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第84話:嵐の前の静けさ
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アシュレイの固い決意とは裏腹に、その夜、ゼノビアの魔術師団が公爵邸を襲撃することはなかった。
厳戒態勢の中、騎士たちが夜通し警戒を続けたが敵の影はどこにも見当たらず、ただ不気味なほどの静寂だけが夜の闇を支配していた。
夜が明け、緊張に満ちた一夜が過ぎ去った時、アシュレイの元へ新たな報告がもたらされた。
「閣下! 王都の南門付近で昨夜、大規模な魔術戦の痕跡が発見されたとの報せです!」
「何だと!?」
アシュレイは書斎でその報告を聞き、眉をひそめた。
詳しく話を聞くと、昨夜公爵邸を襲撃しようとしていたゼノビアの魔術師団は、その途中で何者かの襲撃を受け交戦状態に入ったというのだ。
そして、その『何者か』とは国王直属の影の部隊。王家の最も深い闇の部分を担う、精鋭中の精鋭たちだった。
国王はアシュレイからの報告を受け、ただエドワード王子を捕らえるだけでなく、その背後にいるゼノビアの動きを独自に察知し、先手を打っていたのだ。
「……陛下も、ただの温厚な老人ではなかった、ということか」
アシュレイは苦々しげに、しかしどこか感心したように呟いた。
ゼノビアの魔術師団は、王家の影の部隊との激しい戦闘の末に多大な損害を被り、撤退を余儀なくされたらしい。
ひとまず、直接的な危機は去った。
しかし、アシュレイの心は少しも晴れなかった。
敵はまだ完全に滅んだわけではない。傷を負った獣は次こそ、さらに狡猾に、そして執拗にその牙を剥いてくるだろう。
王都を覆う不穏な空気は何も変わっていなかった。
むしろ水面下でさらに大きな嵐がその力を蓄えているような、不気味な静けさが街を支配していた。
まさに、嵐の前の静けさ。
そのことを、アシュレイは痛いほどに感じていた。
だが、そんな張り詰めた状況の中にあっても、私たちの日常は続いていた。
いや、むしろこれから訪れるであろう決戦を前に、私たちは意識的にお互いを求め、その束の間の平穏を慈しむように過ごしていた。
その日の午後、私は厨房に立っていた。
マーサさんに手伝ってもらいながら、アシュレイ様のために夕食の一品を作っていたのだ。
連日、不眠不休で国と屋敷の守りを固めている彼に、私にできるささやかな、しかし心からのねぎらいの気持ちだった。
私が作っていたのは、彼の好物だと聞いた魚介をふんだんに使った温かいクリームシチュー。私が領地で覚えた素朴な家庭料理だ。
「リナリア様、本当にお上手ですわね。もうわたくしが教えることは何もございません」
マーサさんは私の手際の良さに、感心したように目を細めている。
私はただ料理をするのが好きだった。食材に触れ、丁寧に下ごしらえをし、心を込めて煮込む。その一つ一つの工程が私の心を不思議と落ち着かせてくれた。
「美味しくできるといいのですけれど」
私ははにかみながら、鍋の中をそっとかき混ぜた。魚介と野菜の優しい香りが、ふわりと立ち上る。
その夜の夕食。
ダイニングルームには、私とアシュレイ様の二人だけだった。
いつもより少しだけ品数を増やしたテーブルの中央に、私が作ったシチューが湯気を立てている。
「……君が作ってくれたのか」
アシュレイ様は少し驚いたように目を見開いた後、その紫の瞳をどうしようもなく愛おしそうな色に細めた。
「はい。お口に合うか分かりませんが……。アシュレイ様、最近あまりお休みになられていないようでしたので」
私が少しだけ恥ずかしそうにそう言うと、彼は胸を押さえ、感極まったような表情をした。
「……リナリア。君は私をどうしたいんだ」
「え?」
「これ以上、私を骨抜きにしてどうするつもりだ」
彼は本気とも冗談ともつかない口調でそう言って、深く、深く息をついた。
私は彼のその反応に、思わずくすりと笑ってしまった。
彼は私が給仕しようとするのを手で制すると、自ら銀のレードルを手に取り、そのシチューを自分の皿へとよそった。そしてスプーンで一口、ゆっくりと口に運ぶ。
私は緊張しながら、彼の反応を待った。
彼はしばらくの間目を閉じて、その味をじっくりと味わっているようだった。
やがて、ゆっくりと目を開けた彼の顔には、これまで見たこともないような穏やかで、そして幸せに満ちたとろけるような笑みが浮かんでいた。
「……美味い」
彼はただ、それだけを呟いた。
「今まで私が食べたどんな宮廷料理よりも美味い。……身体の芯から温まるようだ」
その心からの賛辞に、私の胸は温かい喜びでいっぱいになった。
その夜の食事はこれまでで一番穏やかで、そして幸せな時間だった。
私たちは国の危機や敵の陰謀のことなど一切口にしなかった。
ただ今日あった些細な出来事や、領地での楽しかった思い出を語り合い、何度も何度も笑い合った。
それはまるで嵐が来ることを知りながらも、その前の最後の静けさを慈しみ合う恋人たちの、ささやかな祈りのようだった。
食事が終わった後、アシュレイ様は私を彼の私室へと招いた。
部屋の中では、暖炉の火がぱちぱちと静かに音を立てていた。
彼は何も言わずに、あの私が修復したオルゴールを手に取ると、そのネジをゆっくりと巻いた。
りん……。
澄み切った優しい子守唄のメロディーが、部屋の中に静かに響き渡る。
彼は私をソファへと導くとその隣に座り、私の肩をそっと抱き寄せた。
私は彼の胸に頭を預けた。
彼の心臓の鼓動がオルゴールのメロディーと重なり合うように、穏やかなリズムを刻んでいる。
私たちは言葉もなく、ただそうして寄り添っていた。
どれくらいの時間が経っただろうか。
やがてオルゴールの音色が最後の余韻を残して静かに消えていくと。
彼は私の髪にそっと唇を寄せた。
「……リナリア」
彼の熱のこもった声が、私の名前を呼ぶ。
「明日、何があろうと。私は必ず君の元へ帰ってくる。……だから信じて、待っていてくれ」
それは戦場へ赴く騎士が、愛する女に告げる誓いの言葉だった。
「はい」
私は涙がこぼれないように彼の胸に顔をうずめたまま、力強く頷いた。
「信じてお待ちしております。私のたった一人の英雄様」
その言葉に、彼は私の身体をさらに強く、強く抱きしめた。
嵐の前の最後の静けさ。
その夜はどこまでもどこまでも甘く、そして切なく更けていった。
私たちの運命を大きく揺るがすその『日』が、すぐそこまで迫っていることも知らずに。
厳戒態勢の中、騎士たちが夜通し警戒を続けたが敵の影はどこにも見当たらず、ただ不気味なほどの静寂だけが夜の闇を支配していた。
夜が明け、緊張に満ちた一夜が過ぎ去った時、アシュレイの元へ新たな報告がもたらされた。
「閣下! 王都の南門付近で昨夜、大規模な魔術戦の痕跡が発見されたとの報せです!」
「何だと!?」
アシュレイは書斎でその報告を聞き、眉をひそめた。
詳しく話を聞くと、昨夜公爵邸を襲撃しようとしていたゼノビアの魔術師団は、その途中で何者かの襲撃を受け交戦状態に入ったというのだ。
そして、その『何者か』とは国王直属の影の部隊。王家の最も深い闇の部分を担う、精鋭中の精鋭たちだった。
国王はアシュレイからの報告を受け、ただエドワード王子を捕らえるだけでなく、その背後にいるゼノビアの動きを独自に察知し、先手を打っていたのだ。
「……陛下も、ただの温厚な老人ではなかった、ということか」
アシュレイは苦々しげに、しかしどこか感心したように呟いた。
ゼノビアの魔術師団は、王家の影の部隊との激しい戦闘の末に多大な損害を被り、撤退を余儀なくされたらしい。
ひとまず、直接的な危機は去った。
しかし、アシュレイの心は少しも晴れなかった。
敵はまだ完全に滅んだわけではない。傷を負った獣は次こそ、さらに狡猾に、そして執拗にその牙を剥いてくるだろう。
王都を覆う不穏な空気は何も変わっていなかった。
むしろ水面下でさらに大きな嵐がその力を蓄えているような、不気味な静けさが街を支配していた。
まさに、嵐の前の静けさ。
そのことを、アシュレイは痛いほどに感じていた。
だが、そんな張り詰めた状況の中にあっても、私たちの日常は続いていた。
いや、むしろこれから訪れるであろう決戦を前に、私たちは意識的にお互いを求め、その束の間の平穏を慈しむように過ごしていた。
その日の午後、私は厨房に立っていた。
マーサさんに手伝ってもらいながら、アシュレイ様のために夕食の一品を作っていたのだ。
連日、不眠不休で国と屋敷の守りを固めている彼に、私にできるささやかな、しかし心からのねぎらいの気持ちだった。
私が作っていたのは、彼の好物だと聞いた魚介をふんだんに使った温かいクリームシチュー。私が領地で覚えた素朴な家庭料理だ。
「リナリア様、本当にお上手ですわね。もうわたくしが教えることは何もございません」
マーサさんは私の手際の良さに、感心したように目を細めている。
私はただ料理をするのが好きだった。食材に触れ、丁寧に下ごしらえをし、心を込めて煮込む。その一つ一つの工程が私の心を不思議と落ち着かせてくれた。
「美味しくできるといいのですけれど」
私ははにかみながら、鍋の中をそっとかき混ぜた。魚介と野菜の優しい香りが、ふわりと立ち上る。
その夜の夕食。
ダイニングルームには、私とアシュレイ様の二人だけだった。
いつもより少しだけ品数を増やしたテーブルの中央に、私が作ったシチューが湯気を立てている。
「……君が作ってくれたのか」
アシュレイ様は少し驚いたように目を見開いた後、その紫の瞳をどうしようもなく愛おしそうな色に細めた。
「はい。お口に合うか分かりませんが……。アシュレイ様、最近あまりお休みになられていないようでしたので」
私が少しだけ恥ずかしそうにそう言うと、彼は胸を押さえ、感極まったような表情をした。
「……リナリア。君は私をどうしたいんだ」
「え?」
「これ以上、私を骨抜きにしてどうするつもりだ」
彼は本気とも冗談ともつかない口調でそう言って、深く、深く息をついた。
私は彼のその反応に、思わずくすりと笑ってしまった。
彼は私が給仕しようとするのを手で制すると、自ら銀のレードルを手に取り、そのシチューを自分の皿へとよそった。そしてスプーンで一口、ゆっくりと口に運ぶ。
私は緊張しながら、彼の反応を待った。
彼はしばらくの間目を閉じて、その味をじっくりと味わっているようだった。
やがて、ゆっくりと目を開けた彼の顔には、これまで見たこともないような穏やかで、そして幸せに満ちたとろけるような笑みが浮かんでいた。
「……美味い」
彼はただ、それだけを呟いた。
「今まで私が食べたどんな宮廷料理よりも美味い。……身体の芯から温まるようだ」
その心からの賛辞に、私の胸は温かい喜びでいっぱいになった。
その夜の食事はこれまでで一番穏やかで、そして幸せな時間だった。
私たちは国の危機や敵の陰謀のことなど一切口にしなかった。
ただ今日あった些細な出来事や、領地での楽しかった思い出を語り合い、何度も何度も笑い合った。
それはまるで嵐が来ることを知りながらも、その前の最後の静けさを慈しみ合う恋人たちの、ささやかな祈りのようだった。
食事が終わった後、アシュレイ様は私を彼の私室へと招いた。
部屋の中では、暖炉の火がぱちぱちと静かに音を立てていた。
彼は何も言わずに、あの私が修復したオルゴールを手に取ると、そのネジをゆっくりと巻いた。
りん……。
澄み切った優しい子守唄のメロディーが、部屋の中に静かに響き渡る。
彼は私をソファへと導くとその隣に座り、私の肩をそっと抱き寄せた。
私は彼の胸に頭を預けた。
彼の心臓の鼓動がオルゴールのメロディーと重なり合うように、穏やかなリズムを刻んでいる。
私たちは言葉もなく、ただそうして寄り添っていた。
どれくらいの時間が経っただろうか。
やがてオルゴールの音色が最後の余韻を残して静かに消えていくと。
彼は私の髪にそっと唇を寄せた。
「……リナリア」
彼の熱のこもった声が、私の名前を呼ぶ。
「明日、何があろうと。私は必ず君の元へ帰ってくる。……だから信じて、待っていてくれ」
それは戦場へ赴く騎士が、愛する女に告げる誓いの言葉だった。
「はい」
私は涙がこぼれないように彼の胸に顔をうずめたまま、力強く頷いた。
「信じてお待ちしております。私のたった一人の英雄様」
その言葉に、彼は私の身体をさらに強く、強く抱きしめた。
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