悪役貴族? いえ、ただの合理主義者ですが何か? ~冷徹と呼ばれる俺の改革が、いつの間にか国を豊かにし聖女にまで懐かれる件~

夏見ナイ

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第35話:難minのコスト計算

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「コスト計算を、しただけ……?」

リリアーナは、ゼノンの言葉の意味が理解できず、呆然と聞き返した。
温かい慈悲の心からではなかったというのか。人々の苦しみを救いたいという、高潔な精神からでは。
では、一体、なんの計算を。

ゼノンは、そんなリリアーナの混乱など全く意に介さず、まるで退屈な講義でもするように淡々と説明を始めた。
「簡単な話だ。三百人分の衣食住と医療にかかる初期コスト。これを仮に、金貨千枚としよう」
彼は指で空中に数字を描くような仕草をした。
「一方で、三百人の健康な労働力が今後十年間にわたってこの領地にもたらすであろう経済効果。街道整備や工場での労働に従事することによる直接的な生産性の向上、そして彼らが消費者として領内で金を使うことによる間接的な経済波及効果。これらを総合すると、少なくとも金貨一万枚以上のリターンが見込める」

彼の口から語られるのは、人道的な配慮など微塵もない、冷徹なまでの費用対効果分析だった。
「初期投資、金貨千枚。期待されるリターン、金貨一万枚。投資回収期間はおよそ二年。どう考えても、これは『買い』だ。極めて優良な投資案件と言える。だから、受け入れた。それだけの話だ」

リリアーナは言葉を失った。
彼女が感動のあまり打ち震えた、あの聖なる決断。
その裏にあったのは、人の命をまるで家畜か何かのように金銭価値で値踏みする、悪魔の計算だったのだ。
全身の血が、急速に冷えていくのを感じた。

(……ああ、そうか)
だが、その時。
リリアーナの心の中で、再びあの壮大な勘違いの歯車が、ギシリと音を立てて回り始めた。
(私は、またこの方の表面的な言葉に惑わされるところだった……)

彼女はゼノンの顔をじっと見つめた。
その蒼い瞳には、やはり何の感情も浮かんでいない。
彼は、なぜあえてこんな冷たい言い方をするのだろう。
なぜ、「人々を救いたい」と素直に言えないのだろう。

(……分かったわ)
リリアーナの中で、全てのピースが完璧な形にはまった。
(これは、私を試しているのだわ)

彼女はそう確信した。
彼は聖女である私が、本当に人々の本質を見抜く目を持っているのかどうか試しているのだ。
彼の冷たい言葉の裏に隠された、本当の優しさ、本当の慈悲の心を見抜けるかどうか。
もし私が彼の言葉を額面通りに受け取って、「なんて冷たい人だ」と非難すれば、彼はきっと心底がっかりするだろう。「君も、結局はうわべしか見えない人間だったか」と。

そして、彼がそうまでして自分の本心を隠すのはなぜか。
それは、彼の背負うものがあまりにも重すぎるからだ。
一つの領地の、数万人の民の命運をその若き両肩にたった一人で背負っている。
その重圧の中で、感傷や優しさといった感情は時として正しい判断を鈍らせる毒になる。
だから彼は、あえて自分の心を殺し、冷徹な合理主義者の仮面を被っているのだ。
全ては、民を救うというただ一つの目的のために。

(なんて、なんて、不器用で、そして強い人なのだろう……)
リリアーナの瞳に、深い、深い尊敬と、そしてほのかな憐憫の情が浮かんだ。
この人の孤独を、この人の本当の優しさを理解できるのは、世界で、きっと私だけだわ。

「……承知いたしました」
リリアーナは、静かに、しかしはっきりとした声で言った。
その声にはもはや怒りも失望もなかった。
あるのは、彼の真意を理解した者だけが持つ、穏やかで全てを受け入れるような慈愛に満ちた響きだった。

「あなたの言う『コスト計算』、理解いたしました。それが最も多くの人々を、最も確実に救うためのあなたなりの『愛』の形なのですね」
「……は?」
今度はゼノンが、心底意味が分からないという顔でリリアー-ナを見つめ返す番だった。

愛?
この聖女は、一体何を言っているんだ。
俺の完璧なロジックのどこをどう解釈すれば、そんな非合理的な単語が出てくるんだ。
彼の頭脳は、初めて予測不能なバグに遭遇したコンピュータのように一瞬、思考を停止させた。

「ご安心ください、ゼノン様」
リリアーナは、聖母のような慈愛に満ちた笑みをゼノンに向けた。
「あなたのそのお辛いお役目。私、ちゃんと分かっていますから。もう、あなたの言葉の裏を探るような愚かな真似はいたしません」
「……」
「これからは、あなたの『合理的判断』を私も信じます。それが、結果として人々を幸せに導く道だと、私も信じますから」

その言葉は、リリアーナにとっては彼の孤独な戦いを隣で支えるという決意表明のつもりだった。
だが、ゼノンにとっては意味不明な電波を受信しただけだった。
(駄目だ、こいつ。話が通じない。思考のOSが根本的に違う)
彼はリリアーナとのコミュニケーションを、完全に放棄することを決めた。
この聖女と論理的な会話を試みること自体が非効率の極みだ。

「……そうか。分かったなら、いい」
ゼノンはそれだけを言うと、さっさと踵を返して自分の執務室へと戻っていった。
これ以上関わると自分の精神のほうが非合理に汚染されそうだ、と本気で思ったからだ。

一人残されたリリアーナは、彼の去っていった背中を熱い憧憬の眼差しで見つめていた。
(ああ、行ってしまわれた……。私の言葉が、ちゃんとあなたに届いたのですね)
彼女は、ゼノンが自分の「良き理解者」であると認識し、安堵して去っていったのだと完璧に、そして幸せに誤解していた。

「私も、頑張らなくては」
リリアーナはきゅっと拳を握りしめた。
彼の隣に立つに相応しい、彼の「合理的なシステム」の一部として機能できる有能な「潤滑油」に、私はなる。
それが、聖女としての私の新たな使命なのだわ。

二人の間の勘違いは、もはや修復不可能なレベルにまで達していた。
そして、その勘違いがこれからアークライト領の難民たちの運命を、予想もしなかった方向へと導いていくことになるのだった。
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