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第72話:王女の新たな提案
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俺の堪忍袋の緒が音を立てて切れかかっている、その日の夕暮れ時。
家の扉が控えめに、しかし確かな意思を持ってノックされた。
俺は「また観光客か!」と苛立ちながら、乱暴に扉を開けた。
だが、そこに立っていたのはツアーガイドでも、熱狂的な巡礼者でもなかった。
王女エリアーナが侍女のリナだけを連れて、静かに佇んでいた。
その顔にはいつもの穏やかな笑みはなく、代わりに俺の苦悩を理解しているかのような、同情と、そして真剣な色が浮かんでいた。
「…何の用だ。見ての通り、俺は今、虫の居所が悪い」
俺は八つ当たりに近い、刺々しい口調で言った。
だが、エリアーナはそれに怯むことなく、静かに一礼した。
「お気持ちはお察しいたします、アラン殿。わたくしたち王家がもっと早く手を打つべきでした。商業ギルドの暴走、誠に申し訳ありません」
その真摯な謝罪の言葉に、俺の荒れ狂っていた怒りが少しだけ鎮まった。
この王女は少なくとも、今の状況を良しとはしていないらしい。
「…中へどうぞ」
俺は短くそう言うと、二人を家の中へと招き入れた。
外はまだ観光客の喧騒が残っている。立ち話ができる状況ではなかった。
居間のテーブルを挟んで、俺とエリアーナが向かい合って座る。
リリアとセレスティアは黙って俺たちの後ろに控えていた。
リナが手際よく王都から持参したという高級な茶葉でお茶を淹れてくれたが、今の俺にはその味もよく分からなかった。
「商業ギルドの連中には、既に王家から厳重な警告を出しました」
エリアーナが静かに口火を切った。
「あなた個人の肖像権を侵害するような商品の販売は、即刻中止させます。ですが…彼らがカーム村で商売を行うこと自体を、法の下で禁じることは難しいのが現状です」
「……」
「彼らは法の抜け穴を巧みに利用しています。村人たちに正当な対価を支払って土地を借り、雇用を生み出し、村に税金を納めている。表向きは村の経済を活性化させている功労者なのです。これを王家の権力だけで無理やり排除すれば、他のギルドからの大きな反発を招き、国の経済そのものを混乱させかねません」
彼女の説明は冷静で、的確だった。
俺もそのくらいの理屈は理解できる。
だが、理屈で俺のこの苛立ちは収まらない。
「つまり、俺はこれからも毎日、見世物として家の前に立たなければならんということか?」
俺の声には、自分でも気づかないうちに低い怒りが込められていた。
「いいえ」
エリアーナはきっぱりと首を横に振った。
「わたくしは、あなたの平穏をこれ以上乱させるつもりはありません。そのために今日、あなたに新たなご提案があって参りました」
彼女は居住まいを正すと、その青い瞳で真っ直ぐに俺を見据えた。
「アラン殿。以前、あなたを騎士団総長として迎え入れたいというお話をしました。ですが、今のあなたにそれは酷な願いだということも、この村で過ごすうちに理解いたしました」
その言葉は意外だった。
彼女が俺の意思を、少しは汲んでくれたというのか。
「ですが、わたくしたちがあなたの力を必要としていることにも変わりはありません。そして、あなたもまた、この騒がしい日常から解放される強力な『盾』を必要としているはずです」
彼女の言葉は核心を突いていた。
そうだ。俺には盾が必要だ。
商業ギルドのような、俺の手に負えない俗な権力から俺の平穏を守ってくれる、絶対的な権威の盾が。
「そこで、新たな取引をご提案します」
エリアーナは、その美しい顔に交渉人としての真剣な表情を浮かべた。
「我がアステリア王国が、国家の総力を挙げて、あなたの『平穏な生活』を完全に保証します」
その言葉の重みに、俺は息を呑んだ。
「国王陛下の名の下に、このカーム村を『王家直轄の特別保護区』に指定します。いかなる者も王家の許可なくこの村で商売を行うこと、あなたの私生活を侵害することを固く禁じます。あなたの家の周囲には近衛騎士を配置し、あらゆる侵入者からあなたを守ります。あなたは誰にも邪魔されることなく、ただここで静かに畑を耕し、暮らしていくことができるのです」
それは俺が夢にまで見た、完璧な平穏だった。
国家権力という最強の壁に守られた、絶対的なスローライフ。
喉から手が出るほど欲しいものだった。
だが、そんなうまい話があるはずがない。
「…見返りは、何だ」
俺は低い声で尋ねた。
エリアーナは待っていましたとばかりに頷いた。
そして彼女は、俺の予想を遥かに超える提案を口にしたのだ。
「あなたのその力で、我が国に巣食う最後の『悪』を、完全に滅ぼしていただきたいのです」
「最後の悪…?」
「ええ」
エリアーナの瞳に、王女としての強い怒りと悲しみの色が浮かんだ。
「先日、あなたが壊滅させた暗殺者ギルド『黄昏の蛇』。彼らはまだ完全に滅んではいませんでした。彼らの真の首領…全ての元凶であるゼノンという男が、今も王都の地下で恐ろしい計画を進めているのです」
ゼノン。
その名に、俺は聞き覚えがなかった。
「彼こそがこの国から真の平穏を奪い続けてきた元凶。彼の野望を砕かぬ限り、この国に、そしてあなたの愛するこの村に本当の平和は訪れません」
「その討伐に協力しろ、と?」
「はい。ですが、騎士団総長としてではありません。王国とは関係のない一人の協力者として。あなたのやり方で、あなたの信じる正義で、この国最後の闇を払っていただきたいのです」
王女の新たな提案。
それは俺にとって悪魔の囁きであると同時に、唯一の希望の光でもあった。
「国家による、平穏の保証」
その報酬は、あまりにも魅力的すぎた。
このうんざりするような日常から解放される、唯一の道。
俺は初めて、彼女の提案に真剣に耳を傾けていた。
俺の心は激しく揺れていた。
再び血塗られた世界に戻るのか。
それとも、このまま見世物としての騒がしい日常に甘んじるのか。
俺の選択が、この国の、そして俺自身の未来を決定づけることになる。
その重圧に、俺はただ唇を噛み締めることしかできなかった。
家の扉が控えめに、しかし確かな意思を持ってノックされた。
俺は「また観光客か!」と苛立ちながら、乱暴に扉を開けた。
だが、そこに立っていたのはツアーガイドでも、熱狂的な巡礼者でもなかった。
王女エリアーナが侍女のリナだけを連れて、静かに佇んでいた。
その顔にはいつもの穏やかな笑みはなく、代わりに俺の苦悩を理解しているかのような、同情と、そして真剣な色が浮かんでいた。
「…何の用だ。見ての通り、俺は今、虫の居所が悪い」
俺は八つ当たりに近い、刺々しい口調で言った。
だが、エリアーナはそれに怯むことなく、静かに一礼した。
「お気持ちはお察しいたします、アラン殿。わたくしたち王家がもっと早く手を打つべきでした。商業ギルドの暴走、誠に申し訳ありません」
その真摯な謝罪の言葉に、俺の荒れ狂っていた怒りが少しだけ鎮まった。
この王女は少なくとも、今の状況を良しとはしていないらしい。
「…中へどうぞ」
俺は短くそう言うと、二人を家の中へと招き入れた。
外はまだ観光客の喧騒が残っている。立ち話ができる状況ではなかった。
居間のテーブルを挟んで、俺とエリアーナが向かい合って座る。
リリアとセレスティアは黙って俺たちの後ろに控えていた。
リナが手際よく王都から持参したという高級な茶葉でお茶を淹れてくれたが、今の俺にはその味もよく分からなかった。
「商業ギルドの連中には、既に王家から厳重な警告を出しました」
エリアーナが静かに口火を切った。
「あなた個人の肖像権を侵害するような商品の販売は、即刻中止させます。ですが…彼らがカーム村で商売を行うこと自体を、法の下で禁じることは難しいのが現状です」
「……」
「彼らは法の抜け穴を巧みに利用しています。村人たちに正当な対価を支払って土地を借り、雇用を生み出し、村に税金を納めている。表向きは村の経済を活性化させている功労者なのです。これを王家の権力だけで無理やり排除すれば、他のギルドからの大きな反発を招き、国の経済そのものを混乱させかねません」
彼女の説明は冷静で、的確だった。
俺もそのくらいの理屈は理解できる。
だが、理屈で俺のこの苛立ちは収まらない。
「つまり、俺はこれからも毎日、見世物として家の前に立たなければならんということか?」
俺の声には、自分でも気づかないうちに低い怒りが込められていた。
「いいえ」
エリアーナはきっぱりと首を横に振った。
「わたくしは、あなたの平穏をこれ以上乱させるつもりはありません。そのために今日、あなたに新たなご提案があって参りました」
彼女は居住まいを正すと、その青い瞳で真っ直ぐに俺を見据えた。
「アラン殿。以前、あなたを騎士団総長として迎え入れたいというお話をしました。ですが、今のあなたにそれは酷な願いだということも、この村で過ごすうちに理解いたしました」
その言葉は意外だった。
彼女が俺の意思を、少しは汲んでくれたというのか。
「ですが、わたくしたちがあなたの力を必要としていることにも変わりはありません。そして、あなたもまた、この騒がしい日常から解放される強力な『盾』を必要としているはずです」
彼女の言葉は核心を突いていた。
そうだ。俺には盾が必要だ。
商業ギルドのような、俺の手に負えない俗な権力から俺の平穏を守ってくれる、絶対的な権威の盾が。
「そこで、新たな取引をご提案します」
エリアーナは、その美しい顔に交渉人としての真剣な表情を浮かべた。
「我がアステリア王国が、国家の総力を挙げて、あなたの『平穏な生活』を完全に保証します」
その言葉の重みに、俺は息を呑んだ。
「国王陛下の名の下に、このカーム村を『王家直轄の特別保護区』に指定します。いかなる者も王家の許可なくこの村で商売を行うこと、あなたの私生活を侵害することを固く禁じます。あなたの家の周囲には近衛騎士を配置し、あらゆる侵入者からあなたを守ります。あなたは誰にも邪魔されることなく、ただここで静かに畑を耕し、暮らしていくことができるのです」
それは俺が夢にまで見た、完璧な平穏だった。
国家権力という最強の壁に守られた、絶対的なスローライフ。
喉から手が出るほど欲しいものだった。
だが、そんなうまい話があるはずがない。
「…見返りは、何だ」
俺は低い声で尋ねた。
エリアーナは待っていましたとばかりに頷いた。
そして彼女は、俺の予想を遥かに超える提案を口にしたのだ。
「あなたのその力で、我が国に巣食う最後の『悪』を、完全に滅ぼしていただきたいのです」
「最後の悪…?」
「ええ」
エリアーナの瞳に、王女としての強い怒りと悲しみの色が浮かんだ。
「先日、あなたが壊滅させた暗殺者ギルド『黄昏の蛇』。彼らはまだ完全に滅んではいませんでした。彼らの真の首領…全ての元凶であるゼノンという男が、今も王都の地下で恐ろしい計画を進めているのです」
ゼノン。
その名に、俺は聞き覚えがなかった。
「彼こそがこの国から真の平穏を奪い続けてきた元凶。彼の野望を砕かぬ限り、この国に、そしてあなたの愛するこの村に本当の平和は訪れません」
「その討伐に協力しろ、と?」
「はい。ですが、騎士団総長としてではありません。王国とは関係のない一人の協力者として。あなたのやり方で、あなたの信じる正義で、この国最後の闇を払っていただきたいのです」
王女の新たな提案。
それは俺にとって悪魔の囁きであると同時に、唯一の希望の光でもあった。
「国家による、平穏の保証」
その報酬は、あまりにも魅力的すぎた。
このうんざりするような日常から解放される、唯一の道。
俺は初めて、彼女の提案に真剣に耳を傾けていた。
俺の心は激しく揺れていた。
再び血塗られた世界に戻るのか。
それとも、このまま見世物としての騒がしい日常に甘んじるのか。
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