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第87話:思考停止
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翌朝、ゼノンの執務室の扉がいつもより早く控えめにノックされた。
「……誰だ」
掠れた声で答えると、入ってきたのはアルフォンス王子だった。彼の顔には兄として、そして友人としての純粋な心配の色が浮かんでいた。
「……ゼノン殿。昨夜は一睡もしていないと聞いたが、大丈夫か」
「……問題ない」
ゼノンは目の下にうっすらと隈を作りながら短く答えた。
彼の机の上には、昨夜格闘したであろうメリットとデメリットが書き連ねられた無惨な羊皮紙が、くしゃくしゃになって転がっていた。
アルフォンスは、その羊皮紙を一瞥すると全てを察したように深く長いため息をついた。
「……やはりリリアナ殿のことか」
「……なぜ、それを」
「グレイから聞いた。……それに、昨日の彼女の様子を見ていれば誰だって分かる」
アルフォンスは呆れたような、しかしどこか面白そうな顔で言った。
「まさか君が恋の悩みで眠れぬ夜を過ごすとはな。……天下のゼノン・フォン・アークライトも人の子だったというわけだ」
その揶揄するような言葉に、ゼノンは初めて感情的な反論をした。
「これは恋の悩みなどという非生産的なものではない! これは俺の人生における最大の経営課題だ! 最悪のリスクマネジメント案件だ!」
その必死な叫びに、アルフォンスは思わず噴き出してしまった。
「はははっ! 経営課題か! 君は本当に面白い男だな!」
一頻り笑った後、彼は真剣な表情でゼノンに向き直った。
「……だが、ゼノン殿。一つ忠告しておこう。……それは君がどれだけ頭で考えようとも、答えの出ない問題だぞ」
「……何?」
「女心というものはな、我々男のちっぽけな理屈など簡単に超えてくるものなのだよ」
アルフォンスはどこか遠い目をしながら言った。
「メリットだのデメリットだの、そんな計算をしているうちは、君は永遠に彼女の心にはたどり着けないだろう」
その言葉は、ゼノンが最も聞きたくない種類のものだった。
計算できない。
理屈が通じない。
それは彼の世界観の完全な否定だった。
「……では、どうしろと言うのだ」
ゼノンは弱々しく尋ねた。
「俺には分からない。……本当に分からないんだ」
それは彼が生まれて初めて誰かに見せた弱音だった。
絶対的な自信に満ち溢れていた合理主義者の仮面が剥がれ落ちた瞬間だった。
アルフォンスは、そんなゼノンの珍しい姿を見て少し驚いた。
だがすぐに、彼は優しい兄のような笑みを浮かべた。
「……答えは君の心の中にしかないさ」
彼はゼノンの胸を指さした。
「頭で考えるな。心で感じるんだ。……君は彼女といる時どう感じる? 彼女の笑顔を見た時どう思う? ……そこにしか答えはない」
心で感じる。
どう思う。
それはゼノンにとってあまりにも未知の領域だった。
彼の脳は再びフリーズした。
完全に思考停止。
彼はもはや何も考えられなくなっていた。
その午後、ゼノンの思考が完全に停止しているその隙を突くかのように、リリアナが再び彼の執務室を訪れた。
その手にはいつものように、湯気の立つ紅茶のカップが乗せられていた。
「……ゼノン様。お疲れのご様子でしたので。……少しでも癒しになればと思いまして」
彼女は恥ずかしそうに微笑みながら、紅茶をテーブルに置いた。
その笑顔。
その純粋な善意。
それは今のゼノンにとっては、あまりにも眩しすぎた。
彼は何も言えなかった。
ただ目の前の紅茶とリリアナの顔を交互に見るだけだった。
(……どうすればいい。……アルフォンスは心で感じろと言った。……だが、俺の心はどこにあるんだ……?)
彼は無意識のうちに紅茶のカップを手に取った。
そして一口、それを口に含んだ。
甘い花の香りと優しい温かさが、彼の乾ききった喉を潤していく。
彼のパフォーマンスを低下させるはずのその液体が、不思議と彼のささくれ立った神経を穏やかにしていくのを感じた。
そして、彼はリリアナの顔を見た。
彼女は彼が紅茶を飲んだのを見て、心の底から幸せそうに微笑んでいた。
その笑顔。
その屈託のない輝き。
それを見た瞬間、ゼノンの胸の奥で、これまで感じたことのない奇妙な感覚が生まれた。
それは計算ではない。
論理でもない。
ただ温かくて穏やかで、そして悪くないと思える感覚。
(……ああ)
彼は初めて理解した。
アルフォンスが言っていたことの意味を。
メリットとかデメリットとか、そんなちっぽけな計算を超えた何かが確かにある。
それを人は『心』と呼ぶのかもしれない。
彼はまだそれが何なのか正確に言語化することはできない。
だが、一つだけ分かったことがある。
この目の前の少女がもたらすこの温かい感覚を、失いたくないと。
そう思っている自分がいることに。
思考停止していた彼の脳が、再びゆっくりと動き始めた。
だが、その動きはこれまでとは明らかに違っていた。
論理と計算だけの冷たい動きではない。
そこに新しい一つの変数が加わっていた。
『リリアナの笑顔』という、極めて非合理的で、しかし何よりも強力な変数が。
彼の合理主義者の世界が、今、静かに、そして大きく変わり始めようとしていた。
その変化が彼をどこへ導いていくのか。
それは彼自身にもまだ予測できない、未知の領域だった。
「……誰だ」
掠れた声で答えると、入ってきたのはアルフォンス王子だった。彼の顔には兄として、そして友人としての純粋な心配の色が浮かんでいた。
「……ゼノン殿。昨夜は一睡もしていないと聞いたが、大丈夫か」
「……問題ない」
ゼノンは目の下にうっすらと隈を作りながら短く答えた。
彼の机の上には、昨夜格闘したであろうメリットとデメリットが書き連ねられた無惨な羊皮紙が、くしゃくしゃになって転がっていた。
アルフォンスは、その羊皮紙を一瞥すると全てを察したように深く長いため息をついた。
「……やはりリリアナ殿のことか」
「……なぜ、それを」
「グレイから聞いた。……それに、昨日の彼女の様子を見ていれば誰だって分かる」
アルフォンスは呆れたような、しかしどこか面白そうな顔で言った。
「まさか君が恋の悩みで眠れぬ夜を過ごすとはな。……天下のゼノン・フォン・アークライトも人の子だったというわけだ」
その揶揄するような言葉に、ゼノンは初めて感情的な反論をした。
「これは恋の悩みなどという非生産的なものではない! これは俺の人生における最大の経営課題だ! 最悪のリスクマネジメント案件だ!」
その必死な叫びに、アルフォンスは思わず噴き出してしまった。
「はははっ! 経営課題か! 君は本当に面白い男だな!」
一頻り笑った後、彼は真剣な表情でゼノンに向き直った。
「……だが、ゼノン殿。一つ忠告しておこう。……それは君がどれだけ頭で考えようとも、答えの出ない問題だぞ」
「……何?」
「女心というものはな、我々男のちっぽけな理屈など簡単に超えてくるものなのだよ」
アルフォンスはどこか遠い目をしながら言った。
「メリットだのデメリットだの、そんな計算をしているうちは、君は永遠に彼女の心にはたどり着けないだろう」
その言葉は、ゼノンが最も聞きたくない種類のものだった。
計算できない。
理屈が通じない。
それは彼の世界観の完全な否定だった。
「……では、どうしろと言うのだ」
ゼノンは弱々しく尋ねた。
「俺には分からない。……本当に分からないんだ」
それは彼が生まれて初めて誰かに見せた弱音だった。
絶対的な自信に満ち溢れていた合理主義者の仮面が剥がれ落ちた瞬間だった。
アルフォンスは、そんなゼノンの珍しい姿を見て少し驚いた。
だがすぐに、彼は優しい兄のような笑みを浮かべた。
「……答えは君の心の中にしかないさ」
彼はゼノンの胸を指さした。
「頭で考えるな。心で感じるんだ。……君は彼女といる時どう感じる? 彼女の笑顔を見た時どう思う? ……そこにしか答えはない」
心で感じる。
どう思う。
それはゼノンにとってあまりにも未知の領域だった。
彼の脳は再びフリーズした。
完全に思考停止。
彼はもはや何も考えられなくなっていた。
その午後、ゼノンの思考が完全に停止しているその隙を突くかのように、リリアナが再び彼の執務室を訪れた。
その手にはいつものように、湯気の立つ紅茶のカップが乗せられていた。
「……ゼノン様。お疲れのご様子でしたので。……少しでも癒しになればと思いまして」
彼女は恥ずかしそうに微笑みながら、紅茶をテーブルに置いた。
その笑顔。
その純粋な善意。
それは今のゼノンにとっては、あまりにも眩しすぎた。
彼は何も言えなかった。
ただ目の前の紅茶とリリアナの顔を交互に見るだけだった。
(……どうすればいい。……アルフォンスは心で感じろと言った。……だが、俺の心はどこにあるんだ……?)
彼は無意識のうちに紅茶のカップを手に取った。
そして一口、それを口に含んだ。
甘い花の香りと優しい温かさが、彼の乾ききった喉を潤していく。
彼のパフォーマンスを低下させるはずのその液体が、不思議と彼のささくれ立った神経を穏やかにしていくのを感じた。
そして、彼はリリアナの顔を見た。
彼女は彼が紅茶を飲んだのを見て、心の底から幸せそうに微笑んでいた。
その笑顔。
その屈託のない輝き。
それを見た瞬間、ゼノンの胸の奥で、これまで感じたことのない奇妙な感覚が生まれた。
それは計算ではない。
論理でもない。
ただ温かくて穏やかで、そして悪くないと思える感覚。
(……ああ)
彼は初めて理解した。
アルフォンスが言っていたことの意味を。
メリットとかデメリットとか、そんなちっぽけな計算を超えた何かが確かにある。
それを人は『心』と呼ぶのかもしれない。
彼はまだそれが何なのか正確に言語化することはできない。
だが、一つだけ分かったことがある。
この目の前の少女がもたらすこの温かい感覚を、失いたくないと。
そう思っている自分がいることに。
思考停止していた彼の脳が、再びゆっくりと動き始めた。
だが、その動きはこれまでとは明らかに違っていた。
論理と計算だけの冷たい動きではない。
そこに新しい一つの変数が加わっていた。
『リリアナの笑顔』という、極めて非合理的で、しかし何よりも強力な変数が。
彼の合理主義者の世界が、今、静かに、そして大きく変わり始めようとしていた。
その変化が彼をどこへ導いていくのか。
それは彼自身にもまだ予測できない、未知の領域だった。
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