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第十六話 破滅フラグの足音
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ロヴェルトの地は、生まれ変わり始めていた。
俺がもたらした種芋と種豆は、村人たちの献身的な働きによって、奇跡のように大地に根付いた。あれほど不毛に見えた赤茶けた大地は、数ヶ月後には力強い緑の葉で覆われ、乾いた風は作物の葉が擦れ合う涼やかな音を運ぶようになった。
村人たちの顔からは、長年こびりついていた諦観の色が消えていた。彼らは夜明けと共に畑に出て、日が暮れるまで汗を流した。その表情には疲労の色もあったが、それ以上に自分たちの手で未来を築いているという確かな充実感が満ちていた。子供たちの笑い声が、以前よりも村に響くようになっている。
俺に対する彼らの態度は、信頼を通り越して、もはや敬愛に近いものになっていた。俺が畑を視察すれば、誰もが作業の手を止めて深々と頭を下げる。「領主様のおかげです」と、皺の刻まれた顔を綻ばせる。
俺は領主として威厳ある態度を崩さなかったが、その言葉を聞くたびに、胸の奥が温かくなるのを感じていた。守るべきものができた。その実感は、俺が孤独な戦いを続ける上での、何よりの力となった。
季節は巡り、最初の収穫の時が訪れた。
掘り起こされた塩土芋は、驚くほど大きく、ずっしりと重かった。浄土豆もまた、鞘の中に大粒の実をぎっしりと実らせている。予想を遥かに上回る収穫量に、村中が歓喜に沸いた。
その夜、村ではささやかな収穫祭が開かれた。広場には焚き火が焚かれ、村人たちは茹でられたばかりの芋を頬張り、素朴な歌を歌い、踊った。
俺は集会所の二階の窓から、その光景を静かに眺めていた。隣には、いつものようにセラが控えている。
「……良い光景ですね」
セラがぽつりと呟いた。彼女の紫の瞳が、焚き火の光を映して柔らかく揺れている。この一年で、彼女の表情も少しずつだが豊かになっていた。
「ああ。だが、まだ始まったばかりだ」
俺は答えた。この豊かさは、まだあまりにも脆い。一つの嵐、一つの戦で、簡単に失われてしまう砂上の楼閣だ。俺はそれを、誰よりもよく知っていた。
そして、恐れていたその兆候は、収穫祭から数週間後、前触れもなく訪れた。
その日、村の入り口に、見慣れない一団が現れた。ヴァルハイト家の紋章を掲げた、十数騎の重装騎士。彼らが放つ冷徹な雰囲気は、ようやく芽生えた村の穏やかな空気を一瞬で凍りつかせた。
騎士たちを率いていたのは、父の側近の一人である厳つい顔の騎士団長だった。彼は馬上から俺を見下ろし、形式的な敬礼をした後、一枚の羊皮紙を差し出した。
「アレン様。公爵様からの書状でございます」
その言葉とは裏腹に、彼の目には出来損ないの三男坊に対する侮蔑の色が隠しようもなく浮かんでいた。
俺は書状を受け取り、その場で封を切った。流麗だが、冷たい筆跡で書かれた父の言葉が目に飛び込んでくる。
『ロヴェルトの地の報告は聞いている。多少の成果はあったようだな。だが、それで満足するな。貴様はヴァルハイトの人間だ。常に家の利益を考えろ』
そこまでは、予想の範囲内だった。だが、続く一文に、俺の心臓は冷たく締め付けられた。
『――来るべき戦に備え、兵糧の備蓄を怠るな。また、領民の中から徴兵可能な者をリストアップし、基礎的な訓練を施しておけ。命令があり次第、即座に出兵できるよう準備せよ』
来るべき、戦。
その言葉が、俺の脳裏に眠っていた悪夢の記憶を叩き起こした。
歴史書には、こう記されていた。『帝国暦千二百三十八年、秋。ヴァルハイト公爵家、些細な水源の利権問題を口実に、隣接するブランタール辺境伯領へ侵攻。激戦の末これを併合するも、その苛烈な手法は帝国内外から強い非難を浴び、ヴァルハイト家の悪評を決定的なものとした』
最初の、破滅フラグ。
それが今、目の前に突きつけられていた。
騎士たちはロヴェルトの村に一泊すると、翌日には慌ただしく去っていった。彼らの真の目的が、俺への書状を届けることではなく、ブランタール領との国境付近の地形を偵察することだったのは、その動きを見れば明らかだった。
彼らが去った後、村には再び重い空気が垂れ込めていた。村人たちは、騎士たちの存在が何を意味するのか、本能的に感じ取っていたのだ。戦争の足音。それは、彼らが最も恐れるものだった。
その夜、俺は領主の館として使っている一番大きな家の一室で、父からの書状を前に深く思考に沈んでいた。
蝋燭の炎が、羊皮紙に記された冷酷な命令を揺らめかせる。
徴兵。この村から、兵士を出せというのか。ようやく笑顔を取り戻したあの若者たちに、槍を持たせて戦場へ送れと。冗談じゃない。そんなこと、できるはずがない。この地で、これ以上誰一人として死なせるわけにはいかないのだ。
だが、父の命令は絶対だ。表立って逆らえば、この領地は取り上げられ、俺は再びあの息の詰まる屋敷に連れ戻されるだろう。そうなれば、ロヴェルトの地は元の不毛な土地に戻り、村人たちは再び絶望の淵に突き落とされる。
どうすればいい。
父の命令に従うふりをしながら、戦争そのものを回避する方法。それも、ただ回避するだけでは駄目だ。歴史書によれば、この戦いの裏にはブランタール領が持つ鉄鉱山の利権があった。父が本当に欲しているのはそれだ。戦争を回避し、かつ、ヴァルハイト家の利益となる結果をもたらさなければ、俺は父に認められない。
八方塞がりのように思えた。だが、俺は諦めなかった。
俺には、他の誰にもない武器がある。
未来の知識だ。
俺は目を閉じ、脳内の歴史書を検索する。ブランタール辺境伯。その人物像、性格、領地の内情。断片的な記述を、必死にかき集めていく。
――ブランタール辺境伯、名はゲルハルト。実直だが、やや頑固な性格。
――近年、嫡男の放蕩ぶりに頭を悩ませている。
――鉄鉱山の経営は順調だが、その富を狙う家臣たちの派閥争いが絶えない。
情報が、パズルのピースのように一つ、また一つと集まってくる。
やがて、俺の脳内に、一つの大胆な計画が形を成し始めた。血を流さずして勝利を収めるための、悪役にこそ相応しい、狡猾な策謀が。
俺は目を開けた。その瞳には、もはや迷いはなかった。
「セラ」
俺が呼ぶと、部屋の隅の影から、音もなくセラが現れた。
「はい、アレン様」
「これから、戦争を始める。ただし、剣や槍を使わない、俺たちだけの戦争だ」
俺はセラを見据え、静かに告げた。
「お前の力が、必要になる」
セラは何も問わなかった。ただ、その紫の瞳に強い決意の色を宿し、深く頷く。
「――御心のままに。この身、いかようにもお使いください」
その言葉が、反撃の狼煙だった。
最初の破滅フラグ。この手でへし折ってやる。歴史という名の巨大な奔流に、俺は今、ささやかだが、しかし確実な楔を打ち込もうとしていた。
俺の本当の戦いは、ここから始まる。
俺がもたらした種芋と種豆は、村人たちの献身的な働きによって、奇跡のように大地に根付いた。あれほど不毛に見えた赤茶けた大地は、数ヶ月後には力強い緑の葉で覆われ、乾いた風は作物の葉が擦れ合う涼やかな音を運ぶようになった。
村人たちの顔からは、長年こびりついていた諦観の色が消えていた。彼らは夜明けと共に畑に出て、日が暮れるまで汗を流した。その表情には疲労の色もあったが、それ以上に自分たちの手で未来を築いているという確かな充実感が満ちていた。子供たちの笑い声が、以前よりも村に響くようになっている。
俺に対する彼らの態度は、信頼を通り越して、もはや敬愛に近いものになっていた。俺が畑を視察すれば、誰もが作業の手を止めて深々と頭を下げる。「領主様のおかげです」と、皺の刻まれた顔を綻ばせる。
俺は領主として威厳ある態度を崩さなかったが、その言葉を聞くたびに、胸の奥が温かくなるのを感じていた。守るべきものができた。その実感は、俺が孤独な戦いを続ける上での、何よりの力となった。
季節は巡り、最初の収穫の時が訪れた。
掘り起こされた塩土芋は、驚くほど大きく、ずっしりと重かった。浄土豆もまた、鞘の中に大粒の実をぎっしりと実らせている。予想を遥かに上回る収穫量に、村中が歓喜に沸いた。
その夜、村ではささやかな収穫祭が開かれた。広場には焚き火が焚かれ、村人たちは茹でられたばかりの芋を頬張り、素朴な歌を歌い、踊った。
俺は集会所の二階の窓から、その光景を静かに眺めていた。隣には、いつものようにセラが控えている。
「……良い光景ですね」
セラがぽつりと呟いた。彼女の紫の瞳が、焚き火の光を映して柔らかく揺れている。この一年で、彼女の表情も少しずつだが豊かになっていた。
「ああ。だが、まだ始まったばかりだ」
俺は答えた。この豊かさは、まだあまりにも脆い。一つの嵐、一つの戦で、簡単に失われてしまう砂上の楼閣だ。俺はそれを、誰よりもよく知っていた。
そして、恐れていたその兆候は、収穫祭から数週間後、前触れもなく訪れた。
その日、村の入り口に、見慣れない一団が現れた。ヴァルハイト家の紋章を掲げた、十数騎の重装騎士。彼らが放つ冷徹な雰囲気は、ようやく芽生えた村の穏やかな空気を一瞬で凍りつかせた。
騎士たちを率いていたのは、父の側近の一人である厳つい顔の騎士団長だった。彼は馬上から俺を見下ろし、形式的な敬礼をした後、一枚の羊皮紙を差し出した。
「アレン様。公爵様からの書状でございます」
その言葉とは裏腹に、彼の目には出来損ないの三男坊に対する侮蔑の色が隠しようもなく浮かんでいた。
俺は書状を受け取り、その場で封を切った。流麗だが、冷たい筆跡で書かれた父の言葉が目に飛び込んでくる。
『ロヴェルトの地の報告は聞いている。多少の成果はあったようだな。だが、それで満足するな。貴様はヴァルハイトの人間だ。常に家の利益を考えろ』
そこまでは、予想の範囲内だった。だが、続く一文に、俺の心臓は冷たく締め付けられた。
『――来るべき戦に備え、兵糧の備蓄を怠るな。また、領民の中から徴兵可能な者をリストアップし、基礎的な訓練を施しておけ。命令があり次第、即座に出兵できるよう準備せよ』
来るべき、戦。
その言葉が、俺の脳裏に眠っていた悪夢の記憶を叩き起こした。
歴史書には、こう記されていた。『帝国暦千二百三十八年、秋。ヴァルハイト公爵家、些細な水源の利権問題を口実に、隣接するブランタール辺境伯領へ侵攻。激戦の末これを併合するも、その苛烈な手法は帝国内外から強い非難を浴び、ヴァルハイト家の悪評を決定的なものとした』
最初の、破滅フラグ。
それが今、目の前に突きつけられていた。
騎士たちはロヴェルトの村に一泊すると、翌日には慌ただしく去っていった。彼らの真の目的が、俺への書状を届けることではなく、ブランタール領との国境付近の地形を偵察することだったのは、その動きを見れば明らかだった。
彼らが去った後、村には再び重い空気が垂れ込めていた。村人たちは、騎士たちの存在が何を意味するのか、本能的に感じ取っていたのだ。戦争の足音。それは、彼らが最も恐れるものだった。
その夜、俺は領主の館として使っている一番大きな家の一室で、父からの書状を前に深く思考に沈んでいた。
蝋燭の炎が、羊皮紙に記された冷酷な命令を揺らめかせる。
徴兵。この村から、兵士を出せというのか。ようやく笑顔を取り戻したあの若者たちに、槍を持たせて戦場へ送れと。冗談じゃない。そんなこと、できるはずがない。この地で、これ以上誰一人として死なせるわけにはいかないのだ。
だが、父の命令は絶対だ。表立って逆らえば、この領地は取り上げられ、俺は再びあの息の詰まる屋敷に連れ戻されるだろう。そうなれば、ロヴェルトの地は元の不毛な土地に戻り、村人たちは再び絶望の淵に突き落とされる。
どうすればいい。
父の命令に従うふりをしながら、戦争そのものを回避する方法。それも、ただ回避するだけでは駄目だ。歴史書によれば、この戦いの裏にはブランタール領が持つ鉄鉱山の利権があった。父が本当に欲しているのはそれだ。戦争を回避し、かつ、ヴァルハイト家の利益となる結果をもたらさなければ、俺は父に認められない。
八方塞がりのように思えた。だが、俺は諦めなかった。
俺には、他の誰にもない武器がある。
未来の知識だ。
俺は目を閉じ、脳内の歴史書を検索する。ブランタール辺境伯。その人物像、性格、領地の内情。断片的な記述を、必死にかき集めていく。
――ブランタール辺境伯、名はゲルハルト。実直だが、やや頑固な性格。
――近年、嫡男の放蕩ぶりに頭を悩ませている。
――鉄鉱山の経営は順調だが、その富を狙う家臣たちの派閥争いが絶えない。
情報が、パズルのピースのように一つ、また一つと集まってくる。
やがて、俺の脳内に、一つの大胆な計画が形を成し始めた。血を流さずして勝利を収めるための、悪役にこそ相応しい、狡猾な策謀が。
俺は目を開けた。その瞳には、もはや迷いはなかった。
「セラ」
俺が呼ぶと、部屋の隅の影から、音もなくセラが現れた。
「はい、アレン様」
「これから、戦争を始める。ただし、剣や槍を使わない、俺たちだけの戦争だ」
俺はセラを見据え、静かに告げた。
「お前の力が、必要になる」
セラは何も問わなかった。ただ、その紫の瞳に強い決意の色を宿し、深く頷く。
「――御心のままに。この身、いかようにもお使いください」
その言葉が、反撃の狼煙だった。
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俺の本当の戦いは、ここから始まる。
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