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第五十九話 騎士団の誤算
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王都の夜は聖女誘拐という未曾有の事件によって、かつてないほどの混乱と緊張に包まれていた。城壁の門は固く閉ざされ、帝国騎士団の兵士たちが松明を手に街路を駆け巡る。だが、彼らの捜索活動は暗礁に乗り上げていた。
カイウス・フォン・グランツは王宮の作戦司令室で、広げられた王都の地図を睨みつけながら焦燥に顔を歪めていた。
「まだ、リリアーナの居場所が掴めんのか!」
彼の怒声に、居並ぶ騎士団の幹部たちが身を縮こませる。
「はっ……申し訳ございません! しかし、情報が錯綜しておりまして……!」
側近の一人が震える声で報告する。
「東の港からは、聖女様らしき人物を乗せた船が出航したとの目撃情報が!」
「いえ、西の廃墟街で不審な集団を見たという者もおります!」
「南の商業ギルドの地下倉庫が怪しいという密告も……!」
次から次へともたらされる情報はどれも信憑性があるように見えて、その実、互いに矛盾していた。カイウスはこれが犯人グループによる巧妙な情報操作であることに気づき始めていたが、万が一の可能性を無視することもできず、貴重な戦力を各地に分散させざるを得なかった。
「くそっ……! 奴らは我々を弄んでいるのか!」
カイウスは拳で机を強く叩きつけた。彼の正義感とリリアーナを救えなかったという自責の念が、その冷静な判断力を少しずつ蝕んでいく。彼は敵が仕掛けた巨大な迷路の中で出口を見失い、ただ時間を浪費していた。
その頃、俺は王都の屋根の上、月明かりが作り出す深い影の中にいた。
俺の影分身は未だに犯人グループの一人にマーキングを続け、彼らのアジトである教会跡の地下の様子をリアルタイムで俺に送り届けている。
地下の広間ではリリアーナが祭壇のような場所に鎖で繋がれていた。彼女は意識を失っているようだが、目立った外傷はない。周囲では「黒曜石の牙」の構成員たちが作戦の成功を祝って酒盛りを始めていた。
「傑作だな! 王子様御一行は、今頃王都中を駆けずり回っていることだろうよ!」
「これも全て、我らが『蛇』の計画通りというわけだ!」
彼らの下品な笑い声が地下に響き渡る。
俺は、その光景を冷たい目で見つめていた。
(……泳がせるのは、ここまでで十分か)
アジトの場所は確定した。リリアーナの身の安全も今のところは確保されている。これ以上カイウスを無駄足させれば、彼の焦りが暴発し予測不能な行動に出るかもしれない。それでは俺の脚本に狂いが生じる。
そろそろ迷子の王子様を、正しい舞台へと導いてやる時間だ。
俺は屋根の上から静かに立ち上がった。そして闇に溶けるように、カイウスたちが司令室を構える王宮の方角へと音もなく滑空を始めた。
王宮の庭園、その最も警備が手薄になるであろう裏手の木陰。俺はそこに息を殺して潜んでいた。俺の周囲には何人もの近衛騎士が巡回しているが、彼らが俺の気配に気づくことはない。
俺は作戦司令室の窓から漏れる灯りを見つめていた。カイウスはまだあの部屋で苛立ちを募らせているはずだ。
どうやって彼に正しい情報を伝えるか。
俺自身が姿を現すのは論外だ。正体不明の協力者として情報を与えても、疑り深い彼はすぐには信じないだろう。もっと劇的で、彼の心を揺さぶり信じざるを得ないような演出が必要だ。
俺は懐から一枚の羊皮紙と小さな短剣を取り出した。そして羊皮紙に、セラから仕入れた「黒曜石の牙」の内部でしか使われない隠語をいくつか混ぜながら、簡潔にアジトの場所を記す。
『聖女は、西の廃墟区画、古い教会跡の地下にあり』
そしてその羊皮紙を、短剣の切っ先で、作戦司令室の窓枠へと突き刺すように投げつけた。
ヒュン、という鋭い風切り音。
短剣は寸分の狂いもなく、開け放たれた窓の木枠に深々と突き刺さった。羊皮紙が夜風にはためく。
「な、何だ!?」
室内にいた騎士たちが突然の出来事に驚き、一斉に窓辺へと駆け寄る。
カイウスもまた信じられないという表情で、窓枠に突き刺さった短剣を見つめていた。
「……何者だ!」
彼は窓から身を乗り出し、暗い庭園に向かって叫んだ。
俺はすでにその場にはいなかった。短剣を投げた直後、「影潜」で地面の影と同化し完全に気配を消していたのだ。
騎士たちが庭園へとなだれ込んでくるが、彼らが俺を見つけることは永遠にないだろう。
カイウスは部下が窓枠から引き抜いた短剣と、そこに添えられていた羊皮紙を食い入るように見つめていた。
短剣は見たこともない、黒曜石を思わせるような不気味な黒光りを放つ特殊な金属で作られていた。そして羊皮紙に書かれた文字。それは明らかに自分たちを挑発するような、しかし無視できない信憑性を帯びた情報だった。
「……罠、でしょうか」
レオナールが警戒した声で進言する。
「ああ、罠かもしれん」
カイウスは静かに頷いた。
「だが、この短剣……そしてこの文面。これは犯人グループの内部、あるいはそれに極めて近い者からの情報である可能性が高い。奴らの内部で仲間割れでも起きたか……あるいは……」
カイウスの脳裏に、あのダンジョンでの不可解な出来事が鮮やかに蘇った。
あの時もそうだった。絶体絶命の危機に、どこからともなく見えざる助けが現れた。
(また、お前なのか……?)
彼は暗い庭園の闇に向かって、心の中で問いかけた。
アレン・ヴァルハイト。あの底知れない少年の影が、再び彼の脳裏をよぎる。だが、彼がこんな真似をする理由がどうしても見当たらなかった。
「……カイウス様、いかがなさいますか」
カイウスは迷いを振り払うように顔を上げた。
「……行くぞ」
彼の声には確固たる決意が宿っていた。
「たとえ罠であろうと、そこに僅かでもリリアーナがいる可能性があるのなら我々は進むまでだ。精鋭部隊を再編成しろ! 目標は、西の廃墟区画、教会跡だ!」
カイウスの号令に、騎士たちが力強く応える。
こうして敵の術中にハマり、出口のない迷路を彷徨っていた騎士団は、ようやく正しい道筋へと導かれた。
だが、彼らはまだ知らない。自分たちが、見えざる脚本家の手のひらの上で踊らされているに過ぎないということを。
俺は王宮から遠く離れた教会の屋根の上で、再び月を見上げていた。
さて、王子様御一行が到着するまであと一時間といったところか。
それまでにこちらも準備を整えなければならない。
ヒーローが登場する舞台には、それに相応しい「悪役」が必要なのだから。
俺は静かに笑みを浮かべ、夜の闇へとその身を沈めていった。
カイウス・フォン・グランツは王宮の作戦司令室で、広げられた王都の地図を睨みつけながら焦燥に顔を歪めていた。
「まだ、リリアーナの居場所が掴めんのか!」
彼の怒声に、居並ぶ騎士団の幹部たちが身を縮こませる。
「はっ……申し訳ございません! しかし、情報が錯綜しておりまして……!」
側近の一人が震える声で報告する。
「東の港からは、聖女様らしき人物を乗せた船が出航したとの目撃情報が!」
「いえ、西の廃墟街で不審な集団を見たという者もおります!」
「南の商業ギルドの地下倉庫が怪しいという密告も……!」
次から次へともたらされる情報はどれも信憑性があるように見えて、その実、互いに矛盾していた。カイウスはこれが犯人グループによる巧妙な情報操作であることに気づき始めていたが、万が一の可能性を無視することもできず、貴重な戦力を各地に分散させざるを得なかった。
「くそっ……! 奴らは我々を弄んでいるのか!」
カイウスは拳で机を強く叩きつけた。彼の正義感とリリアーナを救えなかったという自責の念が、その冷静な判断力を少しずつ蝕んでいく。彼は敵が仕掛けた巨大な迷路の中で出口を見失い、ただ時間を浪費していた。
その頃、俺は王都の屋根の上、月明かりが作り出す深い影の中にいた。
俺の影分身は未だに犯人グループの一人にマーキングを続け、彼らのアジトである教会跡の地下の様子をリアルタイムで俺に送り届けている。
地下の広間ではリリアーナが祭壇のような場所に鎖で繋がれていた。彼女は意識を失っているようだが、目立った外傷はない。周囲では「黒曜石の牙」の構成員たちが作戦の成功を祝って酒盛りを始めていた。
「傑作だな! 王子様御一行は、今頃王都中を駆けずり回っていることだろうよ!」
「これも全て、我らが『蛇』の計画通りというわけだ!」
彼らの下品な笑い声が地下に響き渡る。
俺は、その光景を冷たい目で見つめていた。
(……泳がせるのは、ここまでで十分か)
アジトの場所は確定した。リリアーナの身の安全も今のところは確保されている。これ以上カイウスを無駄足させれば、彼の焦りが暴発し予測不能な行動に出るかもしれない。それでは俺の脚本に狂いが生じる。
そろそろ迷子の王子様を、正しい舞台へと導いてやる時間だ。
俺は屋根の上から静かに立ち上がった。そして闇に溶けるように、カイウスたちが司令室を構える王宮の方角へと音もなく滑空を始めた。
王宮の庭園、その最も警備が手薄になるであろう裏手の木陰。俺はそこに息を殺して潜んでいた。俺の周囲には何人もの近衛騎士が巡回しているが、彼らが俺の気配に気づくことはない。
俺は作戦司令室の窓から漏れる灯りを見つめていた。カイウスはまだあの部屋で苛立ちを募らせているはずだ。
どうやって彼に正しい情報を伝えるか。
俺自身が姿を現すのは論外だ。正体不明の協力者として情報を与えても、疑り深い彼はすぐには信じないだろう。もっと劇的で、彼の心を揺さぶり信じざるを得ないような演出が必要だ。
俺は懐から一枚の羊皮紙と小さな短剣を取り出した。そして羊皮紙に、セラから仕入れた「黒曜石の牙」の内部でしか使われない隠語をいくつか混ぜながら、簡潔にアジトの場所を記す。
『聖女は、西の廃墟区画、古い教会跡の地下にあり』
そしてその羊皮紙を、短剣の切っ先で、作戦司令室の窓枠へと突き刺すように投げつけた。
ヒュン、という鋭い風切り音。
短剣は寸分の狂いもなく、開け放たれた窓の木枠に深々と突き刺さった。羊皮紙が夜風にはためく。
「な、何だ!?」
室内にいた騎士たちが突然の出来事に驚き、一斉に窓辺へと駆け寄る。
カイウスもまた信じられないという表情で、窓枠に突き刺さった短剣を見つめていた。
「……何者だ!」
彼は窓から身を乗り出し、暗い庭園に向かって叫んだ。
俺はすでにその場にはいなかった。短剣を投げた直後、「影潜」で地面の影と同化し完全に気配を消していたのだ。
騎士たちが庭園へとなだれ込んでくるが、彼らが俺を見つけることは永遠にないだろう。
カイウスは部下が窓枠から引き抜いた短剣と、そこに添えられていた羊皮紙を食い入るように見つめていた。
短剣は見たこともない、黒曜石を思わせるような不気味な黒光りを放つ特殊な金属で作られていた。そして羊皮紙に書かれた文字。それは明らかに自分たちを挑発するような、しかし無視できない信憑性を帯びた情報だった。
「……罠、でしょうか」
レオナールが警戒した声で進言する。
「ああ、罠かもしれん」
カイウスは静かに頷いた。
「だが、この短剣……そしてこの文面。これは犯人グループの内部、あるいはそれに極めて近い者からの情報である可能性が高い。奴らの内部で仲間割れでも起きたか……あるいは……」
カイウスの脳裏に、あのダンジョンでの不可解な出来事が鮮やかに蘇った。
あの時もそうだった。絶体絶命の危機に、どこからともなく見えざる助けが現れた。
(また、お前なのか……?)
彼は暗い庭園の闇に向かって、心の中で問いかけた。
アレン・ヴァルハイト。あの底知れない少年の影が、再び彼の脳裏をよぎる。だが、彼がこんな真似をする理由がどうしても見当たらなかった。
「……カイウス様、いかがなさいますか」
カイウスは迷いを振り払うように顔を上げた。
「……行くぞ」
彼の声には確固たる決意が宿っていた。
「たとえ罠であろうと、そこに僅かでもリリアーナがいる可能性があるのなら我々は進むまでだ。精鋭部隊を再編成しろ! 目標は、西の廃墟区画、教会跡だ!」
カイウスの号令に、騎士たちが力強く応える。
こうして敵の術中にハマり、出口のない迷路を彷徨っていた騎士団は、ようやく正しい道筋へと導かれた。
だが、彼らはまだ知らない。自分たちが、見えざる脚本家の手のひらの上で踊らされているに過ぎないということを。
俺は王宮から遠く離れた教会の屋根の上で、再び月を見上げていた。
さて、王子様御一行が到着するまであと一時間といったところか。
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