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第20話 勝手についてくるペット
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巨大な燻製肉は、あっという間にフェンリルの胃袋の中へと消えていった。
骨の一片さえ残さず綺麗に平らげたその姿は、伝説の魔獣というよりは、ただの食いしん坊な大型犬のようだった。
フェンリルは、ぺろりと口の周りを舐めると、満足げにふう、と大きなため息をついた。その表情は、先ほどまでの険しい威圧感が嘘のように和らいでいる。
(よかった、よかった。お腹いっぱいになったのね)
私はその様子ににこにこしながら頷いた。
空腹を満たしてあげれば、もう襲ってくることもあるまい。これで穏便に話が済んだ。めでたしめでたし。
「さ、ゼノ。もう大丈夫そうだから、出発しましょうか」
私が馬車に戻ろうと踵を返した、その時だった。
くん、と。
後ろから、服の裾を軽く引かれた。
振り返ると、そこにいたのは、あのフェンリルだった。
彼は、先ほどまでとは打って変わって、どこか不安げな表情を浮かべていた。そして、その大きな頭を、私の腰のあたりにすり、と擦り付けてきたのだ。
「……え?」
私は、その予期せぬ行動に固まった。
銀色の美しい毛皮が、私の服に触れる。その感触は、想像通り、いや、想像以上にふわふわでもふもふだった。とても気持ちがいい。
しかし、問題はそこではない。
フェンリルは、まるで甘える子犬のように、私の体に何度も頭をすり寄せてくる。その青い瞳は、潤んでいるようにも見え、「置いていかないで」と雄弁に訴えかけていた。
(……なんで?)
私は完全に混乱した。
どうしてこうなった。私はただ、空腹の魔獣に餌をあげただけだ。それなのに、なぜこんなに懐かれているのか。
その理由は、私には知る由もなかったが、単純なものだった。
一つは、私の与えた肉があまりにも美味すぎたこと。
そしてもう一つは、より根源的な理由。
フェンリルは、本能で理解してしまったのだ。目の前のこの小さな少女が、自分などでは到底太刀打ちできない、世界の理の外側にいる絶対的な強者であることを。
その圧倒的な『格』の違いを前にして、彼の野生の本能は、ただ一つの答えを導き出した。
―――この者に、従え。
それは、生存戦略として、最も正しく、そして賢明な判断だった。
だが、そんな魔獣の思考など、私に分かるはずもない。
私は、自分の足元にじゃれついてくる巨大な「わんこ」を前に、どうしたものかと途方に暮れていた。
「あ、あの……もう行かなくちゃいけないんだけど……」
私が困り果ててそう言うと、フェンリルはきゅーん、と悲しそうな鳴き声を上げた。その巨体に似合わない、なんとも情けない声だった。そして、さらに強く頭を押し付けてくる。
まるで、駄々をこねる子供のようだ。
(どうしよう、これ)
私は、御者台の上で石像のように固まっているゼノに、助けを求める視線を送った。
しかし、彼はゆっくりと首を横に振っただけだった。その顔には、「我が主の御心のままに」と書かれている。全く頼りにならない。
私が途方に暮れていると、フェンリルは今度は私の手を取り、そのザラザラした舌でぺろぺろと舐め始めた。まるで、ご機嫌を取ろうとしているかのようだ。
その仕草は、あまりにも犬そのもので、私は思わず笑ってしまった。
「ふふっ、分かった、分かったわよ。そんなに舐めないで」
私は苦笑しながら、その大きな頭を優しく撫でてやった。銀色の毛皮は、見た目通り極上の手触りだった。
フェンリルは、気持ちよさそうに目を細めている。
その姿を見て、私は観念した。
(……まあ、いっか)
連れて行くのも、悪くないかもしれない。
こんなに大きくて賢そうな犬なら、辺境の地で番犬として活躍してくれるだろう。それに、このもふもふは、寒い冬には最高の暖房代わりになるに違いない。
何より、可愛い。
私のスローライフ計画に、可愛いペットという新たな仲間が加わる。それは、人生をより豊かにしてくれる素晴らしい要素ではないか。
「仕方ないわね。一緒に行きましょうか」
私がそう言うと、フェンリルは「わふん!」と嬉しそうに一声鳴き、私の周りを喜び勇んで駆け回り始めた。その巨体が巻き起こす風圧で、雪が舞い上がる。
その様子は、もはや伝説の魔獣の威厳など、かけらも残っていなかった。
「……アシュリー様」
御者台から、ようやく復活したゼノの声がした。
その声は、感動と畏怖と、そしてほんの少しの呆れが混じった、複雑な響きを持っていた。
「……伝説の魔獣すら、その御手で手懐けられるとは。さすがは我が主。このゼノ、感服いたしました」
「別に、手懐けたわけじゃないわよ。勝手についてきただけ」
「その『勝手についてこさせる』ことこそが、常人には為し得ぬ御業なのです」
ゼノは、どこまでも真剣な顔で言った。
彼の頭の中では、また一つ、私の新たな英雄譚が刻まれたらしい。
『主君アシュリー、神獣フェンリルを使役し、北の地平定への第一歩とす』
そんな見出しが、彼の脳内史書に太字で書き加えられたことだろう。
私は、もう何も言うまいと心に決めた。
こうして、私の旅の道連れに、巨大なもふもふが一匹加わることになった。
フェンリルは、馬車の横を、楽しそうに並走してついてくる。その足取りは、まるで散歩に連れて行ってもらう犬のように、軽やかだった。
私は、そんな彼の姿を馬車の窓から眺めながら、ふと思いついたように呟いた。
「そうだわ。あなた、今日から『シロ』よ」
銀色の毛皮だから、シロ。安直だが、分かりやすくていいだろう。
その名を聞いた伝説の魔獣は、「きゃいん!」と甲高い声で鳴き、嬉しそうに尻尾をぶんぶんと振った。
その様子を見ていたゼノが、
「……古の神々の言葉で、『シロ』とは『絶対なる氷雪の支配者』を意味する、とどこかの文献で読んだ記憶が。なんと的確な命名でありましょうか……」
などと、また一人で勝手に納得して感心していた。
私は、もう彼には何も期待しないことにした。
遠くの雪山の向こうに、目的地のヴァルハイト公爵領の影が、ようやく見え始めていた。
私の波乱万丈なスローライフは、もう目前に迫っていた。
骨の一片さえ残さず綺麗に平らげたその姿は、伝説の魔獣というよりは、ただの食いしん坊な大型犬のようだった。
フェンリルは、ぺろりと口の周りを舐めると、満足げにふう、と大きなため息をついた。その表情は、先ほどまでの険しい威圧感が嘘のように和らいでいる。
(よかった、よかった。お腹いっぱいになったのね)
私はその様子ににこにこしながら頷いた。
空腹を満たしてあげれば、もう襲ってくることもあるまい。これで穏便に話が済んだ。めでたしめでたし。
「さ、ゼノ。もう大丈夫そうだから、出発しましょうか」
私が馬車に戻ろうと踵を返した、その時だった。
くん、と。
後ろから、服の裾を軽く引かれた。
振り返ると、そこにいたのは、あのフェンリルだった。
彼は、先ほどまでとは打って変わって、どこか不安げな表情を浮かべていた。そして、その大きな頭を、私の腰のあたりにすり、と擦り付けてきたのだ。
「……え?」
私は、その予期せぬ行動に固まった。
銀色の美しい毛皮が、私の服に触れる。その感触は、想像通り、いや、想像以上にふわふわでもふもふだった。とても気持ちがいい。
しかし、問題はそこではない。
フェンリルは、まるで甘える子犬のように、私の体に何度も頭をすり寄せてくる。その青い瞳は、潤んでいるようにも見え、「置いていかないで」と雄弁に訴えかけていた。
(……なんで?)
私は完全に混乱した。
どうしてこうなった。私はただ、空腹の魔獣に餌をあげただけだ。それなのに、なぜこんなに懐かれているのか。
その理由は、私には知る由もなかったが、単純なものだった。
一つは、私の与えた肉があまりにも美味すぎたこと。
そしてもう一つは、より根源的な理由。
フェンリルは、本能で理解してしまったのだ。目の前のこの小さな少女が、自分などでは到底太刀打ちできない、世界の理の外側にいる絶対的な強者であることを。
その圧倒的な『格』の違いを前にして、彼の野生の本能は、ただ一つの答えを導き出した。
―――この者に、従え。
それは、生存戦略として、最も正しく、そして賢明な判断だった。
だが、そんな魔獣の思考など、私に分かるはずもない。
私は、自分の足元にじゃれついてくる巨大な「わんこ」を前に、どうしたものかと途方に暮れていた。
「あ、あの……もう行かなくちゃいけないんだけど……」
私が困り果ててそう言うと、フェンリルはきゅーん、と悲しそうな鳴き声を上げた。その巨体に似合わない、なんとも情けない声だった。そして、さらに強く頭を押し付けてくる。
まるで、駄々をこねる子供のようだ。
(どうしよう、これ)
私は、御者台の上で石像のように固まっているゼノに、助けを求める視線を送った。
しかし、彼はゆっくりと首を横に振っただけだった。その顔には、「我が主の御心のままに」と書かれている。全く頼りにならない。
私が途方に暮れていると、フェンリルは今度は私の手を取り、そのザラザラした舌でぺろぺろと舐め始めた。まるで、ご機嫌を取ろうとしているかのようだ。
その仕草は、あまりにも犬そのもので、私は思わず笑ってしまった。
「ふふっ、分かった、分かったわよ。そんなに舐めないで」
私は苦笑しながら、その大きな頭を優しく撫でてやった。銀色の毛皮は、見た目通り極上の手触りだった。
フェンリルは、気持ちよさそうに目を細めている。
その姿を見て、私は観念した。
(……まあ、いっか)
連れて行くのも、悪くないかもしれない。
こんなに大きくて賢そうな犬なら、辺境の地で番犬として活躍してくれるだろう。それに、このもふもふは、寒い冬には最高の暖房代わりになるに違いない。
何より、可愛い。
私のスローライフ計画に、可愛いペットという新たな仲間が加わる。それは、人生をより豊かにしてくれる素晴らしい要素ではないか。
「仕方ないわね。一緒に行きましょうか」
私がそう言うと、フェンリルは「わふん!」と嬉しそうに一声鳴き、私の周りを喜び勇んで駆け回り始めた。その巨体が巻き起こす風圧で、雪が舞い上がる。
その様子は、もはや伝説の魔獣の威厳など、かけらも残っていなかった。
「……アシュリー様」
御者台から、ようやく復活したゼノの声がした。
その声は、感動と畏怖と、そしてほんの少しの呆れが混じった、複雑な響きを持っていた。
「……伝説の魔獣すら、その御手で手懐けられるとは。さすがは我が主。このゼノ、感服いたしました」
「別に、手懐けたわけじゃないわよ。勝手についてきただけ」
「その『勝手についてこさせる』ことこそが、常人には為し得ぬ御業なのです」
ゼノは、どこまでも真剣な顔で言った。
彼の頭の中では、また一つ、私の新たな英雄譚が刻まれたらしい。
『主君アシュリー、神獣フェンリルを使役し、北の地平定への第一歩とす』
そんな見出しが、彼の脳内史書に太字で書き加えられたことだろう。
私は、もう何も言うまいと心に決めた。
こうして、私の旅の道連れに、巨大なもふもふが一匹加わることになった。
フェンリルは、馬車の横を、楽しそうに並走してついてくる。その足取りは、まるで散歩に連れて行ってもらう犬のように、軽やかだった。
私は、そんな彼の姿を馬車の窓から眺めながら、ふと思いついたように呟いた。
「そうだわ。あなた、今日から『シロ』よ」
銀色の毛皮だから、シロ。安直だが、分かりやすくていいだろう。
その名を聞いた伝説の魔獣は、「きゃいん!」と甲高い声で鳴き、嬉しそうに尻尾をぶんぶんと振った。
その様子を見ていたゼノが、
「……古の神々の言葉で、『シロ』とは『絶対なる氷雪の支配者』を意味する、とどこかの文献で読んだ記憶が。なんと的確な命名でありましょうか……」
などと、また一人で勝手に納得して感心していた。
私は、もう彼には何も期待しないことにした。
遠くの雪山の向こうに、目的地のヴァルハイト公爵領の影が、ようやく見え始めていた。
私の波乱万丈なスローライフは、もう目前に迫っていた。
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