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第八話 聖女の悪夢
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あれほど感情をぶつけてしまった後だというのに、カイザーの態度は何も変わらなかった。
彼は夕食の席でも、ただ静かに私の向かいに座り、私が食べ終わるのを待っていた。責める言葉も、憐れむ視線もない。その変わらない穏やかさが、かえって私の心を落ち着かせた。
「疲れただろう。今日はもう休むといい」
夕食後、カイザーはそう言って私を部屋まで送ってくれた。
扉の前で、私はためらいがちに口を開く。
「あの……昼間は、すみませんでした。酷いことを、言ってしまって……」
「気にするなと言ったはずだ」
カイザーは静かに首を振る。
「お前が溜め込んでいたものを吐き出せたのなら、それでいい。……おやすみ、アリア」
その声は、驚くほど優しかった。
私は「おやすみなさい」と囁くように返事をし、部屋の中へと入った。扉が静かに閉まる。
一人になると、どっと疲れが押し寄せてきた。感情を爆発させたせいだろうか。体は鉛のように重い。
私はゆっくりと寝間着に着替え、ベッドに体を横たえた。ふかふかの寝台が、疲れた体を優しく受け止めてくれる。
カイザーの言葉が、脳裏に蘇る。
『お前が本来あるべきだった姿を取り戻せばいい』
本来の、私。それは、どんな姿なのだろう。聖女という仮面を被る前の私は、どんなふうに笑い、どんなことを考えていたのだろう。もう、思い出せないほど遠い昔のことのようだ。
心の蓋を、少しだけ開けてしまった。
今までずっと、見ないふりをしてきた感情と向き合ってしまった。
それが、いけなかったのかもしれない。
心地よい疲労感に誘われるまま、私はゆっくりと意識を手放した。
……暗い。
冷たい。
どこまでも続く、暗く冷たい水の底にいるようだった。手足を動かそうとしても、見えない何かに絡め取られて動けない。
『聖女様は、我らの希望』
『聖女様がいれば、もう何も怖くない』
人々の声が聞こえる。期待と羨望に満ちた声。それはやがて、重い鎖となって私に巻き付いてくる。
『聖女なのだから、これくらい当然だ』
『聖女のくせに、なぜできない』
『聖女なら、我々のためにその身を捧げろ』
声が、変わっていく。鎖が、体に食い込んでいく。痛い。苦しい。
場面が変わる。王城の冷たい廊下だ。
「役立たずめ」
アルフォンス王子の冷たい声が響く。彼の瞳は、汚物を見るかのように私を見下している。
「お前はただの飾りだ。私の隣で、大人しく微笑んでいればいい。それ以外の価値など、お前にはない」
「不気味な力だ。軽々しく使うなよ」
違う。この力は、人を癒やすためのもの。人々を守るための……。
反論しようとしても、声が出ない。
侍女たちのひそひそ話が聞こえる。
『あの方、本当に聖女なのかしら』
『なんだか、薄気味悪いわよね』
『きっと、いつか国を乗っ取るつもりよ』
やめて。そんな目で見ないで。
私はただ、みんなのために……。
暗い水の底へ、どんどん沈んでいく。息ができない。誰か、助けて。
かつての仲間、勇者レオンの顔が浮かぶ。
『アリア、すまない。俺は、もうお前一人の騎士ではいられないんだ』
彼はそう言って、私に背を向けた。その背中が、どんどん遠くなっていく。
行かないで。一人にしないで。
手を伸ばしても、届かない。
暗闇が、私を完全に飲み込もうとしていた。
「……っ、いや……!」
苦しさに、意識が浮上する。
現実と夢の境が曖昧なまま、私は喘ぐように息をした。全身は冷たい汗でぐっしょりと濡れ、心臓が耳元で鳴っているかのようにうるさい。
夢だ。また、あの夢。
王城にいた頃、毎晩のように私を苛んだ悪夢。この城に来てからは一度も見なかったのに。
「はっ……ひゅっ……」
呼吸がうまくできない。暗闇が怖い。一人でいるのが、たまらなく怖い。
体を起こそうとしても、金縛りにあったように動かなかった。夢の続きが、まだ私を捕らえて離さない。
その時だった。
ベッドのすぐ傍で、静かな気配がした。
びくりと体が震える。暗闇に目が慣れてくると、そこに誰かが座っているのが見えた。
黒い衣。夜の闇に溶けるような、美しい人。
「……カイザー?」
掠れた声で、名前を呼ぶ。
彼は何も答えなかった。ただ、大きな手が伸びてきて、私の背中にそっと触れた。
温かい。
その手のひらから伝わる確かな体温が、悪夢の冷たさをゆっくりと溶かしていく。
彼は私の背中を、ゆっくりと、規則正しいリズムでさすり始めた。まるで、小さな子供をあやすかのように。
その手つきは驚くほど優しく、穏やかだった。
彼の力を使えば、こんな悪夢など一瞬で消し去れるだろうに。彼はそうしなかった。ただ、静かに、私のそばにいてくれる。
言葉はない。
けれど、その手のひらから、全てが伝わってくるようだった。
『大丈夫だ』
『俺がそばにいる』
『もう、お前は一人ではない』
乱れていた呼吸が、次第に落ち着いていく。早鐘を打っていた心臓も、彼の手に合わせるように、ゆっくりとしたリズムを取り戻していく。
絡みついていた見えない鎖が、ほどけていく。暗い水底から、温かい場所へと引き上げられていくような感覚。
私はいつの間にか、彼の存在に完全に身を委ねていた。
再び、強い眠気が襲ってくる。今度は、苦しいものではない。安らかで、穏やかな眠り。
意識が途切れる直前、彼の低い声が、すぐ近くで聞こえた気がした。
「……もう、何も恐れるな」
その声に包まれて、私は再び深い眠りへと落ちていった。
もう、悪夢は続かなかった。
ただ、どこまでも温かく、優しい闇が、私を包んでいた。
夜明けの光が窓から差し込むまで、彼の手が私の背中から離れることはなかった。
彼は夕食の席でも、ただ静かに私の向かいに座り、私が食べ終わるのを待っていた。責める言葉も、憐れむ視線もない。その変わらない穏やかさが、かえって私の心を落ち着かせた。
「疲れただろう。今日はもう休むといい」
夕食後、カイザーはそう言って私を部屋まで送ってくれた。
扉の前で、私はためらいがちに口を開く。
「あの……昼間は、すみませんでした。酷いことを、言ってしまって……」
「気にするなと言ったはずだ」
カイザーは静かに首を振る。
「お前が溜め込んでいたものを吐き出せたのなら、それでいい。……おやすみ、アリア」
その声は、驚くほど優しかった。
私は「おやすみなさい」と囁くように返事をし、部屋の中へと入った。扉が静かに閉まる。
一人になると、どっと疲れが押し寄せてきた。感情を爆発させたせいだろうか。体は鉛のように重い。
私はゆっくりと寝間着に着替え、ベッドに体を横たえた。ふかふかの寝台が、疲れた体を優しく受け止めてくれる。
カイザーの言葉が、脳裏に蘇る。
『お前が本来あるべきだった姿を取り戻せばいい』
本来の、私。それは、どんな姿なのだろう。聖女という仮面を被る前の私は、どんなふうに笑い、どんなことを考えていたのだろう。もう、思い出せないほど遠い昔のことのようだ。
心の蓋を、少しだけ開けてしまった。
今までずっと、見ないふりをしてきた感情と向き合ってしまった。
それが、いけなかったのかもしれない。
心地よい疲労感に誘われるまま、私はゆっくりと意識を手放した。
……暗い。
冷たい。
どこまでも続く、暗く冷たい水の底にいるようだった。手足を動かそうとしても、見えない何かに絡め取られて動けない。
『聖女様は、我らの希望』
『聖女様がいれば、もう何も怖くない』
人々の声が聞こえる。期待と羨望に満ちた声。それはやがて、重い鎖となって私に巻き付いてくる。
『聖女なのだから、これくらい当然だ』
『聖女のくせに、なぜできない』
『聖女なら、我々のためにその身を捧げろ』
声が、変わっていく。鎖が、体に食い込んでいく。痛い。苦しい。
場面が変わる。王城の冷たい廊下だ。
「役立たずめ」
アルフォンス王子の冷たい声が響く。彼の瞳は、汚物を見るかのように私を見下している。
「お前はただの飾りだ。私の隣で、大人しく微笑んでいればいい。それ以外の価値など、お前にはない」
「不気味な力だ。軽々しく使うなよ」
違う。この力は、人を癒やすためのもの。人々を守るための……。
反論しようとしても、声が出ない。
侍女たちのひそひそ話が聞こえる。
『あの方、本当に聖女なのかしら』
『なんだか、薄気味悪いわよね』
『きっと、いつか国を乗っ取るつもりよ』
やめて。そんな目で見ないで。
私はただ、みんなのために……。
暗い水の底へ、どんどん沈んでいく。息ができない。誰か、助けて。
かつての仲間、勇者レオンの顔が浮かぶ。
『アリア、すまない。俺は、もうお前一人の騎士ではいられないんだ』
彼はそう言って、私に背を向けた。その背中が、どんどん遠くなっていく。
行かないで。一人にしないで。
手を伸ばしても、届かない。
暗闇が、私を完全に飲み込もうとしていた。
「……っ、いや……!」
苦しさに、意識が浮上する。
現実と夢の境が曖昧なまま、私は喘ぐように息をした。全身は冷たい汗でぐっしょりと濡れ、心臓が耳元で鳴っているかのようにうるさい。
夢だ。また、あの夢。
王城にいた頃、毎晩のように私を苛んだ悪夢。この城に来てからは一度も見なかったのに。
「はっ……ひゅっ……」
呼吸がうまくできない。暗闇が怖い。一人でいるのが、たまらなく怖い。
体を起こそうとしても、金縛りにあったように動かなかった。夢の続きが、まだ私を捕らえて離さない。
その時だった。
ベッドのすぐ傍で、静かな気配がした。
びくりと体が震える。暗闇に目が慣れてくると、そこに誰かが座っているのが見えた。
黒い衣。夜の闇に溶けるような、美しい人。
「……カイザー?」
掠れた声で、名前を呼ぶ。
彼は何も答えなかった。ただ、大きな手が伸びてきて、私の背中にそっと触れた。
温かい。
その手のひらから伝わる確かな体温が、悪夢の冷たさをゆっくりと溶かしていく。
彼は私の背中を、ゆっくりと、規則正しいリズムでさすり始めた。まるで、小さな子供をあやすかのように。
その手つきは驚くほど優しく、穏やかだった。
彼の力を使えば、こんな悪夢など一瞬で消し去れるだろうに。彼はそうしなかった。ただ、静かに、私のそばにいてくれる。
言葉はない。
けれど、その手のひらから、全てが伝わってくるようだった。
『大丈夫だ』
『俺がそばにいる』
『もう、お前は一人ではない』
乱れていた呼吸が、次第に落ち着いていく。早鐘を打っていた心臓も、彼の手に合わせるように、ゆっくりとしたリズムを取り戻していく。
絡みついていた見えない鎖が、ほどけていく。暗い水底から、温かい場所へと引き上げられていくような感覚。
私はいつの間にか、彼の存在に完全に身を委ねていた。
再び、強い眠気が襲ってくる。今度は、苦しいものではない。安らかで、穏やかな眠り。
意識が途切れる直前、彼の低い声が、すぐ近くで聞こえた気がした。
「……もう、何も恐れるな」
その声に包まれて、私は再び深い眠りへと落ちていった。
もう、悪夢は続かなかった。
ただ、どこまでも温かく、優しい闇が、私を包んでいた。
夜明けの光が窓から差し込むまで、彼の手が私の背中から離れることはなかった。
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