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第六十五話 夜明けの別れ
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ヴォルグの巨体が轟音と共に石畳へと崩れ落ちる。その瞬間、彼が纏っていた禍々しい紫色の瘴気は霧散し、地下聖堂には本来の静寂と、そしてリリアーナが放つ聖なる光の余韻だけが残された。
俺は最後の力を振り絞って影の中へと身を沈め、その場から離脱した。激しい魔力消耗によるめまいと、ヴォルグとの死闘で負った数多の打撲が全身を軋ませる。だが、今は痛みに耐えている場合ではなかった。
俺はアジトのさらに奥、地下水道へと続く隠し通路の影の中で息を潜めていた。そこから、カイウスたちが聖堂へと駆け込んでくる気配がする。
「リリアーナ! 無事か!」
カイウスの声には安堵と、そして俺に対する複雑な感情が入り混じっていた。
「カイウス様……私は大丈夫です。ですが、クロウが……!」
リリアーナの俺を案じる声が聞こえる。
俺は、そのやり取りを背中で聞きながら静かに立ち上がった。俺の役目は終わった。これ以上彼らの前に姿を現すわけにはいかない。俺は「クロウ」という役を脱ぎ捨て、再び「アレン・ヴァルハイト」という悪役の仮面を被り直さなければならないのだ。
俺は地下水道の冷たい水の中を、音もなく進み始めた。王都の夜明けはもうすぐそこまで来ている。その光がこの地下の闇に届く前に、俺は完全に姿を消す必要があった。
カイウスはリリアーナの無事を確認すると、すぐに部下たちに指示を飛ばした。
「ヴォルグと名乗った男の身柄を確保しろ! 生死を確認し、拘束せよ! 他の賊たちも同様だ!」
「はっ!」
騎士たちが慌ただしく動き始める。
カイウスはリリアーナの隣に立ち、彼女が心配そうに見つめる聖堂の入り口の闇へと視線を向けた。
「……行ってしまったか。クロウ……」
彼の呟きには感謝と、そして拭いきれない疑念が込められていた。あの仮面の男は一体何者なのか。その圧倒的な実力、不可解な魔法、そしてなぜ自分たちを助けるのか。その全てが謎に包まれている。
「カイウス様」
リリアーナが彼の袖をそっと掴んだ。
「クロウは深手を負っていました。このままでは……」
「案ずるな」とカイウスは彼女を安心させるように、静かに首を横に振った。「あれほどの男だ。自分の身の処し方くらい心得ているだろう。我々が追うべきは彼ではない。この事件の背後にいる真の敵だ」
カイウスの瞳には王子としての新たな決意の光が宿っていた。この夜の出来事は、彼に帝国の闇の深さと、そして己の未熟さを痛いほどに思い知らせたのだ。
俺は入り組んだ地下水道を抜け、地上へと続くマンホールから夜明け前の薄紫色の空の下へと這い出した。場所は廃墟区画から数キロ離れた、人気のない倉庫街だ。
俺は仮面とマントを「影の倉庫」に収納し、あらかじめ隠しておいた平民の服に着替えた。これで俺が「クロウ」であったという証拠はどこにも残らない。
俺は壁に寄りかかり、東の空がゆっくりと白んでいくのをぼんやりと眺めていた。全身が鉛のように重い。だが、不思議と心は澄み渡っていた。
リリアーナを救うことができた。
それは俺自身の破滅フラグを回避したという、戦略的な勝利以上の何か温かい感情を俺の心にもたらしていた。
(……甘いな、俺も)
俺は自嘲するように小さく息を吐いた。
悪役は非情でなければならない。だが、俺はあの聖女の涙を見過ごすことができなかった。その甘さが、いつか俺自身の首を絞めることになるのかもしれない。
その時だった。
俺の背後からほとんど音もなく、一つの気配が近づいてきた。
俺は咄嗟に身構えた。だが、その気配に殺意がないことを悟り、動きを止める。
「……迎えが、早いじゃないか」
俺は振り返らずに言った。
そこに立っていたのは、いつの間にか侍女服に着替えたセラだった。その手には温かい湯気が立つ水筒と、清潔な布が握られている。
「……お怪我をされていると伺いましたので」
その声は平坦だったが、その奥に深い安堵と心配の色が滲んでいるのを俺は感じ取った。
「誰に聞いた」
「カイウス王子たちが無線魔道具で王宮とやり取りをしておりました。その通信を少しだけ『拝聴』させていただきました」
彼女はさらりと言ってのけた。おそらく騎士団の通信網に何らかの方法で割り込んだのだろう。彼女の持つスキルは底が知れない。
俺は何も言わずに彼女の隣に腰を下ろした。セラは黙って俺の傷の手当てを始めてくれる。温かい布で血と汚れを拭き、傷口に薬を塗っていく。その手つきはどこまでも優しかった。
俺たちはしばらく無言のまま、王都に訪れる夜明けを二人で見つめていた。
やがて太陽が地平線の向こうからその姿を現し、黄金色の光が王都の街並みを照らし始める。長かった夜が、終わりを告げた。
「……アレン様」
セラがぽつりと呟いた。
「聖女様は、救われましたね」
「ああ」と俺は答えた。「だが、戦いはまだ終わらん。むしろ始まったばかりだ」
ヴォルグは倒した。だが、「黄昏の蛇」はまだ健在だ。そして父ジークフリートの真の計画も、まだその全貌を現してはいない。
「いずれまた、会うこともあるだろう」
俺は誰に言うでもなく呟いた。
それはカイウスやリリアーナに対してか。それともまだ見ぬ敵に対してか。あるいは俺自身が演じる、もう一人の自分「クロウ」に対してか。
俺はセラが差し出してくれた水筒の温かい水を一口飲むと、静かに立ち上がった。
「帰るぞ、セラ。俺たちの『日常』へ」
「はい、アレン様」
俺たちは何事もなかったかのように、朝の光の中を歩き始めた。向かう先は王立魔法学園。そこでは退屈で、無気力な、出来損ないの悪役貴族としての日常が俺を待っている。
夜明けの光が、二人の影を長く、長く地面に伸ばしていた。
その影の濃さが、これから始まる戦いの激しさを静かに物語っているようだった。
俺は最後の力を振り絞って影の中へと身を沈め、その場から離脱した。激しい魔力消耗によるめまいと、ヴォルグとの死闘で負った数多の打撲が全身を軋ませる。だが、今は痛みに耐えている場合ではなかった。
俺はアジトのさらに奥、地下水道へと続く隠し通路の影の中で息を潜めていた。そこから、カイウスたちが聖堂へと駆け込んでくる気配がする。
「リリアーナ! 無事か!」
カイウスの声には安堵と、そして俺に対する複雑な感情が入り混じっていた。
「カイウス様……私は大丈夫です。ですが、クロウが……!」
リリアーナの俺を案じる声が聞こえる。
俺は、そのやり取りを背中で聞きながら静かに立ち上がった。俺の役目は終わった。これ以上彼らの前に姿を現すわけにはいかない。俺は「クロウ」という役を脱ぎ捨て、再び「アレン・ヴァルハイト」という悪役の仮面を被り直さなければならないのだ。
俺は地下水道の冷たい水の中を、音もなく進み始めた。王都の夜明けはもうすぐそこまで来ている。その光がこの地下の闇に届く前に、俺は完全に姿を消す必要があった。
カイウスはリリアーナの無事を確認すると、すぐに部下たちに指示を飛ばした。
「ヴォルグと名乗った男の身柄を確保しろ! 生死を確認し、拘束せよ! 他の賊たちも同様だ!」
「はっ!」
騎士たちが慌ただしく動き始める。
カイウスはリリアーナの隣に立ち、彼女が心配そうに見つめる聖堂の入り口の闇へと視線を向けた。
「……行ってしまったか。クロウ……」
彼の呟きには感謝と、そして拭いきれない疑念が込められていた。あの仮面の男は一体何者なのか。その圧倒的な実力、不可解な魔法、そしてなぜ自分たちを助けるのか。その全てが謎に包まれている。
「カイウス様」
リリアーナが彼の袖をそっと掴んだ。
「クロウは深手を負っていました。このままでは……」
「案ずるな」とカイウスは彼女を安心させるように、静かに首を横に振った。「あれほどの男だ。自分の身の処し方くらい心得ているだろう。我々が追うべきは彼ではない。この事件の背後にいる真の敵だ」
カイウスの瞳には王子としての新たな決意の光が宿っていた。この夜の出来事は、彼に帝国の闇の深さと、そして己の未熟さを痛いほどに思い知らせたのだ。
俺は入り組んだ地下水道を抜け、地上へと続くマンホールから夜明け前の薄紫色の空の下へと這い出した。場所は廃墟区画から数キロ離れた、人気のない倉庫街だ。
俺は仮面とマントを「影の倉庫」に収納し、あらかじめ隠しておいた平民の服に着替えた。これで俺が「クロウ」であったという証拠はどこにも残らない。
俺は壁に寄りかかり、東の空がゆっくりと白んでいくのをぼんやりと眺めていた。全身が鉛のように重い。だが、不思議と心は澄み渡っていた。
リリアーナを救うことができた。
それは俺自身の破滅フラグを回避したという、戦略的な勝利以上の何か温かい感情を俺の心にもたらしていた。
(……甘いな、俺も)
俺は自嘲するように小さく息を吐いた。
悪役は非情でなければならない。だが、俺はあの聖女の涙を見過ごすことができなかった。その甘さが、いつか俺自身の首を絞めることになるのかもしれない。
その時だった。
俺の背後からほとんど音もなく、一つの気配が近づいてきた。
俺は咄嗟に身構えた。だが、その気配に殺意がないことを悟り、動きを止める。
「……迎えが、早いじゃないか」
俺は振り返らずに言った。
そこに立っていたのは、いつの間にか侍女服に着替えたセラだった。その手には温かい湯気が立つ水筒と、清潔な布が握られている。
「……お怪我をされていると伺いましたので」
その声は平坦だったが、その奥に深い安堵と心配の色が滲んでいるのを俺は感じ取った。
「誰に聞いた」
「カイウス王子たちが無線魔道具で王宮とやり取りをしておりました。その通信を少しだけ『拝聴』させていただきました」
彼女はさらりと言ってのけた。おそらく騎士団の通信網に何らかの方法で割り込んだのだろう。彼女の持つスキルは底が知れない。
俺は何も言わずに彼女の隣に腰を下ろした。セラは黙って俺の傷の手当てを始めてくれる。温かい布で血と汚れを拭き、傷口に薬を塗っていく。その手つきはどこまでも優しかった。
俺たちはしばらく無言のまま、王都に訪れる夜明けを二人で見つめていた。
やがて太陽が地平線の向こうからその姿を現し、黄金色の光が王都の街並みを照らし始める。長かった夜が、終わりを告げた。
「……アレン様」
セラがぽつりと呟いた。
「聖女様は、救われましたね」
「ああ」と俺は答えた。「だが、戦いはまだ終わらん。むしろ始まったばかりだ」
ヴォルグは倒した。だが、「黄昏の蛇」はまだ健在だ。そして父ジークフリートの真の計画も、まだその全貌を現してはいない。
「いずれまた、会うこともあるだろう」
俺は誰に言うでもなく呟いた。
それはカイウスやリリアーナに対してか。それともまだ見ぬ敵に対してか。あるいは俺自身が演じる、もう一人の自分「クロウ」に対してか。
俺はセラが差し出してくれた水筒の温かい水を一口飲むと、静かに立ち上がった。
「帰るぞ、セラ。俺たちの『日常』へ」
「はい、アレン様」
俺たちは何事もなかったかのように、朝の光の中を歩き始めた。向かう先は王立魔法学園。そこでは退屈で、無気力な、出来損ないの悪役貴族としての日常が俺を待っている。
夜明けの光が、二人の影を長く、長く地面に伸ばしていた。
その影の濃さが、これから始まる戦いの激しさを静かに物語っているようだった。
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