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第88話 小さな事件
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穏やかな夏の午後。公園のベンチで、俺たちは未来への甘い約束を交わしていた。
雫の指が俺の膝に描いた『うれしい』という四文字の温もりを、俺はまだ鮮明に感じていた。
この幸せな時間が永遠に続けばいいのに。
そんな、ありきたりで、しかし切実な願いが俺の胸を満たしていた。
俺たちが座るベンチの少し前方、広場のあたりで小さな兄弟がボール遊びをしていた。
五歳くらいの男の子と、その妹だろうか。三歳くらいの、まだおぼつかない足取りの女の子。
キャッキャとはしゃぐその無邪気な声が、夏の午後の空気に心地よく響いていた。
俺たちはその微笑ましい光景を自然と目で追っていた。
「可愛いな」
俺が呟くと、隣の雫も母性的な優しい眼差しでこくりと頷いた。
その時だった。
事件は本当に一瞬の出来事だった。
男の子が蹴ったプラスチックのボールが、少しだけコントロールを失った。
ぽーんと高く弾んだボールは広場を越え、コロコロと公園の外周を走る道路の方へと転がっていってしまったのだ。
「あ!」
男の子が焦ったような声を上げる。
そして、その後を追うように何も分かっていない様子の小さな女の子が、よちよちとボールが転がっていった方へ駆け出してしまった。
その先は道路だ。
俺は、その光景をスローモーションのように見ていた。
まずい。
そう思った瞬間。
キィィィィッ!
甲高いブレーキ音とクラクションの音が公園の静寂を切り裂いた。
一台の乗用車が角を曲がって公園沿いの道路に進入してきたのだ。
運転手は道路に飛び出してきたボールに気づき、慌ててブレーキを踏んだ。
だが、その視線の先にはボールしか映っていない。
その車の死角から。
ボールを追いかけて、小さな女の子がまさに飛び出そうとしていた。
「危ない!!」
誰かが叫ぶ声が聞こえた。
それはボールを蹴った男の子の母親だろうか。それとも、俺自身の声だったか。
もう何も分からなかった。
俺の体は考えるよりも先に動いていた。
ベンチを蹴り、全力でその場所へと駆け出す。
数メートルの距離が、永遠のように長く感じられた。
間に合え。
間に合え。
間に合え!
俺は最後の力を振り絞り、地面を蹴った。
そして、道路に飛び出そうとしていた小さな女の子の体に滑り込むようにタックルした。
ドンッ!
小さな体を腕の中に抱きかかえる。
柔らかな感触と温もり。
俺は、その子を庇うように自分の体を丸め、アスファルトの上をごつごつと転がった。
ガシャン!
という鈍い金属音と衝撃。
俺の伸ばしていた左腕に、熱い焼けるような痛みが走った。
車が止まりきれずに、俺の腕に軽く接触したのだ。
「…………っ!」
俺は歯を食いしばり痛みに耐える。
車は俺のすぐ横で完全に停止していた。運転席から顔面蒼白になった男性が慌てて飛び出してくるのが、視界の端に映った。
周りから悲鳴が聞こえる。
公園にいた人々が、何事かとこちらに駆け寄ってくる気配がした。
でも、そんなことはどうでもよかった。
俺は腕の中に抱きかかえていた小さな女の子の顔を、恐る恐る覗き込んだ。
女の子は突然の出来事に何が起こったのか分からず、きょとんとした顔で俺を見上げている。
怪我はないようだった。
ただ、少しだけびっくりしているだけ。
「……よかった」
俺の口から安堵のため息が漏れた。
その瞬間、今まで感じていなかった左腕の激しい痛みが、一気に俺の全身を襲ってきた。
見ると制服のシャツが破れ、擦りむいた腕からじわりと血が滲んでいる。
骨は折れていないようだ。
でも、ズキズキとした脈打つような痛みが思考を麻痺させる。
「大丈夫ですか!?」
車の運転手や女の子の母親が、泣きそうな顔で駆け寄ってくる。
俺は「大丈夫です」と答えようとした。
でも、声が出なかった。
それよりも、俺の意識はたった一つのことに集中していた。
雫は?
彼女は無事か?
俺は痛む体を必死で起こした。
そして、彼女がいたはずのベンチの方を振り返る。
いた。
彼女はベンチのすぐそばで立ち尽くしていた。
その姿を見た瞬間、俺の心臓は凍りついた。
彼女の顔から血の気が完全に引いていた。
その大きく見開かれた瞳はどこか焦点が合っておらず、ただアスファルトの上に倒れている俺の姿だけを映している。
その顔には何の感情も浮かんでいなかった。
驚きも、悲しみも、恐怖も。
全てが抜け落ちてしまったかのような真っ白な能面のような顔。
まるで魂がどこかへ飛んでいってしまったかのようだった。
「……雫?」
俺は彼女の名前を呼んだ。
でも、彼女には届いていない。
彼女の世界から音が完全に消え去ってしまったかのようだった。
小さな事件。
俺の怪我は軽いものだった。
でも、それは俺たちの運命を、そして彼女の心を大きく、大きく揺がす引き金になってしまった。
穏やかだったはずの夏の日の午後。
その終わりを告げるように、遠くで救急車のサイレンの音が聞こえ始めていた。
雫の指が俺の膝に描いた『うれしい』という四文字の温もりを、俺はまだ鮮明に感じていた。
この幸せな時間が永遠に続けばいいのに。
そんな、ありきたりで、しかし切実な願いが俺の胸を満たしていた。
俺たちが座るベンチの少し前方、広場のあたりで小さな兄弟がボール遊びをしていた。
五歳くらいの男の子と、その妹だろうか。三歳くらいの、まだおぼつかない足取りの女の子。
キャッキャとはしゃぐその無邪気な声が、夏の午後の空気に心地よく響いていた。
俺たちはその微笑ましい光景を自然と目で追っていた。
「可愛いな」
俺が呟くと、隣の雫も母性的な優しい眼差しでこくりと頷いた。
その時だった。
事件は本当に一瞬の出来事だった。
男の子が蹴ったプラスチックのボールが、少しだけコントロールを失った。
ぽーんと高く弾んだボールは広場を越え、コロコロと公園の外周を走る道路の方へと転がっていってしまったのだ。
「あ!」
男の子が焦ったような声を上げる。
そして、その後を追うように何も分かっていない様子の小さな女の子が、よちよちとボールが転がっていった方へ駆け出してしまった。
その先は道路だ。
俺は、その光景をスローモーションのように見ていた。
まずい。
そう思った瞬間。
キィィィィッ!
甲高いブレーキ音とクラクションの音が公園の静寂を切り裂いた。
一台の乗用車が角を曲がって公園沿いの道路に進入してきたのだ。
運転手は道路に飛び出してきたボールに気づき、慌ててブレーキを踏んだ。
だが、その視線の先にはボールしか映っていない。
その車の死角から。
ボールを追いかけて、小さな女の子がまさに飛び出そうとしていた。
「危ない!!」
誰かが叫ぶ声が聞こえた。
それはボールを蹴った男の子の母親だろうか。それとも、俺自身の声だったか。
もう何も分からなかった。
俺の体は考えるよりも先に動いていた。
ベンチを蹴り、全力でその場所へと駆け出す。
数メートルの距離が、永遠のように長く感じられた。
間に合え。
間に合え。
間に合え!
俺は最後の力を振り絞り、地面を蹴った。
そして、道路に飛び出そうとしていた小さな女の子の体に滑り込むようにタックルした。
ドンッ!
小さな体を腕の中に抱きかかえる。
柔らかな感触と温もり。
俺は、その子を庇うように自分の体を丸め、アスファルトの上をごつごつと転がった。
ガシャン!
という鈍い金属音と衝撃。
俺の伸ばしていた左腕に、熱い焼けるような痛みが走った。
車が止まりきれずに、俺の腕に軽く接触したのだ。
「…………っ!」
俺は歯を食いしばり痛みに耐える。
車は俺のすぐ横で完全に停止していた。運転席から顔面蒼白になった男性が慌てて飛び出してくるのが、視界の端に映った。
周りから悲鳴が聞こえる。
公園にいた人々が、何事かとこちらに駆け寄ってくる気配がした。
でも、そんなことはどうでもよかった。
俺は腕の中に抱きかかえていた小さな女の子の顔を、恐る恐る覗き込んだ。
女の子は突然の出来事に何が起こったのか分からず、きょとんとした顔で俺を見上げている。
怪我はないようだった。
ただ、少しだけびっくりしているだけ。
「……よかった」
俺の口から安堵のため息が漏れた。
その瞬間、今まで感じていなかった左腕の激しい痛みが、一気に俺の全身を襲ってきた。
見ると制服のシャツが破れ、擦りむいた腕からじわりと血が滲んでいる。
骨は折れていないようだ。
でも、ズキズキとした脈打つような痛みが思考を麻痺させる。
「大丈夫ですか!?」
車の運転手や女の子の母親が、泣きそうな顔で駆け寄ってくる。
俺は「大丈夫です」と答えようとした。
でも、声が出なかった。
それよりも、俺の意識はたった一つのことに集中していた。
雫は?
彼女は無事か?
俺は痛む体を必死で起こした。
そして、彼女がいたはずのベンチの方を振り返る。
いた。
彼女はベンチのすぐそばで立ち尽くしていた。
その姿を見た瞬間、俺の心臓は凍りついた。
彼女の顔から血の気が完全に引いていた。
その大きく見開かれた瞳はどこか焦点が合っておらず、ただアスファルトの上に倒れている俺の姿だけを映している。
その顔には何の感情も浮かんでいなかった。
驚きも、悲しみも、恐怖も。
全てが抜け落ちてしまったかのような真っ白な能面のような顔。
まるで魂がどこかへ飛んでいってしまったかのようだった。
「……雫?」
俺は彼女の名前を呼んだ。
でも、彼女には届いていない。
彼女の世界から音が完全に消え去ってしまったかのようだった。
小さな事件。
俺の怪我は軽いものだった。
でも、それは俺たちの運命を、そして彼女の心を大きく、大きく揺がす引き金になってしまった。
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その終わりを告げるように、遠くで救急車のサイレンの音が聞こえ始めていた。
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