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第六十六話 残された謎
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聖女誘拐事件の顛末は、王都を駆け巡る一大ニュースとなった。
公式発表はこうだった。『第一王子カイウス殿下率いる帝国騎士団の迅速かつ果敢な活躍により、聖女リリアーナ様は無事救出。誘拐を企てた反社会的ギルド『黒曜石の牙』は壊滅し、首謀者は討ち取られた』と。
カイウスの名声はこの一件で天を突く勢いとなった。民衆は若き英雄の誕生に熱狂し、その姿に帝国の輝かしい未来を夢見た。
その裏側で、謎の協力者「クロウ」の存在が語られることは決してなかった。カイウスは王家と騎士団の上層部にだけ彼の存在を極秘に報告したが、その正体は誰も掴むことができず、事件は公式記録上「カイウス王子の単独の功績」として処理された。
学園に戻った俺は、再び完璧な「無能な悪役」へと戻っていた。
事件について友人たちが興奮気味に語り合うのを、俺はつまらなそうに耳をほじりながら聞いている。
「カイウス様は本当にすごいよな! まるで物語の英雄だ!」
「聖女様もお怪我がなくて本当に良かったわ……」
そんな会話の中心で、当事者であるカイウスとリリアーナはどこか浮かない表情をしていた。
カイウスは手に入れた名声とは裏腹に、自身の未熟さを痛感していた。あの「クロウ」という男がいなければ自分たちは全滅していたかもしれない。その事実が彼のプライドに重くのしかかっていた。彼は以前にも増して訓練に打ち込むようになり、その眼差しには見えざる好敵手への静かな闘志が燃えていた。
そしてリリアーナ。彼女の変化はさらに顕著だった。
彼女は事件以来、以前にも増して俺のことを遠巻きに観察するようになった。だが、その瞳に宿るのはもはや単なる疑念や好奇心ではない。もっと深く複雑な感情が渦巻いていた。
彼女の心の中では、二つの相反するイメージが激しくぶつかり合っていたのだ。
一人はアレン・フォン・ヴァルハイト。冷酷で傲慢で、人の心を平気で踏みにじる最低の悪党。
もう一人は「クロウ」。圧倒的な実力を持ちながら決して表舞台には立たず、影の中から命懸けで自分を救ってくれた謎の守護者。
この二人が同一人物であるはずがない。だが、彼女の魂は二人の間に存在する奇妙な「繋がり」を確かに感じ取っていたのだ。クロウが最後に放った、あの闇を凝縮したかのような剣技。それはアレンが持つ「忌み属性」の影魔法とどこか似ていた気がする。そしてクロウの声。変声魔道具で変えられてはいたが、その響きの奥にある何かがアレンのそれと重なって聞こえた。
彼女は誰にも言えない秘密のパズルを、たった一人で解こうとしていた。
その日の放課後、俺がいつものように図書館で本を読んでいると、リリアーナが意を決したように俺のテーブルの前に立った。
俺は顔を上げず、本に視線を落としたまま冷たく言った。
「……また来たのか、聖女様。俺の顔を見ないと一日が始まらないとでも?」
「……お話があります」
彼女の声は硬かった。
俺は面倒くさそうに本を閉じ、椅子に深くもたれかかった。
「手短に頼む。お前の説教を聞いているほど俺は暇じゃない」
リリアーナは俺の挑発的な態度にも怯まず、まっすぐに俺の目を見据えた。
「……クロウという方を、ご存知ですか」
その名を聞いた瞬間、俺の心の奥がわずかに緊張した。だが、表情には一切出さない。
俺は心底から馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
「クロウ? カラスのことか? 知らんな。鳥の生態にまで興味はないんでね」
「とぼけないでください!」
リリアーナは珍しく声を荒げた。
「彼は私を救ってくれた恩人です。そして……私は彼の戦い方をこの目で見ました」
彼女は一歩俺に近づいた。
「彼の使う力は影を操る、とても特殊なものでした。それはあなたの持つ『影魔法』と何か関係があるのではないですか?」
核心を突く質問。だが、俺は動じない。
俺は大げさに肩をすくめてみせた。
「はっ。なるほどな。俺と同じ忌み属性の影魔法使いがいたと。それでそいつが聖女様を助けたから、俺にも何か関係があるんじゃないかとそう言いたいわけか。随分と短絡的な思考回路だな、聖女様は」
俺は立ち上がり、彼女の耳元で囁いた。
「いいか。影魔法使いなんてものは、帝国のどこを探したって俺一人だ。もし他にいるとすれば、それは帝国の法を無視して禁忌の魔法を研究している危険な闇の魔法使いだろうさ」
俺はわざと「クロウ」を危険人物であるかのように印象操作する。
「そんな正体不明の男に聖女様が感謝なさるとはな。奴があの賊たちと同じ裏社会の人間だという可能性は考えないのか? 目的は聖女様を救うことではなく、ただの仲間割れだったのかもしれんぞ」
「……!」
俺の言葉はリリアーナの純粋な心を巧みに揺さぶった。彼女はクロウが絶対的な善の存在であると信じて疑っていなかったからだ。
「そんな……はずは……」
「いずれにせよ、俺には関係のないことだ。俺は事件の間、この学園の図書館で退屈な本を読んでいただけだ。それとも俺がその時間に抜け出したとでもいう証拠でもあるのか?」
俺には完璧なアリバイがある。学園の複数の教師や生徒が、事件の間俺が図書館にいたことを「目撃」しているのだから。もちろん、それは全て俺の影分身が見せた幻影に過ぎないのだが。
リリアーナは何も言い返せなかった。証拠はない。あるのは彼女の直感と、状況証拠にも満たないいくつかの些細な符合だけ。
彼女は悔しそうに唇を噛み締めた。
俺はそんな彼女に背を向け、図書館の出口へと向かった。
「もう俺に付きまとうのはやめろ。お前のそのしつこさは美徳ではなく、ただの迷惑だ」
その冷たい言葉を残し、俺は彼女の前から姿を消した。
一人残されたリリアーナは、その場に立ち尽くしていた。
彼女の心は晴れるどころか、さらに深い霧の中へと迷い込んでしまった。
だが、彼女は諦めてはいなかった。
(……分かったわ、アレン様)
彼女は静かに決意を固めていた。
(あなたが口を閉ざし続けるというのなら……私は私自身の力で、真実を掴み取ってみせる)
彼女は聖女としてではない、リリアーナ・フォン・シルフィードという一人の少女として独自に調査を開始することを決意したのだ。
それは彼女をさらなる危険へと導く茨の道。
そして俺の計画に、また一つ予測不能な変数を加えることになる新たな嵐の予兆だった。
俺たちの奇妙な追いかけっこは、まだ始まったばかりだった。
公式発表はこうだった。『第一王子カイウス殿下率いる帝国騎士団の迅速かつ果敢な活躍により、聖女リリアーナ様は無事救出。誘拐を企てた反社会的ギルド『黒曜石の牙』は壊滅し、首謀者は討ち取られた』と。
カイウスの名声はこの一件で天を突く勢いとなった。民衆は若き英雄の誕生に熱狂し、その姿に帝国の輝かしい未来を夢見た。
その裏側で、謎の協力者「クロウ」の存在が語られることは決してなかった。カイウスは王家と騎士団の上層部にだけ彼の存在を極秘に報告したが、その正体は誰も掴むことができず、事件は公式記録上「カイウス王子の単独の功績」として処理された。
学園に戻った俺は、再び完璧な「無能な悪役」へと戻っていた。
事件について友人たちが興奮気味に語り合うのを、俺はつまらなそうに耳をほじりながら聞いている。
「カイウス様は本当にすごいよな! まるで物語の英雄だ!」
「聖女様もお怪我がなくて本当に良かったわ……」
そんな会話の中心で、当事者であるカイウスとリリアーナはどこか浮かない表情をしていた。
カイウスは手に入れた名声とは裏腹に、自身の未熟さを痛感していた。あの「クロウ」という男がいなければ自分たちは全滅していたかもしれない。その事実が彼のプライドに重くのしかかっていた。彼は以前にも増して訓練に打ち込むようになり、その眼差しには見えざる好敵手への静かな闘志が燃えていた。
そしてリリアーナ。彼女の変化はさらに顕著だった。
彼女は事件以来、以前にも増して俺のことを遠巻きに観察するようになった。だが、その瞳に宿るのはもはや単なる疑念や好奇心ではない。もっと深く複雑な感情が渦巻いていた。
彼女の心の中では、二つの相反するイメージが激しくぶつかり合っていたのだ。
一人はアレン・フォン・ヴァルハイト。冷酷で傲慢で、人の心を平気で踏みにじる最低の悪党。
もう一人は「クロウ」。圧倒的な実力を持ちながら決して表舞台には立たず、影の中から命懸けで自分を救ってくれた謎の守護者。
この二人が同一人物であるはずがない。だが、彼女の魂は二人の間に存在する奇妙な「繋がり」を確かに感じ取っていたのだ。クロウが最後に放った、あの闇を凝縮したかのような剣技。それはアレンが持つ「忌み属性」の影魔法とどこか似ていた気がする。そしてクロウの声。変声魔道具で変えられてはいたが、その響きの奥にある何かがアレンのそれと重なって聞こえた。
彼女は誰にも言えない秘密のパズルを、たった一人で解こうとしていた。
その日の放課後、俺がいつものように図書館で本を読んでいると、リリアーナが意を決したように俺のテーブルの前に立った。
俺は顔を上げず、本に視線を落としたまま冷たく言った。
「……また来たのか、聖女様。俺の顔を見ないと一日が始まらないとでも?」
「……お話があります」
彼女の声は硬かった。
俺は面倒くさそうに本を閉じ、椅子に深くもたれかかった。
「手短に頼む。お前の説教を聞いているほど俺は暇じゃない」
リリアーナは俺の挑発的な態度にも怯まず、まっすぐに俺の目を見据えた。
「……クロウという方を、ご存知ですか」
その名を聞いた瞬間、俺の心の奥がわずかに緊張した。だが、表情には一切出さない。
俺は心底から馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
「クロウ? カラスのことか? 知らんな。鳥の生態にまで興味はないんでね」
「とぼけないでください!」
リリアーナは珍しく声を荒げた。
「彼は私を救ってくれた恩人です。そして……私は彼の戦い方をこの目で見ました」
彼女は一歩俺に近づいた。
「彼の使う力は影を操る、とても特殊なものでした。それはあなたの持つ『影魔法』と何か関係があるのではないですか?」
核心を突く質問。だが、俺は動じない。
俺は大げさに肩をすくめてみせた。
「はっ。なるほどな。俺と同じ忌み属性の影魔法使いがいたと。それでそいつが聖女様を助けたから、俺にも何か関係があるんじゃないかとそう言いたいわけか。随分と短絡的な思考回路だな、聖女様は」
俺は立ち上がり、彼女の耳元で囁いた。
「いいか。影魔法使いなんてものは、帝国のどこを探したって俺一人だ。もし他にいるとすれば、それは帝国の法を無視して禁忌の魔法を研究している危険な闇の魔法使いだろうさ」
俺はわざと「クロウ」を危険人物であるかのように印象操作する。
「そんな正体不明の男に聖女様が感謝なさるとはな。奴があの賊たちと同じ裏社会の人間だという可能性は考えないのか? 目的は聖女様を救うことではなく、ただの仲間割れだったのかもしれんぞ」
「……!」
俺の言葉はリリアーナの純粋な心を巧みに揺さぶった。彼女はクロウが絶対的な善の存在であると信じて疑っていなかったからだ。
「そんな……はずは……」
「いずれにせよ、俺には関係のないことだ。俺は事件の間、この学園の図書館で退屈な本を読んでいただけだ。それとも俺がその時間に抜け出したとでもいう証拠でもあるのか?」
俺には完璧なアリバイがある。学園の複数の教師や生徒が、事件の間俺が図書館にいたことを「目撃」しているのだから。もちろん、それは全て俺の影分身が見せた幻影に過ぎないのだが。
リリアーナは何も言い返せなかった。証拠はない。あるのは彼女の直感と、状況証拠にも満たないいくつかの些細な符合だけ。
彼女は悔しそうに唇を噛み締めた。
俺はそんな彼女に背を向け、図書館の出口へと向かった。
「もう俺に付きまとうのはやめろ。お前のそのしつこさは美徳ではなく、ただの迷惑だ」
その冷たい言葉を残し、俺は彼女の前から姿を消した。
一人残されたリリアーナは、その場に立ち尽くしていた。
彼女の心は晴れるどころか、さらに深い霧の中へと迷い込んでしまった。
だが、彼女は諦めてはいなかった。
(……分かったわ、アレン様)
彼女は静かに決意を固めていた。
(あなたが口を閉ざし続けるというのなら……私は私自身の力で、真実を掴み取ってみせる)
彼女は聖女としてではない、リリアーナ・フォン・シルフィードという一人の少女として独自に調査を開始することを決意したのだ。
それは彼女をさらなる危険へと導く茨の道。
そして俺の計画に、また一つ予測不能な変数を加えることになる新たな嵐の予兆だった。
俺たちの奇妙な追いかけっこは、まだ始まったばかりだった。
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