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第9話:師匠と呼ばないでくれ
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俺はカモミールの群生地で、黙々と白い花を摘んでいた。
背後でガサガサと草を踏む音がする。振り返るまでもなく、先程の冒険者の少女、リリアが追ってきたのだと分かった。面倒なことになった、という思いが全身に重くのしかかる。
「はぁ…はぁ…追いつきました…!」
息を切らしながら俺の隣に立ったリリアは、革鎧に泥をつけ、額には汗を滲ませていた。それでもその瞳は、獲物を見つけた狩人のように爛々と輝いている。
「あの…先程は本当にありがとうございました! あなたがいなければ、私は今頃あの猪の餌食に…」
「礼はいらん。俺も、たまたま通りかかっただけだ」
俺は視線を合わせずに、ぶっきらぼうに答えた。関わり合いになれば、さらに面倒なことになる。早くこの場を立ち去りたい。その一心だった。
「たまたま、ですって? そんなはずありません!」
リリアは声を大きくして反論した。
「あの動き…! 石ころ一つで完璧に注意を引きつけ、音もなく背後に回り込み、ただの木の枝で巨大なフォレストボアを一撃で…。あんなの、ただの偶然でできることじゃありません! あれは、千回、一万回と修練を積んだ達人だけの神業です!」
彼女は興奮で頬を紅潮させながら、身振り手振りを交えて力説する。その目は純粋な尊敬と憧れに満ちていた。だが、俺にしてみれば過大評価も甚だしい。
注意を引いたのは、猪の意識が完全に彼女に向いていたからだ。背後に回れたのは、猪の聴覚の死角を知っていたからだ。一撃で倒せたのは、弱点の位置と、そこを貫くために必要な最低限の力を知っていたからだ。全ては知識と経験に基づいた、ただの効率的な作業に過ぎない。神業などという大層なものでは断じてなかった。
「買いかぶりだ。俺はただの農夫だ。畑を耕して静かに暮らしている」
「嘘です! 農夫が、あんな殺人的な体捌きができるわけないじゃないですか!」
「…………」
殺人的、という言葉に俺の眉がぴくりと動く。どうやらこの少女、見た目によらず物事の本質を見る目があるらしい。ますます面倒だ。
俺は会話を打ち切るため、十分に摘み終えたカモミールを籠にまとめ、立ち上がった。
「用が済んだなら、俺は帰る」
俺が背を向けて歩き出そうとすると、リリアは慌てて俺の前に回り込み、その場に膝をついた。そして、深々と頭を下げた。
「お願いします! 私を、弟子にしてください!」
どさりと地面に膝をつく音が、静かな森に響いた。
俺は思わず足を止め、眉間に深い皺を刻んだ。
弟子。その言葉は、俺の辞書に存在しない単語だった。師もいなければ、弟子もいない。それが俺の生きてきた世界の掟だ。誰かを教え導くなど、考えたこともない。
「断る」
俺は間髪入れずに、冷たく言い放った。
「俺は誰かに何かを教えるつもりはない。人違いだ」
「人違いじゃありません! 私は、強くなりたいんです!」
リリアは顔を上げ、食い下がる。その瞳は涙で潤んでいたが、その奥には鉄のように固い意志の光が宿っていた。
「私は、大切なものを守れるくらい、強くなりたい。でも、私には才能も、正しい導き手もいない。このままじゃ、いつか今日みたいに、あっけなく死ぬだけです。だから…お願いします! あなたのその技を、ほんの少しでもいいから教えてください!」
その言葉は、あまりにも真っ直ぐで、純粋だった。
俺が裏社会で見てきた、欲望や嫉妬にまみれた強さへの渇望とは全く違う。彼女が求めるのは、誰かを守るための力。俺がかつて、最も効率的に奪ってきたものを、彼女は守りたいと願っている。
眩しかった。
その純粋さが、闇の中で生きてきた俺の目にはあまりに眩しすぎた。
一瞬、心が揺らぐ。だが、すぐに首を振ってその感情を打ち消した。駄目だ。情に流されれば、ろくなことにならない。俺の平穏が、さらに遠のくだけだ。
「諦めろ。俺にお前を強くすることはできない」
「そんなことありません! あなたなら、できるはずです!」
「しつこいな。俺は農夫だと言っているだろう」
俺が突き放しても、リリアは諦めなかった。それどころか、彼女は何かを閃いたように、ぱっと顔を輝かせた。
「そうか…! そうですよね! あなたは正体を隠して、この辺境の地で隠遁生活を送っているんですよね! 分かりました、あなたの素性は誰にも言いません! だから、どうか!」
「…………」
話が全く噛み合わない。それどころか、彼女の中でどんどん都合の良い物語が組み上がっていく。俺は頭が痛くなるのを感じた。
どうすれば諦めてくれるんだ。
力ずくで追い払うか? いや、少女相手にそれはできない。
無視して立ち去るか? おそらく、家までついてくるだろう。
俺は静かに天を仰いだ。
リリアの目は、まるで捨てられた子犬のように、俺をじっと見つめている。この純粋な瞳に、冷酷な言葉を浴びせ続けるのは、思った以上に骨が折れる作業だった。
仕方ない。
何か、適当なことを言って煙に巻くしかない。
俺は大きなため息をつくと、諦めたように口を開いた。
「…強くなりたい、か」
「はい!」
リリアの顔が期待に輝く。
「ならば、まずは自分の足元をよく見ることだ」
俺はそう言って、自分の足元にある雑草を指差した。
「この草は、なぜここに生えている? どうすれば、効率よく取り除ける? 全ての物事には、理屈がある。それを理解せずして、力だけを求めても意味はない」
それは、俺が日々の畑仕事で感じている、ごく当たり前のことだった。だが、リリアの耳には全く違う意味で届いたようだった。
「足元を見る…基礎が大事、ということですね! そして、物事の理を理解しろと…! 深い…!」
彼女はぶつぶつと何かを呟き、俺の言葉を懸命に反芻している。
俺は畳み掛けるように続けた。
「それから、無駄な動きは疲れるだけだ。一つの動きで、一つの目的を果たす。それだけを考えろ」
これも、農作業の極意だ。最小の労力で、最大の成果を得る。俺の体捌きの基本でもある。
リリアは、はっと目を見開いた。
「無駄な動きは疲れるだけ…! そうか、あなたのあの洗練された動きは、その思想を突き詰めた結果だったんですね! 一挙手一投足に、意味がある…!」
勝手に納得し、感動している。
俺はもう、何も言う気が失せた。
「分かったなら、もういいだろう。俺は帰る」
俺がそう言って歩き出すと、リリアは慌てて立ち上がり、再び俺の前に立った。だが今度は、弟子入りを懇願するのではなく、決意に満ちた晴れやかな表情をしていた。
「はい! ありがとうございます、師匠!」
「…師匠と呼ぶな」
「分かりました、師匠! 今日の教え、胸に刻みます! 明日から、よろしくお願いします!」
彼女はそう言うと、満面の笑みで深々と一礼し、スキップでもしそうな軽い足取りで森の出口へと駆けて行った。
一人残された俺は、その場に立ち尽くした。
「……話を聞いていたのか、あいつは」
俺の呟きは、誰に聞かれることもなく、森の静寂に吸い込まれていった。
適当にあしらうつもりが、最悪の形で燃料を投下してしまったらしい。
明日から、か。
俺は重い足取りで家路についた。自分の家の玄関が、かつてないほど恐ろしい場所に思えた。
俺の平穏なスローライフは、どうやら前途多難らしい。
背後でガサガサと草を踏む音がする。振り返るまでもなく、先程の冒険者の少女、リリアが追ってきたのだと分かった。面倒なことになった、という思いが全身に重くのしかかる。
「はぁ…はぁ…追いつきました…!」
息を切らしながら俺の隣に立ったリリアは、革鎧に泥をつけ、額には汗を滲ませていた。それでもその瞳は、獲物を見つけた狩人のように爛々と輝いている。
「あの…先程は本当にありがとうございました! あなたがいなければ、私は今頃あの猪の餌食に…」
「礼はいらん。俺も、たまたま通りかかっただけだ」
俺は視線を合わせずに、ぶっきらぼうに答えた。関わり合いになれば、さらに面倒なことになる。早くこの場を立ち去りたい。その一心だった。
「たまたま、ですって? そんなはずありません!」
リリアは声を大きくして反論した。
「あの動き…! 石ころ一つで完璧に注意を引きつけ、音もなく背後に回り込み、ただの木の枝で巨大なフォレストボアを一撃で…。あんなの、ただの偶然でできることじゃありません! あれは、千回、一万回と修練を積んだ達人だけの神業です!」
彼女は興奮で頬を紅潮させながら、身振り手振りを交えて力説する。その目は純粋な尊敬と憧れに満ちていた。だが、俺にしてみれば過大評価も甚だしい。
注意を引いたのは、猪の意識が完全に彼女に向いていたからだ。背後に回れたのは、猪の聴覚の死角を知っていたからだ。一撃で倒せたのは、弱点の位置と、そこを貫くために必要な最低限の力を知っていたからだ。全ては知識と経験に基づいた、ただの効率的な作業に過ぎない。神業などという大層なものでは断じてなかった。
「買いかぶりだ。俺はただの農夫だ。畑を耕して静かに暮らしている」
「嘘です! 農夫が、あんな殺人的な体捌きができるわけないじゃないですか!」
「…………」
殺人的、という言葉に俺の眉がぴくりと動く。どうやらこの少女、見た目によらず物事の本質を見る目があるらしい。ますます面倒だ。
俺は会話を打ち切るため、十分に摘み終えたカモミールを籠にまとめ、立ち上がった。
「用が済んだなら、俺は帰る」
俺が背を向けて歩き出そうとすると、リリアは慌てて俺の前に回り込み、その場に膝をついた。そして、深々と頭を下げた。
「お願いします! 私を、弟子にしてください!」
どさりと地面に膝をつく音が、静かな森に響いた。
俺は思わず足を止め、眉間に深い皺を刻んだ。
弟子。その言葉は、俺の辞書に存在しない単語だった。師もいなければ、弟子もいない。それが俺の生きてきた世界の掟だ。誰かを教え導くなど、考えたこともない。
「断る」
俺は間髪入れずに、冷たく言い放った。
「俺は誰かに何かを教えるつもりはない。人違いだ」
「人違いじゃありません! 私は、強くなりたいんです!」
リリアは顔を上げ、食い下がる。その瞳は涙で潤んでいたが、その奥には鉄のように固い意志の光が宿っていた。
「私は、大切なものを守れるくらい、強くなりたい。でも、私には才能も、正しい導き手もいない。このままじゃ、いつか今日みたいに、あっけなく死ぬだけです。だから…お願いします! あなたのその技を、ほんの少しでもいいから教えてください!」
その言葉は、あまりにも真っ直ぐで、純粋だった。
俺が裏社会で見てきた、欲望や嫉妬にまみれた強さへの渇望とは全く違う。彼女が求めるのは、誰かを守るための力。俺がかつて、最も効率的に奪ってきたものを、彼女は守りたいと願っている。
眩しかった。
その純粋さが、闇の中で生きてきた俺の目にはあまりに眩しすぎた。
一瞬、心が揺らぐ。だが、すぐに首を振ってその感情を打ち消した。駄目だ。情に流されれば、ろくなことにならない。俺の平穏が、さらに遠のくだけだ。
「諦めろ。俺にお前を強くすることはできない」
「そんなことありません! あなたなら、できるはずです!」
「しつこいな。俺は農夫だと言っているだろう」
俺が突き放しても、リリアは諦めなかった。それどころか、彼女は何かを閃いたように、ぱっと顔を輝かせた。
「そうか…! そうですよね! あなたは正体を隠して、この辺境の地で隠遁生活を送っているんですよね! 分かりました、あなたの素性は誰にも言いません! だから、どうか!」
「…………」
話が全く噛み合わない。それどころか、彼女の中でどんどん都合の良い物語が組み上がっていく。俺は頭が痛くなるのを感じた。
どうすれば諦めてくれるんだ。
力ずくで追い払うか? いや、少女相手にそれはできない。
無視して立ち去るか? おそらく、家までついてくるだろう。
俺は静かに天を仰いだ。
リリアの目は、まるで捨てられた子犬のように、俺をじっと見つめている。この純粋な瞳に、冷酷な言葉を浴びせ続けるのは、思った以上に骨が折れる作業だった。
仕方ない。
何か、適当なことを言って煙に巻くしかない。
俺は大きなため息をつくと、諦めたように口を開いた。
「…強くなりたい、か」
「はい!」
リリアの顔が期待に輝く。
「ならば、まずは自分の足元をよく見ることだ」
俺はそう言って、自分の足元にある雑草を指差した。
「この草は、なぜここに生えている? どうすれば、効率よく取り除ける? 全ての物事には、理屈がある。それを理解せずして、力だけを求めても意味はない」
それは、俺が日々の畑仕事で感じている、ごく当たり前のことだった。だが、リリアの耳には全く違う意味で届いたようだった。
「足元を見る…基礎が大事、ということですね! そして、物事の理を理解しろと…! 深い…!」
彼女はぶつぶつと何かを呟き、俺の言葉を懸命に反芻している。
俺は畳み掛けるように続けた。
「それから、無駄な動きは疲れるだけだ。一つの動きで、一つの目的を果たす。それだけを考えろ」
これも、農作業の極意だ。最小の労力で、最大の成果を得る。俺の体捌きの基本でもある。
リリアは、はっと目を見開いた。
「無駄な動きは疲れるだけ…! そうか、あなたのあの洗練された動きは、その思想を突き詰めた結果だったんですね! 一挙手一投足に、意味がある…!」
勝手に納得し、感動している。
俺はもう、何も言う気が失せた。
「分かったなら、もういいだろう。俺は帰る」
俺がそう言って歩き出すと、リリアは慌てて立ち上がり、再び俺の前に立った。だが今度は、弟子入りを懇願するのではなく、決意に満ちた晴れやかな表情をしていた。
「はい! ありがとうございます、師匠!」
「…師匠と呼ぶな」
「分かりました、師匠! 今日の教え、胸に刻みます! 明日から、よろしくお願いします!」
彼女はそう言うと、満面の笑みで深々と一礼し、スキップでもしそうな軽い足取りで森の出口へと駆けて行った。
一人残された俺は、その場に立ち尽くした。
「……話を聞いていたのか、あいつは」
俺の呟きは、誰に聞かれることもなく、森の静寂に吸い込まれていった。
適当にあしらうつもりが、最悪の形で燃料を投下してしまったらしい。
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