「お前の戦い方は地味すぎる」とギルドをクビになったおっさん、その正体は大陸を震撼させた伝説の暗殺者。

夏見ナイ

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第65-66話:隣国の密偵

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王女エリアーナがカーム村に滞在を始めてから、半月が過ぎた。
俺と彼女の関係は相変わらず平行線を辿っていた。彼女は毎日俺の元へやって来ては、様々な角度から俺を説得しようと試みる。俺は、その全てをのらりくらりとかわし続ける。その奇妙な攻防戦は、もはや村の名物となりつつあった。

だが、この異常な状況は当然ながら国外の勢力にも知れ渡っていた。
アステリア王国の第一王女が、長期にわたって辺境の村に滞在している。
その目的は、吟遊詩人が歌う伝説の賢者「農夫アラン」をスカウトするためである、と。
この情報は様々な尾ひれがつき、隣国である軍事大国「ガルニア帝国」の諜報機関の耳にも、当然届いていた。

帝国にとって、アステリア王国は長年の仮想敵国だ。
その王国が、一個人で軍隊に匹敵するとも噂される謎の超人を味方に引き入れようとしている。
この動きを帝国が座視しているはずがなかった。

帝国皇帝直属の諜報機関「黒蠍(ブラック・スコーピオン)」。
その長官は、皇帝にこう進言した。
「陛下。アステリアの動きは我が国の安全保障に対する明らかな脅威です。かの『農夫アラン』なる人物、もし噂が真実であれば、我々が先に確保すべきです。あるいは、それが叶わぬのなら…」
長官はそこで言葉を区切り、冷酷な目で続けた。
「…暗殺すべきです。アステリアの手に渡る前に」

皇帝の勅命は、すぐさま下された。
「黒蠍」の中でも潜入と暗殺において右に出る者はいないと言われる、最高の密偵がカーム村へと派遣されることになった。

その男の名は、ジン。
影のように気配を消し、どんな厳重な警備も突破する。その技術から「無貌(フェイスレス)」の異名を持つ男だった。
彼の任務は、まず対象の実力と正体を正確に見極め、可能であればスカウト、不可能と判断した場合は即座に暗殺するという、極めて難易度の高いものだった。


ジンは夜を待った。
新月の、闇が最も深くなる時間。彼はまるで闇に溶け込むかのように、音もなく、気配もなく、丘の上の俺の家へと近づいていった。
エリアーナ王女の近衛騎士たちが張り巡らせた厳重な警備網。だが、ジンの前ではそれはザルに等しかった。彼は、騎士たちの呼吸の僅かな間隔を読み、その死角を完璧に通り抜けていく。

ついに、彼は俺の家の壁に音もなく張り付いた。
(ここまでは、赤子の手をひねるようなものだ)
ジンは内心でそう呟いた。
問題はここからだ。対象は本当に伝説級の傑物なのか。それとも、ただの誇張された農夫なのか。

彼は、まず家の周囲を慎重に観察し始めた。
そして、すぐに異変に気づいた。
この家は一見するとただの農家だ。だが、その配置、構造、そして周囲の環境があまりにも異常だった。

家の北側には、薪が無造作に積まれているように見える。
だが、その積み方は絶妙なバランスで成り立っており、特定の箇所に僅かな衝撃を与えれば、雪崩のように崩れ落ちるように計算されていた。それは、侵入者の退路を塞ぐ見事なトラップだった。

家の西側、窓の下には可愛らしい花壇がある。
だが、そこに植えられている植物は、夜になると甘い香りで虫を誘い、その蜜に触れたものを麻痺させる強力な毒性を持つ夜香花(ナイトリリー)だった。無知な侵入者が窓から侵入しようとすれば、知らぬ間に神経を侵されるだろう。

そして、家の入り口へと続く何気ない石畳の小道。
その石の配置は不規則に見えて、人間の歩幅と重心移動を計算し尽くされていた。特定の順番で石を踏まなければ必ずバランスを崩して転倒し、大きな音を立ててしまう巧妙な警報装置の役割を果たしていた。

(…なんだ、これは…)
ジンの額に、冷たい汗が滲んだ。
薪置き場、花壇、石畳。
それら全てが、この家に住む人間のごく自然な生活動線上にありながら、同時に侵入者を排除するための完璧な防衛網として機能している。
これは、偶然ではない。
この家に住む人間が、無意識のうちに、あるいは全てを計算した上で、自らの住処を要塞へと作り変えているのだ。

(…本物か)
ジンはゴクリと唾を飲んだ。
彼の心に、初めて恐怖に近い感情が芽生えた。
彼は、それでも任務を遂行するべく、家の屋根へと音もなく登った。屋根裏から侵入するつもりだ。

だが、彼が屋根瓦に手をかけた、その瞬間。
ギィ、と、家の玄関の扉がゆっくりと開いた。
ジンは、反射的に屋根の影に身を隠す。

扉から出てきたのは、ターゲットであるアランだった。
彼は寝間着姿のまま、ぼんやりとした顔で夜空を見上げている。
「…ふぅ。少し夜風にあたるか」

俺は縁側に腰を下ろすと、懐から小さな木彫りの人形を取り出し、ナイフで削り始めた。
それは最近始めた趣味だった。ティムのような村の子供たちに時々作ってやると、喜ぶのだ。
シャッ、シャッ、と、木を削る静かな音だけが響く。

屋根の上でジンは息を殺していた。
(…何をしているんだ、この男は。こんな真夜中に人形作りだと?)
彼の行動は、あまりに不可解で日常的すぎた。

だが、ジンはすぐにその異常さに気づいた。
アランのナイフ捌き。
それは、ただの人形作りではなかった。
ナイフの動きは最小限でありながら、一切の無駄がない。まるで熟練の外科医が手術を行うかのように正確で、洗練されている。
そして何より、彼が木を削る音。
それは常に一定のリズムを刻みながらも、時折、不規則な音を混ぜていた。
その不規則な音が、周囲の虫の音や風の音と完璧に同調し、彼の存在そのものを夜の風景に溶け込ませていたのだ。

(…これは、擬態だ)
ジンは戦慄した。
(彼は、人形作りという日常的な行為をしながら、同時に周囲の環境と一体化し、自らの気配を完全に遮断している。これは俺の知るどんな隠密術よりも高度で、そして異質だ…!)

ジンはもはやアランに近づくことさえ不可能だと悟った。
自分が屋根の上にいることなど、とっくに気づかれているに違いない。
そして、この人形作りに見せかけた擬態は、自分に対する無言の警告なのだ、と。
『お前の隠密術など、俺の前では児戯に等しい』
そう言われているかのような。

帝国最高の密偵のプライドは、粉々に打ち砕かれた。
彼は戦う前に、完全に敗北していた。

ジンは、アランが家の中に戻るのを待つと、来た時よりもさらに慎重に、まるで亡霊のようにその場を離れた。
彼の心は、完全に折れていた。
この任務は、自分の手に負えるものではない。

帝国最高の密偵「無貌」のジン。
彼の任務は、ターゲットに一度も接触することなく、ただ家の周りと人形作りを眺めただけで、完膚なきまでに敗れ去ったのだった。
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