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第四十六話 仮面の内側
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リリアーナの真っ直ぐな瞳が、俺の心の奥底を射抜いていた。
「本当のあなたを知りたい」
その言葉は、呪いのように俺の心を縛り付けていた孤独の鎖を、たった一撃で砕きかねないほどの力を持っていた。父に裏切られ、世界への信頼を完全に失ったはずの俺の心に、彼女の純粋な善意は、抗いがたいほど甘美な毒のように染み渡っていく。
一瞬、ほんの一瞬だけ、全てを話してしまいたいという衝動に駆られた。
俺が背負っている破滅の運命を。俺が演じている孤独な芝居の真実を。この仮面の下にある、ただ生き延びたいと願うだけの、弱い俺の本性を。
そうすれば、どれだけ楽になれるだろうか。彼女なら、きっと俺を理解してくれる。俺の戦いを、支えてくれるかもしれない。
だが、その甘い幻想は、脳裏をよぎった一つの光景によって、無慈悲に打ち砕かれた。
――ごう、と地鳴りのような民衆の怒号。
――冷たく、高い処刑台。
――俺の首筋に落ちる、ギロチンの冷たい刃。
そして、その光景の中心で、悲しげな、しかし揺るぎない瞳で俺を見つめる、聖女リリアーナの姿。
そうだ。忘れるな。この少女こそが、歴史書において俺を断罪する中心人物なのだ。彼女のその清廉潔白な正義こそが、ヴァルハイトという「悪」を裁くための、最も鋭い刃となる。
俺が彼女に真実を話せばどうなる?
彼女は俺に同情し、俺を守ろうとするだろう。だが、その結果、彼女自身が「悪に与した聖女」として、世間から非難を浴びることになるかもしれない。彼女のその優しさが、彼女自身の破滅を招く。
それだけは、絶対にダメだ。
俺は彼女を、彼女自身の正義から守らなければならない。そのためには、彼女に徹底的に嫌われ、俺という存在を彼女の中から完全に消し去る必要があった。
俺の中に芽生えかけた、ほんのわずかな甘えと希望。俺はそれを、自らの手で、心の最も深い場所へと押し殺した。そして、代わりに、最も醜悪で、最も冷酷な悪役の仮面を、再び被り直す。
俺は、ゆっくりと顔を上げた。俺の瞳から、先ほどまでの葛藤の色は完全に消え失せ、代わりに、ねっとりとした、品のない欲望の光を宿らせた。
俺はリリアーナの白い手を取り、まるで品定めでもするかのように、その甲を指でなぞった。
「……ひっ」
リリアーナは、俺の突然の豹変に息を呑み、怯えたように手を引こうとする。だが、俺はそれを許さなかった。
「なるほどな。聖女様は、俺に興味があると」
俺は、下卑た笑みを浮かべた。
「悪党に惹かれる、物好きな聖女か。面白い。実に、面白い物語だ」
「ち、違います! 私は、ただ……!」
「分かっているさ」
俺は彼女の言葉を遮り、さらに一歩、彼女の懐へと踏み込んだ。二人の距離が、肌の温もりを感じるほどに近くなる。甘い花の香りが、俺の鼻腔をくすぐった。
「お前は、退屈なんだろう? 聖女として崇められ、清く正しく生きるだけの毎日に。だから、俺のような闇に惹かれる。自分にはない、危険な香りに、な」
俺の言葉は、彼女の純粋な善意を、安っぽい好奇心と欲望へと貶める、最低の侮辱だった。リリアーナの顔から、急速に血の気が引いていく。その翡翠色の瞳が、信じられないというように大きく見開かれた。
「……やめてください」
その声は、震えていた。
だが、俺は止まらない。彼女の心を完全に折り、二度と俺に近づこうなどと思えなくさせるためには、これだけでは足りない。
俺は、リリアーナの耳元に顔を寄せ、熱い息を吹きかけるように、囁いた。
「いいだろう。お前がそこまで言うのなら、俺の『本当の姿』とやらを、見せてやってもいい」
俺は、空いている手で彼女の顎をくいと持ち上げ、無理やり視線を合わせさせる。
「ただし、それには対価が必要だ。聖女様。お前のその清らかな体を、俺に捧げるというのなら、考えてやってもいい。俺の女になれ。そうすれば、お前の知らない世界のことを、手取り足取り、教えてやるが?」
それは、聖女である彼女の尊厳を、土足で踏み躙る、最低最悪の言葉だった。
リリアーナの瞳から、ついに大粒の涙が零れ落ちた。それは、悲しみや怒りを通り越した、完全な絶望の色をしていた。彼女が信じようとしていた、俺の中のわずかな光。それを、俺は自らの手で、完膚なきまでに消し去ったのだ。
彼女は、残った最後の力を振り絞るように、俺の手を振り払った。
「……もう、結構です」
その声は、ガラスが砕けるように、か細く、そして冷たかった。
「あなたのことは、何もかも……分かりたく、ありません」
彼女は、俺に背を向けた。その小さな背中は、これ以上ないほど傷つき、震えていた。
俺は、そんな彼女の背中に、最後の追い打ちをかける。
「そうか。残念だ。せいぜい、王子殿下とのお綺麗な正義ごっこでも続けているがいい」
俺は、わざとらしくソファに深く腰掛け、足を組んだ。
「失せろ。二度と俺の前にその顔を見せるな」
リリアーナは、何も答えなかった。ただ、駆け出すようにして部屋を飛び出し、その姿は廊下の闇へと消えていった。
扉が閉まり、部屋に静寂が戻る。
一人残された俺は、しばらくの間、微動だにしなかった。
やがて、俺は組んでいた足を下ろし、深く、深くうなだれた。そして、握りしめていた拳で、目の前の黒檀の机を、力任せに殴りつけた。
ドンッ! という鈍い音と共に、激しい痛みが拳に走る。だが、それ以上に、心の痛みが、俺の全身を苛んでいた。
(……これで、よかったんだ)
俺は自分に言い聞かせた。
(彼女を守るためには、これしか……)
だが、脳裏に焼き付いて離れない。涙に濡れた、彼女の絶望の表情が。
俺は、自分の手で、この世界で唯一、俺を理解しようとしてくれた人間を、最も残酷な形で傷つけてしまった。
「アレン様……」
いつの間にか、部屋の隅の影からセラが現れていた。その手には、傷薬と包帯が握られている。
彼女は何も言わず、俺の前に跪くと、血が滲む俺の拳を、そっと手当てし始めた。その手つきは、どこまでも優しかった。
「……俺は、馬鹿だな」
俺は、天井を見上げながら、自嘲するように呟いた。
「結局、俺は誰も救えない。ただ、人を傷つけることしか……」
「いいえ」
セラは、静かに、しかしはっきりと俺の言葉を否定した。
「アレン様は、聖女様を『守った』のです。彼女が背負うには、あまりにも重すぎる真実から。そして、アレン様ご自身の、孤独な戦いから」
その言葉は、俺の罪悪感を、少しだけ軽くしてくれた。
セラは、手当てを終えると、俺の拳を両手で優しく包み込んだ。
「アレン様の痛みは、私が全て分かち合います。たとえ、世界中の誰からも理解されなくとも、私だけは、あなたの側に」
その温もりが、冷え切った俺の心に、ゆっくりと染み込んでいく。
そうだ。俺は、もう一人ではない。
俺は、セラの手をそっと握り返した。
そして、再び顔を上げた俺の瞳には、もはや迷いも、後悔もなかった。
あるのは、全てを犠牲にしてでも、この過酷な運命を乗り越えてみせるという、鋼のような決意だけだった。
俺の仮面は、もう二度と外れることはない。
この戦いが、終わるその日までは。
「本当のあなたを知りたい」
その言葉は、呪いのように俺の心を縛り付けていた孤独の鎖を、たった一撃で砕きかねないほどの力を持っていた。父に裏切られ、世界への信頼を完全に失ったはずの俺の心に、彼女の純粋な善意は、抗いがたいほど甘美な毒のように染み渡っていく。
一瞬、ほんの一瞬だけ、全てを話してしまいたいという衝動に駆られた。
俺が背負っている破滅の運命を。俺が演じている孤独な芝居の真実を。この仮面の下にある、ただ生き延びたいと願うだけの、弱い俺の本性を。
そうすれば、どれだけ楽になれるだろうか。彼女なら、きっと俺を理解してくれる。俺の戦いを、支えてくれるかもしれない。
だが、その甘い幻想は、脳裏をよぎった一つの光景によって、無慈悲に打ち砕かれた。
――ごう、と地鳴りのような民衆の怒号。
――冷たく、高い処刑台。
――俺の首筋に落ちる、ギロチンの冷たい刃。
そして、その光景の中心で、悲しげな、しかし揺るぎない瞳で俺を見つめる、聖女リリアーナの姿。
そうだ。忘れるな。この少女こそが、歴史書において俺を断罪する中心人物なのだ。彼女のその清廉潔白な正義こそが、ヴァルハイトという「悪」を裁くための、最も鋭い刃となる。
俺が彼女に真実を話せばどうなる?
彼女は俺に同情し、俺を守ろうとするだろう。だが、その結果、彼女自身が「悪に与した聖女」として、世間から非難を浴びることになるかもしれない。彼女のその優しさが、彼女自身の破滅を招く。
それだけは、絶対にダメだ。
俺は彼女を、彼女自身の正義から守らなければならない。そのためには、彼女に徹底的に嫌われ、俺という存在を彼女の中から完全に消し去る必要があった。
俺の中に芽生えかけた、ほんのわずかな甘えと希望。俺はそれを、自らの手で、心の最も深い場所へと押し殺した。そして、代わりに、最も醜悪で、最も冷酷な悪役の仮面を、再び被り直す。
俺は、ゆっくりと顔を上げた。俺の瞳から、先ほどまでの葛藤の色は完全に消え失せ、代わりに、ねっとりとした、品のない欲望の光を宿らせた。
俺はリリアーナの白い手を取り、まるで品定めでもするかのように、その甲を指でなぞった。
「……ひっ」
リリアーナは、俺の突然の豹変に息を呑み、怯えたように手を引こうとする。だが、俺はそれを許さなかった。
「なるほどな。聖女様は、俺に興味があると」
俺は、下卑た笑みを浮かべた。
「悪党に惹かれる、物好きな聖女か。面白い。実に、面白い物語だ」
「ち、違います! 私は、ただ……!」
「分かっているさ」
俺は彼女の言葉を遮り、さらに一歩、彼女の懐へと踏み込んだ。二人の距離が、肌の温もりを感じるほどに近くなる。甘い花の香りが、俺の鼻腔をくすぐった。
「お前は、退屈なんだろう? 聖女として崇められ、清く正しく生きるだけの毎日に。だから、俺のような闇に惹かれる。自分にはない、危険な香りに、な」
俺の言葉は、彼女の純粋な善意を、安っぽい好奇心と欲望へと貶める、最低の侮辱だった。リリアーナの顔から、急速に血の気が引いていく。その翡翠色の瞳が、信じられないというように大きく見開かれた。
「……やめてください」
その声は、震えていた。
だが、俺は止まらない。彼女の心を完全に折り、二度と俺に近づこうなどと思えなくさせるためには、これだけでは足りない。
俺は、リリアーナの耳元に顔を寄せ、熱い息を吹きかけるように、囁いた。
「いいだろう。お前がそこまで言うのなら、俺の『本当の姿』とやらを、見せてやってもいい」
俺は、空いている手で彼女の顎をくいと持ち上げ、無理やり視線を合わせさせる。
「ただし、それには対価が必要だ。聖女様。お前のその清らかな体を、俺に捧げるというのなら、考えてやってもいい。俺の女になれ。そうすれば、お前の知らない世界のことを、手取り足取り、教えてやるが?」
それは、聖女である彼女の尊厳を、土足で踏み躙る、最低最悪の言葉だった。
リリアーナの瞳から、ついに大粒の涙が零れ落ちた。それは、悲しみや怒りを通り越した、完全な絶望の色をしていた。彼女が信じようとしていた、俺の中のわずかな光。それを、俺は自らの手で、完膚なきまでに消し去ったのだ。
彼女は、残った最後の力を振り絞るように、俺の手を振り払った。
「……もう、結構です」
その声は、ガラスが砕けるように、か細く、そして冷たかった。
「あなたのことは、何もかも……分かりたく、ありません」
彼女は、俺に背を向けた。その小さな背中は、これ以上ないほど傷つき、震えていた。
俺は、そんな彼女の背中に、最後の追い打ちをかける。
「そうか。残念だ。せいぜい、王子殿下とのお綺麗な正義ごっこでも続けているがいい」
俺は、わざとらしくソファに深く腰掛け、足を組んだ。
「失せろ。二度と俺の前にその顔を見せるな」
リリアーナは、何も答えなかった。ただ、駆け出すようにして部屋を飛び出し、その姿は廊下の闇へと消えていった。
扉が閉まり、部屋に静寂が戻る。
一人残された俺は、しばらくの間、微動だにしなかった。
やがて、俺は組んでいた足を下ろし、深く、深くうなだれた。そして、握りしめていた拳で、目の前の黒檀の机を、力任せに殴りつけた。
ドンッ! という鈍い音と共に、激しい痛みが拳に走る。だが、それ以上に、心の痛みが、俺の全身を苛んでいた。
(……これで、よかったんだ)
俺は自分に言い聞かせた。
(彼女を守るためには、これしか……)
だが、脳裏に焼き付いて離れない。涙に濡れた、彼女の絶望の表情が。
俺は、自分の手で、この世界で唯一、俺を理解しようとしてくれた人間を、最も残酷な形で傷つけてしまった。
「アレン様……」
いつの間にか、部屋の隅の影からセラが現れていた。その手には、傷薬と包帯が握られている。
彼女は何も言わず、俺の前に跪くと、血が滲む俺の拳を、そっと手当てし始めた。その手つきは、どこまでも優しかった。
「……俺は、馬鹿だな」
俺は、天井を見上げながら、自嘲するように呟いた。
「結局、俺は誰も救えない。ただ、人を傷つけることしか……」
「いいえ」
セラは、静かに、しかしはっきりと俺の言葉を否定した。
「アレン様は、聖女様を『守った』のです。彼女が背負うには、あまりにも重すぎる真実から。そして、アレン様ご自身の、孤独な戦いから」
その言葉は、俺の罪悪感を、少しだけ軽くしてくれた。
セラは、手当てを終えると、俺の拳を両手で優しく包み込んだ。
「アレン様の痛みは、私が全て分かち合います。たとえ、世界中の誰からも理解されなくとも、私だけは、あなたの側に」
その温もりが、冷え切った俺の心に、ゆっくりと染み込んでいく。
そうだ。俺は、もう一人ではない。
俺は、セラの手をそっと握り返した。
そして、再び顔を上げた俺の瞳には、もはや迷いも、後悔もなかった。
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