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第四十五話 リリアーナの訪問
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父との謁見から数日が過ぎた。俺の学園生活は、表面上は何一つ変わらない。無気力な生徒を演じ、図書館の片隅で眠り、実技では嘲笑の的となる。カイウスの密偵の目も、セラと影分身の力で完全にコントロール下に置いていた。
だが、水面下では全てが変わっていた。
俺の本当の目的は、もはや単なる破滅回避ではない。「黄昏の蛇」の殲滅、そして父ジークフリートへの反逆。そのための情報収集に、俺は全ての意識を注いでいた。
授業中、俺の目は気だるげに窓の外を眺めている。だが、俺の意識とリンクした影分身は、壁をすり抜け、天井裏を這い、学園内の全ての会話と動きを探っていた。
(もう一人の蛇。それは一体誰だ?)
父が残した謎。俺は容疑者のリストを再構築し、一人一人の言動を、24時間体制で監視していた。その瞳は、父への裏切りを知る前よりも、さらに冷徹な光を宿していた。人間への信頼という甘さを、俺は完全に捨て去ったつもりだった。
その一方で、リリアーナ・フォン・シルフィードの葛藤は、日に日に深まっていた。
彼女は友人たちと談笑しながらも、その心の大部分は、遠く離れた席に座る一人の少年に占められていた。アレン・フォン・ヴァルハイト。彼の悪評は、もはや学園中に浸透している。だが、彼女の直感は、その評価が真実ではないと強く訴えかけていた。
ダンジョンで感じた、見えざる救いの手。
舞踏会の夜、テラスで彼が囁いた謎の警告。
彼の瞳の奥に宿る、深い孤独と悲しみの色。
「リリアーナ様、またあの方のことを見ていらっしゃるのですか?」
親しい友人である女学生が、心配そうに声をかけてきた。
「関わらない方がよろしいですわ。ヴァルハイト家の人間は、呪われていると噂ですもの」
「……そうかしら」
リリアーナは、力なく微笑んだ。
「私は、そうは思わない。彼は、何かとても重いものを一人で背負っている……そんな気がするのです」
友人たちは、恋に悩む少女を見るような、生暖かい視線を彼女に向けた。だが、リリアーナの心にあるのは、そんな甘い感情ではなかった。もっと切実な、真実への渇望だった。
このままではいけない。彼を、一人にしておいてはいけない。
その日の放課後、彼女は誰にも行き先を告げず、一つの決意を胸に学園の門をくぐった。
夕暮れ時。王都のヴァルハイト邸の重厚な門の前に、リリアーナは一人で立っていた。帝国の毒と恐れられる家の紋章が、威圧的に彼女を見下ろしている。門番の騎士たちは、聖女である彼女の突然の単身での来訪に、驚きと困惑を隠せないでいた。
「……アレン・フォン・ヴァルハイト様にお会いしたいのです。取り次いでいただけますか」
彼女の凛とした声に、門番はしばらく逡巡した後、慌てて屋敷の中へと使いを走らせた。
やがて、リリアーナは屋敷の奥、アレンの私室へと通された。案内した侍女は、一言も発さずに深く頭を下げると、逃げるようにその場を去っていった。まるで、この部屋そのものが呪われているとでも言うかのように。
俺は、自室の机で影分身からの報告を整理していた。そこへ、侍女から「聖女リリアーナ様がお見えです」という、信じがたい報告がもたらされた。
一体、何のつもりだ。
俺が眉をひそめていると、静かに扉が開かれ、リリアーナが部屋の中へと入ってきた。
その瞬間、部屋の隅の闇が揺らめき、セラの姿が音もなく現れた。その手には、抜身の短剣が握られ、その切っ先は寸分の狂いもなくリリアーナの喉元へと向けられていた。彼女の紫の瞳には、俺の領域を侵した闖入者への、明確な殺意が宿っている。
「セラ、やめろ」
俺の静かな制止の声に、セラの動きがぴたりと止まった。だが、殺気は消えない。
リリアーナは、突然現れた暗殺者の気配に息を呑んだが、それでも一歩も引かなかった。彼女の瞳は、ただまっすぐに、俺だけを見つめていた。
俺はセラに目配せし、短剣を収めさせた。セラは不承不承といった様子で頷くと、再び部屋の影の中へとその姿を溶かしていく。だが、その鋭い警戒の視線だけは、リリアーナの一挙手一投足を監視し続けていた。
「……何の用だ。聖女様が、わざわざ俺のような悪党の巣窟に、一人で乗り込んでくるとはな」
俺は椅子に座ったまま、冷たく言い放った。
「単身で敵地に乗り込むとは、無謀なのか、それともただの馬鹿なのか」
「どちらでもありません」
リリアーナは、静かに、しかしはっきりと答えた。
「私は、あなたを敵だとは思っていませんから」
その言葉に、俺の心の奥が、わずかに揺れた。
彼女は俺の机の前まで進み出ると、その翡翠色の瞳で、俺を真正面から見据えた。
「もう、駆け引きはやめにしませんか、アレン様。あなたは、悪党などではない。ダンジョンで私たちを救ったのも、クラウス様を懲らしめたのも、本当は……誰かを守るためだったのではないですか?」
その問いは、あまりにも真っ直ぐで、俺の心の壁を易々と貫通してきた。
俺は、一瞬だけ素の自分に戻りそうになるのを、必死で堪えた。父に裏切られ、人間への信頼を捨て去ったはずの心に、彼女の言葉は温かく、そして危険なほどに染み渡る。
「……あなたの本当の姿が、知りたいのです」
リリアーナは、絞り出すように言った。その声は、震えていた。
「あなたが被っている、その冷たい仮面の下で、あなたが何を考え、何に苦しんでいるのか。どうか、私に教えてはいただけませんか」
それは、懇願だった。悪名高いヴァルハイト家の人間としてではなく、アレン・フォン・ヴァルハイトという一人の人間として、俺を理解したいという、彼女の魂からの叫びだった。
その純粋な光が、俺の孤独な闇を、優しく照らし出す。
父の裏切りで凍てついていた俺の心に、小さな、しかし確かなひびが入ったのを感じた。
この少女は、危険だ。
俺の覚悟を、俺の計画を、根底から揺るがしかねない。
俺は、彼女の言葉に心を揺さぶられながらも、同時に、彼女をこの戦いに巻き込んではならないと、強く、強く思っていた。
彼女の真っ直ぐすぎる正義は、いずれ破滅を呼ぶ。その時、彼女が俺の側にいれば、彼女自身もまた、俺と共に断罪されることになるだろう。
それだけは、絶対に避けなければならない。
俺は、ゆっくりと立ち上がった。そして、彼女の問いに答えるべく、心を鬼にすることを決意した。
だが、水面下では全てが変わっていた。
俺の本当の目的は、もはや単なる破滅回避ではない。「黄昏の蛇」の殲滅、そして父ジークフリートへの反逆。そのための情報収集に、俺は全ての意識を注いでいた。
授業中、俺の目は気だるげに窓の外を眺めている。だが、俺の意識とリンクした影分身は、壁をすり抜け、天井裏を這い、学園内の全ての会話と動きを探っていた。
(もう一人の蛇。それは一体誰だ?)
父が残した謎。俺は容疑者のリストを再構築し、一人一人の言動を、24時間体制で監視していた。その瞳は、父への裏切りを知る前よりも、さらに冷徹な光を宿していた。人間への信頼という甘さを、俺は完全に捨て去ったつもりだった。
その一方で、リリアーナ・フォン・シルフィードの葛藤は、日に日に深まっていた。
彼女は友人たちと談笑しながらも、その心の大部分は、遠く離れた席に座る一人の少年に占められていた。アレン・フォン・ヴァルハイト。彼の悪評は、もはや学園中に浸透している。だが、彼女の直感は、その評価が真実ではないと強く訴えかけていた。
ダンジョンで感じた、見えざる救いの手。
舞踏会の夜、テラスで彼が囁いた謎の警告。
彼の瞳の奥に宿る、深い孤独と悲しみの色。
「リリアーナ様、またあの方のことを見ていらっしゃるのですか?」
親しい友人である女学生が、心配そうに声をかけてきた。
「関わらない方がよろしいですわ。ヴァルハイト家の人間は、呪われていると噂ですもの」
「……そうかしら」
リリアーナは、力なく微笑んだ。
「私は、そうは思わない。彼は、何かとても重いものを一人で背負っている……そんな気がするのです」
友人たちは、恋に悩む少女を見るような、生暖かい視線を彼女に向けた。だが、リリアーナの心にあるのは、そんな甘い感情ではなかった。もっと切実な、真実への渇望だった。
このままではいけない。彼を、一人にしておいてはいけない。
その日の放課後、彼女は誰にも行き先を告げず、一つの決意を胸に学園の門をくぐった。
夕暮れ時。王都のヴァルハイト邸の重厚な門の前に、リリアーナは一人で立っていた。帝国の毒と恐れられる家の紋章が、威圧的に彼女を見下ろしている。門番の騎士たちは、聖女である彼女の突然の単身での来訪に、驚きと困惑を隠せないでいた。
「……アレン・フォン・ヴァルハイト様にお会いしたいのです。取り次いでいただけますか」
彼女の凛とした声に、門番はしばらく逡巡した後、慌てて屋敷の中へと使いを走らせた。
やがて、リリアーナは屋敷の奥、アレンの私室へと通された。案内した侍女は、一言も発さずに深く頭を下げると、逃げるようにその場を去っていった。まるで、この部屋そのものが呪われているとでも言うかのように。
俺は、自室の机で影分身からの報告を整理していた。そこへ、侍女から「聖女リリアーナ様がお見えです」という、信じがたい報告がもたらされた。
一体、何のつもりだ。
俺が眉をひそめていると、静かに扉が開かれ、リリアーナが部屋の中へと入ってきた。
その瞬間、部屋の隅の闇が揺らめき、セラの姿が音もなく現れた。その手には、抜身の短剣が握られ、その切っ先は寸分の狂いもなくリリアーナの喉元へと向けられていた。彼女の紫の瞳には、俺の領域を侵した闖入者への、明確な殺意が宿っている。
「セラ、やめろ」
俺の静かな制止の声に、セラの動きがぴたりと止まった。だが、殺気は消えない。
リリアーナは、突然現れた暗殺者の気配に息を呑んだが、それでも一歩も引かなかった。彼女の瞳は、ただまっすぐに、俺だけを見つめていた。
俺はセラに目配せし、短剣を収めさせた。セラは不承不承といった様子で頷くと、再び部屋の影の中へとその姿を溶かしていく。だが、その鋭い警戒の視線だけは、リリアーナの一挙手一投足を監視し続けていた。
「……何の用だ。聖女様が、わざわざ俺のような悪党の巣窟に、一人で乗り込んでくるとはな」
俺は椅子に座ったまま、冷たく言い放った。
「単身で敵地に乗り込むとは、無謀なのか、それともただの馬鹿なのか」
「どちらでもありません」
リリアーナは、静かに、しかしはっきりと答えた。
「私は、あなたを敵だとは思っていませんから」
その言葉に、俺の心の奥が、わずかに揺れた。
彼女は俺の机の前まで進み出ると、その翡翠色の瞳で、俺を真正面から見据えた。
「もう、駆け引きはやめにしませんか、アレン様。あなたは、悪党などではない。ダンジョンで私たちを救ったのも、クラウス様を懲らしめたのも、本当は……誰かを守るためだったのではないですか?」
その問いは、あまりにも真っ直ぐで、俺の心の壁を易々と貫通してきた。
俺は、一瞬だけ素の自分に戻りそうになるのを、必死で堪えた。父に裏切られ、人間への信頼を捨て去ったはずの心に、彼女の言葉は温かく、そして危険なほどに染み渡る。
「……あなたの本当の姿が、知りたいのです」
リリアーナは、絞り出すように言った。その声は、震えていた。
「あなたが被っている、その冷たい仮面の下で、あなたが何を考え、何に苦しんでいるのか。どうか、私に教えてはいただけませんか」
それは、懇願だった。悪名高いヴァルハイト家の人間としてではなく、アレン・フォン・ヴァルハイトという一人の人間として、俺を理解したいという、彼女の魂からの叫びだった。
その純粋な光が、俺の孤独な闇を、優しく照らし出す。
父の裏切りで凍てついていた俺の心に、小さな、しかし確かなひびが入ったのを感じた。
この少女は、危険だ。
俺の覚悟を、俺の計画を、根底から揺るがしかねない。
俺は、彼女の言葉に心を揺さぶられながらも、同時に、彼女をこの戦いに巻き込んではならないと、強く、強く思っていた。
彼女の真っ直ぐすぎる正義は、いずれ破滅を呼ぶ。その時、彼女が俺の側にいれば、彼女自身もまた、俺と共に断罪されることになるだろう。
それだけは、絶対に避けなければならない。
俺は、ゆっくりと立ち上がった。そして、彼女の問いに答えるべく、心を鬼にすることを決意した。
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