破滅の運命を覆すため、悪役貴族は影で最強を目指す 〜歴史書では断罪される俺だが、未来知識と禁忌の魔法で成り上がってみせる〜

夏見ナイ

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第二十九話 影からの救出劇

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影の中は、静寂と虚無の世界だった。音も光も、温度さえもない。ただ、俺の意識だけが現実世界と繋がっている。俺は広場の床に広がる影と同化し、カイウスたちの絶望的な戦いを、神の視点にも似た角度から冷静に観察していた。
状況は刻一刻と悪化している。カイウスの炎の剣は輝きを失い始め、リリアーナの詠唱は途切れがちになっている。他の生徒たちの動きも明らかに鈍い。包囲網が完成し、ホブゴブリンのリーダーが止めを刺さんと巨大な棍棒を振り上げた時、誰かの心が折れるだろう。そうなれば、この円陣は一瞬で崩壊する。
(……始めるか)
俺は、自分の生存戦略を実行に移すことを決めた。
まずは、最も厄介な後方の敵。カイウスたちの死角から、魔法の詠唱を準備しているホブゴブリン・メイジが二体。あれを放置すれば、火球や氷の矢で陣形を崩される。
俺は意識を集中させた。俺が潜む影から、二本の細く鋭い触手を伸ばす。「影の延長」。セラとの訓練で、その精度と速度はもはや達人の域に達していた。
影の触手は、誰の目にも留まらず、床の闇を蛇のように滑っていく。そして、一体のメイジの足元の影から、音もなく突き出した。それは、黒い氷柱のようだった。
プスリ、と鈍い音。
影の杭は、メイジの心臓を背後から正確に貫いていた。メイジは悲鳴を上げる間もなく、その場に崩れ落ちる。手のひらに集まりかけていた魔力の光が、霧散して消えた。
「……え?」
その異変に、最初に気づいたのはリリアーナだった。彼女は、詠唱を妨害されることを警戒し、メイジの動きを注意深く見ていたのだ。
「今、ホブゴブリンが……勝手に……」
彼女の呟きは、戦闘の喧騒にかき消された。だが、カイウスもまた、敵の数が一体減ったことに気づいていた。
「どうした! 仲間割れか!?」
カイウスが叫ぶ。だが、ホブゴブリンたちにそんな様子はない。彼らもまた、仲間の突然の死に混乱し、一瞬だけ動きを止めていた。
俺はその隙を見逃さない。
もう一体のメイジの足元から、同じように影の杭を突き出す。二体目のメイジも、自分が何に殺されたのか理解できないまま、絶命した。
これで、後顧の憂いは断たれた。
「何が起きている……!」
カイウスは明らかに混乱していた。だが、彼はすぐに思考を切り替えた。原因は分からない。だが、この不可解な現象が、自分たちにとって有利に働いていることは事実だ。
「好機だ! 怯むな、一気に数を減らすぞ!」
カイウスは雄叫びを上げ、自らを鼓舞するように炎の剣を振るった。その声に、絶望しかけていた仲間たちの目に、再び闘志の光が宿る。
俺は、彼らの戦いを支援するべく、次の行動に移った。
今度は、前衛で戦うホブゴブリンたちの攪乱だ。俺は影の触手を巧みに操り、彼らの足元にある小石を弾き飛ばしたり、影そのものを揺らめかせて注意を逸らしたりした。
「グガッ!?」
一瞬、足元に気を取られたホブゴブリン。そのわずかな隙を、カイウスは見逃さなかった。炎の剣が、がら空きになった胴を薙ぐ。
「今だ! 続け!」
カイウスの指揮の下、生徒たちの連携が息を吹き返し始めた。見えざる何かが、敵の注意を引きつけてくれる。そのおかげで、彼らは目の前の敵に集中することができた。
リリアーナも、メイジの脅威が去ったことで、治癒と支援の魔法に専念できるようになった。彼女の聖なる光が仲間たちを包み、その傷を癒やし、失われた気力を回復させていく。
戦況は、明らかに好転していた。だが、敵の数はまだ多い。このままでは、ジリ貧になることに変わりはなかった。
(退路を確保しなければ)
俺は、カイウスたちが来た道、上層階へと続く通路に視線を向けた。そこは、後詰のホブゴブリンたちが十数匹、壁のように道を塞いでいる。
そして、俺はその通路の入り口の床に、微弱な魔力の輝きを見て取った。
(罠か……!)
巧妙に隠された、魔法陣。おそらく、一定以上の衝撃や魔力が加わると発動し、落石や爆発を引き起こす類のものだろう。スタンピードを仕組んだ黒幕が、カイウスたちの逃げ道を塞ぐために設置した、念押しの罠だ。
あれを無力化し、同時に道を塞ぐ敵を排除する。
俺は覚悟を決め、これまで温存していた魔力を一気に解放した。
俺が潜む影が、広場全体にインクのように広がっていく。それはもはや、ただの影ではない。俺の意思を持つ、第二の領域だった。
「な……なんだ、これは!?」
カイウスが、足元に広がる異常な闇に気づき、驚愕の声を上げた。
俺は、道を塞ぐホブゴブリンたちの足元の影に、命令を下した。
――掴め。
次の瞬間、ホブゴブリンたちの足元の影が、無数の黒い腕となって実体化し、彼らの足首を掴んで引きずり倒した。
「ギギッ!?」
「グガアアアッ!?」
突然地面に拘束されたホブゴブリンたちは、パニックに陥り、もがき始めた。強固な壁となっていた彼らの陣形は、一瞬にして崩壊する。
同時に、俺は別の影の触手を、罠の魔法陣へと伸ばした。そして、その魔力を、まるでスポンジが水を吸うように、影の中へと吸収し始めた。魔法陣の輝きが、急速に失われていく。
「……道が開いた!」
仲間の一人が、希望に満ちた声で叫んだ。
カイウスは、目の前で起きている超常現象に言葉を失っていた。だが、彼は王子だった。この千載一遇の好機を逃すほど、愚かではない。
「行くぞ! 全員、俺に続け! この道を突破する!」
カイウスは決断し、先頭に立って開かれた退路へと突撃した。リリアーナたちも、必死の形相でその後に続く。
俺は、彼らが通路を駆け抜けていくのを、影の中から静かに見守っていた。
リリアーナが、通路を通り抜ける最後の瞬間、ふと足を止め、俺が潜んでいるであろう広場の影を振り返った。
その翡翠色の瞳には、恐怖や混乱とは違う、何かを探るような、そして感謝するような、複雑な色が浮かんでいた。
彼女は、この見えざる救出劇の主が誰なのか、まだ気づいてはいない。だが、その不可解な助けの「質」に、彼女は何かを感じ取っているのかもしれなかった。
やがて、彼女も仲間の後を追い、その姿は通路の闇へと消えていった。
広場には、俺の影に拘束されてもがくホブゴブリンたちと、戦闘の痕跡だけが残された。
俺はゆっくりと、影の中から姿を現した。額には、大量の魔力を使ったことによる汗が滲んでいる。
「……さて」
俺は、カイウスたちが逃げていった方向とは逆、ダンジョンのさらに深層へと視線を向けた。
「お遊びは、ここまでだ」
カイウスたちを逃がすための陽動は終わった。
ここからは、俺自身の戦いだ。このスタンピードを引き起こした元凶を、そして、その背後にいるであろう黒幕の尻尾を、この手で掴み出す。
俺は再び影の中へと身を沈め、ダンジョンの最も深い闇へと、静かに進み始めた。
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