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第76話 リアムの葛藤
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その日、エデンの空はどこまでも青く澄み渡っていた。
収穫を終えた畑では子供たちが案山子を相手に剣術の真似事をして遊び、その笑い声が穏やかな午後の空気に溶けていく。俺は、新しく建てられた学び舎の屋根の上で傷んだ瓦の補修作業をしていた。
そんなありふれた平和の風景を切り裂くように、それは現れた。
「……!」
村の見張り台からけたたましい警鐘が鳴り響く。だが、それは敵襲を告げる音ではなかった。もっと甲高く切迫した、未知の脅威の到来を告げる響きだった。
俺は屋根の上から空を見上げた。
村人たちも何事かと畑仕事の手を止め、空を見上げる。
東の空の彼方から一つの黒い点が、猛烈な速度でこちらへ近づいてきていた。それは鳥ではない。もっと巨大で、翼を持つ何か。
「……飛竜……?」
俺が呟いた時には、その影はすでにエデンの上空にまで到達していた。それは王国騎士団が誇る、最速の伝令手段である飛竜だった。背中には王家の紋章が入った白銀の鎧をまとった騎士が一人、騎乗している。
飛竜はエデンの広場の上空で大きく旋回すると、風圧で土埃を舞い上げながらゆっくりと地上へと舞い降りた。
村の広場は一瞬で緊張に包まれた。警備隊の若者たちが武器を手に広場を取り囲む。ルナリエルとダリウスが、いつでも動けるように低い姿勢で飛竜騎士を睨みつけていた。セレスティアとソフィア、アイリスも俺のそばへと駆け寄ってくる。
飛竜から降り立ったのは壮年の騎士だった。その顔には何日も眠らずに飛び続けてきたであろう深い疲労が刻まれている。だが、その瞳には王国の命運を一身に背負った者の、悲壮なまでの覚悟が宿っていた。
彼は周囲を警戒する俺たちには目もくれず、ただまっすぐに俺の元へと歩み寄ってきた。そして俺の目の前で、彼は信じがたい行動に出た。
王国騎士団の誇り高き飛竜騎士が、その場に深くひざまずいたのだ。
「……!」
村人たちから息を呑む声が漏れる。
騎士はひざまずいたまま、背負っていた錦の袋から一本の儀礼剣を取り出した。その鞘には『獅子と太陽』の紋章が燦然と輝いている。
「我が名はグスタフ。国王陛下の勅命を帯び、参上いたしました」
彼の声は疲労でかすれていたが、その一言一句は明瞭に広場に響き渡った。
「エデンの代表、リアム殿に謹んでお願い申し上げます」
彼はその儀礼剣を、両手で恭しく俺の前に差し出した。
「どうか、我らが王国を、そして滅びゆく人類をお救いください。これは国王陛下より、あなた様へ託された王国の全権委任の証。我らは全てのプライドを捨て、ただあなた様の慈悲にすがるものでございます」
その言葉はもはや要請ではなかった。
それは絶対的な力を持つ者に対する、無力な者からの魂の祈りだった。
広場が水を打ったように静まり返る。
村人たちは目の前で起きていることが、現実だとは信じられないようだった。俺たちの村のただのまとめ役であるリアムが、一国の王から世界の命運を託されているのだ。
俺は目の前に差し出された王の剣を、ただ黙って見つめていた。
そのあまりにも重い輝きを。
脳裏にあの日の光景が鮮明に蘇る。
『お前は今日限りでこのパーティーをクビだ』
『お前は俺たちの稼ぎにたかるだけの寄生虫なんだよ』
『あなたのような俗物がいること自体、我慢なりませんでした』
『君の存在は、我々の戦力計算において常にゼロだった』
勇者アレクの、聖女イリーナの、賢者マルスの冷たい声。軽蔑に満ちた視線。
そして装備も報酬も全てを取り上げられ、無一文で放り出された王都の冷たい雨。誰一人助けてはくれなかった。誰も俺のことなど気にも留めなかった。あの絶望的な孤独。
(……ふざけるな)
心の奥底から黒く冷たい感情が湧き上がってきた。
(今更なんだ。俺をゴミのように捨てたくせに。虫けらのように扱ったくせに。追い詰められたら助けてくれ、だと? そんな都合のいい話があるものか)
俺を追放した国だ。
俺の存在価値を認めなかった国だ。
そんな国を、なぜ俺が救わなければならない?
義理などどこにもない。
ヴラドの呪いに苦しむ人々? 知ったことか。俺が雨の中で凍えていた時、誰かが手を差し伸べてくれたか? 滅びるというのなら勝手に滅びればいい。俺には関係のないことだ。
俺にはこのエデンがある。
俺を信じ、慕ってくれるかけがえのない仲間たちがいる。俺が守るべきは、この楽園だけだ。外の世界のことなどどうでもいい。
そう割り切ってしまえば、楽なはずだった。
俺はゆっくりと顔を上げた。目の前には、ひざまずき、ただ俺の答えを待つ勅使の姿がある。彼の背後には、彼が守ろうとしている王都の、名もなき無数の民衆の顔が見える気がした。
俺は隣に立つ仲間たちの顔を見た。
セレスティアは悲しそうな顔で俯いていた。彼女の慈悲深い心は、罪のない人々の苦しみに深く同情している。
ルナリエルとダリウスは厳しい表情で、俺の決断を待っている。戦士としての彼らの魂は、目の前に現れた『世界の敵』という存在を決して見過ごすことはできないだろう。
アイリスは不安げに、俺と勅使の顔を交互に見つめている。
そしてソフィアは、冷静な、しかしどこか憂いを帯びた瞳で俺の心の奥底を見透かすように見つめていた。
彼女たちの顔を見て、俺の心は激しく揺らいだ。
この仲間たちを危険に晒していいのか?
俺が『戦う』と決めれば彼女たちは何の躊躇もなく俺についてきてくれるだろう。だがそれは、俺たちが血と汗で築き上げてきたこの穏やかな日常を、自らの手で破壊することを意味する。
守りたい。この楽園だけを。
この温かい日々を一日でも長く。
だが、本当にそれでいいのか?
苦しんでいる人間がいる。助けを求める声がそこにある。それを知りながら見ないふりをすることが、俺にできるのか。
セレスティアが呪いに苦しんでいた時、俺は見捨てることができただろうか。
ルナリエルが狂気に囚われていた時、俺は背を向けることができただろうか。
アイリスが、ソフィアが、ダリウスが絶望の淵にいた時、俺は彼らの手を振り払うことができただろうか。
できない。
俺はそういう人間ではなかった。
俺のこの力は、苦しむ誰かを見過ごせないという、ただそれだけの、お人好しな感情から始まったものではなかったか。
俺の心の中で二つの正義が激しくぶつかり合っていた。
仲間と楽園を守るという、小さな、しかし何よりも大切な正義。
そして世界を救うという、大きな、しかしどこか空虚な正義。
どちらを選べば正解なのか。
どちらを選んでも、何かを失うことになる。
答えはすぐには出なかった。
俺はひざまずく勅使に向かって静かに告げた。
「……顔を上げてください」
そして、深く息を吸い込んだ。
「少しだけ……。仲間たちと話す時間をいただけますか」
それは俺が絞り出した精一杯の言葉だった。
勅使は俺の葛藤を察したのか、何も言わず静かに頷いた。
俺は仲間たちに「少し一人にさせてくれ」と告げると、一人広場を後にした。村人たちが俺のために道を開けてくれる。その視線が重く背中に突き刺さった。
俺は当てもなく、夕暮れの森へと一人で歩を進めていた。
世界の命運と、仲間たちの未来。
そのあまりにも重い選択を、俺はたった一人で下さなければならなかった。
収穫を終えた畑では子供たちが案山子を相手に剣術の真似事をして遊び、その笑い声が穏やかな午後の空気に溶けていく。俺は、新しく建てられた学び舎の屋根の上で傷んだ瓦の補修作業をしていた。
そんなありふれた平和の風景を切り裂くように、それは現れた。
「……!」
村の見張り台からけたたましい警鐘が鳴り響く。だが、それは敵襲を告げる音ではなかった。もっと甲高く切迫した、未知の脅威の到来を告げる響きだった。
俺は屋根の上から空を見上げた。
村人たちも何事かと畑仕事の手を止め、空を見上げる。
東の空の彼方から一つの黒い点が、猛烈な速度でこちらへ近づいてきていた。それは鳥ではない。もっと巨大で、翼を持つ何か。
「……飛竜……?」
俺が呟いた時には、その影はすでにエデンの上空にまで到達していた。それは王国騎士団が誇る、最速の伝令手段である飛竜だった。背中には王家の紋章が入った白銀の鎧をまとった騎士が一人、騎乗している。
飛竜はエデンの広場の上空で大きく旋回すると、風圧で土埃を舞い上げながらゆっくりと地上へと舞い降りた。
村の広場は一瞬で緊張に包まれた。警備隊の若者たちが武器を手に広場を取り囲む。ルナリエルとダリウスが、いつでも動けるように低い姿勢で飛竜騎士を睨みつけていた。セレスティアとソフィア、アイリスも俺のそばへと駆け寄ってくる。
飛竜から降り立ったのは壮年の騎士だった。その顔には何日も眠らずに飛び続けてきたであろう深い疲労が刻まれている。だが、その瞳には王国の命運を一身に背負った者の、悲壮なまでの覚悟が宿っていた。
彼は周囲を警戒する俺たちには目もくれず、ただまっすぐに俺の元へと歩み寄ってきた。そして俺の目の前で、彼は信じがたい行動に出た。
王国騎士団の誇り高き飛竜騎士が、その場に深くひざまずいたのだ。
「……!」
村人たちから息を呑む声が漏れる。
騎士はひざまずいたまま、背負っていた錦の袋から一本の儀礼剣を取り出した。その鞘には『獅子と太陽』の紋章が燦然と輝いている。
「我が名はグスタフ。国王陛下の勅命を帯び、参上いたしました」
彼の声は疲労でかすれていたが、その一言一句は明瞭に広場に響き渡った。
「エデンの代表、リアム殿に謹んでお願い申し上げます」
彼はその儀礼剣を、両手で恭しく俺の前に差し出した。
「どうか、我らが王国を、そして滅びゆく人類をお救いください。これは国王陛下より、あなた様へ託された王国の全権委任の証。我らは全てのプライドを捨て、ただあなた様の慈悲にすがるものでございます」
その言葉はもはや要請ではなかった。
それは絶対的な力を持つ者に対する、無力な者からの魂の祈りだった。
広場が水を打ったように静まり返る。
村人たちは目の前で起きていることが、現実だとは信じられないようだった。俺たちの村のただのまとめ役であるリアムが、一国の王から世界の命運を託されているのだ。
俺は目の前に差し出された王の剣を、ただ黙って見つめていた。
そのあまりにも重い輝きを。
脳裏にあの日の光景が鮮明に蘇る。
『お前は今日限りでこのパーティーをクビだ』
『お前は俺たちの稼ぎにたかるだけの寄生虫なんだよ』
『あなたのような俗物がいること自体、我慢なりませんでした』
『君の存在は、我々の戦力計算において常にゼロだった』
勇者アレクの、聖女イリーナの、賢者マルスの冷たい声。軽蔑に満ちた視線。
そして装備も報酬も全てを取り上げられ、無一文で放り出された王都の冷たい雨。誰一人助けてはくれなかった。誰も俺のことなど気にも留めなかった。あの絶望的な孤独。
(……ふざけるな)
心の奥底から黒く冷たい感情が湧き上がってきた。
(今更なんだ。俺をゴミのように捨てたくせに。虫けらのように扱ったくせに。追い詰められたら助けてくれ、だと? そんな都合のいい話があるものか)
俺を追放した国だ。
俺の存在価値を認めなかった国だ。
そんな国を、なぜ俺が救わなければならない?
義理などどこにもない。
ヴラドの呪いに苦しむ人々? 知ったことか。俺が雨の中で凍えていた時、誰かが手を差し伸べてくれたか? 滅びるというのなら勝手に滅びればいい。俺には関係のないことだ。
俺にはこのエデンがある。
俺を信じ、慕ってくれるかけがえのない仲間たちがいる。俺が守るべきは、この楽園だけだ。外の世界のことなどどうでもいい。
そう割り切ってしまえば、楽なはずだった。
俺はゆっくりと顔を上げた。目の前には、ひざまずき、ただ俺の答えを待つ勅使の姿がある。彼の背後には、彼が守ろうとしている王都の、名もなき無数の民衆の顔が見える気がした。
俺は隣に立つ仲間たちの顔を見た。
セレスティアは悲しそうな顔で俯いていた。彼女の慈悲深い心は、罪のない人々の苦しみに深く同情している。
ルナリエルとダリウスは厳しい表情で、俺の決断を待っている。戦士としての彼らの魂は、目の前に現れた『世界の敵』という存在を決して見過ごすことはできないだろう。
アイリスは不安げに、俺と勅使の顔を交互に見つめている。
そしてソフィアは、冷静な、しかしどこか憂いを帯びた瞳で俺の心の奥底を見透かすように見つめていた。
彼女たちの顔を見て、俺の心は激しく揺らいだ。
この仲間たちを危険に晒していいのか?
俺が『戦う』と決めれば彼女たちは何の躊躇もなく俺についてきてくれるだろう。だがそれは、俺たちが血と汗で築き上げてきたこの穏やかな日常を、自らの手で破壊することを意味する。
守りたい。この楽園だけを。
この温かい日々を一日でも長く。
だが、本当にそれでいいのか?
苦しんでいる人間がいる。助けを求める声がそこにある。それを知りながら見ないふりをすることが、俺にできるのか。
セレスティアが呪いに苦しんでいた時、俺は見捨てることができただろうか。
ルナリエルが狂気に囚われていた時、俺は背を向けることができただろうか。
アイリスが、ソフィアが、ダリウスが絶望の淵にいた時、俺は彼らの手を振り払うことができただろうか。
できない。
俺はそういう人間ではなかった。
俺のこの力は、苦しむ誰かを見過ごせないという、ただそれだけの、お人好しな感情から始まったものではなかったか。
俺の心の中で二つの正義が激しくぶつかり合っていた。
仲間と楽園を守るという、小さな、しかし何よりも大切な正義。
そして世界を救うという、大きな、しかしどこか空虚な正義。
どちらを選べば正解なのか。
どちらを選んでも、何かを失うことになる。
答えはすぐには出なかった。
俺はひざまずく勅使に向かって静かに告げた。
「……顔を上げてください」
そして、深く息を吸い込んだ。
「少しだけ……。仲間たちと話す時間をいただけますか」
それは俺が絞り出した精一杯の言葉だった。
勅使は俺の葛藤を察したのか、何も言わず静かに頷いた。
俺は仲間たちに「少し一人にさせてくれ」と告げると、一人広場を後にした。村人たちが俺のために道を開けてくれる。その視線が重く背中に突き刺さった。
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