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第80話 進路の話
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奇跡のようなクラス替えから季節は初夏へと移り変わっていた。
高校生活最後の年は驚くほど穏やかで、そしてどうしようもなく甘い時間の中にあった。
俺の前の席という特等席を手に入れた俺は、授業中、先生の目を盗んでは雫のポニーテールが小さく揺れるのを眺めたり、彼女がノートを取るその白い指先に見惚れたりしていた。
その視線に気づいた彼女が時々、教科書の影でこっそりと振り返り、いたずらっぽく笑いかけてくる。そのささやかなやり取りだけで退屈な授業も、かけがえのない宝物の時間に変わった。
クラスにすっかり馴染んだ雫は、もう教室の隅で一人本を読むだけの少女ではなかった。
天野さんや白石さんたちと楽しそうに(もちろん筆談やスマホを交えてだが)談笑する姿も、すっかり見慣れた光景になった。
その輪の中心で柔らかな笑みを浮かべる彼女を見るたびに、俺の心は誇らしさと、そしてほんの少しだけの寂しさで甘く締め付けられるのだった。
そんな平和な日常に小さな波紋が広がったのは、梅雨入りが間近に迫ったある日のホームルームだった。
担任教師が、一枚のプリントを配りながら重々しい口調で言った。
「えー、三年生になったお前たちにとって最も重要な課題だ。第一回の進路希望調査票を配る」
その一言で教室の浮かれた空気が、ぴしりと引き締まった。
進路。
卒業。
今までどこか遠い未来のことだと思っていたその言葉が、急にずしりとした重みを持って俺たちの目の前に突きつけられたのだ。
俺も配られたプリントを、ただ黙って見つめることしかできなかった。
大学名や専門学校名、就職先を書き込むための無機質な空欄。
その空欄が俺に「お前は、これからどう生きるんだ?」と問いかけているようだった。
その日の放課後。
俺と雫は珍しく二人きりで教室に残っていた。
健太たちは推薦をかけた大事な大会が近いらしく、早々に部活へ向かった。天野さんたちも今日は委員会があるらしい。
夕日が差し込む静かな教室。
俺たちはそれぞれの机で、あの真っ白な進路希望調査票を前にただ黙ってため息をついていた。
先に沈黙を破ったのは雫だった。
彼女は俺の前の席からくるりと椅子ごと振り返った。そして少しだけ不安そうな瞳で俺を見つめてくる。
『航くんは、もう決めてるの?』
その手話での問いかけ。
俺は力なく首を横に振った。
「全然。特にこれがやりたいってこともないしな……」
俺はペンをくるくると回しながら、自嘲気味に呟いた。
「たぶん実家から通える地元の大学のどこか。そんな感じだよ」
俺のあまりにも漠然とした未来。
それを聞いて彼女は何かを言いたそうに、しかし黙ってただ俺の顔を見つめていた。
「……雫は?」
俺は話題を変えるように彼女に尋ねた。
「雫はもう決まってるんだろ? 専門学校、行くんだよな」
俺の言葉に彼女の表情がぱっと明るくなった。
彼女はこくりと力強く頷くと、自分の鞄から一冊のパンフレットを取り出した。
そしてそのページを誇らしげに俺に見せてくれる。
そこに載っていたのは東京にあるデザイン系の専門学校の中でも、トップクラスに有名な学校だった。華やかなキャンパスの写真、輝かしい実績を誇る卒業生たちのインタビュー。
その全てがキラキラと輝いて見えた。
「すごいな! ここ、めちゃくちゃ有名なとこじゃないか!」
俺が驚きの声を上げると、彼女は少しだけ照れくさそうに、でも本当に嬉しそうにふわりと微笑んだ。
そして手話で言葉を紡ぐ。
『絵本作家になるっていう夢。私、本気だから』
その指の動きにはもう以前のような迷いやためらいはなかった。
そこにあるのは自分の未来を自分の力で切り拓いていくのだという、確固たる強い意志。
その姿があまりにも眩しくて。
俺は心の底から彼女のことを誇りに思った。
「……そっか。すごいな、雫。絶対なれるよ。お前なら」
俺が心からの賞賛を送ると、彼女ははにかむように微笑んだ。そしてこう続けてくれた。
『航くんがずっと応援してくれたから。航くんが私の夢を信じてくれたから』
そのあまりにも健気で、あまりにも真っ直ぐな言葉に俺の胸は熱くなった。
俺は彼女の夢の一番最初の理解者だったのだ。
その事実がどうしようもなく、俺を幸せな気持ちにさせた。
だが、その時だった。
俺の脳裏に一つの冷たい事実がすとんと落ちてきた。
彼女が見せてくれたパンフレットの文字。
『東京』
そのたった二文字が俺の心に、小さいが無視できない棘のようにちくりと刺さった。
東京か。
俺は地元の大学。
彼女は東京の専門学校。
卒業したら。
俺たちは離れ離れになるのかもしれない。
その今まで考えないようにしていた現実が、急にずしりと重く俺の心にのしかかってきた。
毎日当たり前のように会えていた日常が終わる。
すぐに会える距離じゃなくなる。
その可能性に俺の心臓が、きゅっと冷たく縮こまった。
「……そっか。東京か。少し遠くなるな」
俺の口から無意識のうちにそんな言葉が漏れていた。
その言葉に雫の輝いていた表情がほんの少しだけ曇ったのが分かった。
彼女も同じことを考えていたのだ。
しまった、と俺は思った。
不安にさせてどうする。彼女が自分の夢に向かって大きな一歩を踏み出そうとしている、この大切な時に。
俺は慌てて笑顔を作った。
そして彼女の両肩を力強く、しかし優しく掴む。
「いや、でも! 俺、全力で応援するから! 絶対に!」
俺は彼女の目を真っ直ぐに見つめ、力強く言い切った。
「雫の夢は俺の夢でもあるんだ。だから何も心配するな。俺が世界で一番の雫のファンだからな!」
俺の必死の言葉。
それを聞いた彼女の瞳が少しだけ潤んだ。
そして次の瞬間。
彼女は全ての不安を吹き飛ばすかのように、ふわりと花が咲くように微笑んでくれた。
その笑顔に俺は救われた気持ちになった。
でも、分かっていた。
お互いの笑顔の裏に隠しきれない小さな不安の影が落ちていることを。
「距離」というどうしようもない現実が、俺たちの輝かしい未来の先に静かに横たわっていることを。
俺たちの恋は初めて、甘いだけではない、少しだけほろ苦い未来への不安という名の試練に直面していた。
高校生活最後の年は驚くほど穏やかで、そしてどうしようもなく甘い時間の中にあった。
俺の前の席という特等席を手に入れた俺は、授業中、先生の目を盗んでは雫のポニーテールが小さく揺れるのを眺めたり、彼女がノートを取るその白い指先に見惚れたりしていた。
その視線に気づいた彼女が時々、教科書の影でこっそりと振り返り、いたずらっぽく笑いかけてくる。そのささやかなやり取りだけで退屈な授業も、かけがえのない宝物の時間に変わった。
クラスにすっかり馴染んだ雫は、もう教室の隅で一人本を読むだけの少女ではなかった。
天野さんや白石さんたちと楽しそうに(もちろん筆談やスマホを交えてだが)談笑する姿も、すっかり見慣れた光景になった。
その輪の中心で柔らかな笑みを浮かべる彼女を見るたびに、俺の心は誇らしさと、そしてほんの少しだけの寂しさで甘く締め付けられるのだった。
そんな平和な日常に小さな波紋が広がったのは、梅雨入りが間近に迫ったある日のホームルームだった。
担任教師が、一枚のプリントを配りながら重々しい口調で言った。
「えー、三年生になったお前たちにとって最も重要な課題だ。第一回の進路希望調査票を配る」
その一言で教室の浮かれた空気が、ぴしりと引き締まった。
進路。
卒業。
今までどこか遠い未来のことだと思っていたその言葉が、急にずしりとした重みを持って俺たちの目の前に突きつけられたのだ。
俺も配られたプリントを、ただ黙って見つめることしかできなかった。
大学名や専門学校名、就職先を書き込むための無機質な空欄。
その空欄が俺に「お前は、これからどう生きるんだ?」と問いかけているようだった。
その日の放課後。
俺と雫は珍しく二人きりで教室に残っていた。
健太たちは推薦をかけた大事な大会が近いらしく、早々に部活へ向かった。天野さんたちも今日は委員会があるらしい。
夕日が差し込む静かな教室。
俺たちはそれぞれの机で、あの真っ白な進路希望調査票を前にただ黙ってため息をついていた。
先に沈黙を破ったのは雫だった。
彼女は俺の前の席からくるりと椅子ごと振り返った。そして少しだけ不安そうな瞳で俺を見つめてくる。
『航くんは、もう決めてるの?』
その手話での問いかけ。
俺は力なく首を横に振った。
「全然。特にこれがやりたいってこともないしな……」
俺はペンをくるくると回しながら、自嘲気味に呟いた。
「たぶん実家から通える地元の大学のどこか。そんな感じだよ」
俺のあまりにも漠然とした未来。
それを聞いて彼女は何かを言いたそうに、しかし黙ってただ俺の顔を見つめていた。
「……雫は?」
俺は話題を変えるように彼女に尋ねた。
「雫はもう決まってるんだろ? 専門学校、行くんだよな」
俺の言葉に彼女の表情がぱっと明るくなった。
彼女はこくりと力強く頷くと、自分の鞄から一冊のパンフレットを取り出した。
そしてそのページを誇らしげに俺に見せてくれる。
そこに載っていたのは東京にあるデザイン系の専門学校の中でも、トップクラスに有名な学校だった。華やかなキャンパスの写真、輝かしい実績を誇る卒業生たちのインタビュー。
その全てがキラキラと輝いて見えた。
「すごいな! ここ、めちゃくちゃ有名なとこじゃないか!」
俺が驚きの声を上げると、彼女は少しだけ照れくさそうに、でも本当に嬉しそうにふわりと微笑んだ。
そして手話で言葉を紡ぐ。
『絵本作家になるっていう夢。私、本気だから』
その指の動きにはもう以前のような迷いやためらいはなかった。
そこにあるのは自分の未来を自分の力で切り拓いていくのだという、確固たる強い意志。
その姿があまりにも眩しくて。
俺は心の底から彼女のことを誇りに思った。
「……そっか。すごいな、雫。絶対なれるよ。お前なら」
俺が心からの賞賛を送ると、彼女ははにかむように微笑んだ。そしてこう続けてくれた。
『航くんがずっと応援してくれたから。航くんが私の夢を信じてくれたから』
そのあまりにも健気で、あまりにも真っ直ぐな言葉に俺の胸は熱くなった。
俺は彼女の夢の一番最初の理解者だったのだ。
その事実がどうしようもなく、俺を幸せな気持ちにさせた。
だが、その時だった。
俺の脳裏に一つの冷たい事実がすとんと落ちてきた。
彼女が見せてくれたパンフレットの文字。
『東京』
そのたった二文字が俺の心に、小さいが無視できない棘のようにちくりと刺さった。
東京か。
俺は地元の大学。
彼女は東京の専門学校。
卒業したら。
俺たちは離れ離れになるのかもしれない。
その今まで考えないようにしていた現実が、急にずしりと重く俺の心にのしかかってきた。
毎日当たり前のように会えていた日常が終わる。
すぐに会える距離じゃなくなる。
その可能性に俺の心臓が、きゅっと冷たく縮こまった。
「……そっか。東京か。少し遠くなるな」
俺の口から無意識のうちにそんな言葉が漏れていた。
その言葉に雫の輝いていた表情がほんの少しだけ曇ったのが分かった。
彼女も同じことを考えていたのだ。
しまった、と俺は思った。
不安にさせてどうする。彼女が自分の夢に向かって大きな一歩を踏み出そうとしている、この大切な時に。
俺は慌てて笑顔を作った。
そして彼女の両肩を力強く、しかし優しく掴む。
「いや、でも! 俺、全力で応援するから! 絶対に!」
俺は彼女の目を真っ直ぐに見つめ、力強く言い切った。
「雫の夢は俺の夢でもあるんだ。だから何も心配するな。俺が世界で一番の雫のファンだからな!」
俺の必死の言葉。
それを聞いた彼女の瞳が少しだけ潤んだ。
そして次の瞬間。
彼女は全ての不安を吹き飛ばすかのように、ふわりと花が咲くように微笑んでくれた。
その笑顔に俺は救われた気持ちになった。
でも、分かっていた。
お互いの笑顔の裏に隠しきれない小さな不安の影が落ちていることを。
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