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第3話 王都の雨と祝杯
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意識が闇に溶けていく。冷たい雨が頬を打つ感覚も、もう遠い。死ぬというのは、案外こんなものなのかもしれない。誰にも惜しまれず、誰にも知られず、ただ静かに消えていく。それでいい。俺には、もう何も残っていないのだから。
その時、俺の視界の隅で、豪奢な酒場の灯りが揺れていた。そこは『獅子の鬣亭』。数刻前まで、俺がいた場所だ。窓の向こうには、楽しげな人々の影が見える。
◆
「では、我々の輝かしい未来に乾杯!」
勇者アレクが高らかに杯を掲げた。上質なワインが満たされたクリスタルのグラスが、カチンと心地よい音を立てる。リアムを追い出した後、彼らは宿の一階にある最高級の酒場に席を移していた。
「乾杯ですわ、アレク様」
「乾杯」
聖女イリーナは満面の笑みで、賢者マルスはいつも通り淡々と応じる。彼らのテーブルには、ローストした猪の丸焼きや、色とりどりの果物を盛り付けた皿が並んでいた。追放劇の後とは思えない、華やかな祝宴だ。
「はーっ、気分がいい! ようやく目の上のたんこぶが消えた気分だ」
アレクはワインを一気に煽ると、満足げに息をついた。
「まったくだ。あんな雑用係一人に、俺たちの稼ぎをくれてやっていたなど、今思えば馬鹿らしいにも程がある」
「ええ、本当に。食事の準備一つとっても、あの男の作るものは貧乏くさい味でしたし。これからは王都の一流料理人を雇いましょう」
イリーナが口元にハンカチを当て、くすくすと笑う。リアムが限られた予算の中で、栄養バランスを考えて必死に作っていた料理の味など、彼女の記憶には欠片も残っていない。
マルスは黙って酒を口に含んでいたが、やがて静かに口を開いた。
「次の遠征からは、ポーターギルドから専門の荷物運びを雇えばいい。日当はかかるが、長期的に見ればリアムを養うよりコストは低い。戦闘能力のない人間を帯同させるリスクがなくなるだけでも、十分なメリットだ」
彼の言葉は、リアムの存在価値を完全に否定するものだった。仲間ではなく、コスト。それがマルスの評価だった。
「その通りだ! これからは俺たち三人、真の精鋭だけで突き進む。もはや我々を阻むものはない。魔王軍の幹部だろうと、伝説のドラゴンだろうと、俺の聖剣の前では塵芥に同じだ!」
アレクは自信満々に胸を叩く。その言葉に嘘はない。彼の聖剣ソルブレイバーは、まさしく伝説級の武具だ。しかし、彼はその剣が振るわれるたびに、使用者から何を奪っているのかを知らなかった。
「そういえば、あの男はいつも顔色が悪かったですわね。特に、わたくしが広範囲治癒の奇跡を使った後は、決まって死人のような顔をしていました。神聖な力の余波に耐えられなかったのでしょう。本当に不敬な男でした」
イリーナは思い出すのも汚らわしいというように、眉をひそめる。彼女の奇跡が、癒やした対象の苦痛の一部を術者である彼女自身に跳ね返すという事実を、彼女は知らない。そして、その苦痛の大部分を、隣にいたリアムが引き受けていたことなど、知る由もなかった。
「ふむ。俺が大魔法を連発した後も、妙に疲れた顔でこちらを見ていたな。天才である俺の魔力制御に、凡人の彼が何か意見できるとでも思っていたのだろうか。実に不愉快だった」
マルスもまた、自らの魔法が脳に与える微細な負荷を、リアムが肩代わりしていたことには気づいていない。彼らにとってリアムは、自分たちの偉業を正しく理解できない、ただの無知で無能な男でしかなかった。
「まあ、もういいだろう。あんな奴の話は終わりだ。それより、次の目標だ。北方の『凍てつく霊峰』に巣食うという、エンシェント・ワイバーンの討伐依頼がギルドに出ている。Sランクである我々にしか達成できない大仕事だ。これを成し遂げれば、俺たちの名声はさらに高まるぞ」
アレクの提案に、二人は力強く頷いた。彼らの頭の中は、これから手にするであろう富と名声でいっぱいだった。追放した男のことなど、とうに意識の外だ。
その時だった。
「……ん?」
アレクがふと、聖剣を握る右腕を押さえた。ほんの僅かだが、指先に痺れるような感覚があった。ダンジョンでの戦闘の疲れだろうか。彼は小さく首を傾げたが、すぐに気にも留めずにワイングラスを再び持ち上げた。
イリーナも、こめかみのあたりにズキリと走る小さな痛みを感じていた。祝宴の酒が回るのが少し早いのかもしれない。そう思い、彼女は軽く頭を振って不快感を追い払った。
マルスは、思考を巡らせるたびに、脳の奥に靄がかかるような奇妙な感覚を覚えていた。しかし、それも高レベルな魔術演算による疲労だと自己完結させた。
彼らが感じた小さな異変。それは、これまでリアムという防波堤が受け止めてくれていた、力の代償という名のさざ波が、初めて彼ら自身に直接届いた証だった。
だが、そのことに気づく者は、この場には誰もいない。
「さあ、飲もう! 俺たちの輝かしい未来は、今日、ここから始まるのだ!」
アレクの陽気な声が、酒場に響き渡る。彼らはまだ、自分たちが破滅へと続く下り坂の、その第一歩を踏み出したばかりだということに、気づいてすらいなかった。
外では依然として、冷たい雨が降り続いている。追放された一人の男の存在を洗い流すかのように、王都の夜は静かに更けていった。
その時、俺の視界の隅で、豪奢な酒場の灯りが揺れていた。そこは『獅子の鬣亭』。数刻前まで、俺がいた場所だ。窓の向こうには、楽しげな人々の影が見える。
◆
「では、我々の輝かしい未来に乾杯!」
勇者アレクが高らかに杯を掲げた。上質なワインが満たされたクリスタルのグラスが、カチンと心地よい音を立てる。リアムを追い出した後、彼らは宿の一階にある最高級の酒場に席を移していた。
「乾杯ですわ、アレク様」
「乾杯」
聖女イリーナは満面の笑みで、賢者マルスはいつも通り淡々と応じる。彼らのテーブルには、ローストした猪の丸焼きや、色とりどりの果物を盛り付けた皿が並んでいた。追放劇の後とは思えない、華やかな祝宴だ。
「はーっ、気分がいい! ようやく目の上のたんこぶが消えた気分だ」
アレクはワインを一気に煽ると、満足げに息をついた。
「まったくだ。あんな雑用係一人に、俺たちの稼ぎをくれてやっていたなど、今思えば馬鹿らしいにも程がある」
「ええ、本当に。食事の準備一つとっても、あの男の作るものは貧乏くさい味でしたし。これからは王都の一流料理人を雇いましょう」
イリーナが口元にハンカチを当て、くすくすと笑う。リアムが限られた予算の中で、栄養バランスを考えて必死に作っていた料理の味など、彼女の記憶には欠片も残っていない。
マルスは黙って酒を口に含んでいたが、やがて静かに口を開いた。
「次の遠征からは、ポーターギルドから専門の荷物運びを雇えばいい。日当はかかるが、長期的に見ればリアムを養うよりコストは低い。戦闘能力のない人間を帯同させるリスクがなくなるだけでも、十分なメリットだ」
彼の言葉は、リアムの存在価値を完全に否定するものだった。仲間ではなく、コスト。それがマルスの評価だった。
「その通りだ! これからは俺たち三人、真の精鋭だけで突き進む。もはや我々を阻むものはない。魔王軍の幹部だろうと、伝説のドラゴンだろうと、俺の聖剣の前では塵芥に同じだ!」
アレクは自信満々に胸を叩く。その言葉に嘘はない。彼の聖剣ソルブレイバーは、まさしく伝説級の武具だ。しかし、彼はその剣が振るわれるたびに、使用者から何を奪っているのかを知らなかった。
「そういえば、あの男はいつも顔色が悪かったですわね。特に、わたくしが広範囲治癒の奇跡を使った後は、決まって死人のような顔をしていました。神聖な力の余波に耐えられなかったのでしょう。本当に不敬な男でした」
イリーナは思い出すのも汚らわしいというように、眉をひそめる。彼女の奇跡が、癒やした対象の苦痛の一部を術者である彼女自身に跳ね返すという事実を、彼女は知らない。そして、その苦痛の大部分を、隣にいたリアムが引き受けていたことなど、知る由もなかった。
「ふむ。俺が大魔法を連発した後も、妙に疲れた顔でこちらを見ていたな。天才である俺の魔力制御に、凡人の彼が何か意見できるとでも思っていたのだろうか。実に不愉快だった」
マルスもまた、自らの魔法が脳に与える微細な負荷を、リアムが肩代わりしていたことには気づいていない。彼らにとってリアムは、自分たちの偉業を正しく理解できない、ただの無知で無能な男でしかなかった。
「まあ、もういいだろう。あんな奴の話は終わりだ。それより、次の目標だ。北方の『凍てつく霊峰』に巣食うという、エンシェント・ワイバーンの討伐依頼がギルドに出ている。Sランクである我々にしか達成できない大仕事だ。これを成し遂げれば、俺たちの名声はさらに高まるぞ」
アレクの提案に、二人は力強く頷いた。彼らの頭の中は、これから手にするであろう富と名声でいっぱいだった。追放した男のことなど、とうに意識の外だ。
その時だった。
「……ん?」
アレクがふと、聖剣を握る右腕を押さえた。ほんの僅かだが、指先に痺れるような感覚があった。ダンジョンでの戦闘の疲れだろうか。彼は小さく首を傾げたが、すぐに気にも留めずにワイングラスを再び持ち上げた。
イリーナも、こめかみのあたりにズキリと走る小さな痛みを感じていた。祝宴の酒が回るのが少し早いのかもしれない。そう思い、彼女は軽く頭を振って不快感を追い払った。
マルスは、思考を巡らせるたびに、脳の奥に靄がかかるような奇妙な感覚を覚えていた。しかし、それも高レベルな魔術演算による疲労だと自己完結させた。
彼らが感じた小さな異変。それは、これまでリアムという防波堤が受け止めてくれていた、力の代償という名のさざ波が、初めて彼ら自身に直接届いた証だった。
だが、そのことに気づく者は、この場には誰もいない。
「さあ、飲もう! 俺たちの輝かしい未来は、今日、ここから始まるのだ!」
アレクの陽気な声が、酒場に響き渡る。彼らはまだ、自分たちが破滅へと続く下り坂の、その第一歩を踏み出したばかりだということに、気づいてすらいなかった。
外では依然として、冷たい雨が降り続いている。追放された一人の男の存在を洗い流すかのように、王都の夜は静かに更けていった。
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