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第33話:変わらない関係
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が過ぎ去った後の厨房は、不思議な静けさに包まれていた。
泣き腫らした目元を冷たい水で洗い、私は戸棚の奥から干し肉と穀物を取り出した。意識を失い、あれだけ泣いたのだ。体は正直でひどい空腹を訴えていた。そして目の前には、同じく腹を空かせた最高に身分の高いお客さんが一人。
「胃に優しいものを、お作りしますね」
私が言うと、彼は何も言わずにいつもの隅の椅子に腰を下ろした。その姿は昨日までと何も変わらない。しかし、私の心の中はまだぐちゃぐちゃにかき混ぜられたままだった。
皇帝陛下。氷の皇帝。
その事実が、ずしりと重く私の心にのしかかる。彼がどれだけ「変わらない」と言ってくれても、私の方が変わらずにいられる自信はなかった。
私は細かく砕いた穀物を、干し肉から取った優しい出汁でコトコトと煮込み始めた。溶き卵を回し入れ、塩で味を調える。最後に刻んだ薬草を散らして彩りを添えた。滋養に満ちた温かい卵雑炊だ。
出来上がった雑炊を彼の前にそっと置く。その一連の動作が、ひどくぎこちないものに感じられた。
「どうぞ、召し上がれ…ませ」
思わず変な敬語になってしまう。私は慌てて口をつぐんだ。
彼は黙ってスプーンを手に取ると、静かに雑炊を口に運び始めた。その横顔を私は盗み見ることもできない。床の一点を見つめ、ただ彼の食事が終わるのを待つ。まるで罪の判決を待つ罪人のような気分だった。
重い、重い沈黙。聞こえるのは彼がスプーンを器に当てる音と、私の心臓がどきどきと鳴る音だけ。
この気まずい空気はいつまで続くのだろう。もう、以前のようなあの温かくて穏やかな朝は戻ってこないのだろうか。
そう思い、胸が締め付けられた、その時だった。
「……アリア」
彼の低い声に、私の肩がびくりと震えた。
「はい、なんでしょうか、陛下」
反射的にそう答えてしまった。しまった、と思ったがもう遅い。
彼のスプーンを動かす手がぴたりと止まったのが分かった。顔を上げなくても、彼の不機嫌なオーラが肌に突き刺さるように伝わってくる。
「……俺は先程、何と呼べと言った?」
地を這うような低い声。それは有無を言わせぬ皇帝の声音だった。
「も、申し訳ありません…! レオン様…」
私は慌てて言い直した。しかし、一度こびりついた恐怖はそう簡単には剥がれない。彼の名前を呼ぶ舌が鉛のように重かった。
彼はふぅ、と一つ深いため息をついた。そして、意を決したように再びスプーンを動かし始める。
しばらく、また沈黙が続いた。そして彼が半分ほど雑炊を食べ進めたところで、ぽつりと呟いた。
「……今日のこれは、少し味が薄いな」
「えっ!?」
その言葉に私は思わず顔を上げた。
味が、薄い?
そんなはずはない。私はいつものように完璧な塩加減で味を調えたはずだ。雑炊は繊細な出汁の味を活かすために、あえて塩気は控えめにするのがセオリー。それを「味が薄い」だなんて。
私の料理人としてのプライドが、恐怖心よりもわずかに頭をもたげた。
「そ、そんなことは…! ちゃんと味見もいたしました。これ以上塩を足しては、出汁の風味が…」
そこまで言って、私ははっと我に返った。
しまった。まただ。皇帝陛下に向かって真っ向から反論してしまった。これはもう、不敬罪どころの騒ぎではない。
私の顔からさあっと血の気が引いていく。
「も、も、申し訳ございません! で、出過ぎたことを…! わ、私が間違っておりました!」
私はその場で床にひれ伏さんばかりに頭を下げた。
すると頭上から、くつくつと喉を鳴らすような笑い声が聞こえてきた。
驚いて顔を上げると、そこにいたのは意地の悪い笑みを浮かべた『レオン様』だった。彼の蒼い瞳は楽しそうに細められ、私をからかうような光を宿している。
「冗談だ」
彼はそう言うと、残りの雑炊を美味しそうに平らげた。
「いつも通り、美味い。今まで食べたどんな雑炊よりも、優しい味がする」
「……え?」
私はきょとんとした。
からかわれた? この、皇帝陛下に?
「君は料理のことになるとすぐにムキになるな。相手が誰かも忘れるほどに」
彼は楽しそうに言った。
「そのくらいで、ちょうどいい」
その言葉に私はようやく彼の意図を理解した。
彼はわざと意地悪を言ったのだ。私がいつもの『アリア』に戻れるように。皇帝と人質という分厚い壁を取り払うために。
その不器用な優しさが、私のささくれ立っていた心をふわりと撫でた。
緊張の糸がぷつりと切れる。なんだか馬鹿らしくなってきてしまった。
「……もう」
私の口から自然と、いつもの口調がこぼれた。
「ひどいです、レオン様。心臓が止まるかと思いました」
私が少しだけ頬を膨らませて彼を睨むと、彼は満足そうに、本当に嬉しそうに微笑んだ。
「その顔だ。俺は皇帝陛下として傅かれるよりも、君にそうやって生意気な口をきかれる方がよほど心地良い」
彼の言葉に私の顔が、かあっと熱くなるのを感じた。
そうだ。この人は皇帝陛下である前に、私の料理をただ「美味しい」と言ってくれる大切なお客さんなのだ。私が皇帝だからと萎縮して、心を込めていない料理など出してしまったら、それこそが彼に対する最大の侮辱になるのではないか。
私は私らしくいればいい。料理人アリアとして、彼に最高の『美味しい』を届ける。それが私が彼にできる、唯一のことなのだから。
心が決まった。
「でしたら、これからは容赦いたしませんから。もし私の料理に文句をおっしゃるなら、たとえレオン様でも三日三晩、お説教させていただきます」
私が冗談めかしてそう言うと、彼は「それは勘弁願いたいな」と肩をすくめて笑った。
厨房に久しぶりに明るい笑い声が響いた。
変わらない関係。
いや、違う。確かに何かが変わったのだ。
彼の正体を知り、一度は絶望した。けれど、それを乗り越えた今、私たちの間には以前よりももっと強い特別な絆が生まれたような気がした。
食事を終えたレオン様が、いつものように厨房を去っていく。
扉に手をかけた彼がふと足を止めて、私を振り返った。
「アリア」
「はい、レオン様」
「明日も、来る。もっと美味いものを用意しておけ。今日の雑炊では、少し物足りん」
その言葉はいつものぶっきらぼうな命令口調だった。しかし、その声の響きは今まで聞いたどの言葉よりも優しく、そして温かく私の心に響いた。
「はい、喜んで!」
私は最高の笑顔で彼を見送った。
一人残された厨房で、私は自分の胸にそっと手を当てた。心臓がドキドキと甘く高鳴っている。
彼が皇帝陛下だと知っても。この気持ちは変わらなかった。
ううん。むしろ、彼の孤独や不器用な優しさを知ってしまった今、この気持ちはもっともっと大きくなっている。
それはただの客人に対する親愛ではない。もっと特別で、名前をつけるのが少しだけ怖いキラキラとした感情。
「明日は、何を作ろうかな」
私は鼻歌交じりで後片付けを始めた。
私たちの関係は、変わらないようでいて確実に新しいステージへと歩み始めていた。甘くて少しだけほろ苦い、恋という名のフルコースの前菜が始まったばかりだった。
泣き腫らした目元を冷たい水で洗い、私は戸棚の奥から干し肉と穀物を取り出した。意識を失い、あれだけ泣いたのだ。体は正直でひどい空腹を訴えていた。そして目の前には、同じく腹を空かせた最高に身分の高いお客さんが一人。
「胃に優しいものを、お作りしますね」
私が言うと、彼は何も言わずにいつもの隅の椅子に腰を下ろした。その姿は昨日までと何も変わらない。しかし、私の心の中はまだぐちゃぐちゃにかき混ぜられたままだった。
皇帝陛下。氷の皇帝。
その事実が、ずしりと重く私の心にのしかかる。彼がどれだけ「変わらない」と言ってくれても、私の方が変わらずにいられる自信はなかった。
私は細かく砕いた穀物を、干し肉から取った優しい出汁でコトコトと煮込み始めた。溶き卵を回し入れ、塩で味を調える。最後に刻んだ薬草を散らして彩りを添えた。滋養に満ちた温かい卵雑炊だ。
出来上がった雑炊を彼の前にそっと置く。その一連の動作が、ひどくぎこちないものに感じられた。
「どうぞ、召し上がれ…ませ」
思わず変な敬語になってしまう。私は慌てて口をつぐんだ。
彼は黙ってスプーンを手に取ると、静かに雑炊を口に運び始めた。その横顔を私は盗み見ることもできない。床の一点を見つめ、ただ彼の食事が終わるのを待つ。まるで罪の判決を待つ罪人のような気分だった。
重い、重い沈黙。聞こえるのは彼がスプーンを器に当てる音と、私の心臓がどきどきと鳴る音だけ。
この気まずい空気はいつまで続くのだろう。もう、以前のようなあの温かくて穏やかな朝は戻ってこないのだろうか。
そう思い、胸が締め付けられた、その時だった。
「……アリア」
彼の低い声に、私の肩がびくりと震えた。
「はい、なんでしょうか、陛下」
反射的にそう答えてしまった。しまった、と思ったがもう遅い。
彼のスプーンを動かす手がぴたりと止まったのが分かった。顔を上げなくても、彼の不機嫌なオーラが肌に突き刺さるように伝わってくる。
「……俺は先程、何と呼べと言った?」
地を這うような低い声。それは有無を言わせぬ皇帝の声音だった。
「も、申し訳ありません…! レオン様…」
私は慌てて言い直した。しかし、一度こびりついた恐怖はそう簡単には剥がれない。彼の名前を呼ぶ舌が鉛のように重かった。
彼はふぅ、と一つ深いため息をついた。そして、意を決したように再びスプーンを動かし始める。
しばらく、また沈黙が続いた。そして彼が半分ほど雑炊を食べ進めたところで、ぽつりと呟いた。
「……今日のこれは、少し味が薄いな」
「えっ!?」
その言葉に私は思わず顔を上げた。
味が、薄い?
そんなはずはない。私はいつものように完璧な塩加減で味を調えたはずだ。雑炊は繊細な出汁の味を活かすために、あえて塩気は控えめにするのがセオリー。それを「味が薄い」だなんて。
私の料理人としてのプライドが、恐怖心よりもわずかに頭をもたげた。
「そ、そんなことは…! ちゃんと味見もいたしました。これ以上塩を足しては、出汁の風味が…」
そこまで言って、私ははっと我に返った。
しまった。まただ。皇帝陛下に向かって真っ向から反論してしまった。これはもう、不敬罪どころの騒ぎではない。
私の顔からさあっと血の気が引いていく。
「も、も、申し訳ございません! で、出過ぎたことを…! わ、私が間違っておりました!」
私はその場で床にひれ伏さんばかりに頭を下げた。
すると頭上から、くつくつと喉を鳴らすような笑い声が聞こえてきた。
驚いて顔を上げると、そこにいたのは意地の悪い笑みを浮かべた『レオン様』だった。彼の蒼い瞳は楽しそうに細められ、私をからかうような光を宿している。
「冗談だ」
彼はそう言うと、残りの雑炊を美味しそうに平らげた。
「いつも通り、美味い。今まで食べたどんな雑炊よりも、優しい味がする」
「……え?」
私はきょとんとした。
からかわれた? この、皇帝陛下に?
「君は料理のことになるとすぐにムキになるな。相手が誰かも忘れるほどに」
彼は楽しそうに言った。
「そのくらいで、ちょうどいい」
その言葉に私はようやく彼の意図を理解した。
彼はわざと意地悪を言ったのだ。私がいつもの『アリア』に戻れるように。皇帝と人質という分厚い壁を取り払うために。
その不器用な優しさが、私のささくれ立っていた心をふわりと撫でた。
緊張の糸がぷつりと切れる。なんだか馬鹿らしくなってきてしまった。
「……もう」
私の口から自然と、いつもの口調がこぼれた。
「ひどいです、レオン様。心臓が止まるかと思いました」
私が少しだけ頬を膨らませて彼を睨むと、彼は満足そうに、本当に嬉しそうに微笑んだ。
「その顔だ。俺は皇帝陛下として傅かれるよりも、君にそうやって生意気な口をきかれる方がよほど心地良い」
彼の言葉に私の顔が、かあっと熱くなるのを感じた。
そうだ。この人は皇帝陛下である前に、私の料理をただ「美味しい」と言ってくれる大切なお客さんなのだ。私が皇帝だからと萎縮して、心を込めていない料理など出してしまったら、それこそが彼に対する最大の侮辱になるのではないか。
私は私らしくいればいい。料理人アリアとして、彼に最高の『美味しい』を届ける。それが私が彼にできる、唯一のことなのだから。
心が決まった。
「でしたら、これからは容赦いたしませんから。もし私の料理に文句をおっしゃるなら、たとえレオン様でも三日三晩、お説教させていただきます」
私が冗談めかしてそう言うと、彼は「それは勘弁願いたいな」と肩をすくめて笑った。
厨房に久しぶりに明るい笑い声が響いた。
変わらない関係。
いや、違う。確かに何かが変わったのだ。
彼の正体を知り、一度は絶望した。けれど、それを乗り越えた今、私たちの間には以前よりももっと強い特別な絆が生まれたような気がした。
食事を終えたレオン様が、いつものように厨房を去っていく。
扉に手をかけた彼がふと足を止めて、私を振り返った。
「アリア」
「はい、レオン様」
「明日も、来る。もっと美味いものを用意しておけ。今日の雑炊では、少し物足りん」
その言葉はいつものぶっきらぼうな命令口調だった。しかし、その声の響きは今まで聞いたどの言葉よりも優しく、そして温かく私の心に響いた。
「はい、喜んで!」
私は最高の笑顔で彼を見送った。
一人残された厨房で、私は自分の胸にそっと手を当てた。心臓がドキドキと甘く高鳴っている。
彼が皇帝陛下だと知っても。この気持ちは変わらなかった。
ううん。むしろ、彼の孤独や不器用な優しさを知ってしまった今、この気持ちはもっともっと大きくなっている。
それはただの客人に対する親愛ではない。もっと特別で、名前をつけるのが少しだけ怖いキラキラとした感情。
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