嫌われ者の悪役貴族、追放されたので好きにすることにした

夏見ナイ

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第16話:穢れた森

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一歩足を踏み入れただけで、空気が変わった。
外の荒野の乾燥し、瘴気に満ちた空気とは真逆の、濃密で湿り気を帯びた生命の匂い。何百年、あるいは何千年もの間、人の手が入っていないであろう原生林。巨木の枝葉が天蓋のように空を覆い、昼間だというのに森の中は薄暗い。木漏れ日が、まるでスポットライトのように地面を照らし、幻想的な光景を作り出していた。

「……空気が、美味しい」
シルヴィアが、恍惚とした表情で深く息を吸い込んだ。瘴気に蝕まれかけていた彼女の体にとって、この清浄な空気は何よりの良薬なのだろう。
俺も、この森が持つ力に驚嘆していた。境界線を挟んで、これほどまで環境が激変するとは。何らかの強力な結界か、あるいは森そのものが持つ浄化能力が、瘴気の侵入を防いでいるに違いなかった。
「アッシュ様、ご覧ください!」
シルヴィアが指差す先には、熟した赤い果実がたわわに実った低木があった。俺は植物図鑑を取り出し、その特徴と照合する。
「……『サンベリー』か。毒はなく、滋養豊富。ジャムにすると美味いと記されているな」
俺たちは、試しに一つずつ口にしてみた。甘酸っぱい果汁が、口いっぱいに広がる。乾いた体に、優しい甘さが染み渡っていくようだった。
「美味しい……! こんなに美味しい果物は、王宮でも食べたことがありません!」
シルヴィアが、子供のようにはしゃいでいる。
森の入り口付近は、まさしく宝の山だった。薬草として使える植物、食用キノコ、栄養価の高い木の実。それらが、人の手で管理されているわけでもないのに、豊かに実っている。
「すごいな。これだけの資源があれば、当面の食料問題は完全に解決できる」
俺は、持ち込んだ袋にサンベリーを詰めながら、満足げに頷いた。この森は、俺たちの期待以上の恵みを与えてくれそうだ。

だが、森の奥へ進むにつれて、俺は次第に違和感を覚え始めた。
最初は、気のせいだと思っていた。だが、歩を進めるほどに、その違和感は確信へと変わっていった。
「……静かすぎる」
俺がぽつりと呟くと、シルヴィアも同意するように頷いた。
「はい。鳥の声も、獣の気配も、全く感じられません。まるで、森が死んでいるかのようです」
その通りだった。入り口付近では、小動物の姿や鳥のさえずりがあった。だが、森の中心に近づくほど、生命の気配が希薄になっていく。鬱蒼とした木々や植物は変わらずに生い茂っている。だが、そこに住まうはずの動物たちの姿が、全く見当たらないのだ。
不気味なほどの静寂。それは、この森の豊かさとは不釣り合いな、異様な光景だった。

そして、俺たちはついに、その異変の根源に突き当たった。
森の中央に開けた、広大な沼地。だが、その沼の水は、どす黒く濁り、淀んだ空気を漂わせていた。水面からは、時折ぷくりと気泡が浮かび上がり、それが弾けると、微かだが明確な瘴気の匂いが鼻をつく。
沼の周囲の木々は、その生命力を吸い取られたかのように、黒く枯れ果てていた。地面の苔は腐り、美しい花々はしおれて色を失っている。
「……これは」
シルヴィアが、息を呑んだ。
嘆きの荒野で見た光景と、同じだった。いや、もっと悪い。生命力に満ちた森の、中心部分だけが、まるで癌細胞のように死に侵食されている。そのコントラストが、より一層、この場所の異常性を際立たせていた。

「どうやら、この森も完全ではなかったらしい」
俺は、水質検査キットを取り出し、沼の水を採取した。結果は、すぐに分かった。極めて微量だが、荒野の瘴気と同じ成分が検出されたのだ。
「何者かが、あるいは何かが、この森の浄化能力の許容量を超えて、内部から汚染を広げている。この沼が、その発生源だ」
俺がそう結論づけた時だった。
「……苦しい……」
か細い、少女のような声が、どこからか聞こえてきた。
俺とシルヴィVィアは、顔を見合わせ、即座に警戒態勢を取る。シルヴィアが剣を抜き、俺の前に立った。
「誰だ!」
シルヴィアの鋭い声が、静かな沼地に響く。
返事はなかった。だが、再び、今度はもっとはっきりと、声が聞こえた。
「助けて……森が、泣いている……」
声は、沼の中心に立つ、一本の巨大な枯れ木の方から聞こえてくるようだった。その枯れ木は、周囲の木々とは比較にならないほど大きく、かつてはこの森の主であったかのような威厳を、辛うじて残していた。

俺は、シルヴィアを制して一歩前に出た。
「お前は、誰だ。姿を見せろ」
俺の問いかけに、枯れ木の根元、その洞のようになった部分の闇が、微かに揺らめいた。
そして、そこからゆっくりと、一体の生物が姿を現した。
それは、鹿に似ていた。だが、その体は半ば透き通り、淡い緑色の光を放っている。頭には、若木のような美しい角が生えていた。森の精霊、とでも呼ぶべき、神秘的な存在。
だが、その精霊はひどく衰弱していた。その体は所々黒く変色し、放つ光も、今にも消え入りそうに弱々しい。
「……あなたは、人間……?」
精霊は、苦しげに息をしながら、俺たちを見つめた。
「なぜ、こんな場所に……。早く、お逃げなさい……。ここはもう、死の沼……」
「お前が、助けを求めていたのか」
俺が問うと、精霊は力なく頷いた。
「私は、この森の意思……。森と共に生まれ、森と共に生きてきた……。でも、もう、だめ……。黒い水が、私の力を、森の命を、内側から蝕んでいく……」
精霊の言葉は、途切れ途切れだった。
どうやら、この森の浄化能力とは、この精霊自身の力だったらしい。そして、その力が今、尽きかけようとしている。

「何があった。この沼は、昔からこうだったのか」
俺は、原因を探るべく質問を重ねた。
「ううん……。ひと月ほど前……。夜中に、大きな光と音がして、何かが空からここに……落ちてきたの……」
空から?
俺は、沼の中心を注意深く観察した。濁った水の中、何かが沈んでいるのが、微かに見て取れる。金属のような、人工的な光沢。
「それから……沼の水は黒く濁り始め、私の力も、どんどん弱くなって……。森の動物たちは、苦しみながら、南へ逃げていってしまった……」
精霊は、悲しそうに目を伏せた。
「残っているのは、もう、私と、あの『鉄の塊』だけ……」

鉄の塊。
俺の頭の中で、点と線が繋がり始めた。
空からの落下物。金属製。そして、周囲を汚染する瘴気の発生源。
「……古代文明の遺物か」
俺は、思わず呟いていた。
かつて大陸を支配した古代魔導文明は、現代とは比較にならない高度な技術を持っていた。空飛ぶ船、自律式の兵器、そして、強大なエネルギーを生み出す魔導炉。
もし、そんな時代の遺物が、何らかの理由で機能を停止せずに、この沼の底に沈んでいるとしたら。そして、その動力炉が暴走し、制御不能な魔素を瘴気として垂れ流しているとしたら。
この森の汚染も、精霊の衰弱も、全て説明がつく。

「……面白い」
俺の口から、笑みが漏れた。
シルヴィアが、訝しげな顔で俺を見る。この絶望的な状況で、何を笑っているのかと、その目は語っていた。
「アッシュ様?」
「いや、何でもない。ただ、少しだけ、腕が鳴ると思ってな」
俺は、衰弱しきった森の精霊に向き直った。
「精霊よ。お前の言う『鉄の塊』が、この汚染の原因だ。それを取り除けば、森は元に戻るかもしれん」
「……ほんとう?」
精霊の目に、わずかな希望の光が宿る。
「ああ。だが、そのためには、お前の力が必要だ。まだ、少しは残っているか? 沼の水を、ほんの一時でいい。浄化する力は」
俺の問いに、精霊はこくりと頷いた。
「分かった。ならば、取引だ」
俺は、目の前の神秘的な存在に対して、不敵に言い放った。
「俺が、お前の森を救ってやる。その代わり、この森の恵みを、俺たちに少しだけ分けてもらう。悪い話ではないだろう?」

絶望的な食料問題の調査に来たはずが、いつの間にか、古代文明の遺物と、森の存亡をかけた大問題に首を突っ込むことになってしまった。
だが、俺の心は、奇妙なほどに昂っていた。
困難であればあるほど、燃える。
未知の技術であればあるほど、解き明かしたくなる。
それが、アッシュ・フォン・ヴェルヘイムという男の本質だった。
「さて、どうやってあのガラクタを引き上げるか……」
俺は、どす黒い沼を見つめながら、頭の中でいくつもの計画を組み立て始めていた。
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