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第十九話 ドラゴンの逆鱗
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穏やかな夜が明けた翌日。
その兆候は、突然訪れた。
いつものようにカイザーと庭の手入れをしていると、城全体が、ごく微かに、しかし確かに震えたのだ。地面から伝わる、不快な振動。
「……来たか」
カイザーが、土をいじる手を止め、鋭い目で空を睨んだ。その声には、今まで感じたことのない、冷たい緊張が走っていた。
私も、不安な気持ちで空を見上げる。青空はどこまでも澄み渡り、白い雲が穏やかに流れている。何も変わった様子はない。
だが、カイザーには見えているのだ。私には感知できない、脅威の接近が。
「カイザー様……」
「案ずるなと言ったはずだ。お前はここにいろ」
彼はそう言うと、立ち上がってテラスの方へと歩いていく。私も、彼の言葉に反して、その後を小走りで追いかけた。じっとしていることなど、できなかった。
テラスに出ると、カイザーは欄干に立ち、遥か下方の雲海を睥睨していた。その背中は、いつもの穏やかな竜ではなく、伝説に語られる「終焉の黒竜」そのものの威圧感を放っている。
「結界の、かなり外側から揺さぶりをかけているな。小賢しい真似を」
彼が吐き捨てるように呟く。
その時、私の耳にも、微かに何かの音が聞こえてきた。
それは、大勢の人間の声だった。拡声の魔道具を使っているのだろうか。雲の向こうから、くぐもった声が響いてくる。
「―――よ、聖女アリア! 我らが、救いに来たぞ!」
アルフォンス王子の声だ。間違いない。
「その穢れた竜の手から、必ずやお救いする! だから、希望を捨てるな!」
穢れた竜。
その言葉に、カイザーの肩が、ぴくりと動いた。テラスの空気が、急速に冷え込んでいくのが肌で分かる。
私は、たまらず叫んだ。
「私は、ここにいます! 自分の意思で、ここにいるのです!」
私の声が、魔道具を使っている彼らに届くはずもない。けれど、そう叫ばずにはいられなかった。
カイザーは、私の声を聞いて、一度だけ静かに私を振り返った。その瞳は、嵐の前の海のように、静かだが、恐ろしいほどの怒りを湛えている。
「……アリア。聞こえなかったか。ここにいろ、と」
「で、でも……!」
「俺の邪魔をするな」
ぴしゃりと言い放たれた言葉は、氷のように冷たかった。私は、びくりと体を震わせ、その場に立ち尽くす。
カイザーは、再び雲海へと向き直った。
その間に、下界からの声はさらに大きくなっていた。今度は、アルフォンス王子ではない、別の騎士の声だ。
「聞け、悪竜め! 貴様は、我らが聖女様を誑かした大罪人だ! 聖女様は、その不浄な体で弄ばれ、きっと今頃、涙に暮れておられるに違いない!」
「そうだ! 聖女様を慰み者にするなど、万死に値するぞ!」
下劣な言葉が、次々と投げつけられる。彼らは、自分たちが正義だと信じ込み、ありもしない妄想を、事実であるかのように叫んでいた。
私の体が、怒りで震える。
違う。彼は、そんな人ではない。私を傷つけるどころか、誰よりも大切に、守ってくれているのに。
だが、私以上に、その言葉に激しい反応を示した者がいた。
ゴ、と。
カイザーの喉の奥から、地鳴りのような音が漏れた。
次の瞬間、彼の体から、黒いオーラのようなものが、陽炎のように立ち上る。それは純粋な怒りの魔力だった。空気がビリビリと震え、立っているだけで肌が痛いほどのプレッシャーが、テラス全体を支配する。
「……ほう」
カイザーの声は、もはや静寂そのものだった。だが、その静けさは、噴火直前の火山にも似た、恐ろしいほどの破壊の予兆を孕んでいる。
「慰み者、だと……?」
彼は、ゆっくりと、一言一言を確かめるように、呟いた。
「この俺が……俺の、アリアを……?」
その声が、私の心臓を鷲掴みにする。
俺の、アリア。
彼は、そう言った。
その言葉の意味を考えるよりも早く、カイザーの体が眩い光に包まれた。
光が収まった時、そこに立っていたのは、人型の彼ではなかった。
天を覆い尽くさんばかりの、巨大な黒竜。
漆黒の鱗は、怒りに燃える太陽の光を浴びて、不気味なほど鈍く輝いている。そして、その黄金の瞳は、溶けた金のように燃え盛り、地上の愚かな人間たちを睨みつけていた。
「……身の程を、知れ」
それは、声ではなかった。
天と地を揺るがす、絶対者の意思。
竜は、その巨大な顎をわずかに開く。喉の奥で、世界の全てを焼き尽くすほどの、紅蓮の炎が渦巻くのが見えた。
ブレス。
もしあれを放てば、下で待ち構えている騎士団など、一瞬で塵と化すだろう。
「やめて!」
私は、恐怖を忘れて叫んでいた。
「カイザー、やめてください!」
私の声が聞こえたのか、竜の喉の奥で渦巻いていた炎が、わずかに揺らぐ。燃え盛る黄金の瞳が、ちらりと私を捉えた。
「彼らを殺してしまったら、ダメです! あなたの手が、血で汚れてしまう……!」
私は、カイザーに人殺しになってほしくなかった。たとえ相手が、どれほど愚かで、下劣な言葉を吐いたとしても。
私の悲痛な叫びに、竜は、しばらくの間、動きを止めていた。
喉の奥の炎は、まだ消えてはいない。彼の怒りは、収まってはいない。
だが、彼は、ゆっくりと、その顎を閉じた。
そして、代わりに、天を切り裂くような、凄まじい咆哮を上げたのだ。
それは、ブレスのような破壊力は持たない。だが、その声に込められた圧倒的な魔力と怒りは、音の衝撃波となって、下界へと降り注いでいった。
雲海が、まるで爆撃を受けたかのように激しく波立ち、その下から、騎士たちの絶叫と、馬のいななき、そして何かが砕け散る音が、かすかに響いてきた。
たった一声で、彼らの軍勢は、壊滅的な打撃を受けたのだ。
「……これで、少しは、黙るだろう」
竜の姿から、再び人型に戻ったカイザーが、静かに呟いた。その表情からは、先ほどまでの激しい怒りは消え、いつもの静けさが戻っていた。
だが、私は知っている。
彼の逆鱗に触れる、ということは、どういうことなのか。
それは、私を侮辱すること。
この世界で最も穏やかで、そして最も恐ろしい竜の怒りは、ただ、私という一人の存在にだけ、向けられているのだ。
その事実に、私の体は、恐怖ではなく、どうしようもないほどの、熱い何かで、震えていた。
その兆候は、突然訪れた。
いつものようにカイザーと庭の手入れをしていると、城全体が、ごく微かに、しかし確かに震えたのだ。地面から伝わる、不快な振動。
「……来たか」
カイザーが、土をいじる手を止め、鋭い目で空を睨んだ。その声には、今まで感じたことのない、冷たい緊張が走っていた。
私も、不安な気持ちで空を見上げる。青空はどこまでも澄み渡り、白い雲が穏やかに流れている。何も変わった様子はない。
だが、カイザーには見えているのだ。私には感知できない、脅威の接近が。
「カイザー様……」
「案ずるなと言ったはずだ。お前はここにいろ」
彼はそう言うと、立ち上がってテラスの方へと歩いていく。私も、彼の言葉に反して、その後を小走りで追いかけた。じっとしていることなど、できなかった。
テラスに出ると、カイザーは欄干に立ち、遥か下方の雲海を睥睨していた。その背中は、いつもの穏やかな竜ではなく、伝説に語られる「終焉の黒竜」そのものの威圧感を放っている。
「結界の、かなり外側から揺さぶりをかけているな。小賢しい真似を」
彼が吐き捨てるように呟く。
その時、私の耳にも、微かに何かの音が聞こえてきた。
それは、大勢の人間の声だった。拡声の魔道具を使っているのだろうか。雲の向こうから、くぐもった声が響いてくる。
「―――よ、聖女アリア! 我らが、救いに来たぞ!」
アルフォンス王子の声だ。間違いない。
「その穢れた竜の手から、必ずやお救いする! だから、希望を捨てるな!」
穢れた竜。
その言葉に、カイザーの肩が、ぴくりと動いた。テラスの空気が、急速に冷え込んでいくのが肌で分かる。
私は、たまらず叫んだ。
「私は、ここにいます! 自分の意思で、ここにいるのです!」
私の声が、魔道具を使っている彼らに届くはずもない。けれど、そう叫ばずにはいられなかった。
カイザーは、私の声を聞いて、一度だけ静かに私を振り返った。その瞳は、嵐の前の海のように、静かだが、恐ろしいほどの怒りを湛えている。
「……アリア。聞こえなかったか。ここにいろ、と」
「で、でも……!」
「俺の邪魔をするな」
ぴしゃりと言い放たれた言葉は、氷のように冷たかった。私は、びくりと体を震わせ、その場に立ち尽くす。
カイザーは、再び雲海へと向き直った。
その間に、下界からの声はさらに大きくなっていた。今度は、アルフォンス王子ではない、別の騎士の声だ。
「聞け、悪竜め! 貴様は、我らが聖女様を誑かした大罪人だ! 聖女様は、その不浄な体で弄ばれ、きっと今頃、涙に暮れておられるに違いない!」
「そうだ! 聖女様を慰み者にするなど、万死に値するぞ!」
下劣な言葉が、次々と投げつけられる。彼らは、自分たちが正義だと信じ込み、ありもしない妄想を、事実であるかのように叫んでいた。
私の体が、怒りで震える。
違う。彼は、そんな人ではない。私を傷つけるどころか、誰よりも大切に、守ってくれているのに。
だが、私以上に、その言葉に激しい反応を示した者がいた。
ゴ、と。
カイザーの喉の奥から、地鳴りのような音が漏れた。
次の瞬間、彼の体から、黒いオーラのようなものが、陽炎のように立ち上る。それは純粋な怒りの魔力だった。空気がビリビリと震え、立っているだけで肌が痛いほどのプレッシャーが、テラス全体を支配する。
「……ほう」
カイザーの声は、もはや静寂そのものだった。だが、その静けさは、噴火直前の火山にも似た、恐ろしいほどの破壊の予兆を孕んでいる。
「慰み者、だと……?」
彼は、ゆっくりと、一言一言を確かめるように、呟いた。
「この俺が……俺の、アリアを……?」
その声が、私の心臓を鷲掴みにする。
俺の、アリア。
彼は、そう言った。
その言葉の意味を考えるよりも早く、カイザーの体が眩い光に包まれた。
光が収まった時、そこに立っていたのは、人型の彼ではなかった。
天を覆い尽くさんばかりの、巨大な黒竜。
漆黒の鱗は、怒りに燃える太陽の光を浴びて、不気味なほど鈍く輝いている。そして、その黄金の瞳は、溶けた金のように燃え盛り、地上の愚かな人間たちを睨みつけていた。
「……身の程を、知れ」
それは、声ではなかった。
天と地を揺るがす、絶対者の意思。
竜は、その巨大な顎をわずかに開く。喉の奥で、世界の全てを焼き尽くすほどの、紅蓮の炎が渦巻くのが見えた。
ブレス。
もしあれを放てば、下で待ち構えている騎士団など、一瞬で塵と化すだろう。
「やめて!」
私は、恐怖を忘れて叫んでいた。
「カイザー、やめてください!」
私の声が聞こえたのか、竜の喉の奥で渦巻いていた炎が、わずかに揺らぐ。燃え盛る黄金の瞳が、ちらりと私を捉えた。
「彼らを殺してしまったら、ダメです! あなたの手が、血で汚れてしまう……!」
私は、カイザーに人殺しになってほしくなかった。たとえ相手が、どれほど愚かで、下劣な言葉を吐いたとしても。
私の悲痛な叫びに、竜は、しばらくの間、動きを止めていた。
喉の奥の炎は、まだ消えてはいない。彼の怒りは、収まってはいない。
だが、彼は、ゆっくりと、その顎を閉じた。
そして、代わりに、天を切り裂くような、凄まじい咆哮を上げたのだ。
それは、ブレスのような破壊力は持たない。だが、その声に込められた圧倒的な魔力と怒りは、音の衝撃波となって、下界へと降り注いでいった。
雲海が、まるで爆撃を受けたかのように激しく波立ち、その下から、騎士たちの絶叫と、馬のいななき、そして何かが砕け散る音が、かすかに響いてきた。
たった一声で、彼らの軍勢は、壊滅的な打撃を受けたのだ。
「……これで、少しは、黙るだろう」
竜の姿から、再び人型に戻ったカイザーが、静かに呟いた。その表情からは、先ほどまでの激しい怒りは消え、いつもの静けさが戻っていた。
だが、私は知っている。
彼の逆鱗に触れる、ということは、どういうことなのか。
それは、私を侮辱すること。
この世界で最も穏やかで、そして最も恐ろしい竜の怒りは、ただ、私という一人の存在にだけ、向けられているのだ。
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