そしたら……」
『神は居る! 俺が本物の神だ! でも、この村の神とは別人さ。詳しくは、ボレアス王国まで』
と、書かれていたのだという。初めての、神託だ。
村の中しか知らない彼女は、外の世界があるなんて、知らなかった。
ザイラスが教えてくれた学問は、情報が操作されていた。
毎晩、教会から戻った後、横になりながら本を開く。
本にはいつの間にか、ページが増えていた。
『この世界には、デカい国がある。そこに行くためには、ここを通って、こう行って――』
旅路の詳しい道のりが記されていた。ご丁寧に、地図付きだ。
メルルは、本に夢中になった。
知らない事を教えてくれる。知らなかった事を学ばせてくれる。
まるで、神様と会話しているみたいだったと。
「私はそれから、本の神を信じた。同時に、救われるって信じた。しばらくして、本の記述を頼りに、妹たちと一緒に村を出たんだ」
「そうか……」
「村を出てすぐに、神託が降りた。本に直接、指示が書き込まれていたんだ。あまりに一方的な言い回しで、最初は困ったけどね」
指示に沿って歩いた道には魔物は居なかったし、何故か安全な食べ物まで置いてあった。
本には魔術の使い方や、行く先々で必要な知識まで書いてある。覚えたページは消え、また新しいページが増えた。
村や町を通り、神託に沿って人を助けた。
妹たちは一人ずつ、優しい人たちに引き取られて去っていった。
そしてメルルは、いつの間にか預言者と呼ばれるようになった。
何年もかけて転々とする。もう彼女は、立派な女性に成長していた。
かつて、教会の連中に負わされた心的外傷が癒えることはない。
だが、今の彼女のような、さっぱりとした性格になっていった。
神を名乗る本の語り口を、真似たのだ。
そうして、ボレアス王国に辿り着く。王国には、ある神が信奉されていた。
慈愛に満ちた抱擁を誘うような、人型の彫像。それが至るところにある。
王国に到着して以来、本が更新されることはなかった。
でも、きっとこの本をくれた神なのだと思った。以降、メルルは信心深くなったらしい。
しばらくは裏の世界で情報を収集していた。そこで、イサムとオレ、リリス様と出会ったのだ。
「アリアスタ村に行きたいと言ったのは、私なんだ。イサムは止めようとしてくれたけど、私が、私自身のトラウマを乗り越えたかった。ゴンとバルが、自分の過去を超えて、成長していったのを見て――私もそうなりたいって思いが強くなった。だから……夜の教会に集った奴らを全員、殺そうとした」
――殺意を込めた言葉。
「それを伝えたくなくて、みんなに睡眠魔術をかけた。……ごめん」
言えば良かっただろう、そんなことは口に出せなかった。
自分の過去を晒すことになる。それは、とても勇気のいることだ。
「オレはいい。だが、後で二人には謝っておけ。……なら、教会の惨状は、お前が?」
かぶりを振るメルル。
バルムンク・ウェルバインドよ。お前は分かっているのだろう。
あれは、聖剣の炎だった。
「殺す気だった。でも、実際に司祭や助祭たちに対面してみると、身が竦んで動けなかった。罵声も喉を通らなくて、それで……助祭に襲われて、また、犯されかけた。そんな時、イサムが助けに来てくれた。彼には、睡眠魔術の効きが悪かったんだ。いや、無意識にそうしたのかも」
「…………」
「……イサムには、随分前に私の過去を伝えていたんだ。だから、私の代わりに、全員を殺した。殺してくれたんだ。――悪いのは私だ。バル、君がイサムと仲違いする必要はない。憎むなら、私を憎んでほしい」
――――。
「……メルル。それは違う。また、別の話だ、それは」
「じゃあ、なんだよ……彼は――」
嗚咽と、大きく鼻を啜った音が聞こえて、オレたちの会話は止まる。
その出所は、オレの胸と腿だった。リリス様とゴンだった。
「……起きていらしたのですか」
リリス様は、鼻水と涙をオレの胸に垂らしながら、ぐちゃぐちゃとなった顔を上げた。
「メルルざぁん……! 盗み聞ぎじて、ごべんなざぁい……!」
彼女は、その表情と声のまま、オレの胸に手を付きながら、メルルに謝罪した。
メルルも呆気にとられている。
続いて起き上がったのはゴンだ。
彼の表情も、彼女と大差ない。
「オイラも……ずびまぜん……」
立て続けに起きた出来事に、メルルは思わず笑った。
「……なんだよもう! 気を遣ったのに! みんなが知ることになっちゃったら、眠らせた意味が無いじゃないか! 全部、全部……無駄になっちゃったよ。……ごめんね、黙ってて」
オレは姫様を抱き留めながら、上半身をあげる。
二人は、首を振った。
「もっと、もっと早く話せていれば……私たちこそ……」
「いいんだ。これで良かったんだよ、姫様。――ああ、でも。こうして話をしてみたら、すっきりしちゃった」
メルルは天を仰いで、息を長く吐いた。
「たぶん私は、この過去を乗り越えたり、トラウマを治したりする事はできない。でも、前に進むことは……できる気がする。過去は変えられなくて、そうするしか無いんだから。竜魔王を倒してからも、まだまだ先は長いんだしね」
彼女が、決意とも取れるその言葉を口に出すと、魔導書が光り輝いた。
いや、魔導書だけではない。背表紙に付けられた、『結束の紐飾り』もが強い光を出している。
「これは――」
メルルは急いで魔導書を開く。
彼女は文章を、声に出しながら読んだ。途中からその声は、泣き声へと変わっていった。
「『久しぶり。仲間たちの前だから、これしか言えないけど……おめでとう』――なんだよ、それだけ?」
微かに笑みを浮かべたメルルの頬に、一筋の涙が伝う。
少しばかり笑い声をあげると、彼女の瞳から、次々と涙が溢れた。
「ありがとう……ございますっ……私は、確かに……! 救われましたっ!」
彼女は魔導書を強く抱きしめ、嗚咽を堪えず、泣き続けた。
オレたちは、その姿を見守った。
□ □ □
リリス様とゴンが、メルルと話をしながら食事をしている。
オレは干し肉を囓りながら、その光景を眺めていた。
頭の中は、考えることで一杯だった。
――メルルが本来やりたかったことを、代わりにイサムが行動に移した。それは理解している。
仮に、メルルがリリス様で、イサムがオレだったとしても、そう行動しただろう。
不可解だったのは、イサムが突然、人が変わってしまったようになったことだ。
今までのあいつなら、『俺たちは仲間だ』と、言ってくれたはずだ。
何も相談せずに行動するなど――再び、断続的な閃光のように、記憶が脳裏を駆け巡る。だがそれは、朝靄のように消えていった。
しばらくして、階段を上る音がする。
イサムが姿を表した。
彼は前を向いてはいるが、決して目を合わせようとしなかった。
ここは、オレから声をかける。
「……おはよう」
だがオレに、返答することは無かった。
イサムは淡々とした声色で話す。まるで、業務的にだ。
「教会の地下で、魔王城内部までの転送門を発見した。魔王領を横断する必要は無い。そして、出発するのはオレとメルルだけだ。三人とは、ここまでになる」
――は?
何を、言っているんだ?
オレだけじゃない、リリス様とゴン、メルルまでもが目を見開いた。
声を荒げないよう、冷静を装って、言う。
「……どういうつもりだ」
メルルが立ち上がり、彼の元へと向かう。
「イサム……それは……」
彼は、何かをメルルに耳打ちした。
それを聞いてからか、彼女は俯き、部屋を出た。
「――聖剣と魔器がない奴は、足手まといだ。この先の戦いには付いて来れないだろう」
身体が動いた。
オレの意思は反映されていなかった。意思が追いついたのは、こいつの胸ぐらを掴んだ直後だ。
「貴様……ふざけているのか?」
奴は、ようやく、オレと目を合わせた。冷たい瞳だ。
「ふざけていると思うのか?」
奥歯を噛みしめて、睨み付けた。
「……オレたちは、竜魔王を倒すためにここまでやってきた。ここまで戦ってきた。お前と一緒に!」
掴む手に力を込める。
「王命だから、だろ? 出立の日に、お前がそう言ったんだ」
後悔した。
手が、出てしまったからだ。
耐えきれなかった。
イサムの身体が、中空を飛ぶ。
オレは右腕を振るい、奴の横面を殴りつけていた。
「バルムンク!」「バルムンクさん!」
リリス様とゴンがオレを押さえた。
「クソッ……! オレたちが……どんな気持ちで……!」
もう、涙が出そうだった。いや、いつの間にか、目尻には涙が溜まっていた。
イサムは、ゆっくりと立ち上がる。
「――満足か?」
そう言いながら。
「お前……! お前が、始めたんだ! イサムッ!!」
オレには、喚くことしか出来ない。
奴は唇を切ったのか、流れる血を拭う。
「無理して名前で呼ばなくてもいい。――『勇者』って呼べよ」
こいつは、『結束の紐飾り』を取り出して――地面に投げ捨てた。
『似合ってるじゃん。俺たち仲間の、結束の証だ』
もう、限界だった。
心の決壊する音が聞こえる。耐えきれない。
喉から迫り上がる言葉が、憤怒を願っていた。
「――――!!」
声にもならない、声をあげた。
体勢は崩れて、ゴンに押し倒される形になる。
良かった。このままだと、『勇者』に何をするか、分からなかったから。
――喉が、枯れた。
声を上げ続けた代償だ。それとも、放った言葉の重みに、押し潰された所為か。
ひとしきりオレを見つめていた勇者が、短く息を吐いて言った。
「……付いて来たいのなら、来ればいい。ただし、護りたい者を喪うかもしれない、その覚悟があるのならな」
吐き捨てるように言葉を残して、勇者は階段を下りる。
メルルの脚がそれを追う。
「イサムには、イサムの考えがある。それを理解してくれ……とは、言えないな……ごめん」
小さく放った言葉と共に、彼女の姿も消えた。
頬を伝うモノが、止まらない。
悔しくて、怒りが湧き出るだけ湧き出て、そんな自分が嫌になって。
それでも、抱きしめてくれている二人の体温だけが、確かに感じられた。
「バルムンク……」
目を伏せて、オレの肩を抱くリリス様。彼女の吐息が聞こえる。
「……バルムンクさん。無理して、行かなくてもいいんです。――あんな言い方をするなんて、オイラには信じられません。そうだ! 今から、『戦士の里』に行きませんか? パァっと騒ぎましょうよ! バルムンクさんのおうちでも良いですね……迷う……」
ゴンが声を明るく、提案してくれた。
それは、オレを気遣ってくれた、現実逃避だ。
二人のお陰で、多少、心が落ち着いてくる。
しばらくして、涙が止まった。
横隔膜の痙攣も収まる。
深く息を吸って、長く吐く。
オレは、目尻を拭う。
「……ありがとう、二人とも。落ち着いたよ。情けないところを見せてしまった」
二人の腕を軽く叩く。もう、離れても構わないと。
怖ず怖ずと、ゴンが離れた。
リリス様は離れない。
……なんとなく、確信している。彼女は、魔王城に行くのだろう。
「――行くのですか?」
「……ええ、行きます。父に、会いに行かなくちゃ」
ゴンが、脚を強く踏み鳴らした。
「なんでですか!? そんな奴に会いに行くって! ……きっと、イサムさんたちがすぐに倒してくれます。危険なところに行く必要なんて、ない!」
なんだか、ゴンは昔のオレみたいなことを言った。
気持ちは大いに分かるがな。
だが、リリス様のお気持ちは違うだろう。
「ゴン。私は、竜魔王に会わなければならないんですよ」
彼は何かを言おうと口を開き、閉じる。何度かそれを繰り返したあと、声に出した。
「なければ……って、なんでですか。オイラ、馬鹿だから! 分かんないですよっ!」
彼女は、オレの肩から腕を解いて、決意を込めた瞳で言った。
――星を見た。
「……あなたと同じですよ。親に会って、話さないといけない。そこで初めて、私の人生が始まるのです。まぁ、本当に死んでしまうかもしれませんけどね!」
彼女は少女のように笑った。
その言葉に、ゴンはショックを受けたようだった。
「だって……」
「ありがとう、ゴン。足手まといだと言われても、私は行きます。それに、バルムンクもですよ。ね? 大好きな私を、護ってくれるんでしょ?」
いつの間にかオレの心は、一つの結論に達していた。
先ほどまで、幼児のように泣き喚いていたのに、なんて都合の良い心なんだ。
「ええ……『喪う覚悟』など、持たない。『あなたを護る覚悟』しか、オレには無い。やることは、一つだけです。――ですが、間違っていますよ。大好きではなく、愛している、です」
むぅ、と。
彼女は顔を赤らめて、呻いた。
オレは立ち上がり、鎧を纏って槍を手に取った。
リリス様もだ。
もう、大きい荷物は要らない。
「……分かりましたよ。じゃあ、オイラも行きます」
背中に、その呟きがぶつかった。
振り向いて、彼の顔を見る。
眉をしかめて、口を曲げていた。
「ゴン……」
「違いますからね。竜魔王を倒すとか、イサムさんの手伝いをするとかじゃないです。リリス様を護る、バルムンクさんを護ってあげます。――王命には逆らうことになるので、処罰は後ほど受けますよ」
そう、ふてくされるように言いやがった。
「ふふ……」
リリス様は、口を押さえて笑っている。
オレも、笑みがこぼれた。
ゴンがそう反抗的になるのは、珍しいからだ。
「聞かなかったことにしてやる。……行こう」
オレたちは、大きく脚を踏み出した。
当初の目的とは違う。
『勇者』の考えも分からない。
だけど、彼女を護るということだけは、成し遂げてみせる。
自らの胸につけた、『結束の紐飾り』を落としたのに、オレは気がつかなかった。
薄く、目蓋を開く。
いつの間にか、仰向けになっていたようだ。
部屋に差し込む白い光が、顔を照らす。
日の匂い。
朝が来たのか。なら、今の物音はリーネが出発した音だ。
――無事に辿り着いてほしい。オレにはそう願うことしか出来ない。
上半身を起こそうとする。
覚えのない重みがあった。起き上がれん。
鎧は脱がされているようだが……。
顎を引き、視線を下に向けると、リリス様がオレの胸にしがみつくようにして眠っていた。
彼女だけじゃない。さらに視線を下げると、ゴンがオレの腿を枕代わりにしてやがった。どちらも熟睡だ。
「…………」
悪い気分はしない。
胸に伝わる彼女の体温が、空になった気力を取り戻してくれる。
起こすのは気が引ける。オレは静かに、溜息をついた。
そこで気が付く。オレの顔の近くには、誰かが居た。
顔を横に向けると、メルルが膝を抱えながら、オレたちを見つめているのに気が付いた。
「……おはよ」
「……おはよう」
オレは、顔の向きを戻した。
なんとなく、言葉を紡げなかった。
リリス様とゴンの寝息だけが聞こえる。
無理矢理、話題を捻り出した。
「リーネさんは、先ほど出発したぞ」
「うん。少し前に挨拶しに行ったよ。魔除けの呪いを掛けておいた。……ウェルバインドへの書簡を書いてくれて、ありがとう」
「……気にするな」
また、静かになった。
「あのさ……」
メルルが口を開く。
「私自身の話を聞いてほしくて――起きるのを待ってた」
「……二人を起こすか?」
彼女は少し考える素振りをして、首を振った。
「いや、二人に聞かせるには、辛い話だろうから」
オレは良いのか。
「オレは良いのか」
しまった。口に出てしまう。
「バルなら大丈夫だよ。君は、乗り越えた人だ」
メルルは、寂しそうにオレを見た。
「…………そんなことは、無いがな。あいつは、知っているんだろ? 話して良いのか」
きっと、イサムには話をしているのだ。
彼らには、オレたちには無い絆があるのだと感じている。
音が鳴るほど、奥歯を噛みしめる。
怒りは通り越していた。
これはきっと、悔恨だ。
メルルは静かに頷いた。
「そうか。お前が良いのなら……聞こう」
彼女は、ぽつりぽつりと語り始める。
メルル・アリアスタという、孤児の話を。
□ □ □
赤ん坊が、アリアスタ村の門口に捨てられていた。
その赤ん坊は後にメルルと名付けられた。おくるみに刺繍されていた言葉から取られたのだという。
「それを教えてくれたのは、孤児院で教鞭を振るっていたザイラスという男でね……」
「待て。ザイラスとは、審問官ザイラスか?」
「知ってるの? そう、審問官のザイラス。神について語る時は煩いけど、彼だけが孤児に優しかったんだ」
彼だけが。
それに追求はしない。きっと、語られるだろうから。
「……ザイラスは、オレが殺したようなモノだ。奴が炎の児に潰されるのを、止められなかった」
だが、謝りはしない。
彼はオレの護りたいモノに、危害を加えたからだ。
「そっか。死んじゃったのか」
メルルは少し、口を噤んだ。
その表情が、オレの記憶を呼び起こす。
耳にこびりついていた、奴の哄笑が蘇る。
ザイラスにも、普通の人間のように、誰かを想う心があったのだろうか。
「気にしないで。殺したのは、炎の児だ――というか、炎の児と戦ったのか?」
「戦ったが、去って行った――あのまま戦っていたら、全滅していただろう。……見逃されたのか、それとも……」
思えば、ザイラスを燃やし潰してから、炎の児は去った。
奴が何をしたのかは知らんが、助けられたと言っても良いのかもしれない。
今となっては、その真意は分からないが。
どう考えても、あの時のザイラスは狂っているようにしか見えなかった。
オレは、リリス様の頭をそっと撫でる。
愛する人が、死ななくて良かった。
「ごめんね……側に居られなくて」
「いい……もう、終わった事だ。続きを話してくれ」
「うん――」
メルルのような孤児は、教会の孤児院で暮らすことになっていた。
審問官たちが学問と神学、魔術を教えた。
何故かこの村には、孤児が流れ着く。
そして、孤児たちはみな、魔導の才能がある女児だった。
孤児院を卒業すると、アリアスタ村の各施設に送られる。
メルルの後にも、次々と女児が増えていった。
女児たちは、メルルを『姉さん』と呼び、慕っていたのだという。
メルルが九歳になった頃、この村の異常性を知った。
彼女の上の世代――十歳の少女たちだ。
その少女たちが毎晩、教会に行くのだという。
好奇心旺盛なメルルは、彼女らの後ろをつけ、何をしているのかを確かめたのだ。
窓から覗いた時に見えたのは、聖職者や村の重鎮たちが大勢集まり、一人の少女に覆い被さっている瞬間だった。
彼らはひとしきり腰を動かしたあと、次の人間に交代する。それを何度も何度も繰り返した。
当時のメルルは、それが何をしているのか、分からなかった。
だからザイラスに、あれは何なのかと聞いたのだ。
『……アレは、儀式だ。魔導の才能がある少女たちに、魔力強化を施しているのだ』
『審問官は参加しないのですか? 偉い人たちはみんな、行ってますよ』
彼はかぶりを振る。
『しない。我にとって、アレは吐き気を催すモノだ。……もう、夜中に教会へ行くな。その時間を、神学の復習に使いなさい』
メルルは、ザイラスの言葉を守った。
胃に何も入れていないのに、肚の中から悪心がこみ上げてくる。
思わず、口を押さえ、頭を上げた。
「メルルッ……! お前、それは――!」
「想像させちゃってごめんね。そう、奴ら教会は――魔力強化という名目で、年端もいかない少女たちを、複数人で囲って強姦していたんだ」
吐きそうだ。
喉が灼かれて、片目を細める。
リリス様の頭に触れて、気持ちを落ち着けようとする。
だが、吐き気は治まらない。
「『解かれよ、悪病を』」
――ふいに、楽になる。
メルルがオレに、解毒魔術を唱えていた。
「……ありがとう」
「……こちらこそ。奴らは、少女に自らの子種を流し込むことで、魔力を増大させられるのだと信じていた。それを信仰だと信じていたんだ。歪な村だよね。正しい意味で神を信仰していたのは、ザイラスだけだったよ」
歪だなんて、そんな言葉では表せない。
彼女は言葉を紡ぐ。
一年が過ぎ、メルルの順番がやってきた。
助祭クレアスが、メルルの手を引いて教会に連れて行った。
その時、孤児院から見送ったザイラスの顰め面が、印象的だったらしい。
奴は、教会の中では下の立場だったのだろう。
少女だったメルルは、テーブルに押し倒され、衣服を脱がされたのだという。
当然嫌がって、抵抗した。だけど、大人たちには力で勝てなかった。
定期的に、メルルは教会に呼ばれることになる。
もう、抵抗する気力すら失せたのだ。
自分は人形なのだと、そう思い込んで耐えていた。
孤児院では、『姉さん』として頼られている。
それを心の支えとして、生きていた。
十一歳になる。
メルルの上の世代が孤児院を出た。教会の奉仕から逃れられた。
しかしそれは同時に、彼女の『妹たち』が、奉仕に参加するということである。
メルルは、それだけは嫌だった。彼女たちを護りたかった。
だから、慰み者として、自ら立候補したのだ。
『毎日、私が行きます。だから、妹たちには手を出さないで』
と。
オレはいつの間にか、涙を流していた。
オレが十一の頃。何をしていた。
自己満足のために、騎士を志して。家を飛び出して。
いったい、何をしていたんだ。
ウェルバインドの近くに、自らを犠牲にしている少女がいたと言うのに。
「バルが泣かなくてもいいだろ……」
「……すまない。オレが、気付いていれば……」
オレの言葉に、メルルは虚を衝かれたようだった。
そして、目尻を拭って、笑った。
「ひひ」
「……何を笑っている」
「いや……イサムと、同じようなことを言うんだなって」
「そうか……」
「気持ちだけは受け取っておくよ。それに、あの頃のバルが気付いたところで、どうにも出来なかったさ。だろ?」
それはそうだが……。
「だけど、すまん。自己満足に過ぎないが、謝らせてくれ」
「……うん、分かった。許す」
「…………」
オレは、右の掌で、涙を拭った。
まだ、涙は止まらない。
鼻を強く啜った。
ふと、オレの衣服……胸と腿が湿っているのに気が付いた。
幼少期からそんな生活を強いられ、生気を失うのにそう時間はかからなかった。
犯される度に、回復魔術を掛けられた。だから、身体は壊れない。
でも、精神が壊れていった。
メルルは、神を信じられなくなったのだ。
神が居るなら、みんなを救ってくれるはずだ。でも、神は見ているだけ。
私をこの地獄から救い出してくれなかった、と。
「……この村の神は、角を持っていた。イサムが会った神とは、違う神だ。きっと、邪神だろうな」
「だね。でもね、何年か経ったあと、私にはある出会いがあった」
彼女は発達が早く、十四歳頃には身体が成長しきっていた。
いつも通り、夜になったら教会に連れて行かれて、犯されて、夜中に教会を出た。
その時、彼女の頭に重いモノが落ちてきたのだという。
「とんでもなく痛くて、涙が出た。でも、久しぶりに痛みを思い出した。それで、なんなんだよって、落ちてきたモノを見たら――この本だった」
メルルが見せてくれたのは、彼女がいつも使っている魔導書だ。
「いつも、持っているやつ」
「その通り! なんで本が空から――そう思った私は、本を拾って、読んでみたんだ。そしたら……」
『神は居る! 俺が本物の神だ! でも、この村の神とは別人さ。詳しくは、ボレアス王国まで』
と、書かれていたのだという。初めての、神託だ。
村の中しか知らない彼女は、外の世界があるなんて、知らなかった。
ザイラスが教えてくれた学問は、情報が操作されていた。
毎晩、教会から戻った後、横になりながら本を開く。
本にはいつの間にか、ページが増えていた。
『この世界には、デカい国がある。そこに行くためには、ここを通って、こう行って――』
旅路の詳しい道のりが記されていた。ご丁寧に、地図付きだ。
メルルは、本に夢中になった。
知らない事を教えてくれる。知らなかった事を学ばせてくれる。
まるで、神様と会話しているみたいだったと。
「私はそれから、本の神を信じた。同時に、救われるって信じた。しばらくして、本の記述を頼りに、妹たちと一緒に村を出たんだ」
「そうか……」
「村を出てすぐに、神託が降りた。本に直接、指示が書き込まれていたんだ。あまりに一方的な言い回しで、最初は困ったけどね」
指示に沿って歩いた道には魔物は居なかったし、何故か安全な食べ物まで置いてあった。
本には魔術の使い方や、行く先々で必要な知識まで書いてある。覚えたページは消え、また新しいページが増えた。
村や町を通り、神託に沿って人を助けた。
妹たちは一人ずつ、優しい人たちに引き取られて去っていった。
そしてメルルは、いつの間にか預言者と呼ばれるようになった。
何年もかけて転々とする。もう彼女は、立派な女性に成長していた。
かつて、教会の連中に負わされた心的外傷が癒えることはない。
だが、今の彼女のような、さっぱりとした性格になっていった。
神を名乗る本の語り口を、真似たのだ。
そうして、ボレアス王国に辿り着く。王国には、ある神が信奉されていた。
慈愛に満ちた抱擁を誘うような、人型の彫像。それが至るところにある。
王国に到着して以来、本が更新されることはなかった。
でも、きっとこの本をくれた神なのだと思った。以降、メルルは信心深くなったらしい。
しばらくは裏の世界で情報を収集していた。そこで、イサムとオレ、リリス様と出会ったのだ。
「アリアスタ村に行きたいと言ったのは、私なんだ。イサムは止めようとしてくれたけど、私が、私自身のトラウマを乗り越えたかった。ゴンとバルが、自分の過去を超えて、成長していったのを見て――私もそうなりたいって思いが強くなった。だから……夜の教会に集った奴らを全員、殺そうとした」
――殺意を込めた言葉。
「それを伝えたくなくて、みんなに睡眠魔術をかけた。……ごめん」
言えば良かっただろう、そんなことは口に出せなかった。
自分の過去を晒すことになる。それは、とても勇気のいることだ。
「オレはいい。だが、後で二人には謝っておけ。……なら、教会の惨状は、お前が?」
かぶりを振るメルル。
バルムンク・ウェルバインドよ。お前は分かっているのだろう。
あれは、聖剣の炎だった。
「殺す気だった。でも、実際に司祭や助祭たちに対面してみると、身が竦んで動けなかった。罵声も喉を通らなくて、それで……助祭に襲われて、また、犯されかけた。そんな時、イサムが助けに来てくれた。彼には、睡眠魔術の効きが悪かったんだ。いや、無意識にそうしたのかも」
「…………」
「……イサムには、随分前に私の過去を伝えていたんだ。だから、私の代わりに、全員を殺した。殺してくれたんだ。――悪いのは私だ。バル、君がイサムと仲違いする必要はない。憎むなら、私を憎んでほしい」
――――。
「……メルル。それは違う。また、別の話だ、それは」
「じゃあ、なんだよ……彼は――」
嗚咽と、大きく鼻を啜った音が聞こえて、オレたちの会話は止まる。
その出所は、オレの胸と腿だった。リリス様とゴンだった。
「……起きていらしたのですか」
リリス様は、鼻水と涙をオレの胸に垂らしながら、ぐちゃぐちゃとなった顔を上げた。
「メルルざぁん……! 盗み聞ぎじて、ごべんなざぁい……!」
彼女は、その表情と声のまま、オレの胸に手を付きながら、メルルに謝罪した。
メルルも呆気にとられている。
続いて起き上がったのはゴンだ。
彼の表情も、彼女と大差ない。
「オイラも……ずびまぜん……」
立て続けに起きた出来事に、メルルは思わず笑った。
「……なんだよもう! 気を遣ったのに! みんなが知ることになっちゃったら、眠らせた意味が無いじゃないか! 全部、全部……無駄になっちゃったよ。……ごめんね、黙ってて」
オレは姫様を抱き留めながら、上半身をあげる。
二人は、首を振った。
「もっと、もっと早く話せていれば……私たちこそ……」
「いいんだ。これで良かったんだよ、姫様。――ああ、でも。こうして話をしてみたら、すっきりしちゃった」
メルルは天を仰いで、息を長く吐いた。
「たぶん私は、この過去を乗り越えたり、トラウマを治したりする事はできない。でも、前に進むことは……できる気がする。過去は変えられなくて、そうするしか無いんだから。竜魔王を倒してからも、まだまだ先は長いんだしね」
彼女が、決意とも取れるその言葉を口に出すと、魔導書が光り輝いた。
いや、魔導書だけではない。背表紙に付けられた、『結束の紐飾り』もが強い光を出している。
「これは――」
メルルは急いで魔導書を開く。
彼女は文章を、声に出しながら読んだ。途中からその声は、泣き声へと変わっていった。
「『久しぶり。仲間たちの前だから、これしか言えないけど……おめでとう』――なんだよ、それだけ?」
微かに笑みを浮かべたメルルの頬に、一筋の涙が伝う。
少しばかり笑い声をあげると、彼女の瞳から、次々と涙が溢れた。
「ありがとう……ございますっ……私は、確かに……! 救われましたっ!」
彼女は魔導書を強く抱きしめ、嗚咽を堪えず、泣き続けた。
オレたちは、その姿を見守った。
□ □ □
リリス様とゴンが、メルルと話をしながら食事をしている。
オレは干し肉を囓りながら、その光景を眺めていた。
頭の中は、考えることで一杯だった。
――メルルが本来やりたかったことを、代わりにイサムが行動に移した。それは理解している。
仮に、メルルがリリス様で、イサムがオレだったとしても、そう行動しただろう。
不可解だったのは、イサムが突然、人が変わってしまったようになったことだ。
今までのあいつなら、『俺たちは仲間だ』と、言ってくれたはずだ。
何も相談せずに行動するなど――再び、断続的な閃光のように、記憶が脳裏を駆け巡る。だがそれは、朝靄のように消えていった。
しばらくして、階段を上る音がする。
イサムが姿を表した。
彼は前を向いてはいるが、決して目を合わせようとしなかった。
ここは、オレから声をかける。
「……おはよう」
だがオレに、返答することは無かった。
イサムは淡々とした声色で話す。まるで、業務的にだ。
「教会の地下で、魔王城内部までの転送門を発見した。魔王領を横断する必要は無い。そして、出発するのはオレとメルルだけだ。三人とは、ここまでになる」
――は?
何を、言っているんだ?
オレだけじゃない、リリス様とゴン、メルルまでもが目を見開いた。
声を荒げないよう、冷静を装って、言う。
「……どういうつもりだ」
メルルが立ち上がり、彼の元へと向かう。
「イサム……それは……」
彼は、何かをメルルに耳打ちした。
それを聞いてからか、彼女は俯き、部屋を出た。
「――聖剣と魔器がない奴は、足手まといだ。この先の戦いには付いて来れないだろう」
身体が動いた。
オレの意思は反映されていなかった。意思が追いついたのは、こいつの胸ぐらを掴んだ直後だ。
「貴様……ふざけているのか?」
奴は、ようやく、オレと目を合わせた。冷たい瞳だ。
「ふざけていると思うのか?」
奥歯を噛みしめて、睨み付けた。
「……オレたちは、竜魔王を倒すためにここまでやってきた。ここまで戦ってきた。お前と一緒に!」
掴む手に力を込める。
「王命だから、だろ? 出立の日に、お前がそう言ったんだ」
後悔した。
手が、出てしまったからだ。
耐えきれなかった。
イサムの身体が、中空を飛ぶ。
オレは右腕を振るい、奴の横面を殴りつけていた。
「バルムンク!」「バルムンクさん!」
リリス様とゴンがオレを押さえた。
「クソッ……! オレたちが……どんな気持ちで……!」
もう、涙が出そうだった。いや、いつの間にか、目尻には涙が溜まっていた。
イサムは、ゆっくりと立ち上がる。
「――満足か?」
そう言いながら。
「お前……! お前が、始めたんだ! イサムッ!!」
オレには、喚くことしか出来ない。
奴は唇を切ったのか、流れる血を拭う。
「無理して名前で呼ばなくてもいい。――『勇者』って呼べよ」
こいつは、『結束の紐飾り』を取り出して――地面に投げ捨てた。
『似合ってるじゃん。俺たち仲間の、結束の証だ』
もう、限界だった。
心の決壊する音が聞こえる。耐えきれない。
喉から迫り上がる言葉が、憤怒を願っていた。
「――――!!」
声にもならない、声をあげた。
体勢は崩れて、ゴンに押し倒される形になる。
良かった。このままだと、『勇者』に何をするか、分からなかったから。
――喉が、枯れた。
声を上げ続けた代償だ。それとも、放った言葉の重みに、押し潰された所為か。
ひとしきりオレを見つめていた勇者が、短く息を吐いて言った。
「……付いて来たいのなら、来ればいい。ただし、護りたい者を喪うかもしれない、その覚悟があるのならな」
吐き捨てるように言葉を残して、勇者は階段を下りる。
メルルの脚がそれを追う。
「イサムには、イサムの考えがある。それを理解してくれ……とは、言えないな……ごめん」
小さく放った言葉と共に、彼女の姿も消えた。
頬を伝うモノが、止まらない。
悔しくて、怒りが湧き出るだけ湧き出て、そんな自分が嫌になって。
それでも、抱きしめてくれている二人の体温だけが、確かに感じられた。
「バルムンク……」
目を伏せて、オレの肩を抱くリリス様。彼女の吐息が聞こえる。
「……バルムンクさん。無理して、行かなくてもいいんです。――あんな言い方をするなんて、オイラには信じられません。そうだ! 今から、『戦士の里』に行きませんか? パァっと騒ぎましょうよ! バルムンクさんのおうちでも良いですね……迷う……」
ゴンが声を明るく、提案してくれた。
それは、オレを気遣ってくれた、現実逃避だ。
二人のお陰で、多少、心が落ち着いてくる。
しばらくして、涙が止まった。
横隔膜の痙攣も収まる。
深く息を吸って、長く吐く。
オレは、目尻を拭う。
「……ありがとう、二人とも。落ち着いたよ。情けないところを見せてしまった」
二人の腕を軽く叩く。もう、離れても構わないと。
怖ず怖ずと、ゴンが離れた。
リリス様は離れない。
……なんとなく、確信している。彼女は、魔王城に行くのだろう。
「――行くのですか?」
「……ええ、行きます。父に、会いに行かなくちゃ」
ゴンが、脚を強く踏み鳴らした。
「なんでですか!? そんな奴に会いに行くって! ……きっと、イサムさんたちがすぐに倒してくれます。危険なところに行く必要なんて、ない!」
なんだか、ゴンは昔のオレみたいなことを言った。
気持ちは大いに分かるがな。
だが、リリス様のお気持ちは違うだろう。
「ゴン。私は、竜魔王に会わなければならないんですよ」
彼は何かを言おうと口を開き、閉じる。何度かそれを繰り返したあと、声に出した。
「なければ……って、なんでですか。オイラ、馬鹿だから! 分かんないですよっ!」
彼女は、オレの肩から腕を解いて、決意を込めた瞳で言った。
――星を見た。
「……あなたと同じですよ。親に会って、話さないといけない。そこで初めて、私の人生が始まるのです。まぁ、本当に死んでしまうかもしれませんけどね!」
彼女は少女のように笑った。
その言葉に、ゴンはショックを受けたようだった。
「だって……」
「ありがとう、ゴン。足手まといだと言われても、私は行きます。それに、バルムンクもですよ。ね? 大好きな私を、護ってくれるんでしょ?」
いつの間にかオレの心は、一つの結論に達していた。
先ほどまで、幼児のように泣き喚いていたのに、なんて都合の良い心なんだ。
「ええ……『喪う覚悟』など、持たない。『あなたを護る覚悟』しか、オレには無い。やることは、一つだけです。――ですが、間違っていますよ。大好きではなく、愛している、です」
むぅ、と。
彼女は顔を赤らめて、呻いた。
オレは立ち上がり、鎧を纏って槍を手に取った。
リリス様もだ。
もう、大きい荷物は要らない。
「……分かりましたよ。じゃあ、オイラも行きます」
背中に、その呟きがぶつかった。
振り向いて、彼の顔を見る。
眉をしかめて、口を曲げていた。
「ゴン……」
「違いますからね。竜魔王を倒すとか、イサムさんの手伝いをするとかじゃないです。リリス様を護る、バルムンクさんを護ってあげます。――王命には逆らうことになるので、処罰は後ほど受けますよ」
そう、ふてくされるように言いやがった。
「ふふ……」
リリス様は、口を押さえて笑っている。
オレも、笑みがこぼれた。
ゴンがそう反抗的になるのは、珍しいからだ。
「聞かなかったことにしてやる。……行こう」
オレたちは、大きく脚を踏み出した。
当初の目的とは違う。
『勇者』の考えも分からない。
だけど、彼女を護るということだけは、成し遂げてみせる。
自らの胸につけた、『結束の紐飾り』を落としたのに、オレは気がつかなかった。
0
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