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第二十五話 リリアーナの戸惑い
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クラウス・フォン・バルトロメウスの一件以来、俺に直接絡んでくる愚か者はいなくなった。学園内での俺の評判は「無能な出来損ない」から「関わると不幸になる呪われた出来損ない」へと、ある意味で格上げされていた。それは俺にとって、さらに快適な環境をもたらした。
俺は日々の大半を、変わらず図書館の奥深くで過ごしていた。知識は力だ。俺がこれから覆そうとしている「歴史」という巨大な敵に対抗するには、あらゆる知識を吸収し、自らの武器としなければならない。
その日も、俺は閉館間際の図書館で、一冊の古文書の解読に没頭していた。窓の外はすでに茜色に染まり始めている。そろそろ屋敷に戻ろうかと、重い本を閉じた時だった。
ふと、窓の外、中庭の奥にあるあまり人の寄り付かない裏庭の方で、複数の人影が動いているのが見えた。
俺は窓辺に寄り、何気なくその光景を眺める。
そこでは、三人の上級生らしき貴族生徒が、一人の小柄な下級生を取り囲んでいた。下級生は、平民出身の特待生だろうか。上質な制服を着た貴族たちの中で、その姿はひどくみすぼらしく見えた。
「おい、聞いているのか。お前のような虫けらが、俺たちと同じ空気を吸うためには、それなりの対価が必要なんだよ」
リーダー格の男が、粘つくような声で言っているのが、開いた窓から微かに聞こえてくる。金の無心、あるいは単なる憂さ晴らし。どこにでもある、くだらないいじめの光景だ。
俺は興味を失い、窓から離れようとした。弱者が強者に虐げられる。それは自然の摂理であり、俺がわざわざ介入するようなことではない。俺は悪役なのだから。
俺は自分の荷物をまとめ、図書館の出口へと向かった。裏庭を抜けるのが、屋敷への近道だった。
俺が裏庭に姿を現すと、いじめていた上級生たちはこちらを一瞥し、俺がアレン・ヴァルハイトであることに気づくと、嘲るような笑みを浮かべた。
「なんだ、ヴァルハイトの出来損ないか」
「こいつも同じ虫けらだ。気にするな」
彼らは俺を完全に無視し、再び下級生への脅しを続けた。
俺もまた、彼らを完全に無視した。いじめられている下級生が助けを求めるような目でこちらを見ていたが、俺はその視線に気づかないふりをして、彼らの横を通り過ぎる。その背中に、上級生たちの嘲笑と、下級生の絶望のため息が突き刺さった。
これでいい。誰も、俺が何かをするなどとは思うまい。
俺は、中庭へと続く角を曲がった。完全に、彼らの視界から消える。
だが、俺はその場で足を止め、建物の柱の影に身を潜めた。そして、意識を集中させる。
俺の足元から伸びる影が、まるで生き物のように蠢き、裏庭の地面を這っていく。それは誰の目にも留まらない、闇色の蛇だった。
影の触手は、いじめのリーダー格の男の足元まで到達した。男は、下級生の胸ぐらを掴み、今にも殴りかかろうとしている。
その瞬間。
俺は、影の触手で、男の足首に絡みつくように置かれていた小さな庭石を、ほんの数センチだけ動かした。
「うおっ!?」
次の瞬間、男は自分の足元にあるはずのない石に躓き、派手な音を立てて前のめりに転倒した。その拍子に、彼が腰に提げていた高価そうな魔力増幅の宝珠が地面に叩きつけられ、パリン、と甲高い音を立てて砕け散った。
「な、何だ!?」
「先輩! 大丈夫ですか!」
仲間たちが慌てて駆け寄る。リーダー格の男は、泥だらけになった顔を上げ、砕けた宝珠を見て絶叫した。
「俺の……俺の宝珠がぁっ!」
もはや、いじめどころの騒ぎではない。彼は仲間たちに当たり散らしながら、忌々しげにその場を去っていった。助けられた下級生は、何が起こったのか分からず、ただ呆然と立ち尽くしているだけだった。
俺は柱の影からそっと顔を出し、その結果に満足げに頷いた。目障りな虫を払った。ただ、それだけだ。
俺がその場を完全に立ち去ろうとした、その時だった。
ふと、中庭の噴水の影から、こちらを見つめる視線に気づいた。
そこに立っていたのは、リリアーナ・フォン・シルフィードだった。
彼女は、信じられないものを見るような目で、俺のことを見つめていた。その翡翠色の瞳は、驚きと、そして深い困惑の色に揺れている。
いつからそこにいた? まさか、見られたのか?
俺の脳裏を、一瞬だけ焦りがよぎる。
リリアーナは、いじめの現場を見て、助けに入ろうとしていたのだろう。だが、俺が先に現れたため、様子を窺っていたのかもしれない。そして、俺が通り過ぎた直後に起きた、あまりにも都合の良すぎる「事故」を、彼女は目撃してしまった。
俺はすぐに表情を消し、いつもの冷たい悪役の仮面を被り直した。そして、彼女の存在など気づかなかったというように、何食わぬ顔で歩き出す。
だが、リリアーナは俺の前に回り込み、行く手を塞いだ。
「……お待ちください、アレン様」
その声は、震えていた。
「今のは……あなたが?」
俺は心底からうんざりしたという表情で、彼女を見返した。
「何のことだ? 俺は何も見ていないが」
「嘘です! 私には分かりました! あなたが、あの角を曲がった直後、あの方が転びました! あれは、偶然ではありません!」
リリアーナの瞳は、真実を求める強い光を宿していた。その純粋さが、俺の計画を根底から揺るがしかねない。
俺は大きくため息をつくと、彼女に一歩近づいた。
「聖女様は、随分と想像力が豊かなようだ。それとも、俺が悪事を働く瞬間でも見たとでも言うのか? 証拠でもあるのか?」
「証拠は……ありません。ですが……」
リリアーナは言葉に詰まる。彼女が見たのは、俺が柱の影にいたという事実だけ。影が動いた瞬間など、常人に見えるはずがない。
「ですが、私には分かるのです。あなたは、本当は……」
彼女が何かを言いかけた、その時だった。俺は彼女の言葉を遮り、冷たく言い放った。
「勘違いするなよ、聖女様」
俺の声は、氷のように冷たかった。
「俺が、あんな虫けらを助ける理由がないだろう。俺はただ、あの威張り散らしていた上級生が気に食わなかっただけだ。俺の視界に入って、俺の気分を害した。だから、少しだけ懲らしめてやった。それだけのことだ。あの下級生が助かったのは、単なる偶然に過ぎん」
それは、善意を完全に否定し、悪意だけを肯定する言葉だった。リリアーナは、俺の言葉に息を呑んだ。
彼女の心は、激しく揺さぶられていた。
アレン・ヴァルハイトは、冷酷非道な悪党だ。だが、彼は弱い者いじめを許さない、別の形の「正義」を持っているのかもしれない。いや、それすらも、彼自身の気まぐれな悪意の結果に過ぎないのか。
彼の悪評と、時折見せる不可解な行動。その二つが、彼女の中で激しくぶつかり合い、一つの像を結ばない。
「……あなたという方が、分かりません」
やがて、彼女は絞り出すようにそう言った。
「分からなくて結構だ」
俺はそう吐き捨てると、彼女の横を通り過ぎ、今度こそ本当にその場を去った。
残されたリリアーナは、俺が去っていった方向を、ただ呆然と見つめていた。
彼女の心の中に、嵐が吹き荒れていた。アレン・ヴァルハイトとは、一体何者なのか。彼の本当の姿を知りたい。その抗いがたい好奇心と戸惑いが、彼女の中で大きな渦となり始めていた。
その渦が、やがて彼女を、俺の運命へと深く引きずり込んでいくことになる。
そのことを、俺たちはまだ知らなかった。
俺は日々の大半を、変わらず図書館の奥深くで過ごしていた。知識は力だ。俺がこれから覆そうとしている「歴史」という巨大な敵に対抗するには、あらゆる知識を吸収し、自らの武器としなければならない。
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ふと、窓の外、中庭の奥にあるあまり人の寄り付かない裏庭の方で、複数の人影が動いているのが見えた。
俺は窓辺に寄り、何気なくその光景を眺める。
そこでは、三人の上級生らしき貴族生徒が、一人の小柄な下級生を取り囲んでいた。下級生は、平民出身の特待生だろうか。上質な制服を着た貴族たちの中で、その姿はひどくみすぼらしく見えた。
「おい、聞いているのか。お前のような虫けらが、俺たちと同じ空気を吸うためには、それなりの対価が必要なんだよ」
リーダー格の男が、粘つくような声で言っているのが、開いた窓から微かに聞こえてくる。金の無心、あるいは単なる憂さ晴らし。どこにでもある、くだらないいじめの光景だ。
俺は興味を失い、窓から離れようとした。弱者が強者に虐げられる。それは自然の摂理であり、俺がわざわざ介入するようなことではない。俺は悪役なのだから。
俺は自分の荷物をまとめ、図書館の出口へと向かった。裏庭を抜けるのが、屋敷への近道だった。
俺が裏庭に姿を現すと、いじめていた上級生たちはこちらを一瞥し、俺がアレン・ヴァルハイトであることに気づくと、嘲るような笑みを浮かべた。
「なんだ、ヴァルハイトの出来損ないか」
「こいつも同じ虫けらだ。気にするな」
彼らは俺を完全に無視し、再び下級生への脅しを続けた。
俺もまた、彼らを完全に無視した。いじめられている下級生が助けを求めるような目でこちらを見ていたが、俺はその視線に気づかないふりをして、彼らの横を通り過ぎる。その背中に、上級生たちの嘲笑と、下級生の絶望のため息が突き刺さった。
これでいい。誰も、俺が何かをするなどとは思うまい。
俺は、中庭へと続く角を曲がった。完全に、彼らの視界から消える。
だが、俺はその場で足を止め、建物の柱の影に身を潜めた。そして、意識を集中させる。
俺の足元から伸びる影が、まるで生き物のように蠢き、裏庭の地面を這っていく。それは誰の目にも留まらない、闇色の蛇だった。
影の触手は、いじめのリーダー格の男の足元まで到達した。男は、下級生の胸ぐらを掴み、今にも殴りかかろうとしている。
その瞬間。
俺は、影の触手で、男の足首に絡みつくように置かれていた小さな庭石を、ほんの数センチだけ動かした。
「うおっ!?」
次の瞬間、男は自分の足元にあるはずのない石に躓き、派手な音を立てて前のめりに転倒した。その拍子に、彼が腰に提げていた高価そうな魔力増幅の宝珠が地面に叩きつけられ、パリン、と甲高い音を立てて砕け散った。
「な、何だ!?」
「先輩! 大丈夫ですか!」
仲間たちが慌てて駆け寄る。リーダー格の男は、泥だらけになった顔を上げ、砕けた宝珠を見て絶叫した。
「俺の……俺の宝珠がぁっ!」
もはや、いじめどころの騒ぎではない。彼は仲間たちに当たり散らしながら、忌々しげにその場を去っていった。助けられた下級生は、何が起こったのか分からず、ただ呆然と立ち尽くしているだけだった。
俺は柱の影からそっと顔を出し、その結果に満足げに頷いた。目障りな虫を払った。ただ、それだけだ。
俺がその場を完全に立ち去ろうとした、その時だった。
ふと、中庭の噴水の影から、こちらを見つめる視線に気づいた。
そこに立っていたのは、リリアーナ・フォン・シルフィードだった。
彼女は、信じられないものを見るような目で、俺のことを見つめていた。その翡翠色の瞳は、驚きと、そして深い困惑の色に揺れている。
いつからそこにいた? まさか、見られたのか?
俺の脳裏を、一瞬だけ焦りがよぎる。
リリアーナは、いじめの現場を見て、助けに入ろうとしていたのだろう。だが、俺が先に現れたため、様子を窺っていたのかもしれない。そして、俺が通り過ぎた直後に起きた、あまりにも都合の良すぎる「事故」を、彼女は目撃してしまった。
俺はすぐに表情を消し、いつもの冷たい悪役の仮面を被り直した。そして、彼女の存在など気づかなかったというように、何食わぬ顔で歩き出す。
だが、リリアーナは俺の前に回り込み、行く手を塞いだ。
「……お待ちください、アレン様」
その声は、震えていた。
「今のは……あなたが?」
俺は心底からうんざりしたという表情で、彼女を見返した。
「何のことだ? 俺は何も見ていないが」
「嘘です! 私には分かりました! あなたが、あの角を曲がった直後、あの方が転びました! あれは、偶然ではありません!」
リリアーナの瞳は、真実を求める強い光を宿していた。その純粋さが、俺の計画を根底から揺るがしかねない。
俺は大きくため息をつくと、彼女に一歩近づいた。
「聖女様は、随分と想像力が豊かなようだ。それとも、俺が悪事を働く瞬間でも見たとでも言うのか? 証拠でもあるのか?」
「証拠は……ありません。ですが……」
リリアーナは言葉に詰まる。彼女が見たのは、俺が柱の影にいたという事実だけ。影が動いた瞬間など、常人に見えるはずがない。
「ですが、私には分かるのです。あなたは、本当は……」
彼女が何かを言いかけた、その時だった。俺は彼女の言葉を遮り、冷たく言い放った。
「勘違いするなよ、聖女様」
俺の声は、氷のように冷たかった。
「俺が、あんな虫けらを助ける理由がないだろう。俺はただ、あの威張り散らしていた上級生が気に食わなかっただけだ。俺の視界に入って、俺の気分を害した。だから、少しだけ懲らしめてやった。それだけのことだ。あの下級生が助かったのは、単なる偶然に過ぎん」
それは、善意を完全に否定し、悪意だけを肯定する言葉だった。リリアーナは、俺の言葉に息を呑んだ。
彼女の心は、激しく揺さぶられていた。
アレン・ヴァルハイトは、冷酷非道な悪党だ。だが、彼は弱い者いじめを許さない、別の形の「正義」を持っているのかもしれない。いや、それすらも、彼自身の気まぐれな悪意の結果に過ぎないのか。
彼の悪評と、時折見せる不可解な行動。その二つが、彼女の中で激しくぶつかり合い、一つの像を結ばない。
「……あなたという方が、分かりません」
やがて、彼女は絞り出すようにそう言った。
「分からなくて結構だ」
俺はそう吐き捨てると、彼女の横を通り過ぎ、今度こそ本当にその場を去った。
残されたリリアーナは、俺が去っていった方向を、ただ呆然と見つめていた。
彼女の心の中に、嵐が吹き荒れていた。アレン・ヴァルハイトとは、一体何者なのか。彼の本当の姿を知りたい。その抗いがたい好奇心と戸惑いが、彼女の中で大きな渦となり始めていた。
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